第四話 王妃と王族

「ただいまー」


「――あぁ紗愛おかえり。今日は遅かったじゃない。花粉で痒くなっちゃうから、先お風呂入っちゃいなさい」


「はーい」


 家に着いた。ママの声が聞けた。

 たぶん足も臭いし身体もへとへとなんだけれど、その二つが済んだだけで、私の心は一瞬にして八ヶ岳南麓の湧水のように澄みわたる。やはり大好きな家のドアを開けて、お母さんに「ただいま」といえるこの瞬間の喜びというのは、本当に何物にもかえがたい。

 交感神経オフになり一気に肩の力が抜けた私は、かまちに腰を下ろすことなくさっさと靴を脱ぎ、鞄からお弁当の包みとハンカチを取り出して足早に浴室へと向かう。理由はお母さんが言ったとおり一秒でも早く花粉を落とすためと、奏大そうたが帰ってきたときに「ねーちゃん臭い」と言われたら、もう立ち直れないから。

 だからいい香りでおかえりが言えるよう先に入って、わきすねもしっかり処理して、思春期の弟に不快な思いをさせないよう、私は彼のねーちゃんとして最大限努力しているつもりでいる。

 でも奏も最近ちらほらとすね毛が生え始めていて、二人でソファーに座ってくつろいでいるときなんかは、私は無性に彼のそれを引っ張りたくなる。別に毛そのものはそこまで好きではないが、筋肉質な脚を覆うそれはどこか象徴的で、女の私からすると少し愛らしい感じがする。そんなわけで私はいつもすね、ふくらはぎの順で奏の毛をつまんでいき、最後に「ねーちゃんやめて」と腕を握られるまで膝をなで続ける。だが私の腕を掴むその手の甲に浮き出た血管を見ただけでも、私は「あぁ…男の手」と思いドキッとしてしまう。つまり残念なことに、君のねーちゃんは本当に救いようのない変態なのである。

 しかし男のすね毛はたくましいのに、女のすね毛はなぜこうもちょろちょろと生えてみすぼらしいのだろう。どうせ生えるなら、もっと目立たないところへ思いきり生えてくれればいいのに。

 そんなことばかり考えているせいか、私のお風呂タイムは日を追うごとにどんどん長くなり、今日こんにちでは奏大の倍近い長さになりつつある。


「あ、奏おかえりー」


「ただいまねーちゃん、花粉大丈夫?」


「うん。大丈夫だよ。ありがと」


「――あ、奏ちゃん、シャツはカゴに掛けておいてね。お父さんのと一緒に洗うから」


「わかったー」


 いいねぇいいねぇ。背も伸びて制服も様になって、声も低くなってすっかり頼もしい弟になってる。ねーちゃん断言しちゃうけど、奏は絶対素敵な中学生になれるよ。


「あれ、パパは?」


「今日も遅くなるみたいよ。たぶんまた澤藤さん達と飲んでるんじゃないかしら」


「ふーん」


「それより紗愛、今日は学校、どうだったの?」


「うん。私、ママのおかげで友達出来たかも」


「あらそう。やっぱり紗愛は、お父さんが言ってた通りね」


「――パパ、私になにか言ってたの?」


「言ってたわよー。昨日お父さんと入学式の話してたら、途中から紗愛と奏ちゃんの名前の話になってね」


「うん」


「あなた、そういえば紗愛の名前って確かサラサーテ*¹から取ったのよね?って訊いたの。そしたら違うよって言い出して」


「でも、パパサラサーテ好きだよね」


「ねー。でも違うんだって。本当は、サラって外国の言葉で"王妃"って意味があるらしいの。それでそこに漢字の愛をあてて、みんなから愛される、愛情深いお姫様のような人になって欲しくて紗愛にしたんだって。それ聞いて私、ちょっと感動しちゃった」


 あぁパパ…申し訳ありません…私完全に名前負けしてます…


「――奏はどんな意味なの?」


「奏ちゃんは奏でるに大きいで、意味はそのまま。自分だけの人生のメロディーを、ありったけの力で大きく奏でて欲しいって意味で付けたんだって。――お父さん、結構気まぐれよね」


