バニーのあな

松原凛

バニーのあな

 クローゼットの奥に、女の人が横たわっていた。それは実際にはほんものの人ではなく、人形だったのだけれど、暗がりで、物音ひとつない場所で、私には一瞬、そう見えた。

 人形には耳が四つあった。ふたつは人間の耳、もうふたつは頭の上の黒いうさぎの耳。黒目はビー玉のようにつるりと光り、ピンク色の頰や唇が柔らかな質感を醸しだす。水の流れるように滑らかな黒い髪に、ストラップのない黒いシルクのワンピース。いまにもこぼれ落ちそうなふたつのおわんのような胸と、むきだしの白い二本の足。足と足のあいだには、穴があった。凹凸のある、暗くて冷たい洞窟のような、どこまでも続いていそうな深い穴だった。


 ウイィーンと自動ドアが開いて人が入ってくるとき、私はいつも妙な緊張感を覚える。

 先輩じゃありませんように。私はそこにいない誰かに懇願するように思う。でもほんとうは、その逆も願っている。先輩だったらいいのに。先輩が入ってきて、私を見つけて、あっと驚くところを見たかった。あの穏やかな先輩の顔がどんな風に変わるのか、私はその瞬間をひっそりと心待ちにする。

けいちゃん、これ、あっちの空いた棚に並べといて。あ、新商品のポップつけてね」

 接客を終えた店長が、段ボール箱を渡してくる。中には、大量の女性器が入っている。もちろん本物ではなく、局部を象ったシリコン製の模造品なのだが、この見た目がなかなか強烈なのだった。箱の中身が丸見えで、そのひとつひとつがまるで生命をもっているかのように目の前に迫ってくる。一見おしりのような形をしている先端に、びらびらしたひだと亀裂がある。自分のそれもたぶん似たような構造になっているはずだが、まじまじと見たことがないのでよくわからない。ほんとうにこんな形をしているのだろうか。そこだけを切り取って目の前に突き出されると、そのグロテスクな威力につい怯んでしまう。

 謎だった。いや、それがどのような用途で使用されるのかは、こういう店で一ヶ月も働いているのだから、もうわかっている。けれど、そこだけが部分的に人を惹きつけ、求められるということが、私はよくわからなかった。

「……ネットで買えばいいのに」

 わざわざ自分の顔を晒してこんな恥ずかしいものを買いにこなくても、ネットなら、顔も商品も隠したまま、自分の部屋まで安全に運び込むことができる。だけどわざわざ買いに来て、もし道ばたで転んだりしてうっかりこんなものを落としてしまったら、私ならきっと、恥ずかしくて死にたくなる。あるいはひったくりに鞄を奪われたら、そのままどうぞと丸ごとあげてしまう。それくらい恥ずかしい代物を、ここにくる客たちは、堂々と買って帰ってゆく。駅の近くで、人ごみに紛れて、電車に乗るのはさぞ勇気がいることだろう。常連さんなんかはもしかすると慣れていてなんとも思わないかもしれないけれど、そうでない人だっているはず。その人は普段より何倍も慎重に手元を守り、大事にそれを持って帰るにちがいない。誰かのその秘密を共有するようで、私は不思議な感慨に包まれる。

 うっかり漏れていた私のぼやきを、鼻の下に大きなホクロのある鳥の巣頭の店長が隣で聞いていたらしく、たしかにそうだね、と頷く。

「でもね、店でしか味わえない雰囲気もあるんだよ。服だって、本だってそうだろう。ネットでなんでも買える時代でも、人はわざわざ足を運んでやってくる。店で商品をあれこれ選んだりするのも、お客さんの楽しみのひとつだったりするんだよ」

 店長は喫茶店でドリップコーヒーを淹れる渋いマスターのような落ち着いた口調でそう言うが、胸に『らぶりーず』という昔のアイドル風のロゴが入った赤いエプロン姿で、手にした電動式バイブにお買い得シールをペタペタ貼りながら言われても、説得力があるのかないのかよくわからない。

 自動ドアが開いて入ってきたのは、先輩とは似ても似つかない、くたびれた紺色のポロシャツを着た五十代前後のおじさんだった。弱々しげな面持ちで入ってきて、入口付近に配置してある『超強力マカドリンク』三本セットをふたつ手に取りカゴに入れる。一週間前にもまったく同じものを買っていたので、毎日一本ずつ飲んでいるのだろうか。毎日飲んでいるにしては、彼は表情も出で立ちも貧弱な印象だったが、効果があるといいですねと、私は心の中でそっとつぶやきながら、ピピッとハンディをあてる。

「ありがとうございました」

 と営業スマイルをつくって言うと、

「はあ、あの、すみません」

 と、男性はなぜか謝り、そして袋を奪うようにして足早に店を出て行った。

 なぜ唐突に謝られたのかわからず、ぽかんとする私の心を汲み取るように、店長がすっと横に立った。

「あの人、桂ちゃんが女の子だって、たぶん気づいてたね」

「ああ、なるほど」

 それで、すとんと腑に落ちた。

「アダルトショップで女の子が働いてるとは、まああんまり思わないよねえ」

 とくに言いにくそうでもなかったので、「ですよねえ」と、私も乾いた笑みを浮かべる。

 この店の客のほとんどはたぶん、当たり前のように、私を男性店員だと認識している。だから普通に商品についての説明を求めてくるし、商品をレジに置くときも気まずさのかけらも見せない。それを哀しいとは思わないが、喜ばしいこととも思わない。幼い頃から性別を間違われるのが日常だったし、今はむしろそのほうが、都合がいいこともあるのだった。


