現代世界の魔女審問官、魔女と出会ってさあ大変

徒家エイト

第1話

 むかしむかし、レニヒストハーフェンはわるい魔女モーガンに支配されていました。魔女は魔法を使って、人々にいろいろな災いをもたらしました。

 そんな中勇者アグネスさまが、魔女モーガンを退治するために立ち上がりました。

 アグネスさまは様々な困難を乗り越えてモーガンを倒し、この国は平和になりました。

 アグネスさまはレニヒストハーフェンの女王様になると、この国が二度と魔女に支配されないよう、魔女を見つけ、退治するために、魔女審問会を作ったのです。

 魔女審問会は今でも魔女から国民を守り、この国の歴史と伝統を紡いでいます。


「魔女審問会のアグネス・ロートです。見学者向けパンフレットの件で伺いました!」

 受付の小窓から叫ぶと、スーツ姿のおじさんがめんどくさそうにやってきた。

「何?」

「すみません、審問会で新しい紹介用パンフレットを作成しまして……。ここにそれを置いて頂きたいんですが」

 そうお願いすると、おじさんは嫌そうに首を横に振った。

「ダメダメ。前のパンフも余ってるのに、新しいのなんか置けるわけないでしょう」

 取り付く島もない。とはいえ私も仕事だ。ここで退くわけにはいかない。

「そこをなんとか……。置いて頂かないと私も帰れなくて」

「どうせ帰ってもロクに仕事なんかないでしょ、魔女審問会なんか」

「うっ」

 私は言葉を失った。おじさんはエントランスホールの方を顎で指す。

「ほら、あそこに見学者向けのパンフ置いてるけど、おたくのだけ全く減ってないでしょ」

 枢密院本館にふさわしい豪華絢爛なホールの端にある、お役所感満載の金属製パンフレット立て。そこには一つだけ束のまま残っているパンフレットが見えた。

「しかもまだ段ボール一個分残ってるんだよ?」

「で、ですが今回はデザインも一新して」

「はぁ」

 おじさんは大きなため息をついた。

「普段から仕事してないのにそんなことしたの? だから税金の無駄とか言われるんだよ、おたくら。今日日魔女狩りなんてイメージも悪いしさ」

「……はい」

「まあ君に言ってもしょうがないけどね。さっさと廃止にしてもらった方がもうちょっとやりがいある仕事に就けるんじゃない?」

 おじさんはそれだけ言うと、鳴りだした電話の対応に移ってしまった。

 仕方なく、パンフレットの入った段ボールを抱えて受付を立ち去る。三百部のパンフレットは持ってきた時よりも重たく感じた。

「はぁ……。どうしよう……」

 門前払いされた私はすっかり意気消沈してしまった。ただあのおじさんの言うことは最もだ。だって私たちは。

「あ、見て見てー!」

 この建物に場違いな子供の声が聞こえた。顔を上げると、社会科見学中の小学生らしき子供たちの集団がいた。

「あの格好、何あれ!」

「おとぎ話みたい!」

 子供たちは何の遠慮もなく私を指差して言う。私は改めて自分の姿を見た。黒い軍服のような上着に同じく黒の上掛け、白い乗馬用キュロットに革のブーツ。黒地のキャンペーンハットには、満月と短剣をあしらった魔女審問会の紋章が銀色に光っている。

「彼女は魔女審問会の審問官さんですよ」

 子供たちを引率していたガイドが紹介すると驚きの声が上がる。

「え、魔女?」

「魔女とかいないのに、変なの」

 そんな言葉を聴きながら、私は足早にこの場を立ち去った。

 魔女。

 かつて魔法を用いてこの国を支配したと言われる空想上の存在。

 だがインターネットが星の隅々を繋ぎ、科学の力が宇宙の果てから原子の構造までを明らかにしつつあるこの現代社会に、そんなものが存在する余地はない。そんなことは魔女審問官である私、アグネス・ロートだってよくわかっていた。


 レニヒストハーフェン王国枢密院書記局魔女審問会。現在六人の審問官を有するこの組織は、八百年前の建国直後から存在する現役最古の政府組織だ。

 その職務は魔女を見つけ、魔法で人々に危害を及ぼすことを未然に防ぐ、つまり魔女狩り。建国当初や中世の時代にはそこそこ活躍したらしい。

 しかし時代が進むと同時に魔女審問会は役割を失っていく。急速に発展した科学は魔女や魔法の存在を否定し、魔女審問会は設立当初の存在意義を完全に失っていた。

 王都警察に採用されたはずの私は、何の因果かこの生きた化石のような組織に配属となったのである。

「アグネス……。アグネス!」

 急に名前を呼ばれ、私は物思いから抜け出した。

 いつの間にか枢密院本館から審問会本部のある別館への渡り廊下を歩いていた。庭園から吹き抜ける風が気分と反して心地よい。

「ぼうっとしてると危ないぞ」

 私の後ろからやってきた女性は、私を見て首を傾げた。

 私と同じ審問官の制服。短く刈り込んだ黒髪は、私と同じ髪色なのに活発ですっきりとした印象を与えている。背が高く、男性とも見間違えてしまいそうだが、舞台女優のようによく通る声は紛れもなく女性のものだ。

 私の上司である魔女審問会次席審問官、ジャンヌ・エドワースさんだ。教育担当として色々と教えてもらっている方でもある。

「どうした、それ。受付に渡しに行ったんじゃなかったのか?」

「それが置いてもらえなくて」

 ため息交じりに言うと、ジャンヌさんは顔をしかめた。

「前に持って行ったのが残ってるってか?」

「はい」

「そうか」

 ジャンヌさんも苦い顔になる。

「それは災難だったな」

 ちょうどそのタイミングで『魔女審問会本部』のプレートの掲げられた部屋の前に到着した。

「ただいま戻りました」

「おかえりー」

 私が扉を開けると、中にいた人たちが出迎えてくれる。かつては数十人が在籍したと言われる審問会本部も、今は六人だけ。広い部屋のほとんどは物置と化していて、残った端のスペースに固まるように私たち現役審問官たちは座っている。

「おかえり、アグネスちゃん。パンフの評判、どないやった?」

「申し訳ありません、受け取ってもらえませんでした……」

 一番奥の座席に座っていた審問会のトップ、首席審問官のアリス・ジョンストンさんに私は頭を下げた。

 背が低く、三つ編みをしていて、一見すると少女のような幼い容貌だが、これでも他省庁では局長級の公務員らしい。つまりとてつもなく偉い人だ。

「あらら、それは堪忍やったね。去年のが残っとったん?」

「はい、だから持って帰れと」

「そうかー。ほな端っこの方置いとってもらってもええ?」

「わかりました」

「よろしく。ジャンヌちゃんはどないやった?」

アリスさんは、たいていニコニコしている。おかげで職場の雰囲気自体は悪くない。

 ただその後ジャンヌさんから受取った書類を見て、アリスさんは珍しくその表情を曇らせた。

「あー、あかんやったかぁ」

 アリスさんの反応に、ほかの審問官も手を止める。

「どうかしましたか?」

 不安そうに聞く彼女たちに、アリスさんは力なく笑いかけた。

「ウチが……、魔女審問会が、行政改革会議の議題に上がるらしいわ」

 その言葉でざわつきが生まれた。私は段ボール箱を置く場所を探しながら聞き耳を立てる。

「それはつまり、審問会は廃止ということですか?」

「まだわからん。うちに事前ヒアリングに来るよーにっていう手紙やね、これは」

 アリスさんがひらひらと紙を見せる。

「まあそのうち来るやろうって思っとったし、今回は大した話はせーへんと思うで。みんなもそないに心配せんで大丈夫やわ!」

 そうは言われつつも、先輩方の顔からは不安の色が消えなかった。

 魔女審問会が廃止の危機にあるという噂は、私がここに入った時から聞いていた。

 当たり前だろう。

 魔女なんて存在しないことは明らかなのに、魔女を見つけ出す組織なんてものが貴重な税金で運営されているなど、国民から認められるはずがない。

 いくら歴史と伝統があるとはいえ、現役の組織としては無理があったのだ。

 そんな組織がこれまで存続できていたこと自体、奇跡に等しい。

『王国には無駄な組織が多すぎる! 魔女審問会なんてものも存続しているんですよ!? こんな化石のようなものはさっさと廃止して、税金をより効率的に使うべきです!』

 休憩スペースでつけたままになっているテレビから、宰相の演説が聞こえてきた。

 これはもう寿命なのだろうな。仕方のない事だ。

 上手くいけば、私も警察に戻れるかもしれない。

 埃の積もった部屋の隅に不要となったパンフレットを置きながら、私はそう考えていた。


 夕方。ガス灯を模したLED灯が石畳の道路を照らす。

 職場である枢密院本館は、王宮のすぐ裏手にある。この辺りは中世から近代にかけて建築された建物が多く、街灯や道路、コンビニなども景観に溶け込むよう工夫されていた。

 日はすでに沈みかけている。雲の隙間がほのかにオレンジ色に染まっていた。

 業務を終えた私は窮屈な制服から普通のスーツに着替え、家路についていた。この辺りは官庁街でもあるので、私と同じようなスーツ姿の男女が多く歩いている。

 庁舎にはまだ明かりが多くついていて、残業に励んでいるのだろう公務員の姿も見えた。

 なんだか居心地が悪かった。

 私はもともと、刑事になりたかった。ドラマの中でカッコよく活躍する姿にあこがれていたのだ。

 念願叶えて王都警察に入ったのに、なぜか今は、こんなところで油を売っている。

「なんでこんなことに……」

 私は運命を呪った。

魔女でも何でもいい。こんな状況を、誰か壊してくれ。

「あの!」

 唐突に声をかけられた。顔を上げると、一人の少女がいた。背が高く、私を見下ろす格好になっている。

「ねえ君、この辺詳しい?」

「え……?」

 私は呆気に取られていた。突然話しかけられたからではない。少女の恰好がとても奇妙だったからだ。

 ふわふわで透き通った金髪は肩あたりまで伸びていて、毛先がくるりとカーブを描いていた。こちらを見つめる瞳は南の海のようにきれいな水色で、キラキラと光っている。私よりもスタイルが良いようだが、顔はまだ幼く見えた。

 だがそれより目を引くのは、少女が被っている大きな三角の魔女帽子だ。おまけに足元までを覆った黒いローブを着ていて、背中には大きなリュックサックと箒を背負っていた。

 胸元に光る銀のネックレスが、黒で固められた衣装でひときわ目立って輝いている。

「セントラルアレニアってところに行きたいんだ」

 少女は使い古した王都の観光マップを見せた。

「メトロの駅はわかったんだけど、そこから先が全然わかんなくて」

「セントラルアレニアは一応ここですけど……」

 初対面なのにすごく距離を詰めてくる少女に若干おののきながら、私は地図を受け取って現在位置を指さした。地図上に赤いマーカーで印がつけられていた。

「え、マジ? 私天才だ!」

 少女は無邪気に喜ぶ。そんな少女に、私はおそるおそる伝えた。

「でも、本当にここが目的地ですか? ここは……、そういう恰好をする場所じゃないですけど……」

 コスプレ、というやつなのだろうと思った。マンガやアニメに出てくるキャラクターに扮する奴。極東の島国から持ち込まれたこの文化は、レニヒストハーフェンでも一部に根強い人気がある。かつてこの国で忌々しいものと忌み嫌われた魔女も、今ではすっかり人気キャラクターだ。

 とはいえ官庁街のど真ん中でやることはない。

「えー、おばーちゃんはここだって言ってたんだけどなー」

 少女は頭をぽりぽりと掻いた。

「そうだ、この辺に住んでるおばあさん知ってる? めちゃくちゃ歳取ってるはずなんだけど」

「この辺りは人なんか住んでませんよ」

「えー、マジで? こんなに建物建ってるのに?」

「全部オフィスビルなので」

「あーなるほど。そっかー……」

 少女は残念そうに肩を落とす。

「お名前はわからないんですか? 詳しい住所とか、連絡先とか」

「それがずっとアレーヌのおばちゃんって呼んでたからよくわかんないんだよねー」

 少女が深いため息をついた。しかしすぐに顔を上げると、にっこりと笑った。

「まあいいや。ありがと! もうちょっと探してみるね!」

「あ、はい、頑張ってください」

「じゃあねー」

 少女は言うが早いが手を振って駆けだした。すぐに通りを曲がって見えなくなる。

「……あ、地図」

 少女から渡された地図を持ちっぱなしだった。慌てて後を追う。

「すみません! 地図を……。あれ?」

 角を曲がっても少女の姿はなかった。あんなに目立つ格好をしていたのに。

「……どこ行ったんだろう」

 人ごみに紛れてしまったのだろうか。

「まあいいか……」

 この地図自体は観光案内所で配っているものだ。それに今の時代、彼女もスマホぐらい持っているだろうし、別に困ることもないだろう。

 そう思いなおした私は、メトロの入口をとことこと降りて行った。


 メトロを乗り継ぎ官舎にたどり着いた時には、すっかり日も暮れていた。空には薄く雲が出ていて、星や月を隠している。

ただ王都は百万人の人口を抱える大都市なので、晴れていても星が見える土地ではない。

 大通りから一本路地に入ったところに、官舎はある。

 官舎は築六十年を超える五階建てのおんぼろアパートだ。この時代にも関わらずエレベーターすら設置されていない。独身者用なので部屋も一つだけだし、室内もベッドと机とクローゼットでいっぱいになってしまう。良いところと言えば、レンガ造りで見た目が良い事ぐらいだろう。その利点も、冬には断熱性の低さという欠点になる。

 おまけに雨漏りするので最悪だ。建て替えの話もあるらしいが、昨今の厳しい財政状況のせいでほとんど進んでいない。

 ただこんなぼろぼろ極狭住宅でも愛しの我が家である。階段を上り家の戸を開けると、そのままベッドに倒れこんだ。

 中古のマットレスは私の体を優しく受け止めてはくれず、ギシギシと音を立て位置エネルギーのダメージを送り返してくる。

「痛った……」

 寝返りを打って染みだらけの天井を見つめる。最近こうやってぼうっとすることが増えてしまった。

 薄暗い部屋に一人でいると、いろいろと考えてしまうのでよくない。

 昔の事、今の事、これからの事。大抵は考えてもしょうがないことで、自分を攻撃してしまうだけなのに、集中力を切らした脳は垂れ流される思考に蓋をすることが出来ないでいた。

 昔の事。

 念願の警察官になって、事件を追っていたあの時。

 今の事。

 魔女審問会への左遷。お役御免の、必要とされない仕事。それに携わる自分。

 これからの事。

 スーツを脱いで、部屋着に着替えて、作り置きのご飯で夕食を済ませて、溜まった洗濯ものをコインランドリーに突っ込んで。

 明日もまた、役立たずと言われながら仕事に励むのだろう。

「私は何をしてるんだろう」

 誰かの役に立つことがしたい。

 そう思って刑事になったはずなのに、今はそうではない。自分が何をしたいのか、もうわからなかった。

「……着替えなきゃ」

 スーツが皴になってしまう。身を起こすとふと窓の外が気になった。カーテンの外から、青白い光が薄く差し込んでいた。

「月……」

 カーテンとともに窓を開ける。夜の涼しい風が、車の騒音とともに頬を撫でる。

 いつの間にか晴れていて、空には大きな丸い月が浮かんでいた。クレーターや影もはっきり見える。周囲はぼんやりと傘を被っていて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 昔から、月には不思議な力があると言われていた。特に満月はその力が強くなるらしい。だからか、魔女審問会の紋章にも満月があしらわれている。

こうして夜を照らす姿を見ると、昔の人がそう考えたのも納得だ。なんだか力がもらえるような、不思議な感覚に陥る。

何かが起きそうな、そんな……。

「ん?」

 何かが見えた。黒い点がふらふらと浮いているようだ。虫だろうか?

