第六話 成獣と性獣 前

 ゴールデンウィーク明けの月曜日。まだ五月上旬だというのに、日中の日向は早くも七月の朝を思わせるほこりっぽい暑さに塗れていた。まあ幸いにしてうちの高校には公立中学のときのような忌まわしき服装規定は存在しない。だから暑がりの人は四月から夏服の袖をまくっていたり、寒がりの人は依然冬服を着ていたりと、集会でやたらめったら「リベラルリベラル」かしたがる校長の崇高すうこうな理念を反映して、その着崩し方やアレンジも実に多種多様である。

 それに加え学内には「都内の進学校なんですから、とりあえず女子はスカート履いてシャツ着てればおとがめ無しですよね?」的な、一種自由と身勝手をはき違えたようなしょうもない風潮が瀰漫びまんしているため、うちの担任の長塚先生も思わず「結局、規則がなきゃ駄目なんだよなぁ」と板書を消している私の前でボヤき出すくらい、その放し飼い的現状には大層辟易へきえきされているご様子だった。

 ただ先週の昼休みにその話を蒸し返したら「やはり軽率な発言は控えるべきだな…」と主張を一変させていたので、何か大人の世界特有の"見えない力"が働いたのだろうなと思い、私はすかさず先生に「頑張ってください」と血も涙もないエールを送り、その暗澹あんたんたる四方山話よもやまばなしを即座に締めくくった。

 しかし私の中でしたたかなのは、この長塚先生をも容赦なく見殺しにするむごたらしい性格くらいのもので、身体のほうは気温の乱高下と気圧の変化に滅法めっぽう弱いタイプ。なので身体は夏服で身軽になっても、鞄は冷房対策のストールとブランケット、それとハンカチ、タオル、日焼け止め、酔い止め、下痢止め、痛み止め、エチケット袋、替えの下着、生理用品等々がごちゃっと入ったポーチの存在により相変わらずパンパンである。

 とはいえ何を持ってこようが、舞茸以外誰も私の荷物の多さを指摘しないという点に関しては、私はつくづくこの学校を選んでよかったと思っている。


「ねえ姫ちゃん、ボストンバッグみたいになってるから、少し荷物減らしたほうがいいよ?」


「いいだろ別に。こう見えて必要最低限のものしか入ってないんだから」


「――あ、パンツ入ってる」


「ちょっ///勝手に開けないでっ!」


「…姫ちゃんて、結構心配性なの?」


「…自分では、そうは思わないけど」


「ならポーチは要るとしても、タオルがあればハンカチは要らないし、ストールがあればブランケットは要らないと思うけど?」


「いや、あたしが余分に持ってれば、舞茸がハンカチ忘れたときとか、寒くなったときに貸してやれるだろ」


「――姫ちゃん…今すぐ両方貸して?」


「でも…何か良からぬことに使われそうだから、今日は却下」


「…ねぇ横手さーん、姫ちゃんがハンカチ貸してくれないー」


「こら貴様っ、横手さんまで巻き込むなっ」


「あぁ、私のでよければ貸そうか?」


 はっ! そ、それは私が借りたいっ…!


「あ、だったらあたしのを舞茸に貸して、それであたしが横手さんのをお借りするというのは…いかがでしょう?」


「うん、私はいいよ」


「…姫ちゃん、結局私より横手さんが好きなんだ」


 もちろん。…ってこらこらこらこら! 何をしれっと爆弾発言かましてくれてんだ舞茸さんよぉっ!


