シェアハウスアレルギー発生注意報

貼絵とんぼ

あの、あの方もシェアハウスの住人さんなんですか?

 今日から僕が住むはずの部屋の扉の前には、一心不乱、脇目も振らず包丁を研いでいる肩にタトゥーの入った女性がいた。あれ?部屋間違えたかな?とか思って部屋番号の書かれた紙と、目の前の表札を交互に確認する。二◯三号室。間違いない。僕の目に異常がなければ、ここは僕の部屋となるべき場所だ。僕の予定としては、今頃すんなり部屋に入室して、部屋の中を物色して、そして部屋作りなんかを始めてるはずなんだ…。

 しかし目の前には依然として、僕の存在そのものにすら気づかないタトゥー入りの女性が床に砥石を置いて一心不乱に包丁を研いでいる。彼女が包丁を前後させるたびに、肩に入った薔薇のタトゥーが生き物みたいに揺れる。

 誰か、誰か助けてくれ!夢なら覚めてくれ!とはまさにこういう状況のことを言うんだな、とか思う。こんな怖い人がいるって知ってたら、僕はシェアハウスなんてしませんでした!


  ひと月前


 卒業式。これまでの自分から文字通り「卒業」して、新しい自分に成るための儀式。胸の辺りにバラかなんかの華を差したみんなは明るく、清々しい顔をして式に臨んでいる。僕一人だけが、ここで新しい自分になる準備が出来ないままで、少し暗めの顔。つーか浮かない顔。

 

 もちろん高校卒業自体は出来た。決して優秀とは言えないけどしっかり成績もゲットしたし、卒業証書もハゲた校長からしっかり受け取った。ちゃんと卒業生として、「森颯汰もりそうた」って担任に名前も呼ばれた。「はい!」って元気な声で返事もした。大丈夫。僕もしっかり、卒業生の一人だ。

 

 問題は、進路。この式が終わった後の話なのだ。僕の右隣に座ってる石田は実家のケーキ屋をそのまま継ぐらしいし、僕の左隣に座ってる佐藤さんは卒業後すぐにアメリカだかカナダだかに留学に行くらしい。そんで僕の前に座ってるやつは地元の大学に進学するらしいし…。とにかく僕の知る限り、卒業後の進路が未だ決まってないのなんて僕一人だけなのだ。それが、たまらなく僕を憂鬱な気分にさせた。


 どうしてこうなったのか、理由はなんとなく分かってる。

「とりあえずさ、浪人でもしてみたら?」

 卒業式の帰り道、幼馴染の酒井春輝さかいはるきが卒業証書の入った筒を肩でバウンドさせながら言う。自分はちゃっかり東京の大学進学が決まってるから、そんなこと言えるんだろって僕は心ん中で悪態をつく。

「浪人は無理だ。僕にそんな気力はない。大学に行って勉強したいことも何もないんだ」

 僕がそう言うと、春輝はしばらく黙った。春輝が卒業証書の入った筒を肩でバウンドさせてる音だけが、僕らの間に静かに流れた。僕の問題。そう。僕にはこれから先やりたいことなんて、一つもないのだ。


「なあ、颯汰。丸山先輩って人、覚えてる?」

 しばらくして、春輝が口を開いた。

 丸山先輩?聞き覚えはあった。確か中学の時の先輩で、茶道部で部長をしてた気がする。

「何となく覚えてるよ」と僕は言った。

「その丸山先輩がさ、東京でシェアハウスしてるらしいんだ。それで部屋が一個余ってるらしくて『来ないか?』って誘われたんだ」

「そのシェアハウスとやらに?」

「そう。そのシェアハウスとやらに」

「だけど春輝、お前確かさ」

「そう。俺はすでに東京の叔父さんのとこに住ませてもらうって決めちゃってたから、その話は断ったんだ」

 そこまで言って、春輝は一呼吸置いた。春輝が大事なことを言うときは、一呼吸置く。幼稚園の頃からの癖だった。

「それでさ、もし颯汰が今、何にもすることが見つからないんなら、俺の代わりにそこ行ってみるのもありなんじゃないかなって」

「え?」

「つまりさ、東京でシェアハウスしてみたら?ってこと」

 …。

 そして僕は、東京でシェアハウスをすることに決まった。僕も地元から、卒業する日が来たのだ。


 夜行バスと電車を駆使して中野駅に着いたのは、昼の十一時だった。改札を出ると、ロータリーが広がっていた。僕の地元、島根県江津市の駅前もロータリーだ。でも同じロータリーって名前でも、江津と中野じゃ全くの別物だった。

