第七話 成獣と性獣 中

「姫ちゃん」


 私がお弁当箱の蓋を閉めると、その肩に性獣の鉤爪がいやらしく煌めいた。それも良い餌ばかり与えられているせいかやたら血色の良い、手入れの行き届いた硝子細工のような美しい鉤爪である。


「…なんだよ舞茸、話なら教室か廊下ですればいいだろ」


「出来ないから視聴覚室に来てって言ってるのっ」


「嫌だよ、てか人目を気にしてる時点で、そういう事するつもりなんだろ?」


「そういう事ってなによっ」


「…」


 横手さんの前で、それも食事中だというのに、ほんとアホかお前はっ!

 私は卑猥な単語が二、三脳裡をかすめたその瞬間、性獣にさげすみの目線を浴びせながら口を真一文字に結んだ。あとコンマ一秒口をつぐむのが遅かったら、このゲスの術中にはまって、危うくセッ…と口走るところだった…


「…姫嶋さん、行ってあげれば?」


「ごめんね横手さん…」


「いいえー」


「…あー、めんどくせぇからちょっと外出ろ!」


「え!?ちょちょっとぉ」


 ついでに補足しておくと、私の怒りの源はこれだけに留まらない。こいつは私が横手さんに玉子焼きを"あーん"したのがよほど気に食わなかったのか、その腹癒はらいせとばかりに私のほうへとやってきて、私が最後までとっておいた肉団子に箸を突き立て、あたかも自分の分け前であるかのように堂々と掠奪りゃくだつしやがった。まじで恕せんっ! 私のお母さんの愛情の一片までも奪い取ろうとするその貪婪どんらんぶり! この強欲肉食偸盗どろぼう、断じて恕すまじ! 

 当然そのことにも業腹ごうはらではあったが、あれだけ「やめてくれ」と忠告しておいたにも拘わらず、度を越した束縛を一向に止めようとしない、こいつの謎めいた依怙地いこじみたいなものに、私は正直一番むかっ腹が立った。

 私だって、別に舞茸が嫌いだから言うわけじゃない。ただ私と同じ十六歳の女である以上は、その年齢に見合った水準の節度と忍耐をそなえた親友でいて欲しいわけである。――それは贅沢だって? んなこと知るか!

 それと、もう私の親友なんだから、私以外の人が不快に思うかもしれない危うい言動は極力慎んで欲しい。もちろんキスするふりだとか、お尻を叩いたりとか、それで人を笑わせたり、あるいは楽しませたりする目的であえて奔放なキャラを演じるような、そういう機知ウィットに富んだ奔放ほんぽうであれば、私もまだ大目に見てあげようかなとも思う。でも周囲を困惑させるだけの淫奔いんぽんを"自身の武器"と見すのは、処女である私からすると大きなあやまりであるという気がしてならない。もっとも私がそんな清楚ぶったことを抜かすと、世の男どもはみな口を揃えて「非モテのひがみ」だとか「そんなものは外の世界を知らない、物語の世界に毒された箱入り娘の乳臭い戯言たわごとだ」などと反駁し、その処女の心に芽生えた健気な正義を、さも道端のこいしでも蹴飛ばすような調子で軽々と一蹴してくれることだろう。まあ一蹴していただいて構わない。この気持ちは、たぶん私のような女にしか理解し得ない気持ちであると思うから。


「…謝ればいいんだろ? だったら謝るよ」


「いいよ、もう済んだことなんだから」


 済んだことって…お前人の関係に済んだとか言うなよ…

 そのしゃくさわ口吻くちぶりに対し、私は「すいませんでしたね」と、口を尖らせた舞茸へこれまた口を尖らせて謝罪した。

 肉団子の件を不問に付してやっただけ有難いと思え。つうかキレてる暇があったら自発的に感謝の意を表せ。いっそうかんでくる本音の全文を片っ端から朗読してやろうかと思ったが、それをやったら大喧嘩になると思い、穏健派の私は速やかにその感情を圧し殺した。そしてその傍らで「明日も私の前には横手さんがいる」と、心の中で繰り返し幸福の事実確認を行った。はっきり言って横手さんとの関係さえ保証されていれば、肉団子偸盗に頭を下げることくらい少しもやぶさかではなかったのである。