 点はみるみる大きくなっていく。

「……人?」

 その可能性に気付くのと、点が私の視界いっぱいに飛び込んでくるのはほぼ同時だった。

「わぁぁああああああ!?」

 少女の声とともに飛び込んできたそれは、私に正面からぶつかってきた。

「ぬわっ!?」

 そのまま室内に吹き飛ばされ、マットレスに思いきり叩き付けられる。ドンガラガッシャンと何かが暴れる音がした。

「ぐへぇ」

「ぐはぁ」

 私とそれが同時に呻く。私は体全体を使ってそれを受け止め、そのままベッドに押し倒されたようだった。

「ごほっごほっ」

 内臓へのダイレクトアタックに、思わずせき込む。

 なんだ。一体何が飛び込んできた? 鳥? 

 そう考えながら胸の中に飛び込んできたものを見て、私は再び絶句した。

「ううう……」

 魔女帽子と黒いローブ。首元には鎖のような銀のネックレス。その間から覗く白い肌にふわふわした金髪。

「人……」

 紛れもなく人間だった。おそるおそる後ろの壁に見ると、箒が一本壁に突き刺さっていた。壁紙を突き破り、ポロポロとレンガの欠片が落ちている。

「箒で、空を飛んできた……?」

 そんなことが出来る人間はこの世にはいない。いないはずだ。もしいたとしたらそれは

「魔女……」

 かつてこの国を支配し、勇者に退治されたと言われる存在、魔女しかいない。


「えっと、その……。もしもし?」

 魔女らしき少女は私の上でぐったりとしていた。当たり前だがこんな状況に陥った経験はない。私はすっかり混乱していた。

 そもそも魔女にしろ魔女じゃないにしろ、気を失った人間の対処法を私は知らない。

「ひ、ひとまず救急車、かな……?」

 どれぐらいの高さから落ちたのかは知らないが、見たところ外傷はなさそうだ。頭をぶつけた様子もない。この子を起こす方が先か?

「うううん」

 一人わたわたとしていると、少女が呻き声をあげた。

「こ、こんばんはー?」

 頬っぺたを軽くたたく。少女は眉を顰めると、うっすらと目を開けた。

「あ、あのー……」

「ううん。……ん?」

「だ、大丈夫ですか?」

 ひとまず心配の声をかける。これは間違っていないはずだ、相手が魔女でも人でも。

 彼女は焦点の定まっていない目で私を見つめた。透き通った蒼い目は、どこかで見覚えがあった。

「ええと、お名前は言えますか?」

「……モーガン。モーガン・ルヴァン・ソレイユ」

「モーガンさんですね。どこか痛むところはありますか」

「ない……」

「ならよかったです」

 すると、モーガンと名乗った少女の瞳に急速に光が戻ってきた。

「……んあ!?」

 モーガンがいきなり体を起こす。彼女の顔を覗き込む格好だった私の額と思いきりぶつかった。

「あがっ!」

「いっ!」

 痛ったい……。二人して頭を押さえる。こっちの方が痛いかもしれない……。

「ご、ごめんなさい……」

 モーガンが呻きながら言った。

「い、いえ別に……」

 というかそれより聞きたいことが色々とあるのだけれども。

「えっと、その、あなたは……」

 目の前にいる少女に上から下まで眺める。その姿はどう見ても。

「魔女、ですか……?」

 モーガンはびくりと肩を震わせた。そしておそるおそる私を振り返る。

「す、スカイダイビングに失敗したって言ったら信じてくれる?」

「……あまり詳しくはないんですが、最近のスカイダイビングはパラシュートの代わりに箒で飛び降りるんでしょうか?」

 私たちの視線が同時に壁に突き刺さった箒に映る。

「……ソダヨー」

「んなわけないでしょう!」

「だよねっ!」

 モーガンは両手を合わせて頭を下げた。

「すみませんでした!! 通報は! 通報だけは勘弁してください―!!」

「え、いや、その……」

「何でもするから! ひとまず魔女審問会にだけは言わないで!」

 職場の名前が出てきて、今度は私の方がドキリと心臓を鳴らす。

 この子はたぶん魔女だ。本物の。

 この子を審問会に突き出せば、私は評価される。魔女審問会の役割が見直されるようになることも、間違いないだろう。そうすれば、私はもっと仕事にやりがいを見出せるのではないだろうか。もしかしたら騎士団に戻れるかもしれない。

 だがそこまで考えてふと気が付いた。

 実際に魔女を前にしたときにどうしたらいいのか、そういえば聞いたことがない。逮捕? 捕まえたとして、拘留して魔女審判にかけて、それから? 手続きは? 令状は? 根拠法は? そもそも魔女審判って何するんだ?

 いろいろな疑問が噴出し、私は固まる。

「あれ、大丈夫?」

 逆に心配されてしまった。私は取り繕うように咳ばらいをすると、疑問を一旦脇に置くことにした。

「だ、大丈夫です。はい、一応」

「通報は?」

「しません」

 もうしたようなものだから。とはいったん黙っておく。

 見たところ、彼女に大きなけがはなさそうだ。私もどこかが痛むと言ったことはない。ならば、一番ダメージを受けたのはうちの壁だろう。

「ひとまずその、ええと……、どうしよう……」

あまりの事態に混乱していると、モーガンが壁を見て言った。

「これ、もしかしなくてもまずいよね。何とかした方がいい?」

「え、ええ、そうですね……。一応借家なので……」

「了解! あ、一応カーテンだけ閉めてもらってもいい?」

「わかりました」

 言われた通りカーテンを閉める。月明かりが遮られて、部屋が一気に暗くなった。

「電気はつけてもいいですか?」

「いいよー」

 灯りのスイッチを入れると、いつもの白色LEDで部屋が照らされた。

自分の部屋のベッドの上に魔女がいて、壁に箒が突き刺さっている。改めてみるとシュールで訳の分からない光景だ。

モーガンは私の困惑をよそに、ローブの内側から杖を取り出した。植物のレリーフが施してある古そうな木製の杖だった。

「精霊の皆様お願いします。箒と壁を元のあるべき姿に戻してください!」

 そう言って杖を振るう。すると箒がひとりでに壁から抜けるとモーガンの手元に戻ってきた。床にこぼれたレンガの破片が、動画を逆再生しているかのように穴をふさぎ、ヒビがみるみるうちに消えていく。

「よし、成功! ばーちゃんのツボで練習しててよかったー」

「……はぁ。うわぁ……。マジかぁ……」

 唖然である。

 私は目の前で見たものを受け入れることが出来なかった。箒が突き刺さっていたはずの壁を触る。そこには壊れた形跡など全く残っていない、今までと同じ古いレンガの壁があるだけだ。

「魔法だ……」

「だって魔女だもん。すごいでしょ?」

 モーガンは胸を張っていった。

「驚かせちゃってごめんね! 改めてわたしはモーガン・ルヴァン・ソレイユ。現代に生きるレニヒストハーフェン唯一の魔女にして、伝説の魔女モーガン様の末裔!」

 ニッカリと笑う彼女は自信にあふれていた。一方の私は、口を馬鹿みたいに開けたまま動くことが出来なくなっていた。あんまりに想定外の事態だと、人間は動けなくなるものなのだろう。

「貴女のお名前は?」

 そう聞かれて、私は何とか答える。

「ア、アグネスです。アグネス・ロートと言います」

「アグネス! あの勇者とおんなじ名前じゃん!」

「は、はい……。勇者にちなんでつけられたと聞いています……」

「多いよねー。わたしの通ってた学校の先生も、アグネスだった」

「そ、そうですね」

「まったく何がいいんだろうねー。あんな人の話を聞かない奴のさー」

 アグネスはレニヒストハーフェンでは昔からよくある名前だ。よくありすぎて最近逆に珍しいぐらいである。

 ひとしきり勇者アグネスに対する愚痴を言ったのち、モーガンはじっと私の顔を見つめてきた。彼女の綺麗な碧眼に、間抜けな顔をした地味な女がアホな顔をしているのが見えた。

「……アグネス、どっかで会ったことない?」

 初対面のくせに馴れ馴れしいな、と思いながら、私はそっと身を引く。

「どうでしょうか……。私は魔女の知り合いなんていなかったはずなんですけど……」

 と言ったところで、一つ心当たりがあった。魔女の知り合いはいないが、魔女っぽい人には会ったことがある。しかも今日。

「もしかして、夕方道を聞いてきた方ですか?」

「だよね! やっぱりあの時会った子だ!」

 モーガンは嬉しそうに私の手を握る。

「すっごい! 運命的だね! こんな偶然ある?」

「色々咀嚼しきれない体験をしているので何とも言いようが……」

「わたし、ちょっと感動しちゃった。色々上手くいかないなーって思ってたから、なんだか超ラッキーって感じ!」

 どうもモーガンは魔女のくせに陽キャらしい。魔女は勝手に陰のオーラをまとっていると思っていたが、見当違いだったようだ。

「それはどうも……」

 むしろ陰の気をまとっているのは私である。モーガンの陽に当てられて、すでにタジタジだった。

「えっと、ところでモーガンさん、色々とお伺いしたいことがあるんですけど」

「なぁに? アグネスの質問ならなんでも答えちゃうよ!」

 道を聞かれて空から落ちてこられただけなのにこの懐きような何なのだろうか。

「そうですね、えっとまず……」

 その時、ぐぅという音が鳴った。二人分。

「……アグネス、ごめんついでにもう一つだけお願いしたいことがあるんだけど」

「……なんでしょうか?」

「ご飯食べさせて……」

「……わかりました」

 

 元々作り置きをしていたので、明日食べようと思っていた分まで出せばモーガンの食事もなんとか用意できた。外食? 私の給料では無理。

 ついでにモーガンにはシャワーを貸して着替えてもらった。着替えは背負っていたリュックの中に入っているらしい。

「簡単なものですが、どうぞ」

 プレートに持って差し出したのはマッシュポテトに買い置きの丸パン、日曜にまとめて作る鶏むね肉のハムにケチャップとマスタード、自家製ザワークラウトを添えたもの。ちなみに朝食もこれだ。余裕があればたまにリンゴかバナナをつける。

「わぁ! おいし、そう……」

 モーガンは可愛らしいウサギのキャラクターがプリントされたパジャマを着て、嬉しそうに手を合わせた。

「まずくはないです。鶏肉は大丈夫ですか? アレルギーは?」

「その辺は大丈夫、だけど」

「マーガリンとシロップがあるので、よければこれも」

「あ、ありがとう」

 モーガンの顔がややひきつっているような気がした。そんなにお腹がすいていたのだろうか。

「作り置きしてるので、おかわりもありますよ」

 パンを半分に割って、中に具材を詰め込む。サンドイッチにして食べるのが私流だ。

「い、いただきます!」

 モーガンも私の真似をしてパンに具材を挟んで頬張った。

「……ん! 意外と美味しい!」

「よかったです」

 年相応の笑みを浮かべるモーガンに、私はようやく自然に微笑むことが出来た。魔女だからと警戒していたが、こうしてみると普通の女の子だ。

「ところでさっきの話の続きなんですけど」

「うんうん、なになに?」

「魔女というのはその、世間一般でイメージされている魔女ということでいいんですか? 魔法を使ったり空を飛んだりする」

「そだよー! その魔女でオッケー」

「な、なるほど……」

 モーガンのあっけらかんとした態度に毒気を抜かれてしまう。まあこれについては深く考えても無駄な気がした。現に彼女が空から箒とともに飛んできたところや、壁をみるみるうちに直してしまったところを私は見てしまっているのだから。

「つまり、魔女伝説の魔女、ということですよね……」

「そう。伝説の魔女モーガン様の子孫なの! わたしの名前もモーガン様にあやかってつけてもらったんだ」

 魔女モーガンはレニヒストハーフェンではまごうことなき悪役だ。かつて彼女を信仰することは重罪に問われたとも言われている。現代ではそんなことはないが、今でも敬称をつける存在ではない。

「あ、わたしが悪い魔女の一味だと思ってるでしょ?」

 私の思考を読んだのか、モーガンが承服しかねるといった調子で顔をしかめた。

「あの魔女伝説は間違ってるからね! モーガン様は悪い魔女じゃなかったんだよ!」

「はぁ」

「信じてないでしょ? 昔は魔女も普通の人も、みんなで仲良く助け合ってくらしてたんだよ。なのにアグネスが……、伝説の方ね、彼女が魔女たちをこの国から追い出しちゃったの」

 モーガンはぷりぷりと頬を膨らませた。

「おまけに魔女審問会なんて作って、隠れて大人しく暮らしてた仲間たちを見つけ出そうとするしさ。まあ魔女はそんなのには負けないんだけど」

 いろいろと複雑な歴史があるらしい。だが今の私には正直飲み込みきれない話だ。こっちは魔女が実在していたというだけでお腹いっぱいなのである。

「ええと、モーガンさんは今までどこにどうやって住んでいたんですか? この国唯一の魔女だとかおっしゃっていましたが」

「わたしはね、北の方の山の中に住んでたんだ。おばーちゃんと一緒に」

 モーガンはピッチャーから水を注いでコップに口をつける。

「でもおばーちゃんが死んじゃってね。どうしよっかなーって思ってたら遺書が出てきたの。アレーヌって街に知り合いがいるからもし私が死んでらどーしても困ったら頼りなさいって。それでここまで飛んできたってわけ。おばーちゃんと自分以外魔女は知らないから、現状わたしがこの国唯一の魔女なの」

「そうだったんですか……」

 この場合の『飛んできた』は本当に飛んできたのだろう。

 それにしても驚きだ。レニヒストハーフェンは決して大きな国ではない。高速鉄道を使えば半日で国の端から端まで移動できる。険しい地形もほとんどないので、秘境と呼ばれるような場所もない。

