第五話 杏花様とご乱心

 今日は朝から洟水はなみず、ではなく鼻唄が止まらない。おまけに朝食を準備している間もずっとニヤニヤしていたせいでお母さんに「もしかして彼氏?」と訊かれ、私は動揺のあまりコップへ注がんとしていた牛乳を、思わず焼き立てのパンの上へ豪快に注いでしまった。

 そのテーブルから床へと流れ落ちるしろい滝のせせらぎを聞いて呆然としている私を見るやいなや、背を向けていたお母さんも「紗愛こぼれてる!こぼれてるわよっ!」と珍しく大慌て。そこへネクタイを締め終えたお父さんが騒ぎを聞きつけて戻って来ると、もう三人揃って拭いた拭いたの大騒動。七時過ぎにうちの中で平静を保っていたのは、今しがた二階から下りてきた奏大ただ一人だった。

 でもヘコみかけた私を見かねてお父さんが「芙美子ふみこさん、これはフレンチトーストだな」と冗談めかして笑ったら、お母さんは「あなたそんなもの食べたらまたズボン破れますよ」と返してお父さんに微笑んだ。もういったいどこまで良い夫婦なんだこの二人はっ!

 それに奏大も出来る子だから、そんな私を見ても「ねーちゃんなんか良いことでもあったの?」と、一枚オブラートを被せた感じで当たり前のように片付けを手伝ってくれる。

 ――あぁ…牛乳一つまともに注げない女が、こんな素晴らしい家族の一員になってしまって申し訳ございません…

 私は布巾を流しで濯ぎながら、そう心の中で自身の過ぎた雀躍じゃくやくぶりを反省した。


「奏〜、片付け手伝ってくれてありがと〜」


「ねーちゃん、俺もう行かないと」


 にもかかわらず、私ときたら急いでいる彼を一分以上抱きしめてしまい、挙句の果てにはスマホを椅子の上に置き忘れたまま家を出て、部屋着姿のお母さんに五十メートル走を強いるという、自分史上類を見ないほどのポンコツぶりを、今朝の九十分で遺憾なく発揮してしまう始末。


「ママごめん…私、今日なんかふわふわしてて」


「そういう日があってもいいのよ。でも行きと帰りは気を付けて。いいわね?」


「うん、ありがとう。行ってきます」


 では一体何がそこまで私をふわふわさせているのかというと、それは舞茸が席を外した昨日の休み時間に、横手さんから二つ返事で連絡先を教えてもらえたからだった。


「あ、あの横手さん…」


「ん? どうしたの姫嶋さん」


「れ連絡先、こうこ交換してもらうことって、可能でしょうか…」


「姫嶋さん、なんか緊張してる? もちろんいいよ、今QRコード出すね」


「ぁーありがとうございます…」


 三歩歩けば忘れるにわとりのように、少し歩くとまたそのことを思い出して浮かれ出す。いいぞ私。ちょっと噛んじゃったけど、よくやった。これでお前もデカぼっち生活とは訣別おさらばだ。そしてお母さんありがとう。私の人生って、本当にまだまだこれからだったんだね。

 嬉しい。ひたすらに嬉しい。横手さんのことしか頭になくて、花の歌*¹もアパラチアの春*²も、物理的に私の鼓膜を揺らすのみで、なんだか一切耳に入ってこない。満員電車を待っている間も、そして押しくら饅頭の間も、その喜びは不思議とよく効く鼻炎薬のように持続した。

 ――わかってくれる人がいるのに、友達いらないなんて、軽々しく言うもんじゃないな。

 萌葱色もえぎいろに色づきはじめた朝の河川敷を行く一人の老人と一匹の犬を眺めつつ、私はそう考えを改めた。「思考は川のようなもの。それが静的な意味での"川"であることに違いはないが、そこに流れがあるように、思考もつねに時の流れに沿って動的であるべきなのだろう」と、私はただただ斜に構えた理性を忘れ、原始的な喜びで身体がぎゅっと縮こまる感覚を繰り返し楽しんだ。

 あの飾らない笑顔と、友だちの欄に燦然さんぜんと輝く『横手杏花よこてきょうか』様のお名前を思い浮かべるたび、私は「へへ」と不気味な声を上げてにやけそうになる。ストレスでぶっ壊れた無敵の人だと思われたくないし、そもそも鉄道警察隊のお世話にもなりたくないので、ひとまずマスクの下で下唇を噛んで、心の遅桜おそざくらが満開になったのをじっとこらえる。

 階段を上り、コンコースを抜け改札を出る。すると晩春の朝の日差しが、私の希望に満ち満ちた身体をすっぽりと包み込む。血潮がくまなく身体をめぐるように、溌剌はつらつとした生気がこの身体全体に充溢じゅういつする。それによってセロトニンとオキシトシンの濃度が上がったせいか、今日は普段ぞんざいにあしらっている舞茸の、あの猫かぶり声でさえも早く聞きたくて仕方がない。