 スカートを履いていたのは、中学二年生までだった。

 私は幼い頃から長い髪が似合わず、肩のあたりまで伸びてくると、貧乏性の母が美容院なんてもったいないと言ってざくざく切ってしまうので、微妙に長さの揃っていないショートカットを常に維持していた。服も、ふたつ上の兄のお下がりが多く、小学校では、どちらかというと男の子の輪にいるほうが自然だった。

 しかし中学になると、男女別で行うことが、だんだんと増えてくる。制服は男女で違うし、着替えや、プール、保健体育、列に並ぶのも、部活も、見事に男女できっちり二分されていた。初潮が中一の夏にきて、私は女なんだと、そのとき初めてはっきりと認識した。それでも相変わらず髪は短く、私服も男ものばかりで、おまけに成長期に入ると、胸は膨らまないくせに背ばかりにょきにょき蔓草のごとく伸びだして、百七十センチに届くまでになった。たまに物好きな女子に告白されたりすると、ますます自分の性別があやふやになった。ひと目では性別がわからない「大野桂」という名前も、まるでどっちつかずな私自身を表すようだった。

 初恋は中二の春、同じクラスの斜め前の席の男の子だった。前からだと恥ずかしくて直視できないので、いつも後ろ姿ばかり見つめていた。ちりちりした癖のある短い黒髪と、髪の隙間から見える中学生男子にしては骨の太い首筋が、彼を実直そうな印象に見せていた。バレー部で、いつも遅くまで残って練習しているため、そのときまで体力を溜めておくように、授業中はほとんど居眠りしていた。教室の席で、コートのフェンス越しに、いつもいつも彼の後ろ姿ばかりを見ていたせいで、彼の後ろ姿に関してなら、誰よりも素早く見つけられる自信があった。

 テスト週間で部活が休みのとき、図書館に残って勉強した後、仄暗い夕暮れの西日が消えかけた帰り道で、たまたま彼の後ろ姿を見つけた。いつも友達がそばにいる彼が珍しくひとりだったので、私はこっそり彼の後をつけることにした。どの道で帰るのか、どんな家に住んでいるのか、後ろ姿以外ほとんど知らない彼の生活の一部をほんの少し覗いてみたいと、つい、欲がでてしまったのだ。彼はズボンのポケットに窮屈そうに手を突っ込み、気だるそうな足取りで私の視線の先をゆく。何度か角を曲がり、そろそろ着く頃だろうか、と思っていると、角を曲がった先で、彼がいきなり立ち止まり、振り返った。

『なんか用?』

 と、彼は言った。

『え、あ、あの』

 追いかけるのに夢中で、まさかばれているとは考えもしなかった。もはやどんな言い訳も役に立たない気がして、私は彼を、そのとき初めてまともに正面から見つめた。すると内側に溜め込んでいた気持ちがやかんからぶくぶく熱湯が噴きこぼれるように溢れだし、抑えきれなくなって早口に言った。

『好きです、付き合ってください』

 えっ、と彼は驚いた顔をし、そしていかにも不愉快そうに顔を歪めた。

『悪い。おれ、そっちの趣味ないから』

 私はすこんと棒で叩かれ頭のネジが何本か飛んだみたいに、しばらくぼうっとしていた。

 そっちって、どういう意味。もしかして私が女子だと気づいていない?いやでも一応同じクラスだし、席だって近いし、女子の制服着てるし、と戸惑いが衝撃とともにやってきて、彼が去ってからもしばらくそこから動けなかった。

 それ以来、私はスカートを履くのをやめた。男の子のような自分が女子の格好をしているだけで不自然な気がして、まわりの嘲笑を買うのが怖くて、残りの中学生活を体操着で過ごした。学ランを着るのは校則違反だが、体操着なら制服の一部だと、生徒指導の教師に注意されてもむりやり押し切った。高校は私服のところを選び、髪が伸びればハサミで適当に切り、服は相変わらず兄のお下がりばかりを着ていた。世間ずれしている母は、お金がかからなくていいわと喜んでいた。

 大学に入っても同じだったしこれからもずっとそうして生きてゆくのだろう。誰かを好きになっても一定の距離を置いて後ろ姿ばかりを見つめ、女でも男でもなくあやふやな存在のまま、この先ずっと変わることなく日々を淡々と過ごしてゆく。それでいい。わざわざどっちかに決めて傷つく必要なんて、どこにもない。先輩に出会うまで、私はずっとそう思っていた。


 店長いわく、最近のアダルトショップというのは、昔ほどアンダーグラウンドな場所ではなくなってきているらしい。カップルや女性客が増え、稀ではあるがあえて女性店員を雇っている店もあるとか。グッズのデザイン性の広さもひと役買っている。いかにもそれらしい見た目の代物から、一見ダイエットグッズのように見えるシンプルかつスタイリッシュなものまで揃っている。仕事内容もそう、高校時代にバイトしていたコンビニと大差なく、品出しやレジがほとんどだ。ただし扱うものが、スポーツドリンクやコーヒーでなくマカドリンクだったり、制汗剤でなく汗の匂いのするスプレーだったり、顔用でなく下半身用ローションだったりするわけだが。でも、コンビニにだって成人向け雑誌や避妊具はあるわけだし、やっぱりそれほど変わらないのかもしれない。

 一ヶ月前、表の求人張り紙を見て来ましたと嘘をついて、私はこの店にやってきた。もちろん、本当のきっかけは別にあるのだが。

 赤い看板に白い斜め文字で『らぶりーず』。赤いエプロンにも、同じように店の名前が書いてある。風俗やキャバクラやメンズパブなどが一様にして並ぶ歓楽街、ショッキングピンクやイエローのどぎつい色彩の中でいたってシンプルなつくりのこの店は、風景の中に控えめに溶け込んでいた。