「え? 姫嶋さん、私のこと好きなの?」


「――っ…だって…一瞬で友達になってくれて…嬉しかったんだもん…///」


「あはは、じゃあ私たちもう親友だね。――じつは私も、姫嶋さんに声掛けてもらったときから親友になれそうな予感がしてたんだー」


「親…友…」


 あぁ杏花様…あなたの瑰麗かいれいなその笑顔…

 こうして見目麗みめうるわしきあなた様をおそばで拝見しておりますと、私の耳介へ、何処からともなくカンターテ・ドミノ*¹の清らかな響きが聞こえてくるような気がいたします。


「私こう見えて人見知り激しいから、姫嶋さんに迷惑かけちゃうかもしれないけど、よろしくね」


 ええ、その人見知りはむしろ長所でしかないのでまったく問題ありませんね。


「横手さん、よろしくお願いします。もう一生あたしと親友でいてください」


 不満げな舞茸をよそに、私は額突ぬかずく勢いで横手さんにこうべを垂れてそう言った。要するに私は、朝から一人の女性に目覚めかけていたというわけだ。


「う、うん/// そんなに気に入ってくれてありがとう。姫嶋さん」


 ――私の初めてが、私の劫初ごうしょの愛の終着駅が、仮初かりそめにも横手さんだったとしたら…私がストレートであると公言した瞬間、この竣工しゅんこうして間もない恋の橋梁は、おそらく私の通過を待たずして跡形もなく崩落してしまうことだろう。――ともすると、私は何故十六歳相当の理性を有していながら、かたくなに稚拙な本能ばかりを殊遇しゅぐうするのだろうか? 「純然たる愛の前には、国籍も人種も、そして性別も関係ない」その寛容な真理を遵奉じゅんぽうする行為こそが、この空疎な現代文明の雲上うんじょう赫奕かくやくと輝く、現代人によって打ち立てられた唯一つの有機的な偉勲いくんであるというのに…

 まあそれは飛躍しすぎたとして、だったら相手が男でなければいけない理由は何だろう。子供が欲しいから? いるに越したことはないが、今のところはそうでもない。セックスがしたいから? そんなの別に女同士でも出来る。キスだって愛撫だって、たぶん同性同士のほうが気が合うし上手くいく。喜怒哀楽が分かりづらいから、別に声も低くなくていい。ゴツい手で乱暴にされるより、しなやかな指で優しく触れてほしい。…それも、叶うことなら私の手より小さい、笑顔が素敵な可愛い横手さんの両手で…この手を優しく握られてみたい…

 ――てかそこまで言うなら、もういっそのことレズでいいんじゃないか私?


「――さすが一ノ瀬さん。その日焼け止め、フランスの化粧品ブランドのやつでしょ」


「うん。私お肌弱いから、自分に合うのがなかなか見つからなくて。だから今はこれしか使えないの」


「あーあるよねー、日焼けしないために塗ってるのに、むしろ肌荒れしちゃうみたいな。――私もSPF高いやつだと夕方カサカサになるから、低いのをこまめに塗るしかなくて面倒なんだよねー」


「横手さん、私たち仲間だね」


「あはは、肌弱はだよわ仲間だね」


 駄目だ。危険極まりない…もし私が老人だったら、今この瞬間心のアクセルとブレーキを踏み間違えて、危うく横手さんの懐目がけて驀進ばくしんしてしまうところだった。


「…ね、姫嶋さん。姫嶋さん? ぉーぃ」


 とはいえここまで横手さんに惚れておきながら、私という生物はなおもXY染色体欲しさに男に固執しつづけるような、そんなスマホの向こう側にいる虚構の美女に恋焦がれて日夜自瀆じとくふける中二男子みたいな哀れな生物なのだろうか。第一こんなブラコン変態女の前に、命をすにあたいする白馬の王子など本当に現れるのだろうか…この完全無欠とも思える最短距離の恋路に、あえて転轍機てんてつき敷設ふせつしてのける男など、果たしてこの世に存在するのだろうか?