「おはよーございまーす」


「おぉ姫嶋。今日は声出てるな」


 そりゃあ声も出ますよ。周りに誰もいなかったら、教室までスキップで行きたいくらいなんですから。と、よっぽど声に出して言おうかと思った。

 靴を履き替え歩き出す。その跫音あしおとは華麗なる四分の三拍子。どんなに薄汚れた靴を履いていたって、私の頭の中は、パリの一角に構えるサロンのように、すでにルイサダ*³のエネルギッシュなワルツ一番*⁴の響きでいっぱいになっていた。


「あ、姫ちゃんおはよー」


「おはよー。舞茸」


「えっ、ひ、姫ちゃん?」


「おはよう姫嶋さん」


「横手さん、おはよう」


「ちょっと! なになに何が起きてるの!?」


「え? 別に」


「…もしかして姫ちゃん、横手さんに不良キャラ封じられちゃった?」


「封じてないよ。『一ノ瀬さんと仲良くしてあげな』とは言ったけどね」


「――はい。仲良くします」


「えーそんなの姫ちゃんじゃないよー。 口も性格も最悪なのが姫ちゃんの良さなのに」


 耐えろ、そしてゆるすんだ私。こんなにも素晴らしいゴールデンウィーク前の金曜日を、芥子粒けしつぶほどの怒りで台無しにしてはいけない。そして、せめて淑女の前では慈悲深くあれ。


「――今日はそういう気分じゃないんだよ。だから一日休戦な」


「姫ちゃ〜ん」


 舞茸が私の制服の袖を引っ張る。横手さんと話したいから。私がそう言うと、彼女の袖を引く力はグリーグのあの曲*⁵のようにだんだんと速く強くなる。それはまるで、言うことを聞かない手入れの行き届いた小型犬に「おい、餌はまだか」と催促されているときのようなえらく傲岸ごうがんな感じだった。


 まあそうはいっても、今日一日他の人達と話して過ごせたんだから、落ち着きのない舞茸にしてはよく頑張ったと思うし、なんなら私も舞茸断ちをしたことで少し成長したんじゃないだろうか。…いや背丈じゃなくて、心が、ね。


「横手さんまた明日、あたしと舞茸のこと、よろしくね」


「こちらこそよろしくね。姫嶋さん、一ノ瀬さん。――じゃ、お先」


 杏花様が、お荷物をお持ちになられてお部活へとお向かいになられる。それに合わせ、私はうぐいすが梅の花をちょんちょんとつつくような、その巨体に似つかわしくないきめ細やかな動作で杏花様に手を振る。


「あぁ…はぁー…」


 そう私がだらしなく心の声を漏らすと、舞茸の顔はディミニッシュコードだけを一時間弾かされた演奏家みたいに酷く引きった。


「…はいはい。声も態度も気持ち悪かったですね。すいませんすいません」


「――ねえ姫ちゃん。悪いんだけど、あんまり他の人といちゃいちゃしないでくれる?」


「…は、はい?」


「…姫ちゃんには、私だけを好きでいてほしいの。だから私以外に見惚れたり、恋愛感情を持つのはやめて?」


 …あのー、一応いつも通りの顔してるけど、私、なんだかとんでもない束縛魔メフィストと契りを交わしてしまった気がするぞ。


「舞茸って頭良いのに、ほんと人の話をちゃんと聞かないよな。――あたし横手さんに友達になってもらっただけで、好きですなんてひとっ言も言ってないぞ?」


「言ってなくても、いちゃいちゃしたらダメなのっ」


 知らんわそんな朝令暮改のローカルルール。しかもいきなり不機嫌になってるし…


「…なんの怒りなんだよそれは」


「なんのって、好きだからに決まってるでしょっ」


「――あのなぁ…舞茸。じゃああたしが悪いのかもしれないから説明しておくとだな…あたしってぼっちなだけじゃなく、中二の夏ぐらいからずっといじめられてたんだわ」


「え…」


「思い出したくもないから言わないようにしてたけど、実際そうだったんだよ。――バスケ部のころ仲良かった友達とも、辞めて以降連絡する勇気もなくなってな。…だから、自分の起こした行動で友達が出来たのが、横手さんが友達になってくれたのが、あたしはすっごく嬉しかったんだよ」


「姫ちゃん…」


「いや、正直今となっては舞茸も嬉しいぞ? でもな、ぼっちって単純っつうか、そういう性格なんだよ。本当の独りぼっちってのは」


「――ごめんね。そんなことにも気付けない人は、姫ちゃんの友達になる資格なんかないよね…」


「お前まで落ち込みだしたら、とうとうこの世も終わりだろ」


「…でも、恋人になる資格はあると思うから! 姫ちゃんに絶対好きになってもらえるように、私頑張るからっ!」


 お嬢様、ご乱心ですか?


