最終話

「ただいま」

 満照が、三つの缶ジュースを持って戻ってきた。妹は「ありがとー」と無邪気に喜んで、自分が真っ先にレモンスカッシュを選び取った。僕が好きなのを知ってるくせに。仕方なく僕は無難に選ばれたコーラをもらって、満照は当然残されるのを予測したコーヒーを開けた。僕たち兄妹はコーヒーは苦手なんだ。それは満照も知ってる。うまいことやるなぁ。やっぱり満照は要領がいい。

 妹はまた満照と会話を始めて、僕を放置した。多分、単純にさっきのやりとりができただけでもう今日は十分なんだろう。僕はお先に退散しようかな、と考えた。また満照を面会終了時間までここに滞在させることになってしまうんだろうけど、妹がそれを望むんだから仕方がない。病人には優しく、が基本だろう。普通は。

「じゃあ僕はこれで失礼しようかな」

「えー? なんで? せっかく来たんだから、もうちょっといなよ」

 僕のことを堂々と無視しておいて、妹はゴネる。横並びのベンチではなかなか三人で会話をするというのも難しいので、僕が嫌でなければ、妹の病室に行こうか、という話になった。僕ももう反対する意味もなかったので同意する。

「じゃ、こっちね」

 ジメジメした辛気臭い場所から一歩出ると、まだ明るい日差しに照らされた残暑の最中だった。暑さはそんなに感じないけど、やっぱり日陰とは違う。

 太陽を見上げるように、僕はなんとなく顔を上げた。眩しい。その時、視界の端に、何かが映った。二階の窓。小六か中一くらいの男の子。半分以上窓から出た上半身。

 ──落ちる?

 何故だかわからないけど、身体が勝手に動いた。

 僕は別に、全然正義感なんか強くないし、目の前で子供が転んで泣いてても、手を差し出すような人間じゃない。冷たいし、他人には無関心だし、誰がどうなろうと僕には知ったことじゃないといつも思ってる。

 そんな僕なのに、なんでだろう?

 急に走り出した僕を見て、満照も妹も驚いた声を上げた。二人とも、まだ気付いてないんだ。

「おい、お前、何を──!」

「お兄ちゃん! 危ない!」

 自分のことなんか、正直どうでもよかった。でも、この子には病死の様子が感じられなかったから。きっとすぐに退院して、元気に学校に通うんだろうから。まだまだ未来のある子供なんだから。子供なんて全然これっぽっちも好きじゃないけど、僕が生きてるより将来性はあると思うし。

 なんてことを一瞬にして考えたわけじゃないと思うけど、気が付いたら僕は窓から落ちてくる男の子をスライディングして掬うように身を投げ出していた。多分間に合ったと思うんだけど、その代わりに全身を激痛が襲った。そのままゴロゴロ回転して、その男の子をかばいつつ、本能なのか自分の頭もかばって、惰性で病院の壁に激突したみたいだ。

 僕は意識を失った。


 目が覚めたらそこは病院のふかふかなベッドの上で、真っ白な天井が見えた。ああ、憧れのシチュエーションかも。でも、それは結局僕は死ねなかったということで。

「あ、起きた?」

 妹がベッドの脇に座っていて、目を開けた僕に気が付いた。反対側から満照も僕を覗き込む。

「大丈夫か?」

 せっかく二人きりなんだから、隣同士に座ればいいのに、なんで僕の左右に別れて座ってるんだよ、バカじゃないの? なんて身勝手なことを考えてから、僕がハッとした。

「あの、男の子は?」

「男の子?」

 焦る僕を不思議そうに見て、妹が問い掛ける。

「男の子って?」

「え?」

 妹の顔は別にからかってはいなかったし、心底不思議そうな目をしていた。僕は満照に顔を向ける。こっちもやっぱり意味がわからないというような顔をしていて、もう一度僕に「大丈夫か?」と訊いた。