 モーガンの住んでいたという北部は、緩やかな丘陵と森林地帯が続く土地だ。交通の便も良く気候も良いので、別荘地としても知られている。魔女が隠れ住んでいるようなイメージはない。

「でもおばーちゃん、その知り合いがどこに住んでるのかちゃんと書いてくれなかったんだよね。三日ぐらい探したんだけど全然見つかんなくて」

 モーガンは口を尖らせた。

「それで一回空から見てみよーって思って飛んだんだけど、今晩が満月なのすっかり忘れちゃってたの。制御できなくて落ちそうだったところを、アグネスに助けてもらったってわけ」

「助けたというか貰い事故というか……」

「わたしが助かったって思ってるからオーケーオーケー」

 満月だと不都合があるらしい。初めて知る情報だった。私は魔女審問官補ではあるが、魔女の事に詳しいわけではない。

「では、そのおばあ様のお知り合いというのはまだ?」

「うん。手がかりもないから八方ふさがり。おばーちゃんと同い年ぐらいのおばーちゃんだってことぐらい。アグネス、そんな人知らない?」

「アレーヌは百万ほど人が住んでますし、私はここの出身でもないので……」

「だよねー。この街人多すぎ!」

 モーガンは両手を振り上げてベッドに倒れこんだ。

 ちなみにこの部屋には来客も座れるようなテーブルセットはない。私は普段勉強用のデスクで食事をとっている。

 今日は私がデスクで、モーガンは少し汚いけれどベッドの上にランチョンマットを引いてそこで食べてもらった。こういう時部屋が狭いのは不便だ。

「うーん、久しぶりにお腹いっぱいご飯食べたなー」

「そういえば、食事とか寝る場所とかはどうされてたんですか?」

「貯金があったから、しばらくそれで何とかしてたんだけど、それもなくなっちゃってね。昨日から野宿してた。ご飯は一日ぶりだったなー。都会のご飯は高いねー」

「それは……、なんとまあ……」

 モーガンは何でもない事のように言ったが、私は絶句していた。彼女は十五~六歳と言ったところだろう。身長も高いしスタイルもよいが、顔の幼さを見る限りそう見える。

 その年代の少女なら、大抵の場合高校か専門学校に通っている学生のはずだ。レニヒストハーフェンでは義務教育年齢ではないが、成人年齢でもない。つまり子供である。

 そんな子がここまでして人を捜していることに、私はすこし驚いてしまった。ほかの家族はいないのだろうか。

 ただそれを直接聞くのはすこしはばかられてしまって、私は口をつぐんでしまった。仕方なく、もそもそとサンドイッチを食べる。

 どうしよう。昨日野宿をしたというぐらいだから、今晩寝る場所もきっとないのだろう。そんな少女を追い出すことはさすがにできない。

「モーガンさん、もしよければ今晩は」

 意を決して尋ねた。だけど、モーガンからの返事はなかった。

「モーガンさん?」

 見ると瞼は閉じられ、お腹がゆっくりと上下している。どうやら完全に眠りに落ちてしまったようだった。

「言うまでもなかったみたいですね」

 クスリと笑みがこぼれる。起こすのもかわいそうなので、上からシーツをかけた。

「私はどこで寝よう」

 狭い部屋に入るベッドは当然シングルで、モーガンが一人寝てしまえば私のスペースはない。床で寝ようにも人が寝られるスペースがあるほどの広さはなかった。

「……まあ仕方ないか」

 眠っているモーガンを起こさないよう、シャワーと洗濯を済ませる。そして冬用の毛布をクローゼットから引っ張り出すと、それを体に巻いて床にちょこんと座った。一晩ぐらい、座って寝るのも悪くはないだろう。

 気持ちよさそうなモーガンの寝息を聞きながら、私もゆっくりと眠りに落ちた。


 ということは全くなかった。

 スズメと車といびきの音が頭の中をぐるぐると響きわたり、寝てるの寝てないのかよくわからない状況に私は陥っていた。

 まず座って眠るという状況を舐めていた。座るというのは人間にとって非常に不自然な姿勢なのだ。おまけに床は固い板張り。薄くてぼろい毛布で何とかなるレベルではない。膝を抱えて横になったが、ろくに眠れたものではなかった。

 加えてモーガンのいびきである。うるさい。とてもうるさい。動物園で寝ているのかと思った。疲れているから仕方がないのだろうとも思うが、それを差し引いてもうるさい。

 そんなこんなでほとんど一睡もできないまま、もうろうとした意識の中で朝日を浴びて……。

「……ネス。アグネス!」

 意識が覚醒すると、見慣れない美少女の顔面が目の前にあった。

「……あ」

「おはよ、アグネス!」

 少女が、モーガンが笑う。

「昨日は先寝ちゃってごめんね。それにしてもベッドから落ちちゃうなんて、アグネスったら寝相悪いんだねぇ」

「いやそれは」

 モーガンの勘違いに食い掛ろうとして、私はある事に気づいた。

「……今、何時?」

「うーんと、八時半」

 壁掛け時計に目を移す。確かに時計の針は八時三十分を過ぎたタイミングだった。

「はちじ……はん……」

 業務開始時刻は九時。通勤時間はちょうど四十分少々。準備はめちゃくちゃに急いで大体十五分……。

「遅刻だぁっ!!」

 飛び上がった。大遅刻だ。走ってどうにかなるレベルの奴ではない。しまったやらかしたどうしよう!

 急いで洗面所に飛び込むとひとまず髪をセットし最低限の身だしなみを整える。いやそれより上司に連絡を入れる方が先だ。スマホ、スマホは……。

「アグネス―」

「なんですか!?」

 急いでいるのでついキツイ言い方になる。だがモーガンは気にしたそぶりはない。

「会社って何時から?」

「九時です! 今からだとどうやっても間に合いません!」

「飛んでも?」

「飛べたら間に合うかもしれませんけどね!」

 直線距離で見たらここから職場はそう遠くない。同じアレーヌ市内だし。ただメトロやトラムの乗り継ぎが……。

 そこでふと、モーガンが得意げに笑っていることに気が付いた。その手には箒。

「じゃあ飛んでいこうよ」


「ひぇぇぇえええええ!?」

 私は空を飛んでいた。

「落ちたら死ぬからしっかり掴まっててね」

「言われなくとも!」

 高度にして二~三百メートルぐらいだろうか。レンガ造りのアパート群と道を行きかう車たちがミニチュアのように見える。

「九時まであと何分?」

「十五分ぐらいです!」

「昨日会ったとこだよね! なら余裕余裕。飛ばすよー。もう飛んでるけどねー」

「余裕なら飛ばさないで!」

 私の叫びは風にかき消される。時速にしたら八十キロぐらい出てるんじゃないだろうか。

 自分の体が細い棒一本だけを支えに空中に放り出されているという状況が、ここまで恐ろしいとは思わなかった。ちょっとでもバランスを崩せ滑り落ちてしまいそうだ。

「ひぃぃぃぃ」

「アグネス軽いし小さいから大丈夫だよー」

「でも昨日あなた落ちてきてましたよね!」

「まああれはあれ。満月だったからしゃーない」

「なにがしゃーないんですか!?」

 空飛ぶ箒はこの世に二つとない恐怖移動装置ではあったが、確かに速さはモーガンが保証した通りだった。

 渋滞に巻き込まれているトラムや、網の目のように張り巡らされたせいで、乗り換えなしには目的地にたどり着きにくくなってしまったメトロを無視して一直線に目的地へと向かう。

「ひゃぁぁぁああ」

 私の情けない声とともに、十分と立たずに枢密院本館前に到着したのだった。

「この辺でいい?」

「た、たぶん……」

 箒で降り立つベストポジションなんか知るわけない。ただ人に見られてはまずかろうと思い、枢密院の裏庭に直接降りてもらった。ここは何重もの生垣や背の高い木々に囲まれているうえ、あまり人の来る場所ではない。誰かに見られる心配も少ないはずだ。

 着地した瞬間、私は転がるように降りて両手両膝を大地につく。土の香りが愛おしい。

「間に合った?」

「な、何とか」

「ならよかった!」

 始業五分ちょっと前。ここからなら歩いても十分間に合う。モーガンがいなければまず遅刻だっただろうから、間違いなく魔法のおかげだ。魔女審問官としてそんなことをしてしまっていいのかはわからないけど。

「と、とにかくありがとうございました」

「良いってことよ! 魔女は一宿一飯の恩義は必ず返すからね」

 遅刻したのは一宿を提供したせいでもあるのだが。ということはひとまず腹の中に納めておく。

「じゃ、わたしは行くね! お仕事頑張って、アグネス!」

「は、はい。……じゃなくてモーガンさん、行くってどこに」

 私の呼びかけもよそに、モーガンはひらひらと手を振るとあっという間に飛び去ってしまった。

「……ま、まあいいか」

 時間ギリギリであることに変わりはない。モーガンのことはいったん脇に置いておくことにした。


「おはようございます!」

「アグネスちゃん、おはよーさん」

 制服に着替えて事務所に入ると、いつものようにアリスさんが出迎えてくれた。

「今日ちょっとお寝坊さんやったん?」

「ええまあ、そんなところです」

「季節の変わり目やからな。しんどかったら無理せんでも大丈夫やでー」

「ありがとうございます。体調は大丈夫です」

「ほなよかった」

 アリスさんがにっこりとほほ笑む。

「そ、そういえばアリスさん!」

 私は荷物を自席に置くと、アリスさんの前に立つ。

「ん? どないしたん?」

「えーと、ですね……」

 モーガンのことを尋ねようと思って、私は固まってしまった。

『実は昨日魔女を家に泊めたんですけどー』なんて言おうものなら私は体調不良で家に突き返されてしまうかもしれない。

 繰り返すようだが、魔女は世間一般には空想上の存在なのだ。信じているのは幼い子供か、ちょっとヤバい人だけである。私が真面目な顔で魔女云々と言えば、後者にカテゴライズされかねない。

「あの、少しお尋ねしたいことがあって……」

「うんうん。なんやろ。ウチのスリーサイズは内緒やでー」

「いえそういう事ではなく……。仮定の話、ではあるんですが、その、もし、もしですよ。魔女を見つけてしまった場合、私たちってどうすればいいんですか?」

 私の質問が意外だったのか、アリスさんは目を丸くした。ここに配属されてから今まで聞いたことも聞かされたこともなかった。アリスさんの反応を見る限り、私がこれを聞いたのは、かなり意外なことだったらしい。

「あー、せやねぇ。ウチら魔女審問会やもんねぇ、そりゃ気になるわなぁ」

 うんうんと納得するアリスさん。

「もしうちらが魔女を見つけた時に、どないすればええかっていうとやね」

 私は身を乗り出した。

「いいかというと……?」

「CMの後で」

「は?」

 思わぬ答えに顔をしかめ、私は慌てて口を押えた。咳ばらいをして上司に対する非礼をごまかす。アリスさんはそんな私を見てケラケラと笑った。

「もうすぐ始業や。はよ着替えてこな間に合わんでー」

「あ、そ、そうですね!」

「今日はお仕事大変そうやからね。また後で話したるわ」

 振り返ると、入り口のところに大量の書類を抱えたジャンヌさんが立っていた。


「議会の会期末が近いから、処理する書類も増えてきてな」

 ジャンヌさんは紙束を睨んでいった。

「何か関係あるんですか?」

「そりゃ、成立する法案が増えるんだ。こっちに回ってくる量も増えるにきまってるだろう。まったく、残業にならなければばいいんだが」

 そう言うと、一抱えほどの書類の束を私の机に置く。

「アグネスはこれの検分を頼む。手順はわかるな?」

「はい、教わった通りに」

「終わったらアンナに銀印を押してもらってから、アリス首席の机に置いておいてくれ」

「承知しました」

 魔女審問会は、魔女審問だけが仕事ではない。というか、魔女審問自体もう何百年もやっていないらしいので、実はメイン業務でも何でもない。

 普段審問会がやっていること、それは議会や政府、裁判所といった国の中枢に魔女や魔法が影響を及ぼしていないか調査することである。魔女審問会ではこれを『魔女検分』と呼んでいる。

 建物や人、そして書類など検分の対象になるものは意外と多い。魔女によってふたたび国が誤った方向に行かないよう、魔女審問会も頑張っているのである。

 とはいえ現代においては儀式上の物であり、必要性があるかと言われればないと言わざるを得ない。

 今回私が担当するのは、議会を通過した法律だ。

 レニヒストハーフェンは王制を取っているが、民主主義国家でもある。法律は国民の選挙で選ばれた議会によって制定される。

 が、歴史的な諸々の事情があって、議会を通過した法案は枢密院会議で一度裁可を得た後、女王陛下によって承認され、法律として施行される流れになっているのだ。

 もちろん現代では枢密院の裁可も女王の承認も儀礼的なもので、ここで否決されたり反対されたりすることはない。ここは魔女審問会と同じく昔からの慣例が残っている部分である。

 審問会が出てくるのは、議会を通過し枢密院裁可を得る前の段階だ。

 ここで魔女検分を行い、魔女審問会首席審問官であるアリスさんが『魔女検分の結果、この法律に魔女・魔法の影響はない』という一文を添えることで、法律案は次の段階に進むことが出来る。

 魔女審問会のサインがないと法律が成立しないとも言えるので、そういう意味では重要な役職であると言えなくもない。

 私は仕事の準備を進めるため席を立った。

「そう言えば、今日はミーシャさんとオフィーリアさんはお休みですか?」

 先輩方二人の姿が見えないことに気が付いた。ジャンヌさんは空席になっている二人の机を見て言った。

「二人は外回りだ。じきに戻る」

「なるほど……」

 魔女審問官は外回りをすることがある。と言っても私はまだしたことがないけれど。

 何をしているのかはよく知らないが、たぶん、大したことではない。

「ジャンヌさん、検分具お借りしますね」

「一番上の奴はみんな壊れてるから、二番目の棚から取ってくれ」

「壊れてるの多いですね……」

「予算がな……」

 魔女検分は検分具という専用の道具を使って行う。

 今回のように書類に対する検分の場合、骨組みだけの箱のような形をした検分具を使用する。

 材質は木。骨組みの太さは親指ぐらいで、植物や満月のレリーフが刻まれている。大きさは私が一抱えしなければならないほど。つまりデカくて重い。

 特徴的なのは、箱の辺の部分からどんぐりサイズの小さな水晶玉がずらりと吊るされていることだろう。水晶玉は隣の玉とギリギリ触れるか触れないかの感覚で並べられている。粗雑に扱うとひびが入ったり割れたりしてしまうので、気を付けなければならない。

