霧崎さんのこと。それから僕のやりたいことの話

 肩にタトゥーの入った女性は霧崎愛桜きりさきまおさんと言うらしい。さっきまで彼女が包丁を研いで塞いでいた扉の向こう、つまり僕の新しい部屋を、彼女がそのまま案内してくれると言う。


 誤解が解けたようでひとまず良かったと僕は安心する。


「それでさ」と彼女は言った。

「君はなんでここに来たの?そもそもどこから来たの?」

「島根から来ました」と僕は答えた。

「島根?」と彼女は驚いたように言った。

「私、島根って行ったことないな。すごい田舎じゃない?鳥取と島根ってどっちがどっちだっけ?島根が右?」

 

 僕はずっと島根で生まれ育ったから、関東の人のこういう反応をリアルで見るのは初めてだった。なるほど確かに、関東の人間から見れば島根と鳥取なんてどっちがどっちでもいいわけだ。バラエティ番組でたまにいじられている島根鳥取位置関係問題はフィクションではなかったのだと僕は実感した。


「あ、逆です…。島根のほうが左で、左から山口県、島根県、鳥取県です」

僕がそう言うと、彼女はもう興味をなくしたみたいに「ふーん」と相槌を打った。


「それでさ、君はどういう経緯でここに来たの?わざわざ島根から中野のシェアハウスに来てさ、何か理由があるんでしょ?やりたいこととかさ」

 彼女にそう言われて、僕は戸惑った。


ここに来た理由はたまたま部屋に空きがあったからだし、何か目標みたいなものがあったわけじゃない。


 霧崎さんは僕の新しい部屋に入り、そして僕もそれに続いた。部屋はがらんとしていて、中には家具ひとつなかった。部屋の奥に窓が一つ付いており、そこから太陽の光が差し込んでいた。


 やりたいこと。


 僕は悩む。


「いきなり人のことあれこれ聞くのも失礼よね。『人に名を尋ねる時はまず自分から…』みたいな言葉もあるし」

そう言って霧崎さんは一呼吸置いた。

「私はね、岩手から来たの。宮古市って知ってる?そこのね、山奥の方。それが私の生まれた場所。あなたの住んでいた場所も田舎だっただろうけど、私のところはきっともっと何もないわ。だって最寄りのスーパーまで車で四十分かかったから」

 

 確かに僕の実家からは、最寄りのスーパーまで車で五分もあれば行けた。というか頑張れば全然歩いてでも行けた。僕が島根から来たって言った時の反応から、霧崎さんはてっきり東京の人だと思ったけど、どうやら彼女も僕と同じく地方出身らしかった。


「私ね、デザイナー志望なんだ。それで、私の地元なんかじゃ絶対デザインの仕事なんてないから、こっちに来たの。仕事があったとしても、それを勉強する場所が私の地元にはないから、だから私はこっちに来たの。これが私の簡単なプロフィール」


 彼女はそう言ってこちらに微笑んで見せた。霧崎さんは笑うと、一気に可愛らしい少女のように見えた。赤色のインナーカラーを入れた彼女のミディアムヘアを見て、宮古市にはこんなこと出来る場所はないんだろなと勝手に思った。少なくとも僕の実家から近くには、インナーカラーを入れてくれる場所なんてない。