「あの、ちょっと説明が欲しい」

 僕は頭が混乱してるんだろうか? ひとまず落ち着こう。何があったのか聞こう。

「説明が欲しいのはこっちなんだけど、まぁいいわ。とりあえず、はい、お水」

 ペットボトル入りの水を妹が僕に渡しながら、淡々と話し出した。僕はキャップをひねって飲めるだけの水を飲む。半分くらい減った。

「とりあえず、ここは私の病室。頭も打ってないし、点滴なんかも必要ないから、処置室に寝かせとくだけだと場所取って迷惑だろうと思って、ここに運んでもらったの」

 感謝しなさい、とばかりに妹は言う。

「それにしてもびっくりするわよ。お兄ちゃんたら急に走り出して、芝生にスライディングしたと思ったら、そのまま壁にブチ当たっちゃうんだもん」

 それは僕の意識と一致してる。夢じゃなかったみたいだ。

「お前、なんで急にあんなことしたんだ?」

 満照が右側から問いかけた。

「なんでって……二階の窓、見なかった?」

「二階の窓?」

「えー、見なかったなぁ」

 やっぱり二人とも気付いてなかったみたいだ。だから今度は僕が説明を始めた。

「ちょうど二階の端の部屋の窓から、小六か中一くらいの男の子が、落ちそうになってたんだよ。それで思わず身体が勝手に動いて、なんていうか、助けちゃったっていうか……」

 少し気恥ずかしくなって、尻すぼみになってしまったけど、言ったことは通じたみたいだった。ただ、同意は得られなかった。

「男の子なんて、いなかったよ?」

 妹が断言した。

「お兄ちゃんの腕の中は空っぽだったし、もちろん他の場所にも落ちてきてないよ。二階の窓は見てないけど、そんな小さい子は他の病棟だと思うし」

「え……?」

 じゃああれは何だった? 幽霊? 幻覚? 妄想?

「お前、その男の子の全体像、見たのか?」

 満照がの言葉に、僕は首を横に振る。僕が見たのは、落ちそうになってた上半身だけだ。

「じゃあなんで、小六か中一なんていう、ピンポイントでわかったんだ?」

 そう言われてみれば、そうだ。二階の窓で落ちかかった上半身だけ見ても、身長や体格なんかはわからない。顔さえ見えなかったんだし。

 だけどあの時思ったんだ。ちょうど昔の僕みたいだったから。病院になんか二度と来るもんかって思った、あの時の僕。

 うん? 今何か引っかかったような気がするんだけど。

 満照と妹は顔を見合わせていた。何か目と目で相談し合ってるみたいで、その間にいる僕はなんとなくいたたまれない。

「いいかな?」

 妹が満照にすがるように言った。

「俺が責任持つよ」

 なんだろう。将来の話? 何、妹、妊娠でもしたの? 満照、責任取れるの?

 なんだかわけのわからない想像をしながら、僕は二人の決断を待った。そして、満を持したように満照が僕に言った。

「お前、よく記憶に抜けがあるの、気付いてるか?」

「抜け?」

 まぁ、自分が物覚えのいい方ではないことは自覚してるつもり。でもそれの大半は、最初から覚える気がないからだし、思い出す必要のないものだと判断してるから覚えないだけなんだけど。記憶の抜け? それを抜けと言うなら抜けなのかも知れないけど。

 そう満照に伝えると、また二人は顔を見合わせた。今度は妹が口を開く。

「お兄ちゃんはさ、病気じゃないし、障害者でもないんだけど、ちょっと脳に欠点があるらしいんだよ」

「脳に欠点?」

 そんなもの、僕の脳みそなんか欠点だらけに決まってるじゃないか。人並みを期待されてたとしたら申し訳ないけど、僕はもともとまともじゃないと自分でも理解してるよ?

 なんてことはさすがに言っちゃまずいのかなぁって思ったけど、ここはなんとなく自分の意見を言うべきだと思ったので、それとなく遠回しに思ったことをオブラートに包んで言ってみた。するとやっぱり二人は目を合わせて、頷き合った。

「本当はお父さんとお母さんに口止めされてるんだけど」

「まぁ、ここは子供同士の他愛ないおしゃべりだと思ってくれ」

「え? ああ、うん」

 なんとなく二人の勢いに飲まれて、僕は頼りなく頷いた。なんだろう、何か僕にはとんでもない秘密が隠されてるんだろうか? 実は宇宙人だったとか、化物の血が混じってるとか。

 この期に及んでまだそんなバカなことを考える余裕のある僕は、やっぱり脳に欠点があるんだろう。欠点っていうより、もう欠陥品だよね。

「多分お前が助けたって言ってるのは、お前自身なんだと俺は思う」

 いつになく自信を持って満照が言ったので、僕は息を飲んだ。

「中一の頃、多分一番辛かった頃のお前は、例の能力に耐えられなかったのかどうかわからないけど、一度ここで倒れてるんだ」

「え?」

 そんな記憶、ないけど?