 きっと宝飾品としての価値はべらぼうに高い。私の年収をはるかに超える額であるこれが、魔女の悪さを見つけるのに役立つらしい。

 曰く水晶は魔法の力を検知すると反応し、魔法がかけられたものに引き寄せられるのだという。

 つまり魔法のかけられたものをこの箱の中に入れると、ずらりと並べられた水晶が箱の中心に向かって動き出すのだ。

 本当かどうかはわからない。アリスさんが言うには、この方式の魔女検分が始まってから今まで水晶が反応したことはないという。あくまで伝承を元に作られているだけなのだ。

「ふんぬぅ」

 落とさないよう腰を据えて検分具を取り出すと、部屋の端の作業台に置く。動かしたせいで、水晶玉がゆらゆらと揺れていた。これが落ち着くのを待って、儀礼の手順に沿って紙束を中に放り込めば私の仕事はおしまいだ。 

 後は検分済みであることを示す銀インクの判子を押して、アリスさんのサインをもらえばいい。

「……ん?」

 様子がおかしいことに気が付いたのは、検分具を置いて数分ほど経ってからだった。いつもなら水晶玉の動きも収まり検分を始められるのだが、今日はいつまでたっても止まらないのだ。

 水晶玉は風に吹かれたかのようにゆらゆらと動き続けている。振り子のように触れるたび、カチャカチャという音が響いた。

「アグネス、どうかしたか?」

 ジャンヌさんの問いかけに、私はとっさに検分具を背中に隠して答えた。

「い、いえなんでもありません!」

 そっと振り返る。

 近づいたおかげか、水晶玉の動きは止まっていた。しかし鉄を近づけた磁石のように、斜めに。物理法則を超えた動きに、私の背中に冷や汗が走る。

「私に引き寄せられてる……?」

 試しにそっと反対側に移動する。

 水晶玉は私に引っ張られるように触れる向きを変えた。

「アグネス―?」

「なんでもありません!」

 カチャカチャ音がするせいでかなり目立ってしまっている。私はそっとその場を離れた。

 ある程度距離を取ると、水晶玉はすっと垂直に戻った。

「ま、まさか……。そんなバカな……」

 こんな不可思議現象の原因といったら、思い当たるものは一つしかない。

 モーガンだ。あの子の箒に乗って空を飛んだせいだ。

「本当に効果があったなんて……」

 試しにもう一度近づく。すると、水晶玉は手を触れていないのに私に向けて引き寄せられる。

 案外伝承も馬鹿にならないなと感心してしまうが、これでは仕事にならない。というか、こんなことがバレてしまったらどうなるのか。職務的に懲戒免職とかいうのもありうるのではないだろうか。

「ど、どうしよう……」

 非常に地味だが大変困ったことになった。なんとかしてこの水晶玉たちを静めなければ。

「……銀短剣!」

 そう言えば、魔女検分には水晶以外にも銀が使われることもある。銀は魔女の力を吸い取るとかなんとか言われていたはずだ。

 私は自分の腰に手を当てた。

 そこには魔女審問官の装備の一つ、銀短剣がぶら下がっている。

 文字通り純銀製の短剣だ。刃はなく、装飾の一つだと思っていた。

 だが水晶が魔力に反応するという伝承が正しかった以上、銀もまた何かの力があるのではないだろうか。

 私は他の審問官の目を盗むように部屋の端、本棚が並んでいるスペースの陰に行くと、自分の短剣を抜いた。

「何とかなりますように何とかなりますように何とかなりますように!」

 祈るようにつぶやきながら、私は刃の部分を両手で握りしめた。すると握った部分がぼんやりと光りだした。

「いっ!?」

 金色の光が指の隙間から漏れだす。手の中がカイロに触れたようにじんわりと温かくなった。

「え、あ、えっと、うわ」

 ひとまず上掛けを被せて光を隠す。幸いろうそくの明かりのようなほのかな光だ。薄暗い場所だから目立っているだけで、昼間の室内では目を引くほどではない、はずだ。

「アグネスちゃーん?」

「うわぁっ!?」

 だが急に声をかけられ、私は飛び上がった。アリスさんが首を伸ばしてこちらを見ていた。

「あ、アリスさん!? どど、どうかされましたか!?」

「それはこっちのセリフやで……。どないしたん? やっぱどっか悪いん?」

「わ、悪いわけではないです! 断じて!」

「なんや朝から様子がおかしいで。ほんまに大丈夫なん?」

「ご、ご心配おかけしてしまい申し訳ありません!」

 本気で心配そうな表情をしているアリスさんに、ペコペコと頭を下げる。そっと手の中を見ると、漏れ出る光はさっきよりもいくらか弱くなっていた。

 よし、このまま何とかごまかして……。

「どうした、アグネス。何かあったか?」

「ひっ」

 今度はジャンヌさんだ。

「何してるんだ、そんなところで」

 ジャンヌさんはつかつかとこちらに近寄ってくる。私は思わず後ずさった。

「い、いえ。その、書類検分のやり方をド忘れしちゃって、マニュアルを捜そうかと……」

「ああ、なるほど。マニュアルが必要なほどの作業ではないんだけどな……。まあいい。教えてやるからこっちに来な」

「あ、いえ、自分でなんとか探して」

「直接口で説明した方が早いだろう。それにあたしだって見たことないぞ、書類検分のマニュアルなんて」

「そ、そうですね、確かに、はい……」

「だからほら」

 私はとうとう壁際に追い詰められる。これ以上は無理だ。限界だ。私を中心に不可思議現象が起きたなんてことがばれたら……。

「アグネス?」

「はい!」

 背筋を伸ばす。見れば、銀短剣の光はほとんど収まっていた。おそらく私にまとわりついていた魔法の力的なものを吸い取り切ってくれたのだろう。

 代わりに握っていた部分が金色に変色している。これも不可思議現象ではあるが、鞘に戻せばバレない。私はあわてて銀短剣をしまう。

 これなら検分具も反応しないはずだ。そう信じたい。頼む。

「ほら、教えてやるから」

「よ、よろしくお願いします!」

 その後、検分具が反応することはなかった。銀短剣も午後には元の銀に戻っていた。

 私は箱に紙束を入れるだけの手順をジャンヌさんから懇切丁寧に教わり、その日の仕事を何とかこなすことが出来たのだった。


 いつも以上の疲労感を覚えながら、私は帰路についていた。午前中に書類検分を終えた後は、儀式の練習をしたり、検分具の整備や修理をしたりといつもの業務に戻った。

 とはいえあの出来事は尾を引き、いつ検分具が勝手に動き出すか気が気でなかった。ただの二酸化ケイ素や銀の塊にあんなミラクルマジカルパワーが秘められていたとは。

 結局魔女を捕まえる方法も聞きそびれてしまったし、なんだかくたびれ損な気分だ。

 いつもよりも重たい足を引きずってアパートの階段を上る。

 ここで、私はふと当然のことに思い当たった。

「……そういえば、モーガンさんが家にいる保証はないか」

 なぜだか家にまだいるものだと思い込んでしまっていた。本人も人探しをしていたようだし、もうどこかに飛んでいってしまっただろう。うちにいる理由はないのだから。

「なんだったんだろうな、あの子……」

 夢でも見たことにして忘れてしまおう。それが面倒もなくて良い方法なはずだ。

 だけど、そう考えてしまうことに対する寂しさもあった。

 あの子は魔女だ。魔女が実在することが分かった以上、魔女審問会にも存在意義があるということになるはずだ。

 魔女審問会が、私の仕事が認められるかもしれない。その糸口が、モーガンにはあるように感じていた。

 とはいえ時すでに遅し。逃がした魚は大きかったが、逃げてしまったことを悔いても魚は戻ってはこない。

「はぁ」

 ため息交じりにドアを開けた。

「あ、アグネスおかえりー」

「ただいま帰りましたー。……ん?」

 普通に返事をしてしまってから気づいた。顔を上げると、短く狭い廊下にへばりついている小さな台所に、モーガンがエプロンを着て立っていた。ちなみに昨日のような魔女の服ではなく、トレーナーにジーパンという普通の十代のような格好だ。

「そろそろ帰ってくるかなーって思ってたらビンゴだった! すごくない?」

「え、いや、え?」

 なんでいるの? という疑問が混乱とごちゃ混ぜになってしまい口から出てこない。が、モーガンは私の表情から言いたいことを察してくれた。

「夕飯作っておいたからね、一宿一飯の恩義だよ!」

 モーガンはお玉を片手に不敵に微笑む。

「ふふふ。実はわたし、魔女のイメージを良くしよう委員会の実行委員長をしててね。今は一宿一飯の恩義を三倍で返すキャンペーンの真っ最中なんだ!」

「通販のセールじゃないんですから……」

 そもそもその委員会、モーガンしか委員がいないのでは? 彼女のややいい加減な性格を垣間見た気がした。

「まあ真面目な話、けっこー困ってたからさ。アグネスのおかげで助かったんだよ。その恩返しがしたくて」

「それは、どうも……」

「というわけで夕飯作っといたから! 冷蔵庫の中の奴勝手に使っちゃったけど良かった?」

「そうですね、別に使われて困る奴はないですけど……」

「じゃあちゃちゃっと準備しちゃうから、アグネスは着替えてきて! スーツじゃご飯食べにくいでしょ」

「あ、ありがとうございます」

「いいよー。アグネスのためだけに作ったからね。いっぱい食べて!」

 私のためだけに。モーガンの言葉が胸を打った。

 こうやって、私のためだけに誰かがご飯を作ってくれたのは初めてかもしれない。


「食器どこに並べたらいい?」

「ええと、じゃあそこの机で」

「承知!」

 そう言うと、モーガンは慣れた手つきで次々とお皿を机に並べた。

「わぁ!」

 美味しそう。まず出てきた感想がそれだった。出てきた料理はどれも色鮮やかで、よい香りがして、温かかった。

「モーガンさん、料理得意なんですか?」

「ばーちゃんに叩き込まれた。十三歳からはわたしが料理担当だったんだ。すごいでしょ?」

 モーガンは得意げに笑う。

「今日のメインディッシュは鶏ハムのトマト煮ガーリック仕立て。レンズ豆とジャガイモのコンソメスープと、野草のサラダ特製魔女ドレッシング付きだよ!」

「すごい……」

 どれも手が込んでいる。そもそも二品以上の料理なんて独り立ちしてから食べていない。うちの狭くてぼろい台所から、こんな美味しそうなものが産まれるなんて思いもよらなかった。

「……これ、魔法ですか?」

「魔法に見えるでしょ? 実は魔法じゃないんです」

「わぁ……」

「野菜系は冷蔵庫に眠ってた奴と、その辺で取ってきたやつね」

「その辺って」

「河原とか公園とか! 大丈夫、わたし薬草系も詳しいから!」

 ほんまかいな。だが食欲には勝てない。私はさっそく手を付けた。

 まずはサラダから。シャキシャキの葉物に、香味の入ったドレッシングオイルが絡んでいる。ほのかな苦みと甘みが口の中に広がった。

 次にスープ。温かなコンソメが体に染みわたる。鶏肉の旨味も味に深みを出していた。

 そしてメインディッシュ。トマトの酸味と鶏肉が良い味を出している。口の中で香るガーリックのおかげでスプーンが止まらない。

「美味しい……! 美味しすぎる……!」

「でしょー」

 モーガンがにへらと笑う。レトルトや外食ではない暖かな食事は本当に久しぶりだ。いつも食べる食堂のランチよりもずっと美味しい。

「魔女は料理も上手だということを今日は覚えて帰ってね」

「覚えました! いやここ私の家なんですけどね」

 そんなことを言いながらパクパク食べていると、モーガンがニコニコこちらを眺めていることに気が付いた。

「モーガンさんは食べないんですか?」

「これは恩返しだからね。わたしまで食べちゃったら恩返せないじゃん」

 そう言われて、思わず手が止まってしまった。モーガンは魔女だけど、決して空腹を知らない存在ではない。昨日の様子を見る限りそうだろう。

 この調子だと、朝食や昼食もちゃんと取っていないんじゃないだろうか。そう思うと、のんきに一人だけ食べるのが申し訳なくなってきた。

「……モーガンさんも食べます?」

「いいの!? い、いやいいよ! ほら、これ一宿一飯だし……」

 と言いながらも口元からよだれが垂れているし、チラチラ料理に目が言っている。

「かまいませんよ。むしろ私だけ食べちゃう方がちょっと気まずいです。だから一緒に食べましょう」

「……うん、やった! ありがとう!」

 昨日と同じように、モーガンはベッドにランチョンマットを敷いてお皿を並べた。今日はマットレスを上げてステンレスの網の上で食べてもらう。

「いっただきまーす!」

 モーガンも美味しそうに鶏肉を頬張る。

「うん、我ながら美味いね!」

「美味しいです。すごいですね」

「でしょ。魔女だからね!」

「関係あるんですか?」

「それはほら、こういうときにイメージアップしとかないと」

 そんな感じのことをしゃべりながら、私たちは一緒に夕食をとった。誰かと食べるご飯も、本当に久しぶりだった。


「ご馳走様でした」

「ご馳走様!」

「片づけは私がやりますね。色々やってもらってばかりじゃ申し訳ないので」

「わかった。ありがとうアグネス!」

 食器を片付け、シンクに漬ける。モーガンはマットレスを戻し、そのうえで一息ついていた。

「……モーガンさん」

 洗剤をスポンジに垂らしながら、私は口を開いた。

「なーに?」

「モーガンさんは、これからどうするつもりなんですか?」

 そう尋ねると、モーガンはしばらく空を睨んだ。

「そうなんだよねぇ」

 そう言って肩を落とす。

「おばーちゃんの言ってた人は見つかりそうもないし、お金もないし。どうしようかな……。どうしたらいいと思う?」

「私に聞かれても……」

 そういうすごく大切な選択肢を人に預けてしまっていいのか?

「学校とかには行かれないんですか?」

「学校? もう卒業したよ?」

「高校も?」

「高校も」

 とてもそうは見えなかった。せいぜい学生だと思っていたのに。

「……モーガンさん、おいくつですか?」

「十五歳」

「十五!?」

 思わずお皿を落としかけた。普通高校を卒業するのは十八歳になってからだ。私も十八で高校を出た身である。

「え、十五で高校卒業って」

「飛び級したの、わたし。去年卒業して、おばーちゃんと魔女の修行してた」

「飛び級っ!?」

 賢いぞこの子。とてもそんな感じには見えないのに。魔法か? 魔女だからか?