「奏はほんとに良い子だよね。男の子なんて、普通家族に八つ当たりするのに」


「そう言われればそうねぇ。――だけど、紗愛も反抗期なかったから、奏ちゃんも怒らないんじゃない?」


「えー、でも私なんか、毎日身長気にしてイライラしてたよ?」


「それは反抗じゃなくて、体が大人の身体に変化する時期だから仕方ないのよ」


「…ママは、反抗期あったの?」


「あったわよー。もう弾きたくないって言ってるのに、休みの日もずうっとピアノピアノだったから『自分は弾けないくせに、なんで私にばっかり弾かせようとするのよ!』って、お母さんとしょっちゅう大喧嘩して。それで無理やり座らされるんだけど、お母さんが扉を閉めたら、次はCDを流して先生の演奏を封じるの。そうやっていつもレッスンの時間をストライキに費やしてたから、講師の先生に"立てこもりのふみちゃん"て呼ばれてたわ」


「あはは、ママ立てこもり犯だったの」


「でも私が子供のころなんて、男も女もみんなそんなだったわよ。だから紗愛とか奏ちゃんみたいな良い子を見てると『あー時代は変わったなぁ』って、いつも思うの」


「でも私、ママが怒ってるところなんて見たことないよ」


「それは、紗愛が生まれた日に、お父さんと約束したからよ。『この子の前で喧嘩するのは絶対やめましょうね』って。――まあお父さんも気の長い人だから、今思うと約束する必要なんてあったのかしらと思うけど」


「ママは、たぶん立てこもり犯のころに怒りを使い切ったんじゃない?」


「あっははそれもそうね」


 でもその約束をしてくれたことが、私には嬉しかった。


「…ねえママ。育ててくれて、ありがとうね」


「なぁにどうしたのよー。――欲しいものでもあるの?」


「何もいらないよ。ただお礼がしたかっただけ」


「そう。なら私もお礼しなくちゃダメね。生まれてきてくれてありがとう、紗愛」


「――ママ、手温かいね」


「それは、今お湯使ってたからよ」


「今日は肩揉みする?」


「あら、いいの?」


「いいよ。でも奏が出たら交代ね」


 そう言って私は、椅子に座ったお母さんの肩を揉む。細身で小柄で、こんなお人形さんみたいな人が私を産んでくれたと思うと、なんだか成長って魔法みたいだといつも思う。


「そんなに凝ってないでしょ?」


「うん。パパよりは凝ってないと思う」


「あら、じゃあ結構凝ってるわね」


「ママも、週末は休んだほうがいいよ。お掃除とお洗濯は私がやるから」


「いいのよ。それより紗愛は、お友達とたくさんお出かけしたほうが、お母さんいいと思うけど?」


「…お出かけは…厳しいかも…」


「そんな気にすることないじゃない」


「…でも、また病気って言われるかも…」


「…ごめんね紗愛。お母さん口悪いかもしれないけど、そんなの言ってるやつが病気なのよ。そういうことを言う人間はね、人の気持ちがわからない、常識のないお馬鹿さんなのよ。可哀想ね、来世は石ころにでもされるんじゃないかしら」


