#7

 自室でダリルと話をしてから、かなりメンタルが安定してきた。部屋のカーテンを開けると柔らかい日の光が差し込んできて、それを心地良いと思える様になる程に体調が回復していた。学校を一ヵ月も休んでしまったから今更登校するのが少し億劫に思えたけど、僕にもう迷いは無かった。手早く身支度を済ませると、僕は家を出た。途中、ズボンの上から手を当てて、ポケットに忍ばせたカッターナイフを何度も確認した。


 校門の前まで到着すると、僕は息を飲んだ。これから足を踏み入れようとしている場所は戦場なのだと思うと、恐怖で足がすくんだ。体中から嫌な汗が吹き出し、心臓の鼓動が全身に鳴り響いた。僕は額の汗を袖でぬぐってから、ポケットに手を入れてカッターナイフを握った。カッターナイフの質感や形状を確認している内に、熱を帯びていた頭が少しずつ冷えていく感覚があった。大丈夫、僕は大丈夫だ。


 教室に入るやいなや、久しぶりに登校してきた僕を見たクラスメイト達が何かひそひそと話をし始めた。どうしてこうも他人の事が気になるのか不思議だった。仮に僕が精神を病んでいたとして、君たちに何の関係があるのだろう。本当にくだらない。お前らは、僕の中に存在していない。

 窓際の方に目を向けると、駅で会ったゲイリーが僕の席に座っていた。その前の席にはジェレミーが座っていて、二人で何かお喋りをしていた。今までの僕なら、教室の隅の方で様子を伺ったり、トイレに行くフリをして席を立ってくれるのを待っていたと思う。だけど、もうそんな気を使う必要なんて無かった。僕はゲイリーに近づいて、「やあ、そこ僕の席なんだけど、退いてもらっていいかい?」と話しかけた。ゲイリーは、一瞬こちらをチラと見てから、僕の声が聞こえていないフリをした。ジェレミーもニヤニヤとした悪い表情を浮かべながら、僕に気づかないフリをしてお喋りを続けている。仕方ないから、もう一度聞いてみることにした。

「やあ、そこ僕の席なんだけど、退いてもらっていいかい?」

 僕が同じ言葉を繰り返すと、「ぶっ」とジェレミーが吹き出した。それに釣られたのか、ゲイリーもケラケラと笑い出した。何がそんなに面白いのだろうか。本当に頭の悪い奴らだ。

「邪魔だから退けって言ってるんだけど。わからない?」

 僕がそう言うと、二人は目配せをしあってから静かに席を立ち上がった。ジェレミーはニヤニヤとした笑みを浮かべながら僕の背後に移動し、「お前が来るのを楽しみにしていたんだぜ」と言った。僕が逃げないように囲ったつもりの様だった。ゲイリーは僕に顔を近づけると、「お前、殺すぞ」と言った。その言葉を聞いた僕は、途端に虚しくなった。脅せば僕が怖気づくと思ったんだろう。本当にくだらない奴だ。こいつがこのクラスで一番くだらない。取るに足らない存在。不思議と僕の心はすごく落ち着いていた。奴の命を握っているのは僕の方だという絶対的な位置関係はどんなに喚いても変わりはしない。どうして僕は、こんな馬鹿に臆していたのだろうか。

「やれるものなら、やってみろよ」

 僕はポケットに隠していたカッターナイフを取り出してゲイリーに突きつけた。さっきまで凄んでいた奴の表情が一気に青ざめていった。背後でジェレミーが何かを言いかけた気がしたが、僕にはもう何も届かなかった。そのまま奴の顔面を勢いよく切りつけると、皮膚はまるで抵抗する事も無く口を開け、目が眩む様な赤色の血を吹き出した。奴は悲痛の叫びを上げると同時に、血で濡れた顔を抑えながら倒れ込んだ。僕は足元に蹲った奴の頭を思い切り足で蹴とばした後、背後にいたジェレミーに、「次はお前だ」と言った。逃げ出そうとしたジェレミーの腕を掴んでそれを阻止すると、カッターナイフを奴の首に突き刺した。塗料をぶち撒けたかの様に辺りが赤く染まっていく。教室が騒然とし始め、カッターナイフを持っている僕に気づいたクラスメイト達が悲鳴を上げた。

「どうした!何があったんだ!」

 クラスメイト達の悲鳴を切り裂くように、数学教師のスティーブが声を上げて教室に入ってきた。好都合だと思った。最後はお前だ。

 スティーブは、辺りを見渡して状況を理解した様だった。僕が血に染まったカッターナイフを持っているのを見つけると、「おまえがやったのか」と言って睨みつけてきた。僕は奴がなぜ僕の事を睨みつけられるのかを理解した。奴は勘違いしているんだ。僕はまだ子供で、奴は大人だ。体も何倍も大きい。子供の僕には何もできないって高を括っている。今からお前に自分の立場ってやつを教えてやるよ。