「そういえばアグネスは何歳? 同い年ぐらいかなって勝手に思ってたけど」

「……十九です」

「え、年上!」

「いや働いてるので! 私は社会人なんですよ!」

「へぇそうだったんだ……。偉いなぁ」

 この国の教育制度では飛び級が認められているので、十五歳の大学生や社会人がいても制度上おかしくはない。おかしくはないがとても珍しい存在だ。十五で高校を出た人と会うのはモーガンが初めてである。

 ちなみに十九の公務員はよくいるので、どっちかといえばモーガンの方が断然すごい。

「賢いんですね、モーガンさん」

「学校の勉強は楽だったよ。おばーちゃんの修行の方がきつかった」

 モーガンは青い顔で答える。魔女業界はかなり厳しいらしい。

 ここでふと疑問が浮かんだ。

「そういえば、魔女って何をしてるんですか?」

 魔女審問会に所属している身としても聞いておきたいことだった。魔女が堂々と活動しているのならば、もっと大事になっているはずだ。少なくとも『魔女は伝説上の存在』という扱いになることはなかっただろう。

 すると、モーガンは少し不満そうに答えた。

「何もしないの」

「ええ?」

「魔女は魔法とか薬とか色々教わるんだけど、外で使っちゃダメって言われてたんだよね。おばーちゃんもすごい魔女だったのに、普通にスーパーで働いてたし。わたしも外で魔法使ったらめっちゃ怒られてた」

「その割にモーガンさんめちゃくちゃ魔法使ってません? 空飛んでましたし」

 そう言うと、モーガンは目を輝かせて身を乗り出した。

「そう! そうなんだよ!」

「うわっ!?」

「魔法が使えると、いろんな人を助けたり、生活を便利にしたりできるんだよ。だからずっと魔法や魔女のことをもっといろんな人に知ってほしいって思ってたの!」

 ベッドから飛び出し私の顔に近づく。

「レニヒストハーフェンって魔女のイメージもそんなに良くないじゃん? 魔女の一員としてわたしずっと不満だったんだよね」

「は、はぁ」

「……よし決めた!」

 モーガンはこぶしを固めた。

「わたし、本格的に魔法で一旗揚げる!」

「ヒトハタ……?」

「魔法を使って人助けをして、魔女のイメージを良くするの! みんな助かるし、わたしも嬉しい。一挙両得ってやつだね。実行委員会の活動をバリバリ頑張る感じ!」

「え、ええ。本気ですか!?」

「うん。わたし、こう見えても色々魔法使えるし。結構役に立つでしょ。今日の朝みたいに」

「まあ、それは確かにそうですけど、でも時代が時代ですし」

「時代の革命児になるよ、わたし!」

 なんだかとんでもないことを言いだした。止めるべきなのだろうか、魔女審問官として。

 いや、でも。

 むしろ魔女として活躍してもらった方が魔女審問会にとっても良い事なのではないだろうか。しかしそれは目の前でキラキラと顔を輝かせているモーガンを捕まえるという事でもあって……。

「も、モーガンさん!」

「ん? なぁに?」

「その、魔法で色々やるのは、ちょっと大変なんじゃないかなって思うんですよね。ほら、昨日モーガンさんもおっしゃっていたじゃないですか。魔女審問会? とかが来るって。警察とかに捕まるかもしれませんし、最悪実験体みたいな感じで捕まるかも……」

 そう言うと、モーガンは思い出したというように顔をこわばらせた。

「あーそういえばそうだった。ちょっと浮かれちゃってたな……」

「……そんなに怖いんですか? その、魔女審問会って」

「うーん。おばーちゃんはめちゃくちゃビビらせてきたね。捕まると舌抜かれるよって」

 そんなことはしないと思う。舌を抜く道具なんか審問会にはない。審問官の私が言うんだから間違いない。

「警察は普通に厄介。なんか怖いじゃん、あの人たち」

「まあ、わからなくはないですけど」

「私はさ、魔女禁止法なんてないんだから別にいいんじゃないって言って魔法使おうとしてたんだけど、おばーちゃんがどうしても許してくれなかったんだよ」

 このモーガンの認識は誤りである。

 レニヒストハーフェンには『魔女追放令』という法律がまだ存在している。国で最も古い法律で、魔女審問会もこの法律、正確には勅令を根拠に存続しているのだ。私も審問会に入るまで知らなかったけど。

「はぁ。まあでも、魔女がいるとわかったら大騒ぎになりそうですけどね」

「それはそれで。魔女や魔法が怖いものじゃないよってわかってくれたら収まるはず」

 モーガンはあっけらかんと言った。

「それに魔女審問会って正直大したことないと思うんだよね。今まで見たことないし。ぶっちゃけおばーちゃん以外から聞いたこともなかったし」

 すみません、私、審問官です。

 という言葉が喉元まで出かかった。けれど、なんとか抑え込む。

「まあそれは、そうかもそれません、ね」

 魔女にすら存在をほぼ認知されていないなんて。魔女審問会、本当に存在意義が危うくなってる……。

 私は無性に悲しくなった。仕方がない事なのかもしれない。魔女審問会が国民の前に出る機会なんてほとんどないし、やっていることも形骸化した儀式ばかりだ。

 魔女が実在したというのは大きな驚きではあったが、目の前の少女は王国転覆なんて企みそうもない、天真爛漫で純真な優しい子供。こんな子を魔女審判にかければ、私たちの方が悪者になってしまうだろう。

「まあでも変に目立ってビビらせるのもよくないか。ちゃんと戦略を練って魔女のイメージを良くしていかないと……。一族八百年の思いを背負っちゃうわけだし……」

 モーガンは一人でぶつぶつと呟いていた。この様子を見るに、どうも本気で魔法を使って何かをやろうとしているのだろう。私は一体どうすればいいのだろう。

 口八丁手八丁でモーガンの夢をあきらめさせるべきだ。その方が面倒もないし、騒動にもならない。モーガンには田舎に帰ってもらって、大人しく就職か進学でもして、普通の人生を歩んでもらおう。

 だけど、なぜだかそれを強く勧める気になれなかった。瞳を輝かせて夢を語る少女にそんなことを言う資格が、私にあるとは思えなかった。

 私は自分の立場を思い返す。

 そう。私は国家公務員。税金をいただいて生きている人間だ。そしてそんな私の仕事は魔女審問官。魔女や魔法の惨禍から、国の平和と国民の安全を守ることが使命なのである、本来。

 目の前の少女がいかに純真で悪意や悪気がなかったとしても、街で魔法を好き勝手使われたら大混乱が起きるに違いない。

 ということは、審問会に前例があろうとなかろうと、私は目の前の少女を止めなければならない。前例主義は官僚の悪い特徴だ。それに陥ることなく、必要な処置を断固たる決意で実行し……。

「アグネス? どうかした?」

「モーガンさん!」

 私は勢いよくモーガンの肩を掴んだ。

「私と一緒に暮らしましょう!」

「へっ!?」

「魔法はこの社会では現状受け入れられていません! 魔女審問会だって実は現役で存在してます! モーガンさんのことを捕まえに来るかもしれません!」

 体の中が熱くなる感覚がある。緊張してるのだろうか。思いがそのまま喉から滑り出ていた。

「あなたが捕まるのは見たくありません。でもあなたの志は素晴らしいと思います! ですから、うまく社会に溶け込めるよう私がサポートしたいんです! そのための同居です」

「サポート……」

「はい。私の方が年上ですし、社会経験もあります。なにより、モーガンさんお金も住むところもないんでしょう? ならうちに住んで、ゆっくり考えながらモーガンさんの目標……、魔女のイメージを良くしていけていけばいいと思うんです!」

 私の提案に、モーガンは目を丸くした。相当驚いたらしい。

「それは……、わたしにとってもすごく魅力的な提案。でもほんとにいいの?」

「はい、私にとってもメリットはありますし……」

「そうなの?」

「はい」

 魔女をそばで監視できるから。そう、私にとってのメリットはこれだ。

「モーガンさんのご飯、とても美味しかったので……」

 代わりにそう言うと、急に恥ずかしくなって顔をそむけた。モーガンはそんな私をみてクスリと笑う。

「なにそれ。アグネスって思ったより食いしん坊なんだね」

「べ、別にいいじゃないですか!」

「うん、いいと思う。任せて、飛び切り美味しいごはん作ってあげるから!」

 モーガンが腕を掲げた。

 こうして、魔女審問官である私は魔女のモーガンと同居を始めることになったのだった。

「ところで寝る場所どうする? 昨日みたいに一緒に寝る?」

「あ……」

 さすがに二日連続で床の上には寝れない。悩んだ末、私はモーガンと一緒のベッドに眠ることになってしまった。

「……もっとよく考えてから言えばよかった」

 モーガンは隣で気持ちよさそうに寝息を立てている。このつぶやきも聞こえていないだろう。

 とりあえずネットで安い二段ベッドを買おう。そうしよう。

 頭を横にすると、モーガンの顔が見えた。電灯は決してあるけれど、外から差し込む月明かりや街灯のおかげで、まつ毛の一本一本までよく見える。

 十五歳の少女と言われれば、確かにそうとしか見えない。だが端正な顔立ちからは、あと十年もすればだれもが振り返る美人になるだろうと予想できた。

 そんな少女が魔女だという事実を、私はいまだに飲み込み切れていなかった。

 科学は高校で少しやったきりだが、モーガンの使う魔法が科学では説明のつかないことぐらいはわかる。今までおとぎ話だと思っていた存在が実在していたのだ。簡単に受け入れられるはずがない。

 だが彼女の存在のおかげで、私は自分の所属する魔女審問会にも意味があるのではないかと思えた。

 魔女による災禍から国を守る。形骸化していた役割が、再び意味を持ち始めた気がした。ただそれは、モーガンが人々に危害を加え、私たちが彼女を捕らえるというのとほぼ同義だけれども。

「暑いな……」

 シングルベッドに二人はさすがに狭い。モーガンはどうも体温が高いらしく、私はほんのり汗ばんでいた。集団生活だった施設でも、さすがにベッドは一人一つだった。誰かとくっついて寝るた記憶はない。

 どうも眠れない。私は一度体を起こした。冷静になった頭は、先ほどの自分の行動に疑問符を付け始める。

 どうして私はモーガンを家に置いたのだろう。

 決まっている。魔女である彼女を監視して、もし何かあればすぐに逮捕出来るようにだ。

 でも私は彼女に言った。『あなたが捕まるのは見たくない』と。それに、そんな回りくどい事なんてする必要はなかった。

「私はなんであんなことを」

 私は嘘をついたのだろうか。職務のために少女をだましたのか。必要な嘘だったのか。そもそもこれは嘘なのか。

 とっさに出た言葉で、嘘をつこうとしたつもりは一切なかった。モーガンは少なくとも、私が出会った人間の中では善良な部類に入る少女だ。そんな子が捕まるのを、私は見たいと思わない。私が捕まえたいとも思えない。

 だったらどうすれば良かったのだろう。これからどうすれば良いのだろう。

 考えても答えは出そうになかった。

 ただ、夢を語る彼女が眩しかったことだけが、強く印象に残っていた。


 一つだけわかりきっていることはある。

「うちにはお金がありません」

 神妙な顔で言うと、モーガンも深刻そうな顔で頷いた。

 今日は休日だ。平日は仕事があるので落ち着いて話が出来なかったが、同居に当たっての諸々を話し合おうと私たちは面と向かい合っていた。

「私は公務員ですが、月の収入は十八万二千レク。税金と固定費を引くと半分以上消えて、食費やらなにやらを差っ引くとほぼゼロです」

 ちなみに自販機で売っているペットボトルジュースがだいたい百六十レクだ。

「公務員ってもうちょっとお金貰ってると思ってた」

「役職にもよるとは思いますけどね。私は新人のヒラ係員なので」

 最近は国の財政状況の悪化もあって、給与もカットされることが多い。もう何十年か前までは、同じ立場でももう少しは楽だったはずだ。

「申し出た身としては情けない限りですが、私の稼ぎだけではモーガンさんを養うことが出来ないということです。つまり」

「働かなきゃってことでしょ。任せといて!」

 モーガンが良い顔で言った。

「魔法で人助けをする商売とか考えてたんだ。需要ありそうじゃない?」

「ダメです!」

 私は手でバッテンを作った。

「モーガンさんにまず必要なのは、アレーヌでの暮らしに慣れることです。そのためには魔法に頼らなくてもいいような堅実な仕事を見つけなければいけません」

 そう言うと、モーガンはわかりやすくがっかりした表情になる。

「えー、それってわたしが魔女ってことあんまり活かせないってことでしょ? それはなんかなー」

「地道な調査から需要を探すことが大切なんですよ、たぶん」

「なるほど、それもそっか」

 上手く丸め込むことに成功した。

「でもわたし、知り合いのお店の手伝いとか、町内会のボランティアぐらいしかしたことないんだけど。仕事ってどうやって探したらいいの?」

 意外と社会と交流してるな、魔女。少なくとも私の幼少期よりは開かれた人生を送っている。

「そうですね、モーガンさんはまだ十五歳ですから就労制限もあったはずです。いきなり長期のお仕事をするのではなく、簡単にできる短期のアルバイトから探してみましょう」

「おお、さすがアグネス。社会人の先輩!」

「それほどでも」

 尊敬されるのは悪い気はしない。私は少しだけ鼻を高くする。

「最近はスマホでバイトを探すのが楽なんですが」

 スマホの画面をタップしてからふと考える。

「今回は直接向かった方がいいかもしれませんね。モーガンさんにとっては初めてのアルバイトですし」

「向かう? どこに?」

 首を傾げるモーガンに、私は言った。

「冒険者ギルドです」


「わたしさ、アニメとかマンガとかゲームとかめちゃくちゃ好きなの」

「そうなんですね」

「特にジパンの奴ね。魔女とか魔法が超活躍するから」

「へぇ」

「でね、そう言うマンガにはよく出てくるんだよ、『冒険者ギルド』!」

 さっきからモーガンが妙に興奮していた。

「モーガンさん、冒険者ギルドのこと本当に知らなかったんですか?」

「荒くれ者の冒険者が集って、ステータスとかレベルとか調べてくれるところでしょ」

「いえマンガの話ではなく……。『バイト探すなら冒険者ギルド!』とかCMでやってるじゃないですか」

「わたしあんまりテレビ見なかった。っていうか冒険者ギルドってそういうノリでCMやってるの?」

「仕事をあっせんしてくれる民間団体ですから……」

 レニヒストハーフェンに現存する冒険者ギルドは、荒くれ者の冒険者たちが未知の土地の探索やモンスターの討伐依頼なんかを受ける場所、という所では当然ない。

 大昔からあるらしいので、かつてはそういう時代もあったのかもしれないが、今は主にアルバイトや派遣の仕事なんかを紹介してくれる組織になっている。わたしも学生時代お世話になった。

 最近ではギルドが運営しているスマホアプリやインターネットを介して探すことが多いが、大きな街には事務所を構えていることもある。ギルドの案内の人が色々適正のある仕事を探してくれたりもするので便利だ。