『ほんとは女の子はとらないことにしてるんだけど……』

 店長は査定をするように私の頭の先からつま先までひとしきり眺め、たしかに人手は欲しいんだよねとぼやき、案外すぐに結論に至った。

『まあいいか、君なら』

 ぱっと見女の子に見えないし、と心の声が聞こえた気がしたが、そこはスルーして私はお礼を言った。

『いやあ、助かるよ。じつはバイトの男の子が、夏休み中は長期の旅行に行くとかで、仕事が追いつかなくてさ』

 店長は焦げ茶色の鳥の巣頭を掻きながら苦笑した。それは本音だろうとわかったので、頑張ります、と私は笑顔で言った。

『バイトの男の人って、どんな人なんですか?』

『いい子だよ。いまどき珍しく、真面目で、休まずよく働いてくれて。だからたまの休暇くらいと思って送り出したけど、僕ひとりじゃてんてこ舞いでね』

 そうですか、と私はにっこり笑って頷いた。

 バイトは彼ひとりだけだという。忙しいといっても、梱包や品出しや掃除などの雑務が多く、実際にはお客さんがひっきりなしにやってきて接客に追われるほどではなかった。夏は売れ行きが落ちる時期らしい。逆に寒くなってくると、人肌が恋しくなり相手もいないからグッズでお手軽に済まそうとする人が増え、とりわけイベント前なんかはクリスマス前のおもちゃ売り場のごとく狭い店内が混雑するのだという。暇な時期でよかった、逆に暇な時期だからこそここぞとばかりに、彼は休暇を取ることができたのだろうけれど。

 つい最近までコンビニでバイトしていたので、レジ打ちは数日すればすぐに慣れた。商品の陳列も、こうすれば見やすいだろう、見栄えがするだろう、と自分なりに考えて並べていたら店長が褒めてくれて、私はえへへと照れたときの癖で首の後ろを掻いた。

 大方、これといった問題もなく日々は過ぎていったけれど、たまに、どきりとすることもあった。週末の歓楽街の酔っ払いや店のキャッチの声が飛び交うがやがやとした喧騒の中、店のまわりを箒で掃いていたら、見覚えのある数人が、騒ぎながら近くの風俗店にぞろぞろと入ってゆく。同じゼミの同期の男子たちだった。普段から人の数倍声のでかい峯岸という男の、お酒が入ってさらに際だつ特徴的な声が、聞き耳を立てなくてもこちらまで届いてくる。私はとっさに彼らから背を向けそそくさと店の中に逃げ込んだ。

 たまにうっかり忘れかけているが、ここはアダルトショップであってコンビニではない。知り合いにこのエプロン姿を見られでもしたら逃げようがないし、あとあと面倒なことになるのは一目瞭然。誰かの秘密を知った瞬間、いっときでも内側に秘めておきたくない、喋ることでそのストレスから解放されようとする卑しい人種は、かなしいけれどどこにでも必ずいるものだ。

 先輩は、どうしてここで働いていたのだろう。それがわからなかった。真面目で控えめでゼミでいちばん優等生な先輩が、ばれたら絶対困るはずなのに、そんなリスクを負ってまでここで働いていた理由は、なんだったのだろう。

「桂ちゃん」

 呼ばれて、はっと顔をあげた。業務が終わり、休憩室でコーヒーを飲んでいるときだった。

「は、はい」

「大丈夫?ぼーっとしてるけど」

 大丈夫ですすみません、と苦笑しながら店長を見ると、両手に重そうなダンボールを抱えている。

「桂ちゃんにちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」

「はい」

「女の子にこんなこと頼むのも、悪いんだけどねえ」

 店長はいちおう建前でそう言いながら、とくに悪そうな素振りもなく、よいしょとそれを机に置く。よく見れば箱に入っているのは商品ではなく、ひとつひとつに「非売品」の赤いシールが貼られている。

「サンプルだよ。いくつかよさげなの持って帰って、感想書いてほしいんだよね。女性のお客さんももっと増やしたいからさ」

「はあ」

 私は気の抜けた返事をしてサンプルの山を探る。よさげなのと言われても、男性用だったりカップル用だったりマニアックすぎてよくわからなかったり、どれもこれも日常生活では間違いなく縁のないものばかり。そのなかに、不意にあるものが目に飛び込んできた。

「あ、これ」

 ちいさな平べったい袋の、写真に写っているうさ耳の女の子を、私は知っていた。一見、ドン・キホーテなどで大量に売られているコスプレ衣装のようだが、違う。それは、空気を入れて膨らます人形だった。『超可愛いバニーガール! フルシリコン男性用リアルドール』と書いてあった。

「これがいいです」

「え、それ?」

 店長が、意外そうに、小さな目を丸くした。

 その反応に、急に我に返って恥ずかしくなり、

「……って、これも男性用ですよね、やっぱり違うのにします」

 慌てて伸ばしかけた手を引っ込めると、店長がまるで万引きしようとする少年を止めるかのような穏やかな目で言った。

「いや、いいよいいよ、使い道なんてなんだって。玩具って、本来自由に遊ぶものでしょう。男だから、女だから、これを使っちゃいけないなんて決まりは、どこにもないんだよ」

 店長は目を細めていいこと言ったような顔をしているが、その手にしているのは、女の子が大好きなリカちゃん人形ではなく、大人の男性のためのシリコン人形である。

 でも、たしかに、そうだ。子供の頃、リカちゃん人形は女の子のもの、仮面ライダーは男の子のもの、とはっきり分けられているのが、不思議だった。そうではなく、一緒に遊びたかった。私もあっちがいいと、言いたかった。

