イギリス式の膝枕は生足らしい

 あれから夕飯と風呂を済ませた圭太郎は、リビングで待っていたソフィアにお次はどうぞと声をかけると、風呂に向かうソフィアと入れ替わる形で、いつものソファにぼすっと勢い良く座り込んだ。

 すぐさま背もたれに背中を深く沈み込ませて、そして、点けっぱなしのテレビの方へと視線を向ける。

 流れているのは動物の映像だった。内容は五匹の子犬がわちゃわちゃとじゃれ合っているもので、それはそれはとてもとても和む代物だった。

 しかし今の圭太郎には、その子犬たちを見て可愛いなぁとか、癒されるなぁとか、そういった類の生温かい感情にじっくり浸っている余裕は無い。


 今、圭太郎は緊張していた。心臓が速鐘を打ち始めていた。

 何故かと言うと、それは勿論、この特異なシチュエーションのせいだ。

 風呂上がり、お次はどうぞと声をかけて、相手がシャワーから上がってくるのを自分はテレビを眺めながら、そわそわしながら待つ。

 圭太郎はこのシチュエーションが、すこぶるまずいものな気がして、ならなかったのだ。


 だってもう、これあれだろ。あれする時の状況だろ。完全に。

 圭太郎の湯上がりの頭が、湯冷めする事なく、むしろ更に茹だっていく。


 圭太郎は別に、純真無垢という訳では無い。そういった事に微塵の興味も無いだなんて、そんな少年漫画の主人公じみた黄金の精神は備えていない。人並みに興味関心はあるのだ。

 だからこそ今のこれが、そういう時のシチュエーションとしか思えなかったので、圭太郎は変な緊張をしてしまっていた。


 綾坂圭太郎、馬鹿かお前は。違うだろ、膝枕だ。

 ソフィアが風呂から上がってきたら、その次に行われるのは膝枕であって、膝枕でしかない。

 だから、変な事は考えるな。何でも下ネタに変換する思春期の男子か、お前は。いやそうだけど。思春期の男子だけど、十六歳の健全な男子高校生だけども、限りなくそうだけど。


「んの変態野郎が……っ!」


 圭太郎は多少激しめに頭を揺らして、己の内で燻っている煩悩を弾き出そうとする。

 だがそれだけでは足りないので、視覚情報を使って、心を落ち着けようとした。つまり圭太郎は、可愛い動物たちに癒して貰おうとした。

 圭太郎はテレビへと意識を戻す。そこに映っていたのは、


(さっきの子犬の映像との落差どうなってんだよ……。この番組の構成を考えたやつクビにしろ)


 ライオンが交尾している映像だった。

 今最も圭太郎が目にしたくないジャンルの、AVアニマルビデオだった。

 ライオンの雄には交尾の拒否権が無いとか、一日に五十回も行うとか、そんな解説いらないから。動物番組なんてものは、可愛い映像だけを流しとけよ。大衆はそれを求めてる筈だ。


 二分後に話が変わって、またほんわかとした可愛い動物たちの映像へと戻った。

 だが、時すでに遅しと言うか、その映像の癒し効果とライオンの交尾のどちらが圭太郎にインパクトを与えたのかは、言うまでもないだろう。

 くそったれ、と目を閉じたが、五感は一つ欠けると他が研ぎ澄まされるものなのを、すっかりと圭太郎は忘れていた。

 ふと聞こえてきたのは水の音。浴室はまあまあ離れている筈なのに、圭太郎の敏感になった聴覚はそれを捉えてしまったのだ。ソフィアのシャワー音を。


 これはまずいと、圭太郎は即座に目を開いて、机の上からリモコンを掻っ攫って、チャンネルを変えた。

 ニュースにした、堅苦しい報道番組に。どこどこの国で何があったとか、大企業の不正とか、痛ましい事故とか、そういう気が落ちるニュースの方が、今の圭太郎の心情にはそぐうものだった。冷静さを取り戻すのには、良いものだった。

