第6話 大作、江戸に現る

 米谷(まいや)から戻ってきて、しばらくは主膳のお呼びがなかった。谷地騒動の評定が何度も行われ、結局は藩内でまとまらず、涌谷城主の伊達宗重が幕府に調停を訴えた。上訴である。

 1671年(寛文11年)1月、まずは訴えた宗重の代理として柴田外記が老中の板倉に呼ばれた。

 3月、大作は茂庭主膳に呼び出された。

「大作、江戸に行ってくれ。藩内で解決できず、一の関公の思惑どおり幕府の裁定を受けることになってしまった。涌谷殿はまんまと策にはまってしまった。その裁定の様子をつぶさに見てきてほしい。相手は幕府の忍びであるぞ。心してあたれ」

「まさに隠れ仕事ですな。わしの他にもおりますでしょうな」

「うむ、ご家老もおそらく出しておろう。無論、一の関側もおるだろう。敵だらけだぞ」

「はっ、わかり申した。心してあたります」


 3日後には、大作は江戸にいた。早馬を乗り継いで無休でやってきたのである。

3月7日、老中板倉邸。大作は前日から屋根裏に忍んでいる。そこにもう一人忍びがやってきた。大作は気配を隠して、柱の陰にかくれていた。そこに、その忍びが近づく。その背後から首に抱きつき、眠り薬をかがせ、一瞬で首の骨を折った。刀を使うと後でややこしくなる。屋根裏の隅に死体を置き、詰問の部屋の屋根裏に向かった。

 老中板倉による詰問が始まった。呼ばれているのは、伊達宗重・柴田外記、そして原田甲斐である。

板倉「まずは、宗重殿。そちらの話を聞こう」

宗重「谷地の土地は元々涌谷領であった。それを登米の宗倫(むねとも)殿が、勝手に領地を拡げ、関所まで設けた次第。そこで領地検分を奉行に任せたが、登米の息がかかった奉行がいい加減な検分をいたした。そこで、藩だけでは解決できぬということで幕府に上訴にいたった次第。ひとつ確認をお願いしたいのだが、この件はあくまでも涌谷と登米の争い。藩主綱村公には一切かかわりないことをお認めいただきたい」

板倉「それは承知。綱村公はまだ幼年。藩に責があるとすれば、後見の二人にいくであろう。それでは本題に入ろう。なぜ、検分などしたのだ。最初から相手にせねばよかったのに」

