第七話 成獣と性獣 中
「姫ちゃん」
私がお弁当箱の蓋を閉めると、その肩に性獣の鉤爪がいやらしく煌めいた。それも良い餌ばかり与えられているせいかやたら血色の良い、手入れの行き届いた硝子細工のような美しい鉤爪である。
「…なんだよ舞茸、話なら教室か廊下ですればいいだろ」
「出来ないから視聴覚室に来てって言ってるのっ」
「嫌だよ、てか人目を気にしてる時点で、そういう事するつもりなんだろ?」
「そういう事ってなによっ」
「…」
横手さんの前で、それも食事中だというのに、ほんとアホかお前はっ!
私は卑猥な単語が二、三脳裡を
「…姫嶋さん、行ってあげれば?」
「ごめんね横手さん…」
「いいえー」
「…あー、めんどくせぇからちょっと外出ろ!」
「え!?ちょちょっとぉ」
当然そのことにも
私だって、別に舞茸が嫌いだから言うわけじゃない。ただ私と同じ十六歳の女である以上は、その年齢に見合った水準の節度と忍耐を
それと、もう私の親友なんだから、私以外の人が不快に思うかもしれない危うい言動は極力慎んで欲しい。もちろんキスするふりだとか、お尻を叩いたりとか、それで人を笑わせたり、あるいは楽しませたりする目的であえて奔放なキャラを演じるような、そういう
「…謝ればいいんだろ? だったら謝るよ」
「いいよ、もう済んだことなんだから」
済んだことって…お前人の関係に済んだとか言うなよ…
その
肉団子の件を不問に付してやっただけ有難いと思え。つうかキレてる暇があったら自発的に感謝の意を表せ。いっそ
ただし頭は下げても、この
――つまり、だ。舞茸。お前がどれだけしらを切ったところで、その唇が私の無実の肉体に触れた瞬間、今日のお前は倫理的にも法的にもばっちり有罪だぞ。
と、意気揚々被疑者の腕を掴んで引っ張ってきたはいいものの、この時間はどこの廊下も混んでいてダメ。ならトイレはと思い四組の前まで来てみたが、こちらは前に
「…もういいっ! 行ったるわ!」
「姫ちゃん…」
嗚呼何と皮肉なことだろう。視聴覚室はブラインドが降りていて、人影もなければ陽の光すら満足に差し込まない。言うなればまるでドビュッシー*¹に
私がそうした
――どうか同じ思考の人達が入ってきませんように。
私はそう天に祈りながら周囲に人気がないことを確認し、物取りが人家へ忍びこむ際に持ち出すような慎重さでそっと扉を閉めた。
「…だから、そういう事ってのは…」
「うん」
「…あたしと…ここでキスとか…/// エロいことするために連れてきたんじゃないのか?」
「ぇ…そんなわけないでしょ…」
「えっ? じゃあ何呼び出しだったのこれ?」
「…もういいっ」
「ぉ、おい舞茸、違うなら普通に話せよ」
「いい…話す気分じゃなくなったから…」
わからん、わからんて舞茸…お前のご機嫌は毎回山の天気かヴォイニッチ手稿くらいわからんのよ。
「…なぁ、もう親友なんだからはっきり言ってくれよ。あたしもお前のことは極力理解してやりたいと思ってるんだから」
「…私…ただ姫ちゃんに告白したかっただけなのに…」
その罪悪感をくすぐる
そこに一人の"女"を見た私は、盛大に寝坊して遅刻が確定したときのような「やっちまった」という純粋な焦燥感に駆られた。そしてやっちまった以上、もう一度彼女へ詫びなければと思った。それもこれ以上ない、日本の慣習における最上級の形式で。
「――舞茸…勘違いしてごめんっ! …急がなくていいよ、いつでも大丈夫だし、言い辛かったらラインでもいいし」
「姫ちゃんやめて! 私もう許してるから! だからお願い! 土下座なんかしないで!」
――今まさに意を決して告白しようとしている、その親友の純粋無垢な気持ちを、
私は心の中でそう自身の
「姫ちゃん、ありがとう。――あとで送るね」
あまりに真面目腐った土下座だったからか、舞茸は子供をあやすときのような手つきで私の頭を撫でた。弱みを握られた…私の心は、まるで遠い異国の海上で
時計の音が聞こえる。メトロノームのような規則的なあの響きである。その振幅が
たまらず私は、まだ
「あぁ…分かった」
「…私、やっぱり姫ちゃんが好き」
「あたしはお前の怒りを買うたび、寿命が十分ずつ縮んでいく気がするよ…」
「じゃあ早く私とお付き合いして? 人は毎日キスするようになると、しない人に比べて寿命が五年伸びるらしいから」
「んー。そうやって急かされると、なんか冷めるんだよなー」
「冷めないでよぉ」
「…別に、あたしも舞茸を嫌いになることは無いからさ。――もっとこう、普通に好きになってほしいのよ」
「…普通に」
「そうそう。あたしも、舞茸みたいな親友って初めてだから」
しかし…そこまで私を好きでいてくれるなら…頬に一回くらいなら、させてあげてもいい気がする…
「…でも普通にしてると、私姫ちゃんを抱きたくなっちゃう…」
っておい! やっぱお前、ゴリゴリの性獣じゃねぇか!
「なぁ…舞茸って、じつは経験豊富だったりするのか?」
「…」
「待て待てなんで黙っちゃうんだよ」
「…生まれて初めて、この人とお付き合いしたいと思った人だから。だから…そこまでしてみたいの///」
うわ…色気やばっ…
思わずそう
「ま、舞茸、分かったもう分かった、とりあえず教室戻るぞ///」
「えー姫ちゃーん…」
とはいえ一度許可してしまったら、おそらく光の速さで取り返しのつかないところまで行ってしまうはず。それは横手さんの隣にいた際、私も本能的に「あ、これはヤバい」と感じたから何となく理解できる。――よもやこんな状況の最中にまでこの句を引用することになるとは思っても見なかったが、こうしたイレギュラーな化学反応も含めてやはり『人生は不思議』なのである。
だから頭で踏み止まれると確信していても、時として肉体が
――つまり前科者になりたくなければ、学校では教室でいちゃつくくらいに留めておいたほうがいい。壁に耳あり障子に目ありというように、世の中誰が見てるか分からないし、まして他人なんか、
と、他人の目の恐ろしさを重々理解している私は、変なスイッチが入る前に舞茸の抱きつきを阻止し、
*¹クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy):19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、フランスを代表する作曲家。
*²ドビュッシー:『喜びの島』(L'Isle joyeuse) イ長調。
*³ドビュッシー:『ベルガマスク組曲』(Suite bergamasque) "プレリュード" ”メヌエット” "月の光" "パスピエ"。
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