 ただし頭は下げても、このけがれた手が横手さんに触れていない以上、私には弁明も弁疏べんそも一切必要ない。なんならその事実が、私と横手さんとの間に築かれた友情の健全さをまるっと担保してくれていると言っても何ら差し支えないだろう。

 ――つまり、だ。舞茸。お前がどれだけしらを切ったところで、その唇が私の無実の肉体に触れた瞬間、今日のお前は倫理的にも法的にもばっちり有罪だぞ。

 と、意気揚々被疑者の腕を掴んで引っ張ってきたはいいものの、この時間はどこの廊下も混んでいてダメ。ならトイレはと思い四組の前まで来てみたが、こちらは前にたむろしている集団がいてもっとダメ。


「…もういいっ! 行ったるわ!」


「姫ちゃん…」


 嗚呼何と皮肉なことだろう。視聴覚室はブラインドが降りていて、人影もなければ陽の光すら満足に差し込まない。言うなればまるでドビュッシー*¹に心酔しんすいするために在るような部屋だ。独りそこの椅子へ腰かけて、喜びの島*²やベルガマスク組曲*³あたりを流しつつ目を閉じたら、この空間はたちま快霽かいせいのシテール島のみぎわにも、あるいは朧月夜おぼろづきよのパリのバルコニーにさえなるであろう。

 私がそうした気障きざな妄想を膨らませてしまうほど、視聴覚室は日陰好きの来訪を歓迎するかのような、仄暗く深閑しんかんとした空気に包まれていた。

 ――どうか同じ思考の人達が入ってきませんように。

 私はそう天に祈りながら周囲に人気がないことを確認し、物取りが人家へ忍びこむ際に持ち出すような慎重さでそっと扉を閉めた。


「…だから、そういう事ってのは…」


「うん」


「…あたしと…ここでキスとか…/// エロいことするために連れてきたんじゃないのか?」


「ぇ…そんなわけないでしょ…」


「えっ? じゃあ何呼び出しだったのこれ?」


「…もういいっ」


「ぉ、おい舞茸、違うなら普通に話せよ」


「いい…話す気分じゃなくなったから…」


 わからん、わからんて舞茸…お前のご機嫌は毎回山の天気かヴォイニッチ手稿くらいわからんのよ。


「…なぁ、もう親友なんだからはっきり言ってくれよ。あたしもお前のことは極力理解してやりたいと思ってるんだから」


「…私…ただ姫ちゃんに告白したかっただけなのに…」


 その罪悪感をくすぐるものうげな語気のすぼまり。幾許いくばくかの深刻さをはらんだもどかしそうな表情…

 そこに一人の"女"を見た私は、盛大に寝坊して遅刻が確定したときのような「やっちまった」という純粋な焦燥感に駆られた。そしてやっちまった以上、もう一度彼女へ詫びなければと思った。それもこれ以上ない、日本の慣習における最上級の形式で。


「――舞茸…勘違いしてごめんっ! …急がなくていいよ、いつでも大丈夫だし、言い辛かったらラインでもいいし」


「姫ちゃんやめて! 私もう許してるから! だからお願い! 土下座なんかしないで!」


 ――今まさに意を決して告白しようとしている、その親友の純粋無垢な気持ちを、猜疑さいぎの目で見る馬鹿がどこにいる!

 私は心の中でそう自身の鄙劣ひれつなじりつつ、彼女へ土下座した。加えて「舞茸に愛想を尽かされたら、お前は二人しかいない貴重な親友を、早速一人失うことになるんだぞ?」と念押しした。ともすると舞茸を傷付けかねない、そうしたよこしまな臆測が、もう二度と私の脳裡に現れぬよう切にねがいながら。


「姫ちゃん、ありがとう。――あとで送るね」


 あまりに真面目腐った土下座だったからか、舞茸は子供をあやすときのような手つきで私の頭を撫でた。弱みを握られた…私の心は、まるで遠い異国の海上で拿捕だほされた、一隻の船の気持ちそのものであった。