 私は、このバニーがどうしても欲しくなった。

 好きな人と同じものを手に入れようとする中学生の女の子みたいに、先輩の部屋のクローゼットにあったものと同じバニーの人形を手に取り、自分の元にひき寄せた。


 それまでにも何度か、誰かを好きになったことはあった。私が好きになるのは大抵、芸能人や少女漫画のヒーローのようなかっこいい男の子ではなく、いつも、ごく身近にいる、どこが好きなのかと聞かれてもうまく答えることのできないような、平凡な男子ばかりだった。きっと、すこし手を伸ばせば触れられそうな距離の空気や、現実感のある声が、心に直接響くのだ。すれ違うとき、ああ、いいな、と思う。だけど中学の初恋で深く傷を負った私は、もう思いを伝えようなどと無謀なことはしなかった。気づかれないように、視界の片隅でそっと見つめ、その彼が誰かと付き合ったりすると、一方的に恋を終わらせる。好きな人が、廊下で他の女の子と堂々と話していたり手を繋いでいたりするのを見ているのがつらかったからだ。

 私の十代の恋は、その繰り返しだった。だから、自分の気持ちがたとえ一瞬でも相手に通じることがあるなんて、そんな奇跡的なことが起こるなんて、考えもしなかったのだ。


 夏休み前に開催されたゼミの飲み会で、私はいつものように視界の端っこで、現在絶賛片思い中の森田先輩を見つめていた。

 森田先輩は、同じゼミの四年の先輩だった。先輩は夏休みに入る頃には内定も単位も順調にとり終えていたので、学校で会えるのはせいぜい週に一度のゼミの日と、数ヶ月に一度の飲み会くらいだった。私は一目惚れはあまりしないほうだが、先輩はそれまでとはまったく違って、初めて教室で顔を合わせたその日に、何の迷いもなくするりと好きになっていた。さらさらの黒髪、いかにも優等生ふうな形のいい黒ぶち眼鏡、同級生の男の子たちにはない落ち着いた知的な雰囲気も、手の形も、控えめな低い声も。ああ、好き。全部好き。

 そして今日の飲み会で私は奇跡的に、先輩の向かいの席を手に入れた。アルコールという武器を得て浮かれたテンションに乗り切れないおとなしい組の私たちは、自然と座敷の端っこに避難することになり、ちびちびと料理に箸を伸ばしたりグラスを傾けたりしていた。私は必死に平静を装ってはいたが、頭の中ではピンク色の液体がだだ漏れだった。目の前に先輩がいる、同じ空間で同じものを食べている。それだけで充分興奮に値する。うっかり熱い視線を注いでしまいそうになるのを止めるためだけに、私は目の前のカクテルに手を伸ばした。飲み慣れない液体の甘ったるい見た目や匂いや味の全てが苦手だと思いながらもひたすら飲み続けていたら、次第に酔いがまわってきて、視界がぐらりと揺らいだ。

 気づくと、私は店の外にいて、どういうわけか、先輩が目の前にいた。

『大野さん、大丈夫?』

 と先輩が、その声で、私の名前を呼んだのでびっくりした。

 いったいなにが起こっているのか。私は階段から転げ落ちて頭を強打し記憶喪失にでもなったのだろうか。ひとコンマ分の記憶が、映画でいうドロップフレームのように、見事にふっ飛んでいた。これまで、半径十メートル以上好きな人に近づいたことがなかった私がパニックに陥らないわけがない。

 先輩がそのとき、ふっと微笑んで、少し屈んで、顔を近づけた。落ちてきた。先輩の薄い唇が、いつも遠目で見つめて妄想をめぐらせるだけだったその光景が、目の前に。

 私の脳内は、ピンク色どころか激しく火花が炸裂し停電を起こしかけていた。先輩が次の言葉を発しなかったら、きっと私はその場に倒れていたと思う。

『じゃあ、行こうか』

 え? 行く? どこに?

 私は訳がわからず、けれど主人に従順な犬のようにおとなしく先輩に手を引かれて夜道を歩いた。週末の騒がしい飲屋街を抜けると、一気に街頭が減りあたりが暗くなった。覚束ない足取りの私の手を寄せて隣を歩く先輩は、いつもと変わらずとても落ち着いて見えた。

 これは夢なのだろうか。先輩の手の感触があるのに、声もすぐそばで聴こえるのに、私はまだその状況を疑っていた。ほんとうに、こんな奇跡が私の人生に起こるだろうか。これはやはり夢で、あるいは現実ならば、この後すぐに車が突っ込んできて私の人生強制終了とかなったりして。それでもまあいいか、先輩と手を繋げたのだから、この幸せの中で死ねるのなら悪くない、そんなふわふわした心地で夜道を歩いていたが、反面、手汗大丈夫かな、息酒臭くないかな、などとやけに現実的なことも考えていた。緊張のあまり道中の景色などまるで視界に入ってこなかった。たどり着いたのは、先輩の住む二階建てのアパートだった。

『ぼろい部屋だけど、どうぞ』

 と言って、部屋のドアを閉めた瞬間、先輩が私に再び唇を押し当ててきた。

 ゆっくりと重なる。肌と肌が、体温が、先輩の唇や手が私に触れる。その瞬間、触られた箇所から痺れるような官能が、さざなみのように全身に広がる。まったく別の個体が繋がってひとつになる驚き、その瞬間の快感。泣きたくなるくらい優しく愛おしい指先で、何度も何度も私を愛撫する大好きな先輩。


