第三話 嘘つきと本物

 チャイムが鳴り、五限が終わった。

 さあ、あと一時間の辛抱だ。私は右のつま先でもう片方の靴を蹈みつけるようにして上靴を脱ぎ、それまで机の下に閉じ込めていた無駄に長い脚を、往来いききのない真横ヘ出してぶらぶらさせる。大変お行儀が悪いのは自覚しているのだが、これをやらないことには高さの合わない机と椅子で足腰爆発待ったなしなのである。ついでに天井を見上げて鼻から大きく息を吸い、ふぅっと吐くと同時にぱっと身体の力を抜くと、フェルトに覆われたハンマーが重力に逆らい鉄の弦を打つあの瞬間のように、脳が一瞬肉体を忘れたような感じになってとても気持ちいい。

 しかしなぜ正面ではなく真横に伸ばすかというと、三限の終わりに同じことをした際、不覚にも私の前に座っている横手さんの椅子の脚を思い切り蹴ってしまったからだった。


「あ! 横手さんごめんっ!」


「あぁ、全然大丈夫だよ」


 私は咄嗟とっさに謝ったが、ごめんで済んだら拭くものはいらないという感じだった。

 よりにもよって、彼女がペットボトルの水を飲もうとした瞬間にガツン!

 全然大丈夫じゃないし、見方によってはデカい不良の嫌がらせとも取られかねない。私は肩をすぼめて何度も謝りながら、自分のハンカチで水のかかった彼女の制服と机を拭いた。ただ幸いなことに机上には何もなく、教科書やプリントが被弾するような大事には至らなかった。


「本当にごめんね横手さん。私足癖悪くて」


「いいよいいよ、それより姫嶋さんて、一ノ瀬さんと小中一緒だったの?」


「違うけど、どうして?」


「いやー毎日めっちゃ仲良しだから、幼馴染みなのかなーと思って」


「いや、何でかわからないけど、入学式の次の日から一方的に引っ付かれてるんだよね…」


「へぇー、でもあの仲の良さはもう親友確定じゃない?」


「――そう、じゃないと、いいんですけど…」


 私がそう言って苦笑したら、横手さんは「まぁまぁ、仲良くしてあげなよ」と微笑みながら前へ向き直った。それまで横手さんといえば選挙管理委員になったもの静かな人という印象しかなかったが、話してみたら意外と気さくな人で。経験値の浅い私は彼女とほんの二言三言交わしただけで「もうこの人は信頼できる」と思った。――思ったんだけれど、今日の段階ではまだ連絡先を訊くほどの勇気は出なかった。


「姫ちゃーん! 今日は記念すべき第一回目だね♪どれからやる?」


 そして放課後。湿って疲れ切ったあしのうらを床のひんやり感で癒していると、さっきからチラッチラッチラッチラッこっちを見ていた舞茸が、あたかもフリスビーを咥えたゴールデンレトリバーのような感じで、私目がけて一直線にすっ飛んでくる。

 やっべぇ…まじで帰りてぇ…


「舞茸、やっぱ明日にして帰るぞ」


「…サボるの?」


 なんだよサボるって…お前の七限目とか、文科省の学習指導要領に含まれてねぇっつうの。


「いや…今日うちの弟熱出して学校休んでるし…」


「えっ!? ちょっと姫ちゃん! どうしてそういう大事なことを先に言わないの!」


「別に、舞茸に言うほどのことでもないだろ」


「早く言ってよ、私もお見舞いくらい行くから」


「…は!?」


 お前はICBMミサイルかなんかか?