 …そもそも人付き合いをおそれているような私が、好きな人に告白なんて出来んのか? …もうわからない。訳がわからなさすぎて、なぜだか横手さんのほうから漂ってくる甘い香りにめちゃくちゃ昂奮するっ。


「姫嶋さん? 大丈夫?」


「ぁご、ごめんね横手さん/// ちょっとテストのこと考えてた」


 しかしそんな高嶺の花にうつつを抜かして頭の季節が一向に夏へと移行しない人間は、このクラスでおそらく私くらいのもの。今日の教室は、一限前からグノシエンヌ一番*²にも似た、ある種のゆったりとした寂寞感せきばくかんに包まれていた。


「――ほら舞茸、時間だから席戻って」


「やだー。姫ちゃんと一緒がいいー」


「お前は乳のデカい子供か」


「…胸のことは言わないで…私ずっと悩んでるんだから…」


「え、そ、そうだったんだ…ごめん舞茸、傷つけるようなこと言って」


「――ふふ、いいよ」


 そう言って舞茸が席に戻る。

 チャイムが鳴り終わる前に挨拶が済んで、先生がいつものように淡々と出席をとりはじめる。その間私は欠伸あくびをかみ殺して、若干涙目になる。

 五十嵐君の「はい」という返事を聞くと、私の脳裡に、昨日までうちの和室に鎮座していた奏大の鎧兜よろいかぶとよみがえる。奏は小さいころ、この兜の刀を抜いて畳の隙間に刺すのが好きだった。だからやれ具合も半端じゃなく、うっかりつかでも握って持ち上げようものなら、和製ライトセーバーのように柄と刀身が分離しそうでじつに危険だった。

 しかし闘志の象徴である刀を失いかけたその兜の穏やかな絢爛けんらんさが、私の目にはかえって奏大の男としての誠実さを粛々と讃えているように映り少し感動した。

 そしてみんなで兜を片付け終えたあと、私と奏の写真を見ながらお父さんが「立派になったなぁ…」とこぼしたのを聞いて、私は理由もなく自室に戻り、そこでアシュケナージ*³のノクターン二番*⁴を聴きながら静かに泣いた。別段ふさいでいたわけでもなく、これといって泣きたい気分でもなかったのだが。泣いたら少し、心が軽くなったような気がした。たとえるならそれは、私の心の初潮みたいなものだった。当たり前に生きていて、当たり前に幸せで。月が巡れば当たり前に生理が来る。

 つまり私の発展途上にある心も、その当たり前を摸倣もほうするようにして、この辺りでいっぺん何かを排出しておく必要があったのだろう。


「姫嶋ー」


「はい」


 大体いつもアレグロ・モデラートほどよく速くなのだから、祝日の時の流れくらいラルゴゆるやかに、ないしはレント遅くで進んでほしい。私は連休が来るたびそう思っているのだが、非情にも幸せな時間というのは常にプレスト・コン・フォーコ火を噴くように急速にで過ぎ去っていく。――どうやら幸せな気持ちで毎日を過ごすというのは、リスト*⁵の超絶技巧を体得すること以上に難しいことのようだ。


「私、今日体操服着てくるの忘れちゃったー」


「えー私もー、なら一緒に見学しよ?」


 ふと時計に目をやると、前のほうから見学常連組の片瀬さん達の話し声が聞こえてくる。その会話を聞いて、私は友達でもない二人に「休むのは勝手だけど、ほどほどにしておかないと評定に響きますよ」といらぬ世話を焼きつつ、いつもの癖でしばらく耳をそばだてていた。

 すると案の定「今日はお互い頭痛ってことにしとこうよ」という片瀬さんの邪悪な提案が私の耳にも入ってきた。――てか頭痛ってことにしとこうよってどんな談合だよ。

 ただそれを知ったうえで二人の辛そうな演技を見ているうち、私もだんだんと腰が重くなっていくような気がして、首元に触れると少し熱っぽいような気もしてくる。――あれ、だるい。だるいかも…私…熱、あるかも…


「舞茸ぇ…だるくて着替えたくねぇー…」


 ここまでくればもうお分かりのとおり、トロイメライ*⁶の温もりあふれる旋律のようなおうち時間を満喫した結果、私もご多分に漏れず、その反動で無事五月病を発症していた。