 いまここにいない先輩の姿や声を、私は座敷の隅で向かいに座っていたあのときのように鮮明に、頭に浮かべることができる。

 なのに現実は違う。夏休みに入るなりどこかに旅立ってしまった先輩は当然のように飲み会も欠席で、だれひとり先輩の話題なんて口にしない。先輩がはじめからこの集団の中に存在しないかのように当たり前のように振舞われるのがとても苦しい。

 でも私だけはちゃんと覚えている。あの夜、私たちがふたりで飲み会を抜けたことに、誰も気づかなかった。いつの間にかいなくなったね、と言われる程度の存在感のない私と先輩は、確かにあの夜、一緒にいた。

 先輩と過ごしたひととき、幸せで濃密な記憶の海に私はいつまでも浸っていたかった。それなのにまわりの酔っ払いたちがつまらないギャグでげらげら笑って騒ぎたて、たまに人の足がぶつかってきたりするせいで、ちっとも浸れない。

 私は半分ヤケになって、目の前のグラスを掴んでがぶ飲みした。隣に座っていた女の子が、ちょっとどうしたの、大丈夫? と心配そうな目を向けてくる。普段飲み会なんて滅多に参加しない私が、いきなり浴びるように酒をかっくらいだしたら、そりゃ心配にもなるだろう。私の心配ではなく、ここで吐かれたらどうしようとか、帰り送って行くことになったら面倒だとか、そういう心配だろうけど。

「おお、大野さん、いい飲みっぷり」

 隣のテーブルにいた同期の峯岸が、ビールジョッキを片手にサル顔の下品な笑みを浮かべながら近寄ってくる。あんたはこなくていい、話しかけないで、という意思を込めて睨みつけるが、鈍いこの男にはまるで刺さらず、どうしたの大野さん、顔怖いよ、なんてへらへら笑うので、私は急に白けてしまった。

 お酒を飲むといつもそう。飲んでいるときは真夏に流し込む冷水のようにいくらでも入る気がするのに、いったんストップすると、これ以上は一滴もむりと途端に受けつけなくなる。そして大概、その頃にはすでに手遅れだったりする。

「あれ、どこ行くの?」

「トイレ」

 私は立ち上がり、いつの間にかちゃっかり居座って胡座をかいている峯岸の横を素通りしてサンダルを履く。トイレなんて行きたくなかった。ただ急に、あの場から逃げ出したくなった。

 外に出ると、いつの間に雨が降っていたのだろう、地面が濡れてコンクリートが黒くなっていた。湿った夜風にあたって酔い覚ましをしていると、少しして峯岸が追ってきた。

「あ、大野さんみっけ」

 私たちかくれんぼかなにかをしていたのだっけ、と思うくらい茶目っ気のある顔を覗かせる。

「なんか用?」

 私はくらりとする頭を持ち上げて峯岸を見る。マントヒヒに似た顔の輪郭がぼやけて通常より丸っこく、いまは小猿のように見える。

「いや、用っていうか、大野さんともっと話したいなって思ってさ」

「私は話すことないです」

「俺はあるんだけど」

 顔が近い。この男、距離感という言葉を知らないのか。峯岸がにやりと口角をあげるのを見て、私は思わず身震いした。

「俺見ちゃったんだよねえ。大野さんのこと、意外な場所で。まさか大野さんみたいなおとなしい子があんなとこで働いてるとはねえ」

 私は固まった。峯岸が言わんとすることを、瞬時に理解した。見られていたのだ、数日前、峯岸たちが店の近くの風俗店に入っていったとき、とっさに背けた私の顔を。

「安心して、見たの俺だけだから。でも、みんなネタに飢えてるからなー。言ったらどういうリアクションするかなあー」

「……言えば? どうぞご勝手に」

 私はいかにも関心なさげに目を逸らしたが、内心は焦っていた。面倒なことになった。おとなしいくせにアダルトショップでバイトしてる女子だなんて、峯岸の言うとおり格好のネタだ。私はできる限り劇中の黒子のように、その場に溶け込んでいたいタイプなのに。

 そんな複雑な胸中を見透かしてか、もとからそういう顔なのか、峯岸はにやにや笑いを崩さない。

「いいの? 面倒なの嫌でしょ?」

 峯岸のサル顔がさらに近づいてくる。迫ってくる男の顔。デジャブ。ああだけど、違う。あのときとは、地球を三回ひっくり返してもまだ足りないくらい、どこもかしこも違いすぎる。

「どうしよっかなあ。チューさせてくれたら黙っといてあげてもいいけど?」

 峯岸の五本の指が、私の頰に触る。ぞわ、と顔中の毛穴が逆立つ気がした。

「大野さんさあ、けっこうスタイルいいよね。みんな気づいてないけど、俺、そういう人があんまり気づかないとこ、わりと見てんだよねえ。あ、その顔、いいね、そそられる」

 下品な笑みを浮かべながら、峯岸がなんの断りもなく、私の唇にぎゅむ、と自分の唇を押しつけてきた。さっきの脅しはなんだったの。ゴムを噛んでいるような不快な感触、酒臭い息が不快でたまらない。

「やめて!」

 ちがう、ちがう、全然先輩と違う。先輩はこんなふうに無理やりしないし優しくて細い茎がすぐに折れてしまう花みたいに繊細なんだ。先輩が触れたところにその汚いものを上塗りしないで。