「覚えてないでしょ?」

 妹の言葉に、僕は頷くしかない。だって、本当に知らない。この病院には来たことはあるけど、中庭と死んだ女性の病室しか知らないし。

「その日、お前は多分またここに来て何かしてたんだろうな。それはお前自身が思い出すしかないんだけど、俺はお前の家で妹ちゃんと遊んでたんだ。そしたら病院から電話があって。お母さんが慌てて病院に行くって言うから、俺たちも無理言って一緒にタクシーで連れて行ってもらったんだよ。まぁ、子供二人を家に置いとくのも心配だっただろうし」

 そこまで聞かされてもやっぱり、何の欠片も思い出せなかった。これが記憶の〈抜け〉っていうやつ?

「倒れた原因は結局わからなくて、多分心労だろうって話だった。俺はお前の変な能力のことを知ってたから、多分ここで何かあったんだろうなとは思ったけど、確かなことはわからない」

「その時にね、念のためにお兄ちゃんの脳の検査もしたんだよ。そしたら、その時倒れたことが直接の原因じゃないんだけど、脳に少し欠点があるようで、って言われたんだ」

 医師が言ったんだったら、僕の脳みそには本当に欠点があるんだろう。ヤブでなければ。

「子供だったから、俺たちには難しい話は理解できなかった。ただわかったのは、お前には少し記憶に関する障害があって、断片的にものを忘れてしまうことがあるらしい」

「例えば、人の名前を覚えられないとか、って言ってた」

 確かに、人の名前は覚えない。それは僕が覚える気がないからで──じゃなかったのかな? 覚えたのに忘れてる? 瑞慶覧……島津霧江の名前を忘れてたように? こないだ死んだ、中学時代の同級生の名前がいまだに思い出せないように?

 ここの病院の様子も思い出せないし、亡くなったあの時の女性の病室に貼ってあったあずのプレートの名前も思い出せない。車椅子の男性にも名前を聞いたはずだけど、まったく覚えてない。

 それが、僕の脳の欠点?

「こんな話をしても、多分お前はまた忘れるかも知れない。ただ、日常生活には差し支えない範囲だそうだし、お前はちゃんと勉強もできてるし、生きていく上ではだいたいにおいてほとんど問題ない。お前が俺や妹ちゃんのことを忘れるようなことはないし、受験勉強をすればちゃんと身につくはずだ」

 そりゃ、確かに日常生活には差し支えないとは思うけど……自分の知らないことがあるっていうのは、やっぱり怖い。

「ねぇ、それって僕がどこかで何かをやらかしたとして、それを全然覚えてないってことがあったりするんじゃないの? 平気で犯罪を犯しておいて、その時の記憶を失くして平然と生きてたりはしないの?」

「それはない、って病院の先生は言ってたよ。そこまで深刻な症状じゃないって」

「だから、病気でも障害でもないんだよ」

 ポンポン、と満照の大きな手が僕の回らない頭を軽く叩く。妹が少しうらやましそうに見てるけど、今ばかりは目をつぶってくれそうだ。

「お前が助けたっていうその男の子は、だから多分あの時のお前だ。この場所に囚われて、気持ちが不安定なままの、あの頃のお前だったんだろうな」

「そんな……あれはじゃあ、幻覚?」

「俺たちには見えなかったのは本当だから、幻覚と言えば幻覚なんだろうけど、お前には見えてたって言うんなら、お前にとっては現実なんだよ」

 満照は難しいことを言ったけど、不思議と今の僕には理解できた。


 僕が救ったのは、あの頃の僕──?


 もし、そうなんだとしたら。その男の子はいなくなってしまった。死んだのか、消えたのか、わからないけど。もうここにはいないということだけは確かだ。

 それから、僕の中にも、もういない──?