「姫ちゃんも、体育が嫌いになることなんてあるんだ」


「体力テストの結果が良いだけで、授業は一ミリも好きじゃないぞ…」


 出席すべきか、見学すべきか、それが問題だ。

 そんな馬鹿なことを考えてだらだらしているうちに、横手さんが着替えを終えてトイレから戻ってきてしまった。


「…あれ? 姫嶋さん着替えないの?」


「うん。なんだか身体が重くて…」


「それって、もしかして五月病ってやつ?」


「はぁ…――横手さん…あたし…今日は熱っぽいから見学にしようかな…」


「ほんと、先生に言っとこうか?」


「――お願いしてもいいですか…」


「ねえ姫ちゃん、さっきから横手さんに甘えてるけど、ほんとは元気だよね? それなのに仮病でサボるの? 私より全然運動できるのに、それってズルだと思うよ?」


「一ノ瀬さん、何もそこまで言わなくても」


「はぁ…じゃあやりますよ…やればいいんでしょやれば」


 おいっ! 葛藤かっとうの末のひと芝居だったのに、お前が横槍よこやりぶっ刺しまくったせいで御破算ごはさんになったじゃねぇか! ちょっとか弱い女の子になって、横手さんの優しさに浸りながらゆっくりしたかったのに…なのに舞茸、貴様よくもこの私に発破をかけるような真似してくれたなぁっ!

 久々にいらついた私は、舞茸への怒りを準備体操の動作に転嫁てんかした。その効果は覿面てきめんで、全員消沈気味のソフトボールでは初回から舞茸陣営を圧倒。そして覇気のないチェンジアップの芯を捉え続け本塁打を量産した結果、本日の試合は十五対一で私と横手さんのチームが快勝し幕を閉じた。


「姫嶋さんてほんと運動神経いいよねー。何やっても完璧で羨ましいわ」


「そんな、完璧なんかじゃないよ。横手さんが親友になってくれたから、私も気合入っちゃって」


「ほんとに? 嬉しいなー、姫嶋さんにそう言ってもらえて」


「横手さん///」


 あー…舞茸悪い。これはことほかあっさり横手さんとお付き合いしてしまうやつかもしれない。


「――ねぇ姫ちゃん。お昼休み、よろしくね」


 ちょうどそう思っていたところへつかつかっと笑顔の舞茸がやってきて。私はそんな腹を空かせた隼のような彼女に肩を叩かれた瞬間、せっかくかいた良い汗が、一滴残らず戦慄の脂汗によって押し流されてしまうような気がした。


「…姫嶋さん大丈夫? いま意識飛びかけてたよ?」


「あぁ、大丈夫…ちょっと張り切りすぎただけだから」


「じゃあ、教室戻ったらしっかり水分補給してね」


「横手さん」


「ん?」


「あの…お昼…ご一緒して頂けますか」


「うん、もちろん。――誘ってくれてありがとう。姫嶋さん」


 うわー手繋ごうかと思ったらめっちゃ見てるよぉー…あの人遠巻きに私のことめっちゃ見てるよぉー…これ絶対いちゃついた罰として昼休みに捕食されるパターンだよぉ。…怖いから横手さんとお弁当食べたらすぐ保健室に逃げよ。

 私は彼女の猛禽類もうきんるいの尖い鉤爪かぎづめにも似た暗黒微笑を見て、半ば本能的にその低空飛行の予兆を感じ取ったのであった。





*¹モンテヴェルディ:『主にむかいて新しき歌をうたえ(Cantate Domino canticum novum, SV 292)』。

*²サティ:『三つのグノシエンヌ』 第一番。

*³ウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy):ソビエト連邦出身の世界的ピアニスト、指揮者。

*⁴ショパン:『ノクターン第二番』 変ホ長調 Op.9-2。

*⁵フランツ・リスト(Franz Liszt) :ハンガリー王国出身のピアニスト、作曲家。

*⁶シューマン:『子供の情景』 "トロイメライ" Op.15-7。

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