 さすがに笑ってしまった。私だったらせいぜいハエ蚊止まりだが、うちのお母さんの逆鱗げきりんに触れると、もはや生物であることすら許されないらしい。


「だから、もっと自分に自信を持っていいのよ、紗愛。あなたは人一倍人の気持ちがわかる子なんだから」


「――うん。少しずつ頑張ってみる」


「そうそう。焦らなくていいのよ。高校生なんて、四十過ぎのおばさんから見たらまだ人生の一小節目、面白いのはこれからよこれから」


「私、どうすれば友達に気に入ってもらえるかな」


「そうねぇ、紗愛はそのままでいいんじゃないかしら。お母さんも、若いころは本当に人付き合いが苦手で苦労したし…」


「…じゃあママは、パパにプロポーズされたときなんて返したの?」


「あぁそれはね、お母さんが先にプロポーズしちゃったのよ」


「そうだったんだ」


「――私たち、最初は音楽教室の講師と生徒だったって、前紗愛と奏ちゃんに話したでしょ?」


「うん」


「お父さんね、初めはすっごく不真面目で、レッスン中もなんだかずーっと猫背で『あーだらしのない人が入ってきたなー』って感じだったの。それにピアノのレッスンに来てるのに、今思うとセクハラまがいの雑談ばっかりする人で。でもお金を払ってる以上、来てしまうものは来てしまうわけじゃない? だからお母さんわざと厳しく指導してね。正直いうと、早く挫折してほしかったの。ピアノはあなたがナンパの片手間で弾けるほど甘い楽器じゃないですよって」


「うん」


「でもそんなお父さんを見てるうちに、お母さんも子供のころは不真面目だったなーなんて思い始めちゃって。それでついに『お付き合いしてもらえませんか?』って言われたから、お母さんも思いっきり意地悪して『ショパンがお好きなんですよね? だったら"英雄"*²くらい弾けるようになってもらわないと付き合えません』って言ったのよ。やっぱり私って、結構鬼よね」


「それで、弾けるようになったの?」


「ふふ、それが弾けるようになったのよ。翌週から目の色変えて猛練習するようになって、もう練習のために仕事を休んできたって言われたときは、お母さんも開いた口が塞がらなかったわ。――でね、練習を始めてから四年後の発表会で"英雄"と、サプライズで"ワルツ二番"*³を弾いてくれたの。お父さん本番にすごく弱いから『芙美子ふみこさんの誕生日祝いも兼ねて私がトリを務めます』って自分から手を挙げたのに、前に出てきた時点で感電したみたいにガクガク震えてて、それがもうおかしくておかしくて。――でも、何度ミスタッチして私が『あぁ…』って思っても、何度指がもつれて音が飛んでも、お父さん諦めずに一生懸命弾くから、お母さんどの演奏家のどのコンサートよりも感激してね。演奏が終わった瞬間に思わず『とおるさんありがとう! もう私にはあなたしかいない! 結婚しましょう!』って、他の生徒さんがいる前で思い切り叫んじゃったの」


「素敵…」


「そう考えると、人生って本当に不思議よね。今一番嫌いな人が、数年後には最愛の人になることだってあるんだから…」


 私はそれを聞いて温かい気持ちになりつつ「もしかして…いやもしかしないと思うけど、舞茸がまさにそれなんじゃないか?」と直感的に思った。


「ねーちゃん靴下脱ぎっぱなしー」


「は! ごめーん奏大! 今片すから! 汚いからそのままにしといてー!」


 …というか勝手に舞茸をジャッジする側についてるけれど、本当の意味でだらしがないのは、案外舞茸より私のほうだったりするのでは?

 そんな都合の悪い疑念はさておいて、私は大慌てで危険物質を回収し、下着とともに洗面器へ放り込むと素早く液体洗剤をかけてお湯を張った。


「…ねえ奏大、ねーちゃん臭くない?」


「うん。俺のが臭いからわかんない」


 もうねぇ、ブラコンマザコン上等ですよ。誰に何と言われようが、私の家族は世界一。私が王妃なら、うちの家族は王族。だから家族愛の深さという点においては、うちも決して舞茸ファミリーに負けていないはず。

 そう自分に言い聞かせながら、私はシャンプーの香りがする奏大にハグをした。


「――奏、ママの肩揉んであげて」


「いいよー」


「奏ちゃん十回でいいわよ、遅くなっちゃうから、早くご飯にしましょ」


「じゃあ二十回ね」


「いい子…いい子や…」


 きっと明日の朝も、私は奏大に愛情たっぷりのハグをする。





*¹パブロ・デ・サラサーテ(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz) :スペイン出身のヴァイオリニスト、作曲家。

*²ショパン:『ポロネーズ第六番』Op.53 "英雄" 変イ長調。

*³ショパン:『ワルツ第二番』 Op.34-1 変イ長調。

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