 黙ってしまった二人を置いて、僕も考え込む。

 中一の初め、この変な能力の検証をしようとこの病院に通っていた頃。出会った男女。死んでしまった女性。今でも思い出すと腹の立つクソババァ。それは覚えてる。でも、誰の名前も思い出せない。場所もよく覚えてない。今日ここに来た時も、何も見知った景色がなかった。自販機の場所も知らなかった。池があるのも初めて知った。

 中学の頃の同級生の名前。思い出そうとしてみる。死んだのは誰だっけ? 委員長はなんていう名前だった? 僕は美化委員だったのは覚えてるのに、もう一人の女子が誰だったかわからない。担任の教師の名前は?

「本当だ……僕、何も覚えてない……」

 僕のショックの幅を見据えてか、満照が立ち上がっていた。暴れだしたりしたら押さえ込もうとしてるんだろうか? でも大丈夫だよ。そんな気力はないから。

「……黙っててごめんね?」

 妹が心底申し訳なさそうに言ったので、僕は兄の顔を取り戻して冷静に返した。

「しょうがないよ。親に口止めされてたんだし、子供だったんだし、別にお前のせいでもないんだから」

「俺も、何も言えなくて……ごめんな」

 満照まで神妙な顔をするもんだから、僕が元気を出すしかなくなっちゃうじゃないか。

「大丈夫だよー。これは子供同士の他愛ない会話だから、誰にも言わない。三人だけの秘密だね。秘密ごっこって、楽しくない?」

「お兄ちゃん、昔から秘密ごっこ大好きだもんね」

「まぁ、もともと秘密主義だからな、お前は」

 僕のカラ元気を察してくれたのか、二人ともうまく乗ってきてくれた。そう、僕は秘密ごっこが大好きだ。「秘密」という不思議な目に見えないものでつながっている気がするから。それが「約束」とか「希望」だったら、そんなに好きじゃなかったと思う。「秘密」だからいいんだよ。誰にも言わないこと、「秘密」があることさえ気付かれないようにすること、知っている間柄の相手とだけ話せる会話。

 実の妹と本物の親友を相手に、そんな曖昧なものにすがらなければ関係を確立できないと思ってるわけじゃないけど、やっぱり三人のだけ秘密、という響きは僕を高揚させた。もしかしたら幼い頃に僕が誰かと交わしたかも知れない「秘密」は、もうきっと思い出せないんだろうけど。

 まぁ過去のことはもういいじゃないか。覚えてない──忘れてしまったものは仕方がない。どんなに脳の中を引っ掻き回しても出てこないものは出てこないんだし、今のところ僕には忘れて困ってることはない。忘れてるから困りようもないのかも知れないけど、日常生活に支障がない程度なら、多分忘れててもたいして重要なことじゃないんだろう。大事なことならきっと忘れないはずだから。現に満照との子供の頃の思い出はちゃんとあるし、妹の小さい頃のことも覚えてる。大丈夫だ。

 忘れてしまってるのは、きっと覚えてると都合が悪いことなんだろう。そうでもしないと、僕が壊れてしまうような。だから、僕はこの病院にいたことも覚えてないんだと思う。ああ、じゃあもしかしたら、あの二階の端の部屋に入院してたのかも知れないなぁ。今妹が着てるみたいな、薄緑色の病衣を着て、窓の外を見てたのかも。そして、すべてを忘れてしまいたいと願ったのかも知れない。果たして願いは叶ったものの、僕の脳には欠点がありました、っていうオチだね。

「ファンタジックだね」

 僕の言葉に、妹は目を丸くした。

「なにそれ。お兄ちゃんって、そんな言葉知ってたんだ?」

「どう言う意味」

「お兄ちゃんには一生縁のない言葉だと思ったから」

「僕だってそう思うこともあるかも知れないじゃない。だいたいこんな話をされて、『すごく現実っぽいね』なんて逆に言えないよ」

「まぁ、それはそうね」

 満照は薄く笑って、また「大丈夫か?」と言った。僕はなるべく元気を込めて「大丈夫だよ」と答えた。やっぱり満照は「そうか」と言って、静かになった。

 そうか、満照が異常に僕を心配してくれるのも、妙に過保護なのも、僕がそんな状態なのを知ってたからなのか。でも、もしも僕が何の欠点もなくても、やっぱり満照は僕の親友だったと思うから、別に気にしない。だって、満照が僕を親友認定してくれたのは小六の頃だったんだもんね。