「姫ちゃんの弟さんでしょ? それなら私も、姫ちゃんの友人代表としてお見舞いに行かないと」


「いやいやいやいや間に合ってる、間に合ってるよ舞茸。それにうちの弟くんは人見知りが激しいから、舞茸が来ても絶対入れてくれないぞ」


「ぷ。姫ちゃんも、弟くんとか言うんだ」


「あぁ? 弟くんの何がおかしいんだよ? 大体うちの弟は、腹黒のお前と違って超絶可愛いんだからな?」


「へー、姫ちゃんて、じつは結構弟くん思いなんだぁ」


「いちいちあたしの腹のうちを探るんじゃねぇ腹黒」


「私のお腹は真っ白ですー。それより早く帰ってあげないと。弟くん、姫ちゃんの帰りを待ってるんじゃない?」


「あぁ、そうだな、早く帰ってあげないと」


 ん? こいつ、今日はやけにあっさり引くな。


「いいね。家族思いで」


「そうでもないけどな」


「…じゃあね姫ちゃん。また明日」


「あ、おぉ」


 てなわけで、私は舞茸にがっつりうそをつき、人の流れに紛れて足早に教室を抜け出してきてしまった。ここまでくだらない譃をついて何かをサボったのは、幼稚園の頃通っていたピアノのお稽古以来、実に十数年ぶりのことだった。

 りにもって何で舞茸に譃なんかついてんだよ。と、私は負の新記録更新に伴い、トイレの鏡の前で思わず頭を抱える。然しそれだけならまだしも、愛する弟をダシに使うとかまじで人間性終わってんなと思う。

 はぁ…最低だな…舞茸にも謝んなきゃダメだこれは…

 ほんと自分の卑劣さに嫌気が差して、久々にゲロでもきそうな気分だ。


「…」


 ――でもなぁ私。もう諦めろ。お前はそういう性悪人間なんだから、とちったと思ったら、素直に非を認めて謝るしかないんだよ。


「――っ、舞茸!」


「えっ? 姫ちゃん、帰ったんじゃなかったの?」


「…すまない舞茸、あたし…お前に嘘をついてしまった…」


「う、嘘?」


「いやその…弟が熱出してるってのは、実は嘘なんだ」


「…あぁそういう嘘ね。でも上手くだませてたから、そのまま帰っちゃっても私全然分からなかったよ」


「――帰れねぇよ。舞茸に嘘つくとか、普通に最低だろ」


「…ふふ。じゃあ、勉強する? 姫ちゃん」


「あぁするよ、してやろうじゃねぇか。舞茸と一緒に」


「はい、じゃあ数Ⅲからね♪」


「は? まだ数ⅠAが始まったばっかで」


「もー、姫ちゃんはマイペースなんだから。高一の冬までに全冊三周しておかないと、あとから大変だよ?」


 こいつ東大の首席でも狙ってんのかよ…


「…舞茸」


「どうしたの、姫ちゃん」


「…やっぱ頭痛いから帰る…」


「――え、えっとでも今のはあくまで私の例で、進度は姫ちゃんに合わせるから大丈夫だよ」


「…まじで?」


「うん! いいよ!」


「じゃあやる」


「…ⅠAのどのへんが分からない?」


「あぁ、Ⅰはまだ分かるんだよ。式を覚えるしかないって。ただAは、あたしの脳が完全に理解することを拒否してる」


「…姫ちゃんは数学苦手?」


「一番嫌いかもな」


「でも大丈夫だよ。毎日手を動かしてればなんとかなるから」


 見かけによらず結構脳筋なんだな、舞茸って。


「地頭が良いんだろ? もう何となく分かるわ、お前は遺伝子からして完璧なんだろうなっつうのが」


「完璧じゃないから勉強するんだよ。姫ちゃん」


 はぁーやだやだ。やだけどめっちゃ良いこと言うわぁーこいつ。

 しかし博覧強記という言葉があるように、地頭のいいやつは本当に化け物じみてるというか、脳のどの引き出しにどのページの内容が入っているかを完璧に覚えてるから、教科書をパラパラ行ったり来たりすることもなく、説明に一切の無駄がない。だからどの章のどの問題に当たっても、舞茸の解説は私の首肯しゅこうに合わせるようにして、まるで黒鍵のエチュード*¹のような小気味良いリズムで進みつづける。


