真夜中の訪問者
百舌すえひろ
真夜中の訪問者
――ガチャ……ガチャ、ガチガチッ……
鉄の扉一枚隔てた向こうで、誰かがドアノブを回している。
深夜二時。
救急車や酔っぱらいの罵声が飛び交う商店街の裏道に、築三十年を超える四階建てのマンションが建っている。
私は三階の角部屋で、布団に包まって震えていた。
知らない誰かがこの部屋に入ろうとしている――
目が覚めて布団の中で身を強張らせたが、十分ほど扉を凝視していると音が止んだ。
数分時間を置いてから、ゆっくりドアスコープを覗きに行ったが、外廊下には誰もいなかった。
「部屋の選択、早まったかな。治安の悪いとこに来ちゃったのかな」
布団に戻るとひとりごちてみた。
寝てる間にまた侵入を試みられたら嫌だなとか、知り合いに電話をかけてしまいたい衝動に駆られたものの、時間も時間なので無理やり眠った。
四時間後には無理やり起きて出勤した。
上手く眠れなかったせいかスッキリせず、あまり仕事に集中できなかった。
終業ベルが鳴った時には、一人で家に帰るのが憂鬱になった。
昨晩のあれは、扉をノックすることなく深夜に大きな音を立てて扉を開けようとしていた。
隣か、上の階の住人が勘違いして来たのかなと、一瞬思った。
一ヵ月前に引っ越した時、小さな菓子折りを用意して挨拶回りをしようとしたところ、鍵を渡しに来た不動産屋の担当者から「女の独り暮らしだと知られては、どんな危険な目に合うかわからないので、隣近所への引っ越しの挨拶はしなくていいですよ」と注意された。
そのため同じマンションの一、二階に住んでいる大家への挨拶だけにとどめた。
だから隣の部屋の住人がどんな人間なのかはさっぱりわからない。
過去の自分の選択肢を思い起こす。
1、ガスコンロが使えること
2、部屋の位置は二階以上
3、生活音がなるべく聞こえない鉄筋コンクリート造で
4、できたら角部屋
5、四階以上でエレベーターがないこと(共益費が安くなること)
この条件、特に最後の一つを満たそうとすると必然的に築年数が古い建物に絞られた。
あのことが起こるまでは、この部屋は会社から近くて家賃が安く抑えられたので後悔はなかった。
でも今、自分は何をまずったのか、必死に頭の中が間違い探しを始める。
『近所への挨拶をしなかったからダメだったのか?』
『大家への菓子折りが安かったからか?』
『隣に住んでる年金受給者の洗濯物を拾って届けたからか?』
そこまで思い出してみて、お隣はお婆ちゃんの独り暮らしだったことに気付いた。
『であれば、あんな深夜二時に部屋を間違えたとかでは来ないのではないかな。勝手な思い込みだけど、年配者は早寝早起きが体質になるって言っていたような』
『うーん、今晩もあんなことが起こったら、本気で警察かな? いや、まず下の階の大家へ連絡だろうか』
頭の中はぐるぐる考えながら階段を上った。三階の外廊下に出る。
廊下の端、つき当たりの部屋の前に白いビニール袋が掛かっていた。
私は一瞬息が止まる。そこは私の部屋だった。
会社の知人は私の住んでいる場所を知らない。
家族も友人も近くに住んでいない。
私の部屋に直接物を届ける人間など、配送業者以外はいないはずだった。恐る恐る部屋に近づく。
小さなビニール袋は白菜一つを丸々入れ、みちみちに伸びていた。
今朝、部屋を出た時は何もなかった。
私が仕事に行ってる間に、誰かが白菜を玄関扉に掛けて行ったようだ。
ビニール袋の取っ手をドアノブから外して玄関の中に入れた。
正体不明の誰かが気味悪く、とても白菜に手を付ける気になどなれないので、ビニール袋のまま靴箱の隣に白菜を立てかけておいた。二、三日したら捨てようと決めて。
目が覚めたのは夜中の二時だった。
なんで目が覚めたのかわからなかったが、なんだか気分が落ち着かなかった。
とりあえずトイレに行っておこうと布団から出ると、昨日のことがあったせいか、無性に玄関扉が気になった。
何もないと思いながらドアスコープを覗くと、人が立っていたので心臓が止まるかと思った。
ドアスコープの前で息を潜めて張り付いていると、外の黒い人影はドアスコープの下あたり、扉にじりじりと頭を寄せてきた。
近すぎて顔も全体も見えない。
私は静かに扉から離れようとすると、ぼそぼそと声が聞こえた。
あれは何かを言っている。
驚きと恐怖で混乱した私は、ただ音を立てないように気をつけながら、ドアスコープのすぐ下あたりに自分の耳をそばだてた。
男の低い声がした。
「豚肉、豚バラをつかえ」
十六時間後、白菜は何も知らない大家の食卓を彩った。
真夜中の訪問者 百舌すえひろ @gaku_seji
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