 逆にこんなおかしな頭になっちゃったら、普通は距離を置くと思うんだけど、満照はそうしないで一緒にいてくれた。変わらず僕と接してくれた。一人で秘密を抱えて──実際は妹やうちの両親も一緒に抱えてたんだけど、子供にすればすごく重かっただろう。それは妹も同じだと思う。きっと妹は「みっくんも同じ」と思って耐えてたんだろうな。やっぱり満照は僕たち兄妹にとっての救いだ。二人分の期待を背負って大変だろうと思うけど、満照の広い背中は頼もしいし、大きな手は安心する。この手はいつか、妹を包んでくれるだろうか。変な兄を持ってしまった、可哀想なのに元気で明るい妹を。

 僕は手元に残ったペットボトルの水を全部飲み干して、空き容器を妹に渡した。文句も言わずにそれを受け取って、ゴミ箱に捨ててくれる。

「僕が今ここいいるって、家には連絡したの?」

「してないよ」

「検査も必要ないって言われたしな。まぁ、ゆっくり休んで帰りなさいって言ってたから、ゆっくりすればいいんじゃないか? 頭は大丈夫みたいだったけど、痣だらけになってるらしいぞ」

 そう言われてみると、通常ならどうやっても傷めそうにないような、背中の真ん中とか、太ももの外側とかが痛い。湿布か何かが貼られている感触がする。

「それにしてもなんか、頭だけ守るっていうのが、やっぱりお兄ちゃんらしいよね」

「どうして?」

 僕はこんなに死にたがりで、頭なんか普通絶対守らないのに。むしろ進んでぶつけたいくらいだったのに。本当に、どうしてかばっちゃったんだろう。

「だってお兄ちゃん、すごく長生きしたそうだもん」

 びっくりした。だってまさか現実と正反対の印象を抱かれてるとは思わなかったから。

「僕が? 長生きしたそう? どうして?」

 むしろ……と続けようとして、慌てて止めた。

「うーん、うまく言えないけど、お兄ちゃんってなんか生命力あるし、誰かを助けるような仕事に就きそうな気がするんだよね。まぁあの変な能力のせいもあるのかも知れないけど、生きる意欲がすごく感じられるよ?」

 嘘だ。妹は全然僕をわかってない。

 そう思って満照を見ると、満照まで薄笑いを浮かべていた。

「お前は長生きするよ。死ぬ人の辛さがわかってるから。遺された人の哀しみも知ってるから。それに俺は、お前に死んで欲しくないし」

 嫌だ。そんな言葉、大事な相手から聞きたくない。そんなことを言われたら、ますます死ねなくなっちゃうじゃないか。今までは押しも引きもしなかったのに、どうして満照は急にそんなふうに言うようになったの?

「私だってお兄ちゃんには長生きして欲しいよ。兄に先立たれた妹、なんて可愛そうな子にしないでよね」

 だからダメだってば。どうしてそんなこと言うんだよ。僕なんか何の価値もなくて、生きてても死んでてもどうでもいいような奴なのに。むしろ、この世から消えた方が世の中のためになるかも知れないような奴なのに。

「そうやってね、お兄ちゃんを引き止めるのが私たちの役目なんだって気付いたの」

「?」

 役目? 私たち?

「今までどうにもしてやれなくてごめんな。俺がたった一言、そう言えれば良かったんだな。お前に、生きてて欲しいって」

「満照……」

 満照はずっと知ってたはずだ。僕が死にたがってたことを。それでも何も言わなかったし、僕からも離れなかった。それは僕を見捨てなかったから? 僕のことを大事に思ってくれてたから?

 ダメだよ、僕にそんな気を持たせるようなこと言っちゃ。誤解しちゃうじゃないか。自分の都合のいいように解釈しちゃうじゃないか。これからの生きる糧になっちゃうじゃないか。

「俺たちがいることを忘れないでくれよ。お前のことをものすごく大事に思ってる人間がいるって、覚えててくれ。そうすれば、きっとお前は死なないでいられる」

「お兄ちゃんは優しいから、私たちはそれに漬け込んで呪文をかけるのです。お兄ちゃんが死なないおまじないだよ。お兄ちゃんは死なないよ。私は死なないって、お兄ちゃんはさっき私に言ったよね? だから私も保証する。お兄ちゃんは死なない」