 僕は足元に蹲っていたゲイリーを掴んで無理やり立たせると、カッターナイフを首に突きつけて「おい、スティーブ、今からこいつを殺す」と言った。ゲイリーは泣きながら、「ごめんなさい、先生、助けてください」とスティーブに助けを求め始めた。

「ジュード・ペッパー!やめるんだ!」

 スティーブはそう叫ぶと、案の定突っ込んできた。僕はゲイリーを掴んでいた手を離して、奴を迎え撃った。奴の顔面を狙ってカッターナイフを突き出したが、思っていた以上に奴の方が背が高くて狙いがはずれてしまった。これは、かなりの誤算だった。カッターナイフは奴の頬に当たって、じわっと赤い血が滲んだのが分かった。奴は、「いってえ…てめえ!何しやがる!」と声を上げ、そのまま僕の胸倉を掴んで壁に押し付けた。僕は背中と頭をもろに打った衝撃で、呼吸が上手くできなくなった。心臓の鼓動だけを異常に強く感じた。

 スティーブは目が血走っていて、激情を抑えられない様子だった。僕を殴ろうとして来たのが分かって、咄嗟に持っていたカッターナイフを奴の首に突き刺した。鯨の潮吹きみたいな勢いで血が吹き出して奴の全身を赤く濡らしていった。それでも奴を止める事はできなかった。突然、顔面にひどい激痛が走り視界が白くぼやけて見えた。それで僕は奴に顔を殴られたんだと分かった。奴の勢いに気圧された僕は怖くなって、何度も何度も奴の首を目掛けてカッターナイフを突き刺した。もはや自分でも何を行っているのかわからなくて、ただ目の前で起こる映像を淡々と見せられているような感覚だった。僕は奴に腕を掴まれて、そのまま床に倒れされた。奴は、すかさず倒れている僕の上に乗ってカッターナイフを取り上げた後、何度も顔を殴ってきた。

 しばらくすると、教室に男の先生が三人ほど駆けつけて来て、僕とスティーブはすぐに引き離された。スティーブが何か汚い言葉を叫んでいたけど、全身の痛みがひどくて、もはや聞き取る事すらできなかった。


 僕は先生の肩を借りながら、教室を後にした。どこに連れていかれるのか分からなかったけど、どこでもいいからとにかく早く休みたかった。歩く度に全身に激痛が走って、何度もつまずきそうになった。途中、先生に何度か話しかけられたけど、それに答える気力を持ち合わせていなかった。歩くのに限界が来て廊下に倒れ込むと、先生は僕を背負ってくれた。先生の背中に体重を預けると、張りつめていた緊張の糸が緩んで涙が溢れてきた。殴られて腫れた瞼のせいで狭くなっていた視界が、さらに涙で塞がって、もはや何も見えなかった。


 昇降口に着くと、先生は僕を床に下ろして、「もうすぐ救急車が来る」と言った。僕はその言葉の意味がよく理解できなかった。人を傷つけた僕がなぜ助けられようとしているのだろうか。僕は本当は何がしたかったのだろうか。僕が求めていた強さとは一体なんだったのだろうか。考えれば考えるほど苦しくなって、僕は嗚咽を上げながら泣き始めた。悔しさなのか、悲しさなのか、もはやこの感情が何なのか分からなかった。誰でもいいから教えてほしかった。

「ダリル、僕は本当は何がしたかったのかな?人を傷つけたいなんて、これっぽっちも思ってなかったはずなんだ。どうしてこんな事になってしまったのかな。僕は本当に弱くてずるい奴だ。こんな時でも君に頼ろうとしている。なあ、ダリル、僕って一体何なんだろうな」

 気がつくと、ダリルに助けを求めていた。突然喋り始めた僕の事を怪訝に思った先生が、「おい、君!どうした?誰と話してるんだ?」と言いながら肩を掴んで揺すってきた。それでも僕は、お構いなしに話そうと思った。僕はダリルに確認しなくちゃいけない事があった。

「ダリル、こんな救いようの無い僕でも、まだ友達でいてくれるかい?」

 僕はそう言うと、目を閉じた。瞼の裏側は、一寸の光も無いただの黒色だった。やがて、黒色は渦を作り出し、僕はその渦に飲まれていく。息をする事もできず、どれだけ踠こうとも抗えない。途切れかけた意識の中で、僕はダリルの声を聞いた気がした。僕とそっくりな声で、嗚咽を上げながらダリルは泣いていた。その声を聞いて、僕は全てを理解した。

「もちろんだよ。ダリル・ブラックは最高の友達さ」

 僕は、そう自分で答えた。ダリルは僕だ。僕をカッターナイフで切って開いた中は真っ黒で、そこにダリルが存在していた。

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ブラック・イン・ブラック 関口ユートピア @atelier_bibibi

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