 はっとして見ると、峯岸が雨上がりの湿った地面にしりもちをついている。私が押したのだ。頰を熱い液体が滑り落ちる。

 おいおい、と峯岸が腰を浮かせながら顔をしかめる。

「なんだよ、泣くほどのことか? あ、もしかして大野さん初チューだった?」

 峯岸が半笑いで私を見上げる。目の前で女が泣いていようと、あくまでも自分の否にはしたくない気持ちが見え見えの卑怯な笑い。

 私は涙を拭うこともせず首を振った。

「ちがう」

 あんたのことなんかで泣くもんか。この涙は、あんたとは全然関係ない。先輩が、ここにいないことの悲しさだ。


 家に帰って、クローゼットの奥にしまい込んだバニーに空気を入れた。すこしずつ、すこしずつ、空っぽだった手足が、胸が、足が、顔が、中身を得て膨らみを生み出す。さすがフルシリコン、どこもかしこもふにふにと弾力がある。

 巨大な風船を膨らますように、私は思いきり息を吹き込みながら、先輩の先輩に行ったときのことを思い出す。あの部屋のクローゼットにも、これと同じものがあった。空気を入れられた状態で、暗がりにぽつねんとむき出しで横たえられているその人形が、先輩が扉を開けた拍子に目に飛び込んできたのだ。

『それ、なんですか?』

 尋ねると、先輩はとくに隠す素振りもせずに教えてくれた。

『え? ああ、バイト先で試供品でもらったやつ。一応空気入れただけで、まったく使ってないけどね』

 黒いミニワンピの下のバニーの穴は、本来の目的を果たされることなく永遠の処女のまま、空虚な目をして、あの暗くて狭い部屋のクローゼットの中でひどく居心地が悪そうだった。こっちを向いて、ねえ、わたしひまなの、一緒に遊ばない? と語りかけてきそうなほどだった。

『どうして使わないんですか?』

『さあ、なんでかな』

 先輩は子どもになぞなぞを出すみたいな口調で、笑ってみせた。

 あのとき、どうして先輩が使いもしないそんな人形を持っているのか、不思議だった。でもいまなら少しだけわかる気がする。触ってみたかったんじゃないかな。偽物だけど女の形をした空気人形。先輩は案外、子どもみたいな探究心があるから。

 私は一心に、バニー人形に空気を吹き込む。ふわふわして気持ちがいい、まだ誰にも触られたことのない赤ちゃんの肌みたい。まるで私みたいだ。いや、私の肌はそんなにキメ細かくすべすべではないけれど、でも誰にも触られたことがないってところは同じだね。女の形をして、膨らんだ胸があって、足と足のあいだには穴があるのに、その穴が空虚な暗がりの未使用のまま。この子はきれいだけれど、私にいたってはごみを消化して外に吐き出すだけの下水道のよう。そんなのさみしいし嫌だ。

 夏休み前の飲み会の日、先輩の部屋での甘い記憶は私が勝手に温めてきた先輩の幻影で、現実の先輩はそんなに優しくなかった。先輩は私に手を伸ばして頭を寄せたが、すぐに突き放し、ごめんやっぱり無理だ、と言ってだらしなく床に突っ伏した。先輩に触れられたのは、居酒屋の前で唇が触れたあの一瞬だけ。その一瞬さえ、今となっては本当にあったことなのかどうかあやふやだ。

 好きで好きで仕方ない人に、受け入れてもらえたと思った瞬間拒絶された私の気持ちはいったいどこにいけばいいの。

 私は呆然と立ち尽くし、寝かけている先輩に訊いた。

『私が、男みたいだからですか?』

『違うよ、そうじゃない』

 と先輩は苦しそうに首を振った。

 私はばかだ。求めれば傷つくと知っているのに、中学の初恋でそれを痛いほど経験したのに、私はまた性懲りもなく人を好きになって、あのときよりもっと深い深い傷を負った。しかもさらに自ら傷をえぐろうとしている。私はいつからこんなマゾになってしまったのだろう。もっともっと、腕だけでは飽きたらず足も指も切りつけもうどこにも無傷なところが残っていないくらい、全身めちゃくちゃに傷ついて先輩を嫌いになりたかった。

 傷つくだけだからやめておけというしつこい過去の私の忠告を無視して、私はある日の学校帰り、先輩の後をつけた。そこで目にした、予想もしなかった衝撃の光景。

 やたらとピンク色の看板が多い通りに入った先輩の細い腕には、先輩よりも太い腕が、絡みついていた。先輩よりも背が高く、色黒なその男は、色白の先輩と並ぶとオセロの駒みたいだ。ふたりはネオンがあやしく光るラブホテルに消えていった。

 私はいつまでも、もう見えないけれど頭に焼きついた先輩の後ろ姿を焦げるほど見つめていた。わざわざ追いかけてまでこんなに誤魔化しようのない決定的瞬間を突きつけられても、まだ諦められないほどの執着心が自分にあるだなんて、知らなかった。もっと、もっと、私は傷口にレモン汁を垂らすみたいにすすんで傷つきにいった。

 真面目で優しくて優等生な学校での先輩。アダルトショップでバイトしている先輩。男の人と腕を絡ませて歩く先輩。どれがほんとうの先輩なのか、ずっと見つめていたはずなのに、全然わからなかった。


「びっくりしたよ」

 閉店後、店の外に出て看板をしまおうとしていたとき、向こうから先輩が歩いてきた。私を見た、第一声が、それだった。

「なんで大野さんがここの制服着てるの?」

「ここでバイトしているからです」

「いや、そうじゃなくて」

「先輩の行方を聞きたくてここにきたら、店長さんが人手が足りないっていうから、あと夏休みやることもなくて暇だったから」

「ふうん、こわいね」

 と言って、先輩は薄く笑った。

 こわいというのは、私が先輩のバイト先を知っていたことか、先輩がいなくなったのに誰よりも早く気づき店長にまで行方を尋ねたことか、真面目な先輩の胸に『らぶりーず』とロゴが入った赤いエプロンがかわいすぎて、同じ制服が着たいがためにバイトしはじめたことか、どれだろう。全部か。