 世界はかくも残酷なのかと、悲しい現実に圭太郎が当初の思惑通りに気落ちしていると、やがて足音が聞こえてきた。


 ソフィアが風呂から上がってきたようだ。


 ニュースにより平静を取り戻した圭太郎は、先程までの心臓バックンバックンから一転して、ドキドキ程度に収まった鼓動に、まずはホッと一安心した。

 さっきまでの自分ならば、ソフィアにそれは情けない顔を見せてしまっていた事だろう。挙動不審な自分の姿が、ありありと脳裏を流れる。


「圭太郎、お待たせしました」


 と、聞こえてきたソフィアの声に、圭太郎はテレビから視線をゆっくりと外して、余裕のある所作で顔を上げる。

 しかし、すぐにその余裕は崩れた。


「ぶはっ?!」


 と、思わず盛大に、圭太郎は吹き出す。

 そこに立っていたソフィアに、その格好に、たちまちの内に冷静が吹き飛ばされた。三匹の子豚の藁の家みたいに、あっという間に。

 圭太郎は目を指で隠しながら、


「下はどうした!?下はっ!?」


 と、ソフィアに向けて、迫真な様相で言う。

 そう、ソフィアは下を履いていなかった。いや多分、履いてるとは思う。ただ、圭太郎の視点からはまるで見えない。

 今のソフィアは上にはサイズ大きめのパジャマを着ているのだが、その裾から下は生足でしか無かったのだ。

 言ってしまえば、シュレディンガー状態である。履いてるのか履いていないのか、それがまるで分からない。

 風呂上がりだからだろうが、ソフィアが紅潮した顔で、少し恥ずかしそうに、されど自信満々に、


「圭太郎、安心してください。パンツは履いてます。か、確認しておきますか……?」


 と、パジャマの裾をつまみながら首を傾げて尋ねてくるが、そこに安心出来る要素は欠片も無かった。


「……し、しない、しないからっ!まずズボンを履け、ズボンをっ!」


 一拍の間を置いた後に、圭太郎はブンブンと首を振って、必死にそう答えた。

 あ、危なかった。一瞬食い気味に頷きそうになった自分がいた。

 圭太郎の言葉に、ソフィアは毅然と首を振る。


「膝枕をするのに、ズボンは無粋です」


 無粋って何が!?


「イギリスの膝枕は生足式です。ズボンなどを履いてする膝枕は、法に触れます。生足以外は違法膝枕です」


 憲法第何条の第何項に触れるんだよ、それ……。

 とは言えど私の国ではこうです、と主張されると圭太郎は弱い。郷に入っては郷に従え、と言ってもいいが、それが違う国では普通なら、頭ごなしに否定するのも違うだろう。

 そういう他者を認められないという考えが先程のニュースに流れていたような、悲しい出来事を引き起こすのだ。


「……そうなの、か」

「はい、そうなんです」


 ソフィアが圭太郎の隣に座りながら、食い気味に強く頷いた。


「ということで、ほら、来てくださいっ」


 ソフィアが自分の太ももをぽんぽんと叩き、圭太郎をそこへと誘う。

 生足だ。生の太ももだ。風呂上がりの、血色の良くて、温かそうな、肌触りの良さそうな、肉付きの良さそうな、健康的な太もも。

 ごくり、圭太郎の喉が音を立てた。


「……失礼します」


 ええいままよっ、と圭太郎は横向きに倒れる。

 約束したのだから、膝枕はしないといけない。それに据え膳食わぬは男の恥なり、なんて言葉もある。いや、それは違うか、全然。


 ぽすん、と頭を乗せたつもりが、むにゅ、という感じがした。押せばどこまでも沈んでいきそうな弾力が、顔の右半分を呑み込んだ。

 肌荒れ一つないスベスベとした、ソフィアの太もも。

 石鹸の香りだけでは無い甘い香りもして、何と言うか、


(……これはまずい、大いにまずいぞ……)


 圭太郎は己の心と葛藤していた。

 膝枕ってものは、こんなに凄いのか。多分、天国と呼ばれている場所は、ここに比べたら断然地獄だと思われる。

 開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまった時の気分だった。


「ど、どうですか?」


 さらりと髪に触れたソフィアの指。

 どうですか、と言われても、そんなのは、


「……最高、です」


 としか返せなかった。

 ここで虚勢を張る事など、圭太郎には出来なかった。否、この世界の誰にも出来ないだろう。


「えへへ……良かったです」


 聞こえてくる、ソフィアの声。

 圭太郎には表情は見えないが、太ももに負けじと柔らかい声だった。


「なら存分にしてあげます。圭太郎が望むなら、いつでもどこでもしてあげますからね」


 と、続け様にソフィアから放たれた言葉には、圭太郎は、


「……その時は、まあ、うん、頼む……」


 なんて、ありがたく受け入れる事しか、出来なかった。

 結局、就寝時刻まで圭太郎はソフィアの膝枕を堪能した。

 圭太郎が自分の部屋へと戻り、ベッドに寝転がり、愛用の枕に頭を乗せると、そこからは物足りなさしか感じなかった。

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ホームステイの正しい和訳とは、結婚であるらしい。 新戸よいち @yo1ds

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