眼鏡

おいげん

第1話 メガネ

 袖口で拭いた眼鏡が、酔いつぶれた初老の男性に踏みつぶされた。


 JR常磐線の車内は、茨城県の取手駅を越えると客層が変わる。

 郊外に家を持ち、都内から戻る会社員は軒並み千葉県で降りていく。

 だが県を跨ぐと雰囲気は一変する。

 

 鉄の匂いと汗の匂い。更に言えば書類と革鞄の香りが千葉県を通過している間は濃密に充満しているのだ。

 

 軽い金属音と共に、ワンカップの普通酒を開ける男たち。

 彼らは暖かい車内で銘々に寛ぎ、周囲の迷惑を省みることなく自己陶酔に耽る。

 安いアルコールの臭気が車内に広がっていく。


 歪んで割れた眼鏡を拾い、かろうじて無事であったつるを耳にかける。

 視界に映る世界は、日常の風景よりも滲んで見えた。


 乾物をくちゃりと噛みしめる音が聞こえる。いつ誰かが吐瀉しても違和感がない車内は気分のいいものではない。

 

 だが半ば裸眼で映す灰色の箱の中身は、なぜか鮮烈に見える気がした。

 釣り輪に捕まり、酒宴を催す彼らを見渡す。

 

 なぜだろうか。

 普段は毛嫌いし、鼻を摘まむほどに垢臭い男たちが、妙に楽し気に思えた。

 何の変哲もない眼鏡はクリアな世界を与えてくれる。

 けれど、本当に目で見たものだけが真実だろうか。

 

 砕けた眼鏡をそっと懐にしまい、カバンから缶ビールを取り出す。

 見えていないものが、今は見えるかもしれない。

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眼鏡 おいげん @ewgen

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