「…なるほど。結局染みつくまでやるしかないってことか」


「そうそう。『より、よって、したがって、となる。』はテンプレだから、頑張って覚えてね」


「…でも、舞茸の解説だと普通に分かりやすいわ」


「姫ちゃん、ノートの取り方綺麗だね」


 しかも持ち上げるのまでうまい。まあ馬鹿の私から見ても、舞茸の学力は間違いなくこの高校に在籍している教員の水準を上回っていると思うし、こいつみたいな人間が大手の予備校講師とかをやると、たぶん速攻で年収数千万みたいなことになるんだろうなという予感すらする。


「やば…もうこんな時間か」


「姫ちゃんて頭良いよね。今日の二時間でここまで出来たら、五月には全部終わると思うよ」


「舞茸。お前やっぱ天才だわ。教え方が上手すぎる」


「そうかな。ありがとう♪」


「これじゃ、明日から舞茸先生だな」


「まだ一ノ瀬さんは解禁されないのね…」


「つうか舞茸舞茸言いすぎて、なんか舞茸に愛着湧いてきたわ」


「ぇ? 姫ちゃん好きになってくれたの!?」


「いーや。お前の比類なき才能は認めるよ。ただあたしが舞茸を好きになったわけでは決してない」


「姫ちゃんて、嘘つきだよね」


「…」


「…ごめん。それは冗談だよ」


「…ごめん舞茸。嘘をついたのはまじでごめん…」


「まあ私は姫ちゃんのこと好きだし、全然気にしてないけどー♪」


「…あたしも、舞茸のことは一切気にしてないけどな」


 ――だけど、お前とはいい友達になれそうな気がするわ。そう心の中で思ってる以上、これは譃ではないからな?


「――姫ちゃん、明日から一緒に帰ろうよ」


「…お前、まさか人間関係まで勉強と同じスピードで進める気か?」


「うん。だって高校生の姫ちゃんと過ごせる時間は有限だから」


「それ一番ダメなパターンだと思うぞ」


「どのへんがダメなの?」


「舞茸は、自分の感情が常に右肩上がりで推移すると思うか?」


「んー、多少の浮き沈みはあるんじゃない? なんとも言えないけど」


「だろ? てことは他人の感情なんてもっとなんとも言えないし、そんな予測出来ないものを時間軸で今日はここまで、明日はここまでみたいに区切ること自体意味のないことなんだよ。大気でできたケーキを六等分にしろって言われても、あたしたちの目ではそのケーキの存在すら認識できない。それと一緒だ」


「…姫ちゃん、私分かったかも」


「そら天才のお前には余裕で分かるだろ」


「私、姫ちゃんと絶対お付き合いする!」


 おいどうした首席!? 誰もお前の脳みそを六等分にしてくれとはいってねぇぞ!?


「いいからお前は明日の放課後までに五十嵐君とよりを戻せ! それができねぇなら、この関係も白紙に戻すぞ」


「…やだよ。何で好きでもない人とよりを戻さなくちゃいけないの?」


「何でって、そうしないと、お前のためにならないからだよ」


「…姫ちゃんも、人のためとかそういうの考えなくていいんじゃない? それって一番ダメなパターンだと思うけど?」


「こいつ…」


「まあ今日はここまでにして一緒に帰ろうよ。もう暗くなっちゃったし」


「"一緒に"を巧妙こうみょうに織り込むんじゃねぇ。それにお前はお迎えの車で帰んだろ?」


「姫ちゃんも乗っていいよ?」


「遠慮しとくわ。どうせ電車で帰るし」


「じゃあ、門の前まで」


「あぁ、それならいいぞ」


 そうして舞茸にいくらかの借りを作った私は、この女の天賦てんぶの才にすっかり幻惑されてしまい、不運にもこいつのお見送りまでさせられる羽目になった。その日は舞茸のこえが鼓膜の向こう側まで浸透していて、電車に乗ってもイヤホンを取り出す気になれなかった。





*¹ショパン:『12の練習曲』 Op.10-5 "黒鍵" 変ト長調。

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