「なんで……そんなこと言うのさ……」

「お前に生きてて欲しいからに決まってるだろ」

「なんで、僕なんかが生きてないといけないんだよ」

「私のお兄ちゃんなんだから当然でしょ!」

「なにそれ……意味わかんない……」

 気が付くと、本当にもう何年ぶりだろう、記憶にないくらいに小さな頃以来だろうってくらいに久しぶりに、僕の目から涙が流れていた。後から後から溢れて、自分の意志で止められない。長らく泣いたことなんてなかったから、止め方がわからない。

「ほら、涙が出るのは生きてる証!」

 妹がもう支離滅裂なことを言い出したので、僕はただ流れ出す涙を放置した。すると僕の顔に、失礼ながらまっ平らな妹の胸が押し付けられた。

「はいはい、泣き虫さんに逆戻りのお兄ちゃん。妹の胸を貸そう。大いに泣くがいい」

 ホント、意味わかんないんだけど。でもそれを押しのける気にはならなくて、僕はただ呆然と妹に包まれていた。すると、もう一つぬくもりが増えた。妹ごと、満照が僕を抱きしめてくれている。顔は見えないけど、妹は有頂天だろうな、なんて思ったらおかしくなってきた。それでも涙は止まらなかったけど。

 しばらく僕は静かに泣いて、三人で丸まっていた。本当なら暑苦しいくらいの季節なのに、日が暮れてきたこともあってか、とても温かくて穏やかだった。

 僕がもぞもぞしだしたのを合図に、満照が離れ、それじゃあもう僕に用はないとばかりに妹も離れた。病衣の真ん中が濡れている。あれが、僕の涙?

「お兄ちゃんには私とみっくんがついてるからね」

「何かあったら頼ればいいし、何もなくても一緒にいたらいいんだ」

「親しい相手と仲良くするのに、理由なんかいらないんだからね」

 妹の言葉が響いた。

 理由。僕はそればかり求めてた気がする。だから満照にも素直に頼れなかったし、申し訳ない気持ちを抱き続けてきたんだ。生きていくのにも理由を求めていたのかも知れない。僕がこの世に生きててもいい理由を。

 理由なんかいらない──いらないのか。求める必要はないのか。そうか、そうなのか。僕は不要なものばかりを求めて、本当に必要なものを欲しなかっただけなのかも知れない。大事なことから目を逸らして、どうでもいいことにばかり心を奪われて。

「僕が生きてたら、何かいいことある?」

「俺が助かる」

「私が喜ぶ!」

「なにそれ」

「ものすごく大事なことじゃない! 生きてるだけで人のためになるんだよ? 生きててくれてありがとうって言われるんだよ? すごいことじゃん!」

「じゃあ僕は、お前と満照にもちゃんと生きててもらわないとね」

「お前が生きてる限りは長生きするよ」

「私の方が年下なんだから、先には死なないよ」

 また少し、涙が出たけど、それはすぐに引っ込めることができた。


 面会時間も終了間際になったので、妹に付き添われて僕と満照は病院の玄関に向かっていた。途中で看護師さんに「あらぁ、お兄さん、大丈夫だったぁ?」と脳天気な声を掛けられたけど、妹は元気に笑顔で「はい! おかげさまで!」と返したので、僕も小さく会釈しておいた。今後の妹の入院環境に関わるといけないし。

 もうすぐ玄関、というところで、気が付いた。というか、気が付くのが遅すぎたくらいだった。

「……感じない……」

 小さく呟くと、満照が慌てて「大丈夫か?」と僕を支えた。

「手か? 足か? 頭か? 少し座るか?」

「ああごめん、そうじゃないんだ。僕は大丈夫。健康だよ」

「じゃあどうした?」

「あそこに座ってるおじいさん」

 小さく周囲に気付かれないように指差す。かなり高齢のおじいさんが座っていて、それは僕たちが来た時から寸分違わずそこに座っている置物のようだったので、さすがの僕も覚えていた。来た時は、明らかに死をまとっていた。見るからにまだ生きてるのが不思議なくらいに弱々しかったけど、僕はあまり見ないようにして気に留めないようにしてたんだ。

 だけど、今はそれを感じない。見た目は変わらないし、多分もうすぐ亡くなるのは間違いなさそうなのに。それに一度僕はそれを確認してるのに。

 周囲にはまだそれなりの人数の人がいた。来た時と同じ顔ぶれかどうかなんて覚えてないけど、これだけ入院病棟に人がいれば、もう一人や二人くらい、死の気配のする人がいるのが、いつもの僕の普通なのに。だって、近所のコンビニでだって遭遇するんだから、病院で出会わないわけがない。それとも、重病の人はもう就寝の時間だったりするんだろうか?

