深淵から僕を覗き込む管理人さん

 「あ、あの…」

 じっと黙っていても一向に僕に気づく気配がないので、自分から話しかけることにした。本当は初対面の人間に話しかけるのなんてあんまり得意なほうではないんだけど、そうも言ってられないので仕方あるまい。このまま黙っていたら、この女の人はずっと僕の部屋の前で包丁を研ぎ続ける気がするのだ。知らない女の人が目の前で包丁を研いでるをじっと見てるって状態を、いつまでも続けるわけにはいかない。それは相手にも失礼ってもんだ、多分。

 

 僕の声が耳に届いたのか、肩にタトゥーの入った女性は出刃包丁を研ぐ作業をピタッと止めて、まるで錆びたネジみたいにカクカクした動きでこちらを向いた。

「誰?」

 彼女の声は静かで、系統的には丸山先輩と同じく包容力のある心地良い響きだった。でもその静かな声とは対照的に、彼女の目は鋭く、不信感の色が強く滲み出ていた。

「あっと…。驚かせちゃってすみません。今日からここでお世話になる森颯汰って言います」

 僕は笑顔でそう言った。おそらく彼女の目に僕は不審者に写っていることだろう。ひとまず名前を言えば、僕が怪しいものではないということを証明できるはずだ。僕が今日からここに来ることは前もって知らされているはずだし、自慢じゃないが僕のスマイルはそれなりに人受けがいい。まずは笑顔で警戒心をほぐしつつ、部屋の前で包丁を研ぐのをやめてもらうようにゆっくり説得し、そこから徐々に打ち解けていけばいい。


「そんなの知らないわ。何?強盗?私一人だからってこの時間を狙ったの?それともストーカー?どちらにせよ今すぐ出て行かないなら警察呼ぶわよ」


 名前で通じる、なんていう僕の淡い希望は一瞬にして崩れ去った。ついでに僕の笑顔はかえって怪しまれる要素になったっぽいし、彼女の顔は一層緊迫感を増してるし、てかもはや殺気を放っているし、人からこんなに警戒されるのは生まれて初めてのことで、それはすごく悲しいことだった。

 そして彼女の手には、さっきまで一心不乱に研いで切れ味抜群であろう大きな出刃包丁が握られていた。こわい。

 僕が今日ここに来ることくらい、全員に通告しておいてくれよ!って心の中で丸山先輩に文句を唱える。僕のこの嘆きが、テレパシーで先輩に伝わってたらいいなと思う。


「分かりました!すみません!一旦出ます…」

 慌ててそう言い、僕は一度家から出ることにした。ここで彼女と口論になっても今後の生活的に良くないだろうし、警察を呼ばれるのも怖かった。

 それにここで万一包丁でブッ刺されでもしたら大事件だ。実際彼女の握っている出刃包丁は今にも僕に切り掛かってきそうな、血に飢えた妖刀みたいな雰囲気を醸し出していた。彼女を殺人犯にさせないためにも、僕は戦略的撤退を図ることにした。

 

 階段を降りて、玄関の扉を開けようとした僕の腕を誰かが勢いよく引っ張った。そのまま僕はどこかの部屋に引き摺り込まれ、引っ張られた勢いでよろけた。すぐに部屋の扉は閉められ、僕の鼻腔をお香の匂いがくすぐった。

「下から君たちの会話は聞こえたよ。すまないね、彼女はちょっとばかし思い込みが激しくて、それに警戒心が強いんだ」

 そこには紫の半纏を着た男がいた。黒縁の丸眼鏡の奥に柔和な瞳を持っていて、口元には薄い笑みがあった。ざんばら髪で、手首には黒のヘアゴムが巻かれていた。どことなく雰囲気というかオーラがあった。

 彼は首の後ろあたりを掻きながらそう言うと、僕と目を合わせてもう一度微笑んだ。

「あなたは…」と僕は言った。そこまで言って、続きが思い浮かばなかった。何度でも言うけど、僕は初対面の人間と話すのは苦手なんだ。


「ああ、紹介が遅れたね。僕の名前は城島蘭きじまらん。森君だね?丸山君から話は聞いてる。僕が部屋まで案内するべきだったんだけど、ちょっと手が離せなくて、ほっといちゃった。すまなかったね」

「案内?」と僕は聞いた。

「そう、案内。僕はここの住人兼管理人なんだ。一◯一号室は管理人、つまり僕の部屋だから、今後何か困ったことがあったらまず僕のところに来るといい。みんなの面倒を見るのも僕の仕事だからね」

 城島さんはそう言って笑った。その顔で僕は、どこか力んでいた肩の力を抜くことができた。安心して信頼できそうな人だなと思った。笑顔も素敵だ。


「き〜じ〜ま〜さ〜ん〜」

 僕の肩の力が抜けるとほぼ同時に、扉の向こうから声がした。さっき上にいた彼女の声だ。

「まずい、君はまだ霧崎きりさきさんに誤解されてるままだよね。僕が説明してくるから、君はこの部屋で待機しててくれるかい」

 城島さんはそう言うと、さっと部屋から出て行った。出掛けに彼は僕にウインクした。「任せて」って意味だと思う。

 頼りになる人が管理人で良かったなって僕は思った。ここでの生活も、なんとかやっていけるかもしれない。


「はあ?新しい住人?だったらなんでそれを私たちに説明しとかねんだよ!」

 扉の向こうで、霧崎さんの怒声が聞こえる。

「ごめんごめん。まさかこの時間に霧島さんいると思わなくて」

 そして弱々しい城島さんの声が、後から聞こえる。

「いるとかいないとか関係なく報告くらいすんのが常識ってもんだろ!このアホ!大人としてのマナーどこに置いてきたんだ!」


 部屋の外で、物が落ちたり何かが割れたりする音が聞こえる。ついでに多分城島さんの、「うっ」とか「おえっ」みたいな嗚咽が聞こえてくる。


 しばらくして部屋のドアが開いて、城島さんが帰ってきた。

「もう大丈夫。彼女の誤解も解けた。また困ったことがあったら僕に言いなさい。これからよろしく…」そして彼は、グッドサインをして倒れた。


 城島さんの服はボロボロの雑巾みたいになってるし、掛けていた丸眼鏡もレンズにヒビが入っていた。

 この人、本当は頼りにならないのか?と僕は思いつつ、倒れた城島さんの手当てをするために彼に近寄った。


「あ〜いいのいいの。その馬鹿はほっときゃすぐ復活するから。それより、森君ね?さっきはごめんなさい。今この城島の馬鹿から話は聞いたわ。よろしくね」

 霧崎さんが一◯一号室のドアを開けて、そう言った。

「とりあえずこの馬鹿はほっておいて、あなたの部屋に行きましょ。私が案内するし、なんなら荷解きも手伝うわよ」

 霧崎さんはそう言って、スタスタ階段を登り出した。こええ。今しがた人をボコボコにした人と、一緒に荷解きするんですか僕は。怖いんですけど、しかしこれからの共同生活のために頑張ります。


 僕はそう心の中で意気込んで、彼女の後を追った。

 

 階段を登る彼女を下から見たら、ショートパンツから露出したふくらはぎにもタトゥーが入ってるのが見えた。

 

 

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