「でもまあ、俺も同じようなものだから、人のこと言えないけどね」

「同じ?」

「この前、大野さん、俺の後つけてたでしょ。そのとき隣にいたあの人、ここの常連さんだったんだよね」

「気づいてたんですか」

「バレバレだよ。大野さん、背高いから」

 またしてもばれていた。私は尾行に向いていないのだろう。追うのに集中しすぎて、つい気配を消すのを忘れてしまう。

「あの人、去年卒業したゼミの先輩なんだ。発表で同じグループになって、あの人いかついわりに面倒見がよくて人気者でさ。俺みたいな地味なのが相手にされるわけないし、ずっと言えなかったんだけど」

 と先輩は続けて言った。

 ある日、彼がたまたまこの店に入っていくのを見かけて、彼の人には言えない趣味を密かに知った。でもどう声をかけていいかわからなくて、店員と客の関係ならば話しかけるチャンスがあると先輩は思いつき、この店でバイトをはじめたそうだ。

 そのずれた思考回路は私にそっくりで、あまりにも解ってしまうので、私も笑った。

「両思いに、なったんですね」

 と言うと、先輩は曖昧に首を振った。

「それがけっこう複雑でね。夏の間だけ、彼が海辺で店をやるからって、一緒にいれたんだけど、ずっとってわけにはいかないんだ」

「ワケありですか」

「まあ、そういうこと」

 先輩は先輩の好きな人のことを、先輩のことが好きな私に平然と話す。それは冷たくて残酷なことだけれど、先輩の淡々とした話し口調は前とおなじように私を癒した。

 傷つくとわかっていて、それでも思いを捨てきれない私たちは、たぶん変態だ。だけど普通の人なんているのだろうか。この店に来る人たちはみなどこか狂っているし、普通に見えてもじつはとんでもない性癖を隠し持っているかもしれない。みんな変だし複雑だしワケありだと思えばこわくない。

「先輩」

 私はもうひとつ、訊かなくてはいけないことがあるのを思い出した。

「あの日、どうして私を誘ったんですか?」

 男の人が好きなのに、どうして私を部屋に連れ込んだのかーー答えを聞きたくはなかったけれど、避けたままでは、私はきっとこの恋を消化できない。消化不良の濁った下水道じゃなく、できるだけきれいな水でいたい。触れてもらえないのなら、自分から手を伸ばして先輩の心に触れたかった。

「私が、男みたいだからですか?」

「違うよ」

 先輩は今度はきっぱりと言った。

「酔ってて覚えてないかもしれないけど、飲み会のとき、きみが言ったんだ。俺のことが好きって。それが嬉しかったから」

「好きって、言ったんですか? 私が、先輩に?」

 驚いた。まるで記憶にない。先輩は笑った。

「言ったよ。かなり小声だったけど、ちゃんと聞き取れた」

 好きでもない女に好きだと言われたのが嬉しくて、キスをして、部屋に連れ込んで、だけどやっぱり無理だと突き放した先輩はひどい。ヤリ捨てよりずっとひどい。このひとでなし。でも私はそんな先輩が好きだったし、生まれて初めて消化したいと思えた恋の相手が先輩でよかったと心から思えた。

「私、バイト辞めます。私がいると、先輩もやりにくいでしょうし」

「いや、そんなことないよ。店長、いつも人手が足りないって言ってるし」

 私は首を振った。

「もともと先輩がいない間だけの短期バイトだったんです。ピンチヒッターはピンチじゃなくなったらおとなしく消えます」

「そうか。だったら、ありがとうと言わなくちゃな」

「はい、これから就活も始まるし、もっと健全なバイトを探します」

 そう言うと、先輩は今日いちばんの明るさで笑った。

「それがいいよ。ここは女の子が働くにはちょっと刺激的すぎるだろ。変な客も多いし」

 いつも男に間違われてばかりだった私を、女の子扱いしてくれた先輩は、やっぱり私にとって特別だった。その優しさがどうしようもなく好きで、まだ完全には消化しきれていない私の恋心が胸の奥でじくじくと疼いた。


 夜、部屋に帰ってバニーの空気を抜いた。指で押せばふにゃりとへこむ柔らかな肌が弾力を失ってゆく。ぽっかり空いた足と足のあいだの冷たい穴が、夜になって蕾が眠るように閉じてゆく。私は泣いた。バニー人形を両手に抱きながら、先輩を好きになって初めて、小さな子どもみたいにわんわん泣いた。

 先輩と同じものが欲しかった。だけど同じものを所有したところで、先輩の気持ちがわかるはずがなかった。そんなの最初からわかりきっていた。先輩は私とは違う人間で、性別も年齢も身体の形もつくりも頭の中身もすべて違って、それでも少しでも解りたくてとった私の行動はひどく滑稽でおかしかったけれど、ふしぎと、少しも悔いはなかった。

 先輩は私のものにはならなかった。誰のものにもならなかった。好きな人と遠くへ行って、戻ってきて、私を振った。少しの希望も残さず完璧に、私は先輩に振られたのだ。

 先輩の部屋のバニーは未使用のまま、返品されたのだろうか。それとも燃えるゴミ袋に詰められて焼かれてしまっただろうか。あともう少しで完全に平たくなるバニー人形をぎゅうぎゅう両手で押さえながら、あの部屋のクローゼットにいた居心地の悪そうなバニーを思い出し、もう二度と会えない同胞を想うように寂しくなった。