「舞茸、一旦深呼吸して冷静になれよ。――いいか。まずもってあたしら女同士だろ。今週になってやたら付き合うとか恋人とか言ってるが、それはいったいなんの冗談なんだ? 勉強仲間の上位互換的なやつか? それとも…」


「そのままの意味だよ。お付き合いはお付き合いだし、恋人は恋人。――姫ちゃんが話してくれたから、私も隠さず言うけど…私、本当は女の子が好きなの」


「…つまり?」


「だからレズなのっ。姫ちゃんも、同性愛くらい知ってるでしょ?」


「…それは知ってるよ。ただ舞茸がそうだったとしても、あたしはストレートなわけですよ。――てことはこのまま恋人になっても、性的な価値観の違いでぶつかって、なんなら今よりはるかに関係悪化するんじゃね? と思うわけよ」


「それは…どうにかなると思うよ」


「…舞茸。誤魔化さずにはっきり言っていいぞ。だって、性って人の幸せを左右する重要な要素だろ? 本来二つしかないそこを濁したって、別にいいことなんて一つもないからな」


「じゃあなんて言えばいいの? 私はストレートだったとしても、姫ちゃんのことが好きなのに…」


 ちょっと待ってくれよ。いきなりそんな猛アタックされても、こっちは舞茸を傷付けないエクスキューズを捻り出すので精一杯なんだよ。


「…だから…友達から始めてみるってことでいいんじゃないか?」


「私と姫ちゃんはもう友達だよ」


「あー…つまりその…親友スタートでいいってこと。親友として舞茸との関係が深まっていったら、あたしも、ある日突然女性に目覚める日がくるかもしれないだろ。…うちのお母さんも言ってたんだよ。『人生は不思議だ』って。――だから、一旦舞茸と親友になってみて、これから自分がどう変わっていくのか試してみるわ」


「…姫ちゃんのお母さんは、こっち側の人なの?」


「なんでそうなんだよ…じゃあなんで私と弟がいるんだよ」


「あ。そう言われればそうだね」


「つうか女の子が好きなら、横手さんのほうがあたしの何倍も魅力的で可愛いだろ」


「でも横手さんは…小柄だから」


「おいおいちょっと待て、お前の判断基準てデカいかどうかの一点だけなのか?」


「違うよ、そうじゃないけど…姫ちゃんのほうが、上手くて包容力ありそうだなって…」


 いや抱かれる前提…とはいえ、そのへんはレズでもストレートでも大した違いはないのか。


「…あたしは絶対に小柄な人のほうが好きだな。愛されキャラ多いし、動きも鈍臭くないし」


「私は?」


「んー、可もなく不可もなく」


「なんで~、姫ちゃん抱いてよー」


「…お前って、見かけによらず結構肉食なんだな」


「そうかな? 普通だと思うよ? だって私性欲強いし」


 わざわいは口より出ずにございますよお嬢様。つうかお嬢様であるなしに拘らず、一女子としてそのような発言はお控えになられたほうがよろしいかと存じますよ。


「お前の性欲なんか訊いとらんわ」


「ねーぇー」


「ああもぉ分かったっ、分かったよ。放課後に抱きつくくらいなら別にいいよ。あと好きなら好きでいてくれてもいい。でも束縛みたいなのは絶対にやめてくれ。それで横手さんに引かれてしまったら、あたしは今度こそ本当の本当におしまいなんだからな」


「――うん、じゃあそのかわり連絡先教えて?」


「…嫌だって言ったらどうなるんだ?」


「じゃーあー、明日から姫ちゃんに一日中抱きつく!」


「それもう実質的な脅迫だろ」


 私は溜息まじりにそう言って、横手さんを失いたくない一心で仕方なくスマホを取り出す。――たとえここで脅しに屈したとて、こんなインテリ性獣を好きになる確率など、おそらく一万分の一も無いはずなのに。


「姫ちゃん、今日は勉強会おやすみにしよ?」


「いいからとっとと教科書を開いて解説を始めてくれ! 今はお前の性欲を満たす時間じゃないだろ!」


「姫ちゃんえらい、やる気になったんだね」


「――今日は英語だぞ。舞茸先生」


 そうは言っても、舞茸と私はもう麗澤れいたくちぎりを交わした親友。私が本気でこいつを嫌いになる確率は、多めに見積もってもおそらく一億分の一といったところだろう。





*¹ランゲ:『花の歌』 Op.39。

*²コープランド:『アパラチアの春』。

*³ジャン=マルク・ルイサダ(Jean-Marc Luisada):フランスを代表するチュニジア出身のピアニスト。

*⁴ショパン:『ワルツ第一番』 "華麗なる大円舞曲" 変ホ長調 Op.18。

*⁵グリーグ:『ペール・ギュント第一組曲』 "山の魔王の宮殿にて" Op.46。

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