第5話

 さて、正常がそこに存在するならば、これは当たり前の道理だが、異常というものも、確かに存在し得るということになる。

 この場合の異常は、僕が佐藤の前を歩くことになるのだろうが、仮にそれがどんな異常であれ、異常というものは、ほぼ例外なく事件を引き起こす。

 これについては、あくまで僕の経験則でしかないが、異常が起こった時、大抵それは、ろくでもないものを呼び寄せてしまうのだ。

 だから、正常であるということは、月並みな物言いだが、とても大事で、とても幸運なことなのだ。

 ただ、この時の僕にとっては、それは全く知る由もないものだった。

 何が正常で、何が異常であるかなんて、実は過去を振り返ってから初めて評価できるもので、その渦中にいる人間にとってみれば、これは全く知りようのないことだ。

 人は誰しも、自分の周囲で起こることならば、それが何であれ正常だと思い込みたいものだし、それが自然にそこにあるのならば、ある意味で、異常すら正常だと言えるかもしれない。

 現実に起こったのなら、それはファンタシーな異常ではなく、確かにそこにある正常なのだと。

 こういう心の動きを正常性バイアスと、世間ではいうらしい。

 正常であること、当たり前であることに縛られる、バイアスがあるというのは、考えてみればぞっとする。

 今ここにある当たり前は、何もごく自然にその場にとどまっている当たり前、正常ではなく、ただそこに縛られて、動くことができず、何処にも行くことを許されないという意味での当たり前だったなら。そんな不自由な当たり前だったなら。

 そう思い返してみれば、僕の日常も案外、不自由の上で成り立つ正常だったのかもしれない。

 不の上に正が成り立つというのは、字面としては面白いが、存在として度し難い。

 当時の僕が、学校に行く以外の選択肢を、ほとんど奪われていたのと同じように、いや、別に行かない選択肢がなかったわけではないのだけれど。

 しかし、世間体がそれを許さない、というより、僕の心がそれを許さなかったという方が正しいかもしれないが、とにかくそうやって、僕は選択する権利を剥奪され、あるいは自ら手放し、不自由というぬるま湯の中に、正常という名の楽園を築いていたのかもしれない。

 そう考えれば、僕が当時、あの日常を退屈だなんて考えていた理由がわかったような気がする。

 不自由の上に成り立つ日常が、縛られた状態にある日常が面白いわけがない。

 そんな、誰かしらから飼い慣らされ、餌を与えられ続けるような日常なんて、酷くつまらないし、くだらない。

 案外、これが当時の僕が、日常を退屈に感じ、今の僕が、人生をくだらないと断じている、本当の理由なのかもしれない。

 僕の人生は、思えば退屈で、くだらなくて、何の面白みもない不自由なものだった。

 今は心底そう思っている。

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くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて 座敷アラジン @zashiki_aladdin

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