「その、手に持ってる出刃包丁は何用なんですか?」と僕は聞いた。


 部屋を案内してくれてる最中、簡単に自己紹介をしてくれてる最中、彼女はずっと片手に包丁を持っていた。正直僕はそれにビビってた。


「これ?これは、色んなことに使えるんだよ。もちろん魚を捌くのに使うこともあるし、防犯にもなるし、何よりこれ、研ぐのが楽しんだよね」


彼女はそう言って出刃包丁を眺めた。うっとりと眺めていた。


「今度教えてあげるよ」

「ど、どれをですか?」

「どれ?ああ、捌き方でも研ぎ方でも、護衛術でもどれでもいいよ」

「ありがとうございます」


「それで」


そこで彼女は一呼吸置いた。


「君はどうしてここに来たの?」


霧崎さんに改めて問われて、それで僕はまた黙ってしまった。


僕のやりたいこと。


僕は何がしたくて、ここにシェアハウスなんかしに来たんだろう。


「まあ、なければ無理に答えを探す必要もないわ」


霧崎さんはそう言ってまた微笑んだ。

僕は何か答えたかったけど、何も言葉が浮かばなかった。


「遅くなったわ〜」


下の階で、玄関の扉が開く音がした。

誰かがここに来たようだった。その声は優しく包み込むようなソフトボイスで、僕は丸山先輩が帰ってきたのだと一瞬で理解した。彼の声は独特なのだ。


「おう、悪かったな、森。一人で行かせちまって。それでさ、続け様に悪いんだけど今からもう一人ここに入居する奴がいるんだ。なんでも大量の家具を持ってくるらしいから、車で迎えに行くんだけどよ、男手が足らないんで一緒に来てくれないか?」


 丸山先輩はそう言って両手を合わせて「お願い」のジェスチャーをした。


「ええ?また一人増えるの?私聞いてないよ、丸山」


 霧崎さんが、不満げにそう言った。


「すんません。でもその伝達ミスは城島さんに言って欲しいっす…」


丸山先輩は若干遠慮がちにそう答えた。どうやら丸山先輩は、霧崎さんに頭が上がらないらしい。


「悪い、お前も今日来たばっかで荷解きとかあると思うんだけど、後で俺手伝うし、一緒に来てくれねえかな」


 丸山先輩はそう言うと再度両手を合わせて、今度はそれを擦り合わせた。


「良いっすよ。どうせ僕はそんな荷物もないし」

「まじか?助かるよ。後で昼飯も奢るから!」



 僕と丸山先輩は、駐車場に止めてあったバンに乗り込んだ。

「こんなでかい車、先輩運転出来るんですか?」

「まあ、大丈夫でしょ。普通免許で乗れるやつだし」

「あの、管理人の城島さんは来ないんですか?」

「ああ、あの人は貧弱だから…。肉体労働とかそういうのできないの」

「なるほど」


 丸山先輩が車を運転する道中、車内にはFMラジオが流れた。当然島根にはない放送局で、音声だけの番組のはずなのに、東京のラジオはとても煌びやかに聞こえた。MCの声から、SEの種類の豊富さから、CMの編集から、後ろで動いてるであろうたくさんの人たちや、ごつい機材の数々が浮かんできた。


 車内で流れるラジオだけじゃなくて、道路もやはり江津とは違った。おしゃれな街路樹なんて江津にはないし、駐車場のないコンビニなんてあっちじゃありえなかった。歩道を行き交う人たちの量だって、もちろん桁違いだった。


 その光景を見て僕は初めて、新しい土地に引っ越したのだという実感を得ることができた。


「そういえば、これから迎えに行く人はどんな人なんですか?」

 僕は丸山先輩にそう聞いた。彼はちょうど、ラジオで流れていた音楽を口ずさんでいた。


「おお、よく聞いてくれた。その人はな、お前と同い年の女の子だ。奥多摩のほうに住んでるんだけど、どうやら心機一転こっちに来るらしいのよ。まあ、詳しいことは俺も知らないんだけど、城島さん曰くすごい人らしい」


 奥多摩ってのがどこか分からなくて調べたら、東京だった。わざわざ東京から東京に引っ越すなんて変わってるなと思ったけど、彼女の家にたどり着いて、すぐに引っ越す理由が分かった。


 それは、彼女の家は深い森の中にあった。


 中野区と全然違う。つか、どっちかと言えば島根寄りだ。彼女の家と思しき建物の後ろには果てなんてどこにもないような深い緑の森があり、鳥が囀る音が四方八方から聞こえてきた。川のせせらぎが聞こえて、街の喧騒なんてものはそこに一切なかった。


 「本日から、よろしくお願いします」


 そう言って建物から出てきたのは、艶のある黒髪ボブの、黒縁の眼鏡をかけた女性だった。生地の良さそうな白地のワンピースに、僕は思わず視線を奪われた。


 モロ好みだ。


「よろしくお願いします」

なぜかスカしながら言っちゃった僕の言葉に、彼女は優しく微笑んだ。


やっぱ、モロ好みです。お名前、お伺いしても良いですか…。



 

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