 私の住むアレーヌ市東区にも、冒険者ギルドエストアレニア支部がある。家からトラムで数駅。時間にして十五分ほど。

「ここです」

「うわぁ……」

「どうですか、憧れのギルドは」

「……なんか役所っぽい」

「役所っぽい組織ですから」

 私の住む通りはレンガ造りの建物が続く景観が良い場所だが、この辺りはかつての再開発の結果、コンクリート造りのビルが立ち並ぶあまり面白味のない地域となっている。

 ギルド支部もくすんだ白い外観の、四階建てというさして背も高くない古いビルに入っていた。

「受付でギルドに登録してもらって、二階で仕事を探してもらいましょう」

「ステータスチェックとかある?」

「学歴と資格のチェックなら」

「夢がない……」

「仕事はありますから」


 ギルドの登録はすぐに終わった。十四歳で高校卒業というところに受付の人も驚いていたが、それ以外は特に普通の経歴だった。

 出身地は最初に聞いた通り北部地方の村。現住地と連絡先は私の家にしている。

 資格は原付の免許を持っているらしく、証明のために取り出した免許証には確かにモーガンの顔が写っていた。

「うちの周り何にもなかったからさ、原付が取れる年になってすぐとったの」

「十四歳でしたっけ」

「そうそう。本当は箒使いたかったんだけどなー」

 ギルドへの登録を済ませた私たちは、仕事を紹介してもらいに二階へと上がった。

「うーん、十五歳で今何してんの?」

 案内されたブースでは、私たちよりはいくらか年上らしいお姉さんが胡散臭げに書類を見て言った。

「今は魔女の良さを広める活動をしようとしています!」

「自分探しの途中みたいです彼女!」

 とんでもないことを言い出すモーガンを制する。すると、怪訝な視線が私に向けられた。

「ええと、あなたはソレイユさんとどういう関係? 保護者さんにしては若いわよね?」

「み、身元引受人と言いますか、同居人と言いますか」

「友達ってところかな?」

「そういうところです!」

「ふーん」

 聞いてきた割にはあんまり興味がなさそうだった。お姉さんは眼鏡を上げなおして聞く。

「ソレイユさんはなんか希望条件とかある? 時給とかシフトとか職種とか」

「希望条件……、うーん、それだと……」

 モーガンはしばらく考えてから言った。

「人の手助けをする仕事がしたいです!」

「福祉系ね、はいはい」

 お姉さんはパソコンをカタカタといじる。そしてしばらく画面を見つめてから肩をすくめた。

「ソレイユさん十五歳でしょ。年齢がちょっとネックになっちゃって、正直紹介出来る仕事はかなり限られるわね」

「でも高校は出たよ?」

 レニヒストハーフェンの就業年齢は、義務教育課程を卒業した者と定められている。高校は義務教育ではないので、モーガンは働くには十分な年齢ではあるのだが。

「法律ではね。でも未成年の就業って色々厄介だから、年齢で制限かけてるのよ。十八歳以下の子がつける仕事はこの辺じゃほとんどないわねぇ」

「じゃあわたしが出来る仕事はないの?」

 モーガンは不安そうにお姉さんを見た。だがお姉さんは眼鏡をきらりと光らせると、足元のコピー機から吐き出された一枚の紙を取り出した。

「早とちりしなさんな。これとかどう?」

「……エストアレニア教会事務手伝い?」

「教会の雑用ね。時給が最低賃金以下だから、正確にはアルバイトじゃなくてボランティア扱いなんだけど、あなたには合ってる気がするわ」

 魔女が教会で働くのが合っているわけがないのでは?

 と思ったが、モーガンは目を輝かせていた。

「教会のお手伝いってどんなことするの?」

「そうねー。礼拝の準備とか、ここは託児所も兼ねてるから子供の面倒を見たりとか。まあ詳しいことはここのシスターに聞いた方が早いわね」

 お姉さんはそう言うと、腰を浮かせて私たちの背後に向けて声を上げた。

「リコー! いい子見つかったよ!」

 私たちが振り返ると、部屋の反対側でポスターを張っていた教会のシスターと目が合った。

 彼女はしばらく呆然と私たちを見ていたが。

「ほ、本当に!?」

 驚いた顔でこちらに駆け寄ってきた。


「私、神霊教エストアレニア教会の世話人を務めている、シスターのリコ・シトラウスキーよ。よろしくね」

 シスターのリコはペコリと頭を下げた。神霊教会のシスターが着用する白い頭巾に黒いローブ、そして教会の紋様が入った銅色のネックレスをしていた。歳は私よりも少し上ぐらいに見えたが、それでもまだ若い方だと思う。

「モーガン・ルヴァン・ソレイユです!」

「同居人のアグネス・ロートです。よろしくお願いします」

 私たちもそれぞれ自己紹介をして礼をした。

「お二人が今回お手伝いしてもらえるのかしら?」

「いえ、今回応募したのはこっちです」

「はい!」

 モーガンが元気よく手を上げる。リコは微笑まし気に目を細めた。

「なるほど。ありがとうございます。それではさっそく教会の方に向かいましょう」

「面接とかしなくても大丈夫なんですか?」

 あまりのスピード感に思わず口をはさむ。

「ええ。モーガンさんはとても元気が良いし、拝見させて頂いた履歴書も申し分ないわ。それに、募集自体はもう何か月もかけていたんだけど、応募してくれたのはモーガンさんが初めてだったのよ」

「じゃあわたし採用?」

「はい、採用」

「やった!」

 モーガンが飛びはねる。うらやましい限りだ。私のバイトの面接はもっと大変だったのに。

「さっそくお仕事の説明をしたいんだけど……。アグネスさんも一緒に来る?」

「そ、そうですね。じゃあせっかくですし」

 ここでモーガンが働くことに関しては、正直不安が大きい。

 神霊教会はレニヒストハーフェンでは昔から信仰されてきた宗教だ。伝説の勇者アグネスに神託を与えたのも神霊教会だったと言われている。

 魔女に対しても、神の力を悪用するものとして厳しい態度を取っていた。中世の時代には独自に魔女狩りもやっていた。

 レニヒストハーフェンの伝統文化に深く根差した宗教でもあるが、最近は熱心な信者も減って色々と大変らしい。私も教会はお祭りの日ぐらいしか行ったことがなかったし、教義も経典の内容も詳しくは知らない。

 とにかく、決して魔女にフレンドリーな態度を取る団体ではない。そんなところでモーガンは働くことが出来るのだろうか。

「ここよ」

 エストアレニア教会は、冒険者ギルドから少し歩いた場所にあった。

「これは、すごく立派ですね」

「綺麗!」

「六百年前に建造された、アレーヌでは二番目、レニヒストハーフェンでも三番目に古い教会なのよ」

 リコが誇らしげに言った。

 その言葉通り、エストアレニア教会は教科書に出てくる教会建築のお手本のような、立派な装飾を備えた荘厳な作りをしていた。

 建物の角にある四本の尖塔がそれぞれ空にそびえ、正面玄関の上には天使と女神が描かれたステンドガラスが嵌められている。レンガ造りの壁には細かな装飾が彫り込まれていて、眺めているだけでも十分楽しめそうだ。ただ……。

「……なんか小さいね」

「それは……、そうね」

 遠慮のないモーガンの指摘に、リコは苦笑いで答えた。

 エストアレニア教会は決して小さな建物ではない。少なくともうちの官舎よりは大きい。だがビジネスビル街の真っただ中にある事が災いして、周囲を背の高いビルに囲まれた結果、相対的に小さく見えてしまっていた。

「高層ビルの建設がどんどん進んで、教会の日当たりも悪くなってしまったの」

 十階建て二十階建てのビルに囲まれてしまえばそうもなるだろう。ガラス張りのビル群の中にある教会は、こちらの方が先に立っているにもかかわらず場違いに感じてしまう。

「でもこれだけ立派だと十分観光地になりそうですね。歴史歴建造物指定なんかもされてるでしょうし」

「それがこの間取り消されちゃってね……」

 私が入れたフォローに、リコが悲し気にため息をつく。

「それに、祈りの場を観光地にするのはあまり賛成出来なかったから、気にはしてないんだけれども……。補助金とかがカットされちゃって……」

「た、大変ですね……」

「だから私もギルドのお手伝いとかをしてたのよ」

「なるほど……」

 教会の苦境に、私はそう言う事しかできなかった。

「まあその話は追々ね。どうぞ中へ」

 リコの案内で教会の中へと入る。

「おお、立派」

「すごいですねぇ……」

 大きな木製の扉をくぐると、中は礼拝堂になっていた。壁には神話をモチーフにした壁画が描かれ、高い天井にはめられたステンドグラスからはカラフルな光がこぼれる。光を取るための窓も多く設置されていて、照明がなくても教会の中は明るかった。モーガンが声を漏らしたのも納得だ。

「鏡で集光する仕掛けもあって、満月の夜なんかは本が読めるぐらいに明るくなるの。ただお掃除が大変なのよね……」

 リコは苦笑いする。確かに管理は大変そうだ。礼拝堂はテニスコートほどの広さがあって、木製の椅子がずらりと並べられている。百人ぐらいなら余裕で入りそうだ。ただ今は誰もいない。

「ここのお掃除もモーガンさんにはお願いしたいんだけど、高いところは大丈夫かしら?」

「任せて! わたし掃除得意だから!」

「それは頼もしいわね」

 モーガンは礼拝堂を一通り見せてくれると、檀上の脇にある奥へと続く扉を開けた。そこには先ほどまでの明るい空間とは対照的な、薄暗い廊下があった。

「ここはあまり人が入らないから、節電のため電灯を外しているわ。暗くてごめんなさい」

 左手にはガラス窓がある。昔なら窓から日も差し込んだのだろうが、今はビルの外壁が見えるだけだ。右手には部屋がいくつか並んでいた。突き当りにももう一つ扉がある。

「ここが託児室よ。子どもを預かった時には、ここで面倒を見てるの」

 一番手前の戸を開けると、中には使い古したクッションや古い絵本の入った本棚があって、積み木やぬいぐるみと言ったおもちゃが散乱していた。

「最近はこの辺りの子どもが少なくなってしまったから、あまり使っていないわ」

 リコは悲しそうに戸を閉じる。

「次の部屋が事務室ね。普段の作業はここで行ってるの」

 この部屋はごく普通の事務所といった様子だった。アルミの事務机に型落ちのノートパソコンがのっかっていて、ファイルや資料が机の上に積まれている。日常的に使われているのはどうも一つだけのようで、ほかの机は荷物置きになっていた。

「後でモーガンさんのスペースも作りましょうね。最後の部屋がここ。ここは資料室兼倉庫になっているの」

 リコが突き当りにある古い扉を開ける。埃っぽい空気が鼻を突いた。古書や何かの儀式に使うのだろう古めかしい木製具から、掃除用具や野外用テントのようなものまでが雑多に放り込まれていた。

「普段使いするものは手前に、それ以外は奥に置いているわ。正直何があるのかは私もよく把握していないんだけれども」

「歴史があるんでしょ? なんかすごいものがありそう」

「そうだといいんだけどね……」

 リコはため息をつく。

「そうそう、この扉からはお庭に出ることも出来るのよ」

 リコが突き当りの扉を開けた。すると三方をビルに囲まれた殺風景な空き地に出た。

「お庭……?」

「という割には何も……」

 私たちが思わず漏らしてしまった声に、リコも寂しそうに答える。

「昔は芝生が綺麗に張ってあって、お花なんかも咲いていたらしいんだけどね。日当たりが悪いからこうなっちゃったの」

 草木一本生えていない空間から往年の姿を想像することは難しかった。枯れ木に設置された、片側のロープがちぎれて傾いているブランコが辛うじてその面影をとどめているぐらいだ。

「最近は信者さんからの寄付も減ってしまって、新しくシスターや神官をやってくださる方もいないからここを管理する人出も少なくなってしまったの。だから、今回ギルドに依頼を出したのよ」

 リコは疲れた笑みを見せた。

「本当はちゃんとお給料を出してあげたいんだけど、私のお給料もほとんどない状況だから、ボランティアのお礼ぐらいしか出せないわ。それでも本当にいいかしら?」

 リコの確認に、モーガンは一瞬私を見た。私は何も言わず頷く。

「うん、大丈夫! わたし、バリバリお手伝いしちゃうから!」

「頼もしいわね。これからよろしく、モーガンさん」

「うん、こちらこそ!」

 モーガンはリコと手を握った。

「ところでアグネスさんもどうかしら? お友達でしょう、よかったら」

「そうさせて頂きたいのは山々なんですが、私は本業の方がありまして……」

「アグネスは公務員なんだよ! すごいでしょ?」

 なぜかモーガンが自慢気に言う。すると、リコは驚いたように口を押えた。

「あらまあ。そうだったの? 若いのに偉いわねぇ。てっきりモーガンさんと同い年かと思っちゃった」

「……私はこの子より四つ年上なので」

「え? じゃあ私の方が歳近いの……?」

「多分そうだと思います」

 リコが信じられないような目で私を見る。なんだか失礼ではないだろうか。

「コホン、ええとじゃあモーガンさんはさっそく明日からお手伝いに来てもらえると嬉しいわ! アグネスさんも気が向いたらいつでも来てね。お金は渡せないかもだけど、お手伝いは大歓迎だから!」

「だって! よかったね、アグネス! 一緒にいれるじゃん」

「いや、まあ、気が向いたら……」

 その時、礼拝堂から入る扉が開いた。

「シトラウスキー神官補佐、やっと帰ったか」

 法服を来た老年の男性だった。頭は剃髪なのか禿げているのかわからないがつるつるで、目つきの悪い男だった。ネックレスが金色なので、高位の聖職者だろう。

「ウォルツェン神官長様!」

 リコが背筋を伸ばした。

「お迎えに上がれず申し訳ございません」

「構わん。昼間からほっつき歩くような神官補佐なんぞに期待はしてない」

「申し訳ございませんでした」

 すごく印象の悪い男だ。こんな態度はパワハラだろう。

 だがリコは辛抱強く頭を下げていた。

「神官長様、本日はどのようなご用件で」

「わしの知り合いがここの土地を見たいと言ってな。下見に来た。まったく、いつ来ても辛気臭いな、ここは」

「申し訳ございません」

 ウォルツェンは嫌らしくため息をつく。ここでようやく、リコの後ろに立つ私たちの存在に気が付いたらしい。

「なんだ、ようやく信者を捕まえてきたのか」

「あ、いえこの子たちは」

 リコを押しのけるようにして、モーガンが前に躍り出た。

「今日からここでお手伝いをさせてもらう、モーガン・ルヴァン・ソレイユです!」

「モーガン?」

 その名前に顔をしかめたのもつかの間、ウォルツェンの禿頭に何か黒いものが落ちてきた。

「よろしくお願いします!」

 黒いものは八本の脚でわさわさとウォルツェンの顔面に移動した。

「……うわぁああああああっ!?」

「ひぃぃぃいい!?」

 顔面一杯はある大きな蜘蛛に、ウォルツェンは悲鳴を上げる。ついでにリコも叫ぶ。

「しっしっし!!」

 大慌てで蜘蛛を払うも、よろけるウォルツェン。とっさに廊下の窓枠に手を置く。するとまたもや黒い何かがわさわさと、今度は大量に湧いてきた。黒い何かは手を伝ってウォルツェンの袖の中に入って行く。

「ぬぅわあああああああっ!?」

「ひゃぁぁああああああ!!」

 ゴキブリだ。ぼろアパート暮らしなので虫には慣れているが、この惨状にはさすがに私も顔をしかめる。

「わぁあああああ! なんだぁああああ!」

 ウォルツェンは法服をかなぐり捨てると、下着姿になって体を這うゴキブリを追い払おうと飛びはねる。

「ひゃぁあああああ!!」

 リコも悲鳴を上げて後ろに飛び逃げた。

「こら! 何を! うわぁああ!」

「おじさん、虫は嫌いみたいだねぇ」

「モーガンあなたまさか……」

 モーガンはニヤニヤとその様子を見つめて言った。

「ちょっとだけね。リコも嫌がってたし、仕返し」

「仕返しって……」

「虫さんに協力してもらっただけだよ。大丈夫大丈夫」

 ようやくゴキブリを払い落としたウォルツェンは、顔を真っ赤にしていた。怒っているのか疲れているのか恥ずかしがっているのか。顔のしわの寄り方を見るに、多分全部だろう。

「失礼する! 掃除ぐらいちゃんとしておけ!」

 放り捨てた法服を乱暴につかみ取ると、下着姿のまま速足でこの場を去って行った。

「あのまま帰るのかな?」

「さすがに服は着るでしょう。神官が下着で徘徊するのはまずいですよ」

「ゴキブリが入った服着るのは嫌だな」

「嫌なんですか?」

 魔女なのに? という言葉は抑える。だが言いたいことは伝わったようだ。

「嫌なものは嫌。上下関係があるからね。わたしが上なんだよ」

「はぁ」

 魔女と昆虫の序列はよくわからないが、どうやらモーガンは蜘蛛やら虫やらを操ることが出来るらしい。なんだかちゃんと魔女っぽい。

「リコ、大丈夫?」

「は、はひぃ……」

 何にも悪くないのに腰を抜かしていたリコに、モーガンは手を差し伸べた。どうも虫は苦手らしい。涙目になっている。

「あんなに虫が出るなんて……。今度からもっとちゃんと掃除しないとダメね」

「そのためのわたしだからね。任せておいて!」

「うん、お願いするわ」

 リコは深刻な表情で頷いた。

「そうそう、あの方は一応この教会の教会長を務められているの。だけど普段は全然いらっしゃらないから、あんまり心配しないでね」

「そうなんだ、よかった」

 よかった。来るたびに虫を降らせられたらさすがに怪しまれるだろうし、ウォルツェンの精神衛生的にもよくない。双方不幸が起こらないのが一番だ。

 私はここで、ふと彼の言葉が気になった。

「そう言えば、知り合いといらしてるとおっしゃっていましたが、何の用事だったんですかね?」

 するとリコの顔がこわばる。

「そうね、神官長様はとても顔の広い方だから……」

 そう言うと、少し迷ったように視線をさ迷わせてから観念したように口を開いた。

「実は、この教会を取り壊して土地を売却しようっていう話があるのよ。たぶん、知り合いというのは不動産会社の人だと思うわ」

「ええ!? そうなの!?」

「一等地に建ってるから、欲しがる会社は多いみたい。教会も全国的に経営が苦しくって、少しでも赤字を補填しようと苦労されているみたいで」

「それはもったいないですね。とても立派な建物なのに」

 私は心からの思いを口にした。

 壁画もステンドグラスも彫刻も、昔から大切に受け継がれてきたことがわかる、思いのこもったものだった。それを無くしてしまうのは素直にもったいないと思う。

「そうね。ここは長い間祈りの場所だったから、私も出来ることなら存続させてほしいと思っているわ」

 リコはそう口にしてから、静かに目を伏せた。

「ただ時代がここを不要とするなら、私はそれに従うしかない、かもしれないわね……」


 今日はこれで解散になった。リコは事務作業があるからと事務室に戻り、私たちは教会を出る。

「どうですか、働けそうですか?」

「うん! 魔女イメージアップ戦略的にもばっちりな場所だと思う!」

「……あんまり騒動は起こさないようにしてくださいね?」

「大丈夫大丈夫!」

 ほんとかなぁ……。私は不信に満ちた目でモーガンを見る。モーガンはモーガンで、わざとらしく目を逸らせた。

「ま、今日は帰りましょうか。帰りに色々揃えて、夕飯の買い物もしちゃいましょう」

「おや、奇遇やね」

 知っている声が背中から聞こえた。びくりとして振り返る。

「あ、アリスさん!」

「こんにちはー」

 そこにいたのは、私服姿のアリスさんだった。眼鏡にベレー帽をかけているおかげで、いつもよりも大人っぽく見える。首からがコンパクトサイズのカメラを提げていた。

「アグネスちゃん、おうちこの辺なん?」

「いえ、東区216番通りの官舎です。アリスさんは……?」

「うちも野暮用。この子は? アグネスちゃんのお友達?」

「えーと」

 なんと紹介すればよいか迷う。同居人、だと少しめんどくさそうだ。

「……そうですね。私の友人です」

「モーガンです! アグネスの友達です!」

 モーガンは嬉しそうに笑って手を挙げた。

「モーガンちゃんか。珍しい名前やねぇ。うちはアリス。アグネスちゃんの上司やねん」

「アリスさんだね!」

「せやでー。朝から教会行くなんてええ子やなぁ」

「ううん! 今度からあの教会で働くの!」

 和やかに挨拶を交わす横で、私は胃に冷たいものが落ちる感覚を味わっていた。

 モーガンは魔女。アリスさんは魔女審問会首席審問官。そして私が魔女審問官であることはモーガンには伝えていない。

 どちらかが少しでも口を滑らせてしまうと、とても面倒くさいことになる。私の直感がそう伝えていた。

「そう言えばアリスさん、アグネスって普段どんな仕事してるの?」

 と一人ハラハラしているうちに、モーガンがクリティカルな質問をぶつける。

 ヤバい。

 どうしようかと悩む間もなく、アリスさんが答えた。

「普段はうちの手伝いとかやってもろうとるわ。珍しい仕事やから色々困らせてまうこともあるけど、めっちゃ助かっとるで!」

「へぇー」

 よし、ひとまずセーフ。だがモーガンからの尊敬の視線が痛い。

「……珍しい仕事って何?」

 モーガンの次の質問が飛ぶ。だがこの展開を予想していた私は、とっさにモーガンの腕にしがみついた。

「も、モーガンさん!」

「うわっ!?」

「そろそろ行きましょう! アリスさんもお休みの日ですし! あんまり邪魔したらダメですよ!」

 そしてアリスさんにアイコンタクトを送る。ちょっと事情があるので失礼しますの合図だ。

 すると、アリスさんは急に顔を赤くしてしまった。

「せ、せやな! こっちこそ休みの日に申し訳ないわ! ほなまた月曜日!」

 アイコンタクトが伝わったのか、アリスさんはそそくさとその場を立ち去る。

「あんまりお仕事の話したくなかった? ごめんね」

 心配そうに顔を覗き込むモーガンに、私は申し訳なさを感じながら目をそらした。

「そ、そうですね……。せっかくのお休みですし。私もアリスさんも……」

 色々心配をさせてしまっているようだ。確かに色々思うところのある仕事だが、今はそれどころではない。

「とにかく今日は帰りましょう! そうだ、夕飯の買い物も一緒に」

 その時、私たちの横を原付バイクが猛スピードで駆け抜けていった。

「うわっ!」

「危ない!」

 モーガンがとっさに体を引いてくれたおかげで、衝突せずに済む。

「何あのバイク。危ないなぁ」

「歩道を走ってますから違法ですよ」

「懲らしめる?」

「それはやめてください」

 アリスさんもすぐそこにいるのだから、また蜘蛛を降らせるようなことをされたら困る。

 それにしても、ずいぶん危ない運転をする原付だった。歩道をあの速度で走れば人身事故につながりかね……。

「あ!」

 目で追っていたバイクが、歩行者から何かを取り上げた。

「ひったくり!」

 よく見れば被害者はアリスさんだ。突き飛ばされたせいで転んでしまっている。その胸元にさっきまであったカメラがなかった。原付のひったくり犯が盗って行ったらしい。

「警察を」

 そう思いスマホを取り出した時。

「……モーガンさん?」

 隣にいたはずのモーガンが消えていた。


 あたりを見回す。すると、モーガンはビルの外壁を走っていた。それもものすごいスピードで。

 思わず追いかけるが、まったく追いつかない。

 一方のモーガンはすぐに原付に追いつく。そして飛んだ。

「なんてこと!?」

 そのまま原付の荷台に着地する。

 フルフェイスヘルメットをかぶった犯人は慌てたのか左右に大きく車体が蛇行する。だがモーガンの体はぶれなかった。

 そのうち、原付が速度を落とした。犯人は一生懸命アクセルをふかしているが、速度はみるみる落ちていく。

「はぁ、はぁ」

 私が追い付いた時には、原付は後輪を猛スピードで回しているのにも関わらずその場に停止していた。どうも後ろだけを浮かせているようだった。

「そのカメラ、返してもらうよ」

「なんだおめえ! なんなんだよ!!」

 犯人の声は泣きそうだった。だがまだあきらめていないらしい。モーガンの手を払うと、原付から飛び降りて逃亡する。

「チクショー!」

 なりふり構わず走り出す。私も追いかけようと足を踏み出したが、小さな影が私の横から飛び出した。

「ちょぉ待てや」

「うっ」

 アリスさんの低い声とともに、犯人の動きが止まった。一瞬で間合いに入ったアリスさんが、そのこぶしを、犯人の腹に決めたのだ。

「アリスさん!」

「カメラ、返してもらうで」

 普段の温厚な様子からは想像もできない声と表情で、アリスさんが犯人を締上げる。

「うわぁ!!」

 だが犯人は、手にしていたカメラを放り投げた。

 カメラが放物線を描いて空を舞う。アリスさんが驚きの表情でそれを追っていた。私も驚愕を隠せず、彼女を見た。

 重力に従って落下していたカメラは、羽が地面に落ちるかの如くそっとアスファルトの上に着地した。

「は?」

 軌道を追っていたアリスさんが呆けた顔でそれを見つめる。ヘルメットで見えないけれど、犯人も同じ顔をしているだろう。

 私はバイクの上で得意げに杖を振っていたモーガンを見て、痛む頭を押さえる。

 そして騒動になる前に、彼女の腕を掴んで路地裏へと引きずり込んだ。

「あなたねぇ!」

 私はモーガンに向かって小声で怒鳴る。

「あんな街中で魔法なんか使って! バレたらどうするんですか!」

「でもお手柄だったでしょ?」

 モーガンは悪びれずに言う。

「おかげでカメラも取り返せたし」

「だとしてもです! アリスさんは魔女審……」

 思わず出かけた言葉を、私はとっさに飲み込んだ。

「とにかく、意図せずに騒ぎを起こしたら面倒なことになるんです! そうなると魔女のイメージアップどころじゃなくなるかもしれないんですよ!」

「むぅ」

 モーガンは不服そうだったが、それ以上なにかを言ってくることはなかった。

「まあ、起きてしまったことは仕方ありません。早くここから離れて、騒動が収まることを祈りましょう」

「はーい」

 とはいえ、表通りはすでに人垣ができている。遠くでサイレンの音も聞こえるから、もうすぐ騎士団も来るに違いない。

 モーガンが原付の上に立っていたことはアリスさんも見ているだろうから、何とか見つかることなくここから離れなくては。

「……ほかの人に見られなければいいんでしょ?」

「モーガンさん?」

「ならそれこそ魔法の出番じゃん!」

 モーガンがぶつぶつと何やら唱えると、空から箒が降りてきた。

「ほら乗って!」

 言われるがまま箒にまたがると、先日の朝のように飛び上がった。

「うわっ」

「もう慣れたでしょ?」

「私の話聞いてましたか!? あと慣れないですよこんなの!」

 箒は高度を上げ、高層ビルよりも高くなる。いくらモーガンに捕まっているとはいえ、こんなもの慣れるはずがない。

「大丈夫大丈夫。人間案外上見ないから」

「そういう問題じゃなくてですね!」

 雲と同じ高さまで上がる。確かにこんな上にいる人間を見つけ出すことは至難の業だろう。だがそんな高さに身一つで放り出される私の身にもなってほしい。

「アグネスは魔法のことまだよくわからないでしょ? だから怖いんだよ」

「そう言うもんですかねぇ!」

「そうそう。だから、アグネスには魔法の素敵なところ、いっぱい知ってほしいんだ。……私の友達だし!」

 モーガンは嬉しそうに笑った。その顔に、私は見覚えがあった。

 子供の時、周りにいた子たちはそんな顔をすることがあった。たったひとつの宝物を見せてくれる時、みんなは決まってこんな笑みを浮かべていた。

 私にはそれが良く理解できなかったけれど。

「あ、そうだ」

 物思いに更けていると、モーガンは何やら良からぬ顔になる。

「箒にちゃんと捕まっててね!」

「何をするおつもりで!?」

 腰に巻き付けていた私の手をゆっくり引きはがすと、箒から飛び降りた。

「モーガンさんっ!?」

 こんな高さから飛び降り!? 死ぬ気か!? 全身で箒に抱き着きながら下を覗き込む。

 だが、モーガンの姿はなく、代わりに一羽のカラスが飛んできた。

『アグネス、一人で飛んでみてよ!』

「カラスが喋ったっ!?」

 正確には頭の中で声がした。モーガンの声だ。

 カラスはケラケラと笑う。

『どう、わたしの変身術。ちゃんとカラスになってるでしょ?』

「どどど、どういう仕組みなんですかそれ!」

『魔法でーす』

 出鱈目だな魔法! っていうかさっきから脳に直接モーガンの声が響く。これまで経験したことのない感覚で気持ち悪い。

『カラスの声帯だと喋れないからね。テレパシーってやつ?』

「じゃあ私の心の声も……」

『それは無理! 私のテレパシーは一方通行なんだよね』

「そうなんですね! っていうか私を一人にしないでください!」

『行きたい方向を思い浮かべたら箒が連れて行ってくれるよ!』

「私は魔女じゃないんですけど!」

『大丈夫! いけるいける!』

 魔法なんか今まで生きていて使ったこともない。今こうやってふわふわ浮かんでいるだけでもかなり限界なのだ。

『じゃあ友達呼んであげる!』

 そう言うと、モーガンカラスが鳴き始めた。

「と、友達?」

 するとカラスの群れが私に向かって飛んできたのだ。

「うわぁ!?」

『みんなー! アグネスの初箒応援してあげて―!』

 カラスの群れは私の周りを飛ぶと私に向かってカァカァと鳴いた。非常にうるさかった。

「ななななな!?」

『頑張れー!』

「あーもう!」

 いつまでも浮き続けるわけにはいかない。鼓膜が破れそうだ。私は覚悟を決めると、家の方向に向かって体を傾ける。

 箒はするりと方向を変え、ゆっくりだが進み始めた。

『お、いい調子! センスあるね』

「そりゃどーも!」

 カラスの鳴き声に負けないよう怒鳴る。とはいえ、だいぶ感覚を掴んできたのか、自転車ぐらいの速度は出せるようになってきた。

 気持ちとしても、余裕が少しだけ出てきたのかもしれない。私はそっと下を覗き込んだ。

 アレーヌの網目のような道路と、その隙間を埋めるように建てられたビルやアパートがおもちゃのように小さく見えた。

『下ばっかじゃなくて、遠くも見てみて!』

 モーガンの言葉に顔を上げた。

「わぁ」

 丸い地平線が見えた。郊外の畑や牧草地、アレーヌ市を流れるマールイ河の煌めき、その奥にはキラキラと光る水平線、北海が見える。

『この時期は空気が澄んでるから遠くまで見えるんだよね』

「……アレーヌタワーに登ってもこんな景色は見えないですよ」

『でしょ?』

 モーガンカラスが鳴いた。多分笑ったのだと思う。

『魔女の特権なんだ。夜は夜景が綺麗だし。この国は平たいから、私の家からでもアレーヌの光が見えたんだよ?』

「それは、……綺麗でしょうね」

『また夜に一緒に飛ぼう! そしたら見えるよ!』

「……楽しみにしておきます」

 私は思わず微笑んでしまった。でも、こうやって空を飛ぶのは気持ちが良いことも事実だった。

「ところでモーガンさん」

『なーに』

「これ、どうやって降りたらいいんですか?」


「さて、一回ちゃんと聞いておきたいと思っていたのですけど」

 翌日。この日も休日なので朝からのんびりとしていたが、これではいけないとモーガンに向かい合った

 ちなみに注文した二段ベッドはまた届いていないので、昨晩もシングルベッドで並んで寝ることになった。慣れはしたが、リラックスできないことも事実だ。

 一方のモーガンはそんなこと気にもしていないようで、気持ちよさそうに朝を迎えている。

「ん? 何?」

「モーガンさんが魔法でできることって具体的にどれぐらいあるんですか?」

 今まで把握していることは、空を飛んだり物を動かしたり、虫や動物を操ったり変身したりということだ。これだけでも十分すごいが、ほかに何ができるのかも知っておきたい。

 場合によっては悪用されることだってある。モーガン自身に悪意がなくても知らずに迷惑をかけてしまったりすることもあるかもしれない。

 現に原付に乗ったひったくり犯を、有無を言わさずに捕まえてしまった。後半はアリスさんの力もあったけれど。

 もしあんなことがしょっちゅう街中で繰り返されてしまえば、魔女の存在が知れ渡るのも時間の問題だ。

「んー、そうだねー」

 モーガンは杖を振るう。するとポットに入れておいたコーヒーがひとりでに浮き上がり、カップに注がれた。丁寧に砂糖まで入れられる。コーヒーカップはふわふわと飛んで、私の手元に来た。

「どうもありがとうございます」

 コーヒーが飛ぶぐらいではもう驚かない。カップを受け取ると、そっと口をつけた。いつもの甘いインスタントコーヒーの味だ。

「まずはこうやって物を操ること。でもこれ、見える範囲で自分でも持ち上げられるものじゃないと無理なんだよね」

「昨日の原付は?」

「あれは後輪だけ持ち上げたの。結構しんどかったんだよね。身体能力を上げたりも出来るんだけど、魔法で底上げできるのは筋力とか走力とかだけ。魔力は地の力しか出せないかな」

 続いて窓の外に向けて杖を振るった。すると小鳥が五羽ほどベランダの柵に止まった。

「はいせーの」

 指揮者がタクトを振るように杖を振ると、小鳥たちが一斉に歌いだした。

「お上手! 朝からありがとねー」

 モーガンは笑って手を止める。小鳥たちはやれやれと言わんばかりに飛び去って行った。

「生き物も操れるんですね」

「うーん、操るっていうか手伝ってもらうって感じ。虫は素直なんだけど、鳥とか犬とかは理屈っぽいから私も色々妥協してあげないと行けなかったりするんだよね」

「猫とかも?」

「あいつらはダメ。全く言う事聞いてくれない。人間の事下に見てる」

 モーガンが険しい顔になる。過去に何かあったらしい。

「変身術も使えましたよね? あれってなんにでもなれるんですか?」

「うーん、得手不得手はあるかな。わたしはカラスと犬が得意。他人に変身することも出来るけど、わたしはへたくそだった」

「……おばあ様は得意だったんですか?」

「そうなんだよ!」

 モーガンは体を起こす。

「おばーちゃん、若い時の姿に化けてわたしの姉ですって顔したりしてたし。あとおばーちゃんは他人に魔法をかけるのも上手だった」

「他人に?」

「そうそう。ほかの人を変身させちゃうの」

 そこで何かを思い出したように手を叩いた。

「そういえばおばーちゃんのアレーヌの知り合い、来るたびに顔が違ったから、あれも魔法にかけられてたのかもしれない」

「ああ、頼るように言われていた方ですか」

「そうそう。だからちゃんとした顔もよくわからなかったんだよね」

「それは、……捜索も難しいわけですね」

 顔の分からない人を探すなんて、騎士団であっても難しいだろう。名前も素性も知らないのであれば、一介の少女であるモーガンにはかなり難しいはずだ。

「人探しの魔法とかはないんですか?」

「占いならあるけど、わたしそれ苦手だったんだよねー。タロットとかぼんやりした結果しか出てこないの」

 魔法も万能というわけではないみたいだ。

「逆にモーガンさんが得意な魔法って何なんですか? あの念力みたいなやつ?」

「よくぞ聞いてくれました!」 

 モーガンは目を輝かせた。

「わたしは攻撃魔法が得意なのです!」

「……マジかぁ」

 危うそうな言葉が来てしまった。思わず頭を押さえる。

 私の懸念など目にも入らぬようで、モーガンはとうとうと語りだした。

「ずっとアニメみたいな魔法が使いたかったんだよね! 杖から火とかビームとか出したり、魔法の盾出したり。だからめっちゃ練習したの!」

「……出ちゃうんですか、ビーム」

「出ちゃうよー」

 そう言ってニヤリと笑うと、モーガンは杖を振った。

「雷電の神よ、我が杖より魔を滅せよ!」

 バチン、という音とともに青白い光がほとばしる。

「うわっ!?」

 思わず目をつぶった。

「な、何するんですか!!」

 凄まじい威力の魔法ではないか。こんなものが使われたら。

「大丈夫だって、アグネス。ほら」

 モーガンはのんきに部屋を見回す。私もつられてぐるりと首を回した。

 壊れているものは何も見当たらない。室内はさっきまでとまったく変わらなっていなかった。

「音と光だけ。壊したり攻撃したりはできないんだよね、これ」

「なんだ、良かった……」

「杖を光らせる魔法の応用なの。夜スマホ探すときとかに便利」

 そう言うと杖の先端が光った。ちょうどLEDぐらいの光だった。

「本物の雷撃も練習したんだけど、なかなかできなくってさ。アニメみたいにはいかなくてさ。せいぜいスタンガンみたいな感じで。あと炎もだそうとしたんだけど」

 モーガンが再び杖を振る。すると、杖の先からバチバチと火花が散り始めた。ややがっかりする手持ち花火ぐらいの勢いだった。

「今のわたしだとこれが限界なんだよねぇ」

「それが限界で助かりました……」

 それこそ業火が出せるようなら、モーガンは歩く兵器になりかねない。その程度でよかったと心から安堵する。

「あと水も出せる、公園の蛇口ぐらいの勢いで」

「片づけが大変そうなので実演しないでくださいね?」

「砂漠で遭難したときとかに便利そうじゃない?」

「幸い砂漠に行く予定は今のところないので」

 それこそアニメや漫画で見るような派手な魔法は使えないらしい。マジックと言えばギリギリごまかせそうだ。

 攻撃魔法が得意というより好きなのだろう。これも誰かに危害を加えたいという欲求ではなく、単純にかっこいいからに違いない。

「それぐらいですか? モーガンさんの魔法は」

「んー、杖使う系はそれぐらいかな。あと薬系と、魔法道具系がある」

「……一番ヤバそうなのはどんなので?」

「ヤバいの基準による。わたし的には半径十キロにカエルを降らせる魔法が一番ヤバい」

「それも確かにヤバいですけど、私的にはさほどヤバくはないです」

 いや、カエルが空から降ってくるのは嫌だけども。そういうのではなくて。

「人に危害を加えたりするような魔法です。そういうのって……」

 モーガンは私の言葉にきょとんと首を傾げた。

「うーん、念力でナイフ動かして刺すとか?」

「それもそうですけどそうじゃなくて……」

「でもそうじゃない? 魔法も普通の道具も使い方次第でしょ?」

 その言葉に、私は何も言うことが出来なくなった。モーガンの言うことはもっともだ。魔法だろうがそうじゃなかろうが、他人に危害を加えることは出来るのだから。

 現にレニヒストハーフェンで起きる事件のほぼすべてに、魔法は使われていない。

「……まあ気を付けてくださいね。魔法で騒動が起きると面倒ですからね?」

「りょーかい! 魔女狩りはごめんだし。ちゃんとやりますよーっと」

「ほんとにですよ? 約束ですからね?」

 少ししつこく言ったせいか、モーガンが顔をしかめた。

「アグネスも心配性だなー。さてはわたしの魔女としての実力を疑ってるな?」

「疑うも何も魔女の基準がないので……」

「それもそうか。現状わたしが世界最高の魔女だ」

 魔女は世界にモーガン一人だけなのだからそれはそうだろう。と言おうとした矢先、モーガンが私を見てニヤリと笑った。

「アグネスには世界最高の魔女の実力をもうちょっとわかってもらった方がいいかもね」

「へ?」

「へんしーん!」

 モーガンは杖を振った。私の体にビリリと衝撃が走る。

「にゃ、にゃにを!」

 そう叫んで思わず口元を押さえる。なんだ。私はこんな喋り方だったか!?

「にゃ……」

 頭の上にも違和感があった。恐る恐る触れると、何やら柔らかなものが二つ乗っかっている。

「アグネスって黒猫っぽいなって思ってたんだよね。かわいい!」

「にゃんてことしてくれるんですか!」

 クローゼットを開けて鏡を見た。頭に猫耳が乗っかっていて、おしりからは猫のしっぽがフリフリと揺れていた。

「おばーちゃんなら完璧な猫にできたんだけど、わたしはこれが限界。でもかわいいでしょ」

「戻しにゃさい!!」

「もうちょっとこのままでー」

「にゃにゃー!!」

 モーガンが杖から光の帯を出す。まるで新体操のリボンのようにひらひらと舞って。

「にゃ! にゃにゃ!!」

 思わず猫パンチを繰り出してしまう。く、悔しい……。でも気になるぅ。

「いいねーかわいいねーアグネス可愛いねー」

「うにゃぁあああ! 戻せぇぇ!」

 ダメだ。猫の本能が強い。

 こうして私はしばらくの間、猫としてモーガンに遊ばれることになったのだった。

 その代償は翌日払うことになった。

「……床が傾いたのかな?」

「棚の方が寿命かもしれませんねー」

 先輩方二人が、私の席の後ろにある魔女検分具を収めている棚を見て言った。

「…………」

 私は振り返らない。何が起きてるのか、なぜそんなことになってるのかはもうわかりきっている。

「しっかし検分具の水晶玉がここまで見事に傾くなんてねー」

「棚も床も古いですからしょうがないですよ」

 職場にある検分具という検分具の水晶が、私に向かって傾いていた。二日間魔法をたっぷり浴びたせいだろう。

「すみません、お手洗い行ってきます……」

 そうそうに席を立つ。さっさと銀短剣で魔力を吸い取らなければ……。

「あれ、戻った」

「やっぱり木が腐ってるんですかねぇ」

「アリスさんに相談してみるか」

 そんな声を背中で聞きながら、そそくさと部屋を出るのだった。


 午前の業務も何とか終え、私は枢密院本館地下にある食堂で昼食を取ろうと列に並んでいた。

 コンビニやこの辺りの公務員向けの飲食店も外にはあるが、価格的にはここが一番安い。その代わり、味は微妙だ。

 昔はもう少しおいしかったらしいが、予算削減のあおりを受けたのだという。公務員はどこもつらいのだ。

「アグネスちゃん、お疲れさん」

 後ろから声をかけられた、振り向くとアリスさんがニコニコと笑っていた。

「アリスさん、お疲れ様です」

「今からお昼なん?」

「はい」

「よかったら一緒の食べてもええやろか? うちが奢るで」

「いいんですか!?」

「かまへんよー」

 アリスさんは私の前に出る。

「おばちゃーん、デラックスランチ二つー」

「デラっ!?」

 デラックスランチはその名の通り、この食堂で一番高いメニューだ。私は食べたことがない。

「ええてええて。もしかしてなんか他に食べたいもんあった?」

「いえ、そんなことはないんですが……。ありがとうございます。ご馳走になります」

「うんうん。奢られるのも若い子の仕事やでー」

 見た目的に歳はさほど変わらないようにも見えるが。まあ首席審問官を務めているのだから、アリスさんもそこそこのキャリアを積んだ方に違いない。

 運ばれてきたデラックスランチのお盆を持って、私たちは向かい合わせに席に着く。

「これは……、デラックスですね」

 お皿に乗るのはなんとステーキだ。素敵。

 付け合わせのブロッコリーと人参、コーン、グリンピースが鮮やかさを添えている。柔らかなパンとバター、普段のランチにも日替わりで付いてくるスープが並んでいた。今日のスープはミネストローネだ。

「この間はありがとうな。おかげで助かったわ! それにしてもすごいなぁモーガンちゃん。あれどういう仕掛けなん?」

 先日のひったくりの件だろう。午前中、アリスさんは偉い人に呼ばれて留守だったので