 僕が指差した先のおじいさんを見た満照は、大方察した様子だった。妹は不思議そうな顔をしている。

「消えたのか」

「……そうみたい……まだわかんないけど」

 満照が妹に小さく耳打ちする。妹はパッと明るい顔になったけど、場所と時間を考えたのか、あまりはしゃがずに静かに「良かったね」と言った。

 ニコニコ笑顔を絶やさない妹に玄関で見守られて、僕たちは帰路に着いた。母親が毎日自転車で通ってる距離だから、高校生の僕たちなら普通に歩ける距離だ。まぁ、多少は時間は掛かるけど。

 途中で空腹を感じたこともあったけど、実験的に僕はコンビニに寄りたいと言った。満照ももちろん一緒に入って、それぞれ自分の求めるもののある棚に向かった。お客さんは五人いた。立ち読みしてる中年の男性が二人。女子高生二人組と、会社帰りのOLっぽい女性。普通なら、病気で死にそうにない年齢の人ばかりだったけど、そこで死ぬ人を見つけてしまうのが僕だったのに。

 何も、感じない。

 もちろん、店長の名札を付けた年配の男性も、死にそうになかった。少なくとも、僕にはわからなかった。

「どうだった?」

 コンビニを出て、満照が聞いてくる。僕は感じたままを伝えた。

「そうか……消えてるなら、いいな」

「うん」

 まだハッキリしないからか、満照もあまり気を持たせるようなことは言わなかった。

 結局のその夜は、家に着くまでに何人もの人や自転車とすれ違ったけど、誰も死にそうな感じはしなかった。


 確実なことがわかったのは、翌日の朝だった。通学のためにいつも利用する駅で、だいたい毎日見掛ける中年の男性がいる。その人は、僕が少し前にもうすぐ死ぬと知った人だ。もうここで見掛けることがなくなったら、死んだっていうことなんだろうな、なんて思ってたんだけど。

 今日は、その人から、死の気配がなかった。病気が治ったのかと思ったけど、今までの僕の予想は残念ながら百発百中だったし、治るような病気なら僕には多分死は見えないはずなんだ。

 だとすると、考えられることはやっぱり一つしかない。

「消えた……?」

 学校に着いてから昼休みまで待って、落ち着いて満照に説明した。

「よかったじゃないか」

「まさかと思うんだけど、満照に僕の変な能力が移ってたりはしないよね?」

「そんな漫画みたいなこと、あるわけないだろ」

「よかった……」

 これでただ純粋に喜べる。誰にも迷惑を掛けずに、僕は僕の異物を失った。失うことを恐れてたけど、あまりにもあっさりとしていて、かえって拍子抜けするくらいだった。

「本当によかった。これでお前が死ぬ理由もなくなっただろ?」

「え?」

「全部とは言わないけど、その変な力のせいで死にたい気分になることもあっただろ」

「まぁね」

 そうだ。あの不快さから解放されたんだ。あの恐怖から、あの無力さから、あの罪悪感から、僕は解き放たれたんだ。

「でもどうして急に消えちゃったんだろうね」

「昨日病院に行ったからじゃないか?」

「それだけ?」

「だってお前、助けたんだろ? とある〈男の子〉をさ」

 ああ、そうだったのか。やっぱり、あの男の子は僕だったのか。

 僕は、僕を、救ったんだ──。

「だからお前は、自分のことを自分で解決しただけなんだよ。よくやったな」

「うん……」

 また少し、泣けてきた。やだな、教室なのに。一度泣いちゃうと、涙腺が緩くなっちゃうのかなぁ?

 僕は弁当箱の蓋を閉めて、涙を堪えるように窓から遠くの空を見上げた。


 ──バイバイ、あの頃の僕──。


 僕はもう、ちゃんと生きていけると思うよ。



                                  〈了〉

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不器用な死にたがり 桜井直樹 @naoki_sakurai_w

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