宗重「それは、涌谷と登米で谷地の地に関する取り決めがあったと申す者がいたからである」

板倉「それはだれであるか?」

柴田「古内志摩という者でござる」

板倉「原田殿、相違ないか?」

原田「そう聞いております」

板倉「それで、検分に入ったのだな。取り決めがあったという証拠はあったのか?」

柴田「いえ、蔵のどこかにあるということでしたが、見つかりませんでした」

原田「登米にはあったという申し出がありました」

板倉「その文書は?」

柴田「それが、登米の蔵は火事にあってしまい、焼けてしまったとのことです」

原田「火事にあったのはまことです。文書の所在は古内だけでなく、他の奉行も確認しております。そこで、検分をすることになった次第」

柴田「その奉行たちも皆、口裏を合わせたにすぎん。それで検分でも登米に有利な裁定を行ったのだ」

板倉「検分の奉行はだれが決めたのじゃ」

原田「ご後見のお二人です」

板倉「ということは宗勝公の意思が大きく左右したということだな」

原田「あくまでもお二人の裁定です」

板倉「力関係は宗勝公が上であろう。田村殿は年下でもあり、言うがままと思われるが」

宗重「藩内ではそういうことが多々あります」

板倉「それにしても、古内の話を聞かねばならぬな。古内を召し出し、後日また詰問の機会を設ける。江戸屋敷にて待て」

 ということで、その日の詰問は終わった。

 大作は、先ほど倒した忍びを運び出し、堀に埋めた。これで遺体は見つからない。


 3月27日、また板倉邸に呼ばれた。ところが、到着する早々、側用人から

「本日の詰問はここではなく、大老の酒井忠清公のお屋敷になりました。今からご案内申しあげます」

 と言われ、3人と江戸留守居役の蜂谷可広(よしひろ)は籠で場所を移動した。大老の屋敷につくと、そこには酒井大老はじめ5人の老中が待っていた。

 大作は、事前に忍びこむことができなかったので、屋根裏に入るのが一苦労であった。庭から廊下に入り、そこから屋根板をはずし、屋根裏に入る。すぐには動かず、人の気配をさぐる。すると、手裏剣がとんできた。一本手裏剣である。

(柳生か、幕府方の忍びだな)

柱の陰に隠れて、気配を隠す。すると、向こうが近寄ってくる。二人いる。大作は闇に目を慣らして、相手の動きが分かるようになった。まずは、近づいてきた一人の背後にまわり、口をおさえ、相手の首筋の急所に長い針を突き刺す。一瞬で息を引き取る。抜くと血が噴き出すので、針はそのままにする。

 もう一人のしのびは動かない。そこで、煙玉を破裂させる。下では

「火事だ!」

 と騒いでいる。だが、煙はすぐに消える。下の騒ぎはすぐにおさまった。しかし、敵のしのびが動いた。おそらく応援を呼びにいこうとしたのだろう。そこに、大作の手裏剣が飛ぶ。小柄(こづか)を改造したもので、先端には毒を塗ってある。一発で敵にあたり、おとなしくなった。これでやっと詰問の間の屋根裏にいくことができるようになった。

 奥の客間にて詰問が行われていることがわかった。先ほどの火事騒ぎで、始まるのが遅くなったようである。上段の間には酒井大老を中心として5人の老中が座している。もちろん板倉もいる。下の間には伊達宗重、柴田外記、原田甲斐そして聞き役として蜂谷可広がいる。

板倉「先日、古内志摩を問い詰めたところ、取り決めの文書はなかったと認めた。ということは、だれかが画策したということだが、いかが?」

原田「我らは、古内をはじめ見たという奉行衆を信じたまで。今になってそれが虚偽だと言われても困りまする」

酒井「そういう騒動をおこした責任をだれがとるのじゃ?」

宗重「それは先日、ご後見のお二入がとると板倉様がおっしゃいました」

酒井「板倉、それは本当か?」

板倉「そ、それはあくまでも拙者の意見であり、幕府の見解ではござり申さん」

酒井「そうであろうな。幕府の見解ではない。騒動の責は藩主にあり。それが常識じゃ」

宗重「そんな・・」

酒井「なにか異論があるか。まぁよい。しばらく5人で協議するゆえ、別室にて待て」

 ということで、4人は部屋を移った。そこでは、だれもが無言であった。もしかしたら幼い藩主が責を受けるやもしれぬ。最悪の場合、伊達藩の改易になるやもしれぬ。そう思うといてもたってもいられぬ雰囲気となった。

 大作は、その緊張した雰囲気を屋根裏で感じ取っていた。すると、突然、原田甲斐が脇差を抜き、

「宗重殿、ご覚悟!」

 と言って、宗重の胸を刺した。宗重が座ったまま後ろに倒れる。血が噴水のように飛び出ている。原田は返り血をあびて、顔や裃が赤く染まっている。そして、老中たちがいる部屋に向かおうとする。

 大作は一瞬のでき事を屋根裏のすき間から見ていて、思わず声を発するところであった。

 そこに、蜂谷が原田を止めに抱きつく。それで原田は蜂谷に斬りつける。蜂谷が肩から袈裟ぎりにあうが、脇差で斬られたので致命傷とはなっていない。そこに、柴田外記も脇差で斬りかかる。2度3度と刃を合わせる。