 ガシャン、と自販機の取り出し口に落ちた缶コーヒーを、私が屈むより先に、他の手が伸びてきて横取りした。かと思えば、

「はい、どうぞ」

 とマントヒヒのような野生的な笑みを浮かべながら、峯岸が差し出してくる。

 私がお金をだして買ったコーヒーを、まるで自分が奢ってやったかのように渡されてちょっとむっとしながら受け取る。いつもの癖でアイスコーヒーを買ったが、今日は思いのほか冷えるので、ホットにすればよかったと冷えた缶を手にして思った。

「なにか用?」

「いや、珍しく大野さんがスカート履いてるなと思って」

「他のクリーニングに出してて、これしかなかったの」

 スカートといっても、私が履いているのは味気のないダークグレーのリクルートスーツだ。スーツは就活用にパンツとスカートを一着ずつ買った。パンツタイプは買ってみたものの素材があまり肌に合わず、今日はスカートのほうを履いてみた。案外、履いてしまえば楽で、すぐにでも脱いで破って捨てたくなるような衝動は起こらなかった。それに触れる面積が少ないおかげで、立ったり座ったりするたびに薄い生地が足に擦れるのが気になったりすることもない。

 もし気づいてくれたのが先輩なら私は舞い上がるだろうが、実際は下心丸出しのマントヒヒだったので不快感しかなかった。

 十月後半になると、学校にスーツを着てくる就活生が少しずつ増えはじめた。午前中講義に出て、午後から企業説明会という分刻みのスケジュールのときもある。普段から着るものに無頓着な私は、制服みたいで毎日服を選ぶ手間が省けてけっこう助かっていたりする。

 就活から無事解放された四年生は、今度は就職先の事前研修や卒論やで忙しくなり、ゼミも休みがちになる。先輩と顔を合わせるのは月に一度あるかないかという程度で、そのときも特別になにか話したり、意味深なアイコンタクトをとったりするわけでもなく、ただ同じ教室で教授の長話を聞いたり研究内容を発表したりするだけで、私の中の先輩の影も少しずつ薄くなっていった。だけどたまに会えば、やっぱり切なくなって身動きがうまくとれなくなる。

 でももう大丈夫。私はスカートが履けるようになったし、久しぶりに髪を伸ばしてみたら、案外まわりの反応も普通で、もう昔のようにからかわれるようなことはなかった。私も私をとりまく人たちも、大人になったのだ。峯岸が凝りもせず、前より堂々と近寄ってくるようになったけど、軽くあしらう術も身につけた。

「なんだ、てっきり俺のこと少しは意識してくれたのかと思った」

「なんで?」

 なんであんたを意識してスカート履かなきゃいけないの自惚れないでよ、という意味を込めて顔をしかめたが、当然のように峯岸には伝わらない。

「なんでって、そりゃあ……あれ、もしかして覚えてない?」

「覚えてるもなにも、私たち、話すのほとんど初めてだよね」

 私はそばのベンチに腰掛けて冷えた缶を傾け、しれっと言い返す。

「え……ほんとに? 少しも覚えてない?」

「うん。だからなんのこと?」

 私はしれっと言い返す。

 覚えてるよ。忘れるわけないでしょう。居酒屋の外で酒臭いキスをされたこと。同じ場所で、同じようなシチュエーションなのに、先輩のキスとあまりにも違って不快感しかなくて、怒りながら泣いて彼を突き飛ばしたこと。やめて、と私は言ったはずだ。もう話しかけないで、とは言ってないけど。あれだけ全力で拒否したのに、どうして何事もなかったかのようにへらへら話しかけてこられるんだろう。そうかきっと、何本にも束ねた太い導線みたいに、ちょっとやそっとじゃ傷つかないんだ。いいな、それ一本私にも分けてくれないかな。

「そっか……そっかあー。じゃあ、よかったのかな。いや、なんていうか、悪いことしたなってずっと思ってて……なんのことかわかんないだろうけど、謝らせて。ごめん、あのときおれ、かなり無神経でした」

 言い終えて、峯岸は、ほっとしたような、罪悪感から解放されたような、でも少し残念そうな、目はうるんでいるのに口角はあがっているという、複雑な表情になった。

 私は冷めた目で峯岸を見つめた。あんたが無神経なことくらい、口を開けば誰でもわかるでしょうよ。でもその思ったことをそのまま口にする裏表のなさや、本能丸出しの野性的な単純さは私にはないもので、少しだけ羨ましくもある。

「ええと、じゃあさ、改めてっていうか、今度の土曜」

「あ」

 そのとき、目の前を先輩が横切った。目の前といっても、私と先輩との距離は二十メートルくらい離れていて、その間を頻繁に授業を終えた学生たちがぞろぞろと無遠慮に通り過ぎるので、先輩、と呼んでも気づかないだろう。それでも私は目ざとく先輩の姿を見つけてしまう。ぐんとそこだけにピントを合わせて細部まで見つめる。

 二週間ぶりくらいに見る先輩は、少しささくれた紺色のカーディガンを着ている。Vネックの首元からのぞく鎖骨が妙に色っぽい。先輩はこちらに背を向け掲示板の前で立ち止まる。先輩は秋が似合う、とふと思った。銀杏の木の下で本を読み、そのまま居眠りして足元に猫が寄ってきそう。そんな柔らかな雰囲気を帯びた先輩を見つけた瞬間、隣の峯岸はもう視界から消えている。

 私はまだ先輩が好きだった。ちっとも消化なんてできていない。

 でも恋には終わりがある。私の恋はずっとそうだった。だけどいつか終わりがくるのだとしても報われなくても、私はまた人を好きになりたかった。誰かを好きになることで自分のこともほんの少し好きになれる気がした。それだけが、初めて恋を知った中学の頃から、いまも、唯一変わらない確かなことだった。

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バニーのあな 松原凛 @tomopopn

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