朱殷
犀川 よう
朱殷
同い年で同性の彼女からのメッセージはいつも突然だった。しかしそれは、彼女にとっては必然な儀式に、私が招かれた事を告げる、無視できぬ恋文だった。私は小さく溜息をついてから、午後の講義を抜ける為に、机の上の物をひとつひとつ片付けた。隣にいる友人が目立ぬように中腰で席を立つと、私は視線で謝罪の意を送りながらすり抜けるように離席し、教室の後側のドアまで歩いた。小テストの時間だったのが幸いして、私を咎める人は講師しかおらず、彼が言葉を出す前に教室を出ることができた。長い廊下には誰もおらず、私はバックを抱えながら静すぎる回廊を駆け抜けた。
突き当たりのトイレまで着くと、私は周囲を見渡した。遠くから何人かの声が僅かに聴こえてくるだけで、人の気配は感じられなかった。慎重にトイレのドアを開け、もう一度同じように同じものを探ると、洗面所には誰もおらず、個室のドアが一つしか閉まっているだけで、晩秋の寒さだけがこの空間を満たしていた。私はその唯一閉まっている一番奥のドアに近づくと、沈黙を邪魔せぬよう、小さな音にするべく軽くノックを繰り返した。すると、私の四回目のノックに重ねるように、扉の向こうからドアを蹴るような大きな音がした。私がその聞き分けの無い駄々を受け流すように沈黙をしていると、諦めたのかドアの鍵が開く音がした。私はそっとドアを開けると、待ちくたびれたような顔をした彼女が座ったまま、私を見上げて睨んでいた。
「遅い! 早く来ないから、黒くなっちゃったじゃない」
「ごめんなさい。これでもすぐに来たんだよ」
私は床に落ちていたシュシュを拾って彼女を見た。彼女は小さい子供のような拗ねた顔をしていた。私は彼女を宥める為に中に入り、ドアの鍵を閉めた。
「もっと早く来てよ」
「そうね。今度からそうするわ」
私は彼女の左手を眺めながら言った。
「せっかく切ったんだから、滲み出しているところを見て欲しかったんだよ」
「ごめんなさいね。もし、できるのだったら、する前に呼んでくれると嬉しいな」
「したよ。だけど、来るのが遅いから、待てなかったんだもん」
彼女は左手を私に差し出した。最初は赤い色の筋であっただろう血の色が鉄錆色に濁っていて垂れていた。私はトイレットペーパーでそれを拭こうとする彼女を制止しながら、バッグからハンカチを取り出し、それを当てた。すぐにでも洗面所に連れて行きたい気持ちを抑えながら、彼女を抱きしめた。
「安心して。こんなことしなくても、私はあなたから離れないわよ」
彼女は何も応えず、私の胸元に顔を埋めてイヤイヤをした。私はそれが収まるまで彼女と彼女の左手を包み込んでいた。彼女が赦してくれるまでの間、中腰の辛さに堪えながら付き添っていた。この憎らしく可愛い悪魔が人に戻るまで、そうすることが唯一の解決方法だったのだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。彼女から泣き声が聴こえてきたので、私は鍵を開けて彼女を狭く薄暗い世界から連れ出した。彼女が立ち上がると、彼女の背にある貯水タンクの上には、彼女が持つには似合わない武骨な形のカッターが置いてあった。私はそれを拾う手が埋まっている事に、僅かな不安があったが、優先順位を考え、洗面台で彼女の我儘の痕を洗い流す事にした。新たに流れてくるものはもう無いようで、汚れた場所を綺麗にする事に専念できた。彼女はされるがままでいて、視線を自分の過失の跡地に落としたままだった。トイレには水が流れる音だけがしていた。私は冷たさを我慢しながら彼女の左手を洗っていた。洗面台には私達女性の別の箇所から流れるような色がついていて、私達が生きている証を見せつけていた。
洗浄が終わると、手持ちの軟膏を塗り、ガーゼを当てテープで固定した。それらの道具は彼女の為に私が常に持っているものだった。粗方の始末を終えると、私のシュシュを彼女の左手に潜らせた。私は僅かにガーゼがはみ出してしまった事に、少しだけ失望してしまった。
「手を離すよ。少しだけ、離れるからね」
「嫌」
「カッターを取りに行かないと」
「なんで?」
「なんで、だろうね」
私は仕方なく、濡れた手で彼女の右手を握りながら先程の場所に戻った。彼女は黙って握られたままついてきた。何年か前、夏祭りで迷子になった小さな女の子の手を引いて親を探した記憶が蘇った。その時に感じた愛おしさが段々と込み上げてきたが、貯水タンクの上の凶器を見ると、そんな想いはスッと綺麗に流れ去ってしまった。私はなんとか片手でカッターの歯をしまう事にした。段ボールを切るための大きなカッターがカチカチという威圧的な音を立てた。幸いタンクの上は汚れておらず、私は自分のバックにしまい込むだけで片付けを済ます事ができた。ようやく、私は自分の手を拭く時間が与えられた。
「終わったよ。じゃあ、どこか行こうか?」
「どこに?」
「あなたは、どこが良い?」
「わかんない」
「じゃあ、私の部屋に行こうか」
「今度はちゃんと最初から見てくれる?」
「傷が治ったら、一緒に考えようね」
「嫌、今、約束してくれないと嫌」
「わかった。約束する」
「本当?」
「本当だよ。だから、今度は私の部屋でしようね。私、ちゃんと最初から見てあげる。あなたが怖がりながらも刃を当てるところから、あなたを見てあげる。それから、カッターでもカミソリでも一緒に持ってあげるから。私も加害者になってあげるね。で、切り口から赤い色が滲み出るのを見て欲しいんだよね? 大丈夫。一瞬たりとも目を離さない。あなたからの手首から流れるものの色が、赤から
彼女は迷子なのだ。それも、夏祭りに会った女の子のように帰る場所がある訳でもない、無限の迷子なのだ。何処に帰るのかを問う事が、この痛ましい行為よりも彼女を傷つけてしまうくらいに、悲しい人なのだ。
彼女は安心したのか、ようやく泣くのをやめた。私はもう一枚持っているハンカチを彼女の顔に軽く当てて、「じゃあ、私の部屋に行こうね」と言った。彼女は小さく頷いた。
私は知っていた。どんなに私の部屋で彼女を慰めても、彼女はまた、この場所で彷徨う嘆きを繰り返す事を。だから私は、今度はせめて朱殷の時までには駆けつけてあげようと、彼女には告げずに、あのカッターを思い浮かべながら、自分の胸の中に誓いを刻み込むのだった。
朱殷 犀川 よう @eowpihrfoiw
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