 時計の音が聞こえる。メトロノームのような規則的なあの響きである。その振幅が収斂しゅうれんするように、彼女はゆっくりと私の頭から手を放す。

 たまらず私は、まだ悚懼しょうくの残る面を上げて、舞茸のかおを見た。奇しくもそのときの彼女の表情は、奏が「ただいま」を言ったあとの、あの温度にちかい優しさを満々とたたえていた。


「あぁ…分かった」


「…私、やっぱり姫ちゃんが好き」


「あたしはお前の怒りを買うたび、寿命が十分ずつ縮んでいく気がするよ…」


「じゃあ早く私とお付き合いして? 人は毎日キスするようになると、しない人に比べて寿命が五年伸びるらしいから」


「んー。そうやって急かされると、なんか冷めるんだよなー」


「冷めないでよぉ」


「…別に、あたしも舞茸を嫌いになることは無いからさ。――もっとこう、普通に好きになってほしいのよ」


「…普通に」


「そうそう。あたしも、舞茸みたいな親友って初めてだから」


 しかし…そこまで私を好きでいてくれるなら…頬に一回くらいなら、させてあげてもいい気がする…


「…でも普通にしてると、私姫ちゃんを抱きたくなっちゃう…」


 っておい! やっぱお前、ゴリゴリの性獣じゃねぇか!


「なぁ…舞茸って、じつは経験豊富だったりするのか?」


「…」


「待て待てなんで黙っちゃうんだよ」


「…生まれて初めて、この人とお付き合いしたいと思った人だから。だから…そこまでしてみたいの///」


 うわ…色気やばっ…

 思わずそうらしてしまいそうになるほど、その瞬間の彼女のまなじりにはとても同い年であるとは思えない円熟した凄艶せいえんが滲んでいた。


「ま、舞茸、分かったもう分かった、とりあえず教室戻るぞ///」


「えー姫ちゃーん…」


 とはいえ一度許可してしまったら、おそらく光の速さで取り返しのつかないところまで行ってしまうはず。それは横手さんの隣にいた際、私も本能的に「あ、これはヤバい」と感じたから何となく理解できる。――よもやこんな状況の最中にまでこの句を引用することになるとは思っても見なかったが、こうしたイレギュラーな化学反応も含めてやはり『人生は不思議』なのである。

 だから頭で踏み止まれると確信していても、時として肉体が謀叛むほんを起こす可能性というのもまた、"不思議"の中にあっては完全には否定できない。――であるからこそ、尚の事その謀叛を考慮した場所選びが大切なのだと、変態淑女の私は思う。あなたは学園内というシチュエーションを重視する性質たちなのかもしれないが、どうせこんな箱庭の中でコソコソと逢瀬おうせを重ねても、いずれ誰かに見つかるのがこの世の必定さだめなのだ。そうなれば二人揃って停学。もしくはそれ以上の処分が下されてもおかしくはない。

 ――つまり前科者になりたくなければ、学校では教室でいちゃつくくらいに留めておいたほうがいい。壁に耳あり障子に目ありというように、世の中誰が見てるか分からないし、まして他人なんか、しあわせな人の不幸せをかてに生きているような、そんな撒餌まきえむらがる鯉より醜い、本能むき出しの野蛮人ばかりなのだから。

 と、他人の目の恐ろしさを重々理解している私は、変なスイッチが入る前に舞茸の抱きつきを阻止し、匆々そうそうに視聴覚室を立ち去ろうとした。――その瞬間とき。誰もいないはずの廊下から、靴底の擦れる甲高い音と、人が転けたときの、オーブンから取り出した焼き立ての肉塊を、まないたの上へ落としたときのような鈍い音がはっきりと聞こえた…





*¹クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy):19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、フランスを代表する作曲家。

*²ドビュッシー:『喜びの島』(L'Isle joyeuse) イ長調。

*³ドビュッシー:『ベルガマスク組曲』(Suite bergamasque) "プレリュード" ”メヌエット” "月の光" "パスピエ"。

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