 カラフルな看板が一面に広がっていて、その奥には賑やかな商店街が続いていた。街行く人はみんな早足で、車の数も多かった。いや、乗用車の数だけなら江津のほうが多いかも知れない。何よりタクシーの数が多かった。

 スマホを見ると、「もうすぐそっちに着く!」と丸山先輩からラインが届いてた。シェアハウスをすると決めた日に、春輝から連絡先を教えてもらったのだ。駅から家までは先輩が案内してくれるらしく、僕と先輩はここで落ち合う約束をしていた。


 五分ほどして、商店街の奥のほうから異様に目立つ人間が駅のほうに向かってくるのが見えた。遠目でも分かるほど鍛え抜かれた肉体に、これまた遠目でも分かるほどにピカピカのスキンヘッド。そして四月とはいえまだ肌寒いこの季節に、白のタンクトップ一枚。下はボンタンみたいなダボダボの黒いズボンを履いた人間が、こちらに向かってきている。

 ああいう輩とは目を合わせないのがいちばんの得策だ、とか思ってたら、その人は明らかに僕のほうへ向かってきて、そんで僕の前で立ち止まった。周りから見たら、恫喝か恐喝に見えんだろなって思った。

「よお、森。久しぶり!」

「丸山、先輩?」

 約四年ぶりに見た丸山先輩は、完全に怖い人になっていた。でもその声色は、茶道部部長だった時と変わらない優しいものだった。優しく包み込むようなソフトボイスは、聞くだけでリラックス効果があるような気がした。そんでその見た目と声とのギャップが、僕を混乱させた。

「遅れてすまなかった。それで、これ家までの地図。悪いんだけどこれから俺どうしても外せない用事が出来ちまって。本当はしっかりお前を案内してやりたんだけど、一人で先行っててくれるか。俺も用事が終わり次第なる早でそっち行くから」

 丸山先輩は早口でそう言うと、家の鍵と家までの道順が書かれた紙を僕に渡して蜻蛉返りで商店街のほうへスタスタ歩いて行ってしまった。彼が商店街を歩くと、モーゼの海割りにみたいに道行く人が左右に割れた。

 

 仕方なく僕はその地図を頼りに、一人でその家に向かった。丸山先輩の書いたと思われる地図は思いのほか分かりやすくて、家までは簡単に辿り着くことが出来そうだった。一つ気になったのは、目的地である家に「食パン荘」と書かれていることだった。シェアハウスの名前が食パン荘でないことを心の中で祈った。


 目的地に着くと、表札にデカデカと「食パン荘」と書かれていた。白地の壁にクリーム色の屋根。確かに遠目で見れば食パンに見えないことはないけど、だからと言って建物の名前を食パン荘にするものか?しないよな、普通。ここの住人どものセンスを、僕は疑いたくなった。

 玄関の扉は先輩から貰った鍵で開いた。でかい一軒家をそのままシェアハウスにしており、玄関の先にはすぐ二階へと続く階段があった。ここに来る前間取り図を見せてもらったのだけど、玄関の左手がリビングらしい。僕はとりあえず、自分の部屋を見てみようと思った。


 先輩から貰った紙には二◯三号室と書かれていた。僕は二階に上がることにした。家の中は新しくて綺麗で、シンとしていた。でも階段を上がれば上がるほど、何か金属質な音が僕の鼓膜を震わせた。猫が威嚇をする時みたいなシャーッという音は、階段を上がれば上がるほど大きくなっていった。そして二階に辿り着くと、そこには大きな出刃包丁を一心不乱、脇目も振らず研いでいる女の姿があった。

 廊下の床に砥石を置いて、四つん這いみたいな体勢で包丁を研いでる女性の肩には真っ赤な薔薇のタトゥーが入っていて、今にも切り掛かってきそうな気迫は僕を怖気付かせた。


 ひょっとして、この人もここの住人さんなんですか?


僕は不安100、期待0で、この食パン荘の生活をスタートすることとなった。

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