 そこに、3人の侍が飛び込んできた。廊下に控えていた酒井家の家臣である。3人は大刀で原田と柴田に斬りかかる。脇差と大刀では勝負にならず、原田と柴田は倒れた。騒ぎを聞きつけた酒井忠清がかけつけてきた。

「なんだ、この騒ぎは!」

 と怒鳴ると

「はっ、控えの間で急に斬りあいが始まりました。屋敷内で刀を抜くなどもっての他ゆえ成敗いたしました」

 と家臣が応える。

「なんたること!」

 酒井は大きな声をだして嘆いた。別の家臣が

「二人はまだ息があります!」

 と、声を発する。柴田と蜂谷はまだ生きていた。

「えーい、隣の宇和島藩邸に運べ!」

 ということで、二人は戸板に乗せられ、宇和島藩邸に運ばれた。宇和島藩は政宗の長子秀宗が藩祖の伊達藩の支藩である。柴田外記はその夜、蜂谷は翌日に亡くなった。

 騒動のあらましを見届けた大作は、茂庭主膳に報告すべく、屋敷を後にした。が、庭に出てところで数人の忍びに囲まれた。お庭番と言われる忍びの集団である。おそらく伊賀者。十字手裏剣がとんでくる。そこを忍び刀で防ぐ。入れ替わり立ち替わり切りかかってくる。そこに、一本手裏剣が飛んできて、敵の一人が倒れた。伊達のしのび集団、黒はばき組が使う手裏剣だ。だれかが分からぬが、お庭番と戦う大作を見て助けてくれたのだろう。もしかしたらご家老が派遣した忍びかもしれぬ。そこで、煙玉を破裂させて、大作は庭から抜け出した。最後の1個であった。


 3日後、大作は茂庭主膳の前にいた。疲れはてた顔をしている。

「大作、ご苦労であった。して、どうなった?」

 という主膳の話を受けて、見てきたことをこと細かく話した。

「そうか、原田殿は悪役に徹したか。これで藩は安泰だな」

「それはどういうことですか? 綱村公の責はなくなるのですか?」

「原田殿は一の関公の奉行じゃ。となると悪いのは一の関公となる。綱村公ではない。ましてや幼年で何もわかっておらん。よって藩は安泰じゃ」

「ということは、原田殿はみずから狂気をよそおって、涌谷公を斬りつけたということですか」

「そうだ。藩を残すためにな」

「なんともお痛わしいこと。己れの身を犠牲にして藩を救ったということですか」

「実直な原田殿らしい。冥福を祈ろうぞ」

 と二人で手を合わせた。


 後日、幕府から沙汰があり、藩主綱村は幼年のためお咎めなし。騒動の発端となった一の関藩は改易。藩主伊達宗勝は他藩へお預けの上、蟄居。奥山大学も蟄居閉門。検分で問題のあった奉行は放逐。原田甲斐の一族は男子は切腹。家族は他家へ預かり。一の関藩は伊達藩本家領となった。一の関藩士のほとんどは伊達本家に採用されることとなった。

 登米の伊達宗倫は隠居を強いられ、谷地の地は涌谷領となった。宗重の子宗元(29才)が継ぐこととなった。

 これにて伊達騒動は一応の終息を見たのである。大作は、しばしの休暇を得、鳴子の湯で療養の日々を過ごすことができた。


おわりに


 伊達騒動のことは、はっきりとはわかっていない。一の関公の裏に大老酒井忠清がいて、宗勝が藩主となる画策をしていたという話もある。また歌舞伎の世界でも題材となり、広く知られている。だが、大老の屋敷内で起きたことであり、幕府の意向で創作された可能性は大きい。そういうことも含めて、自分なりに解釈して書いたのが今回の作品である。

 船岡城址は今、花見の名所である。サクラの時期は一目千本桜と言われる川沿いのサクラ並木が見事である。ぜひ一度訪れてほしい。私が愛する蔵王百景のひとつである。    飛鳥 竜二

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隠れ目付真田大作 飛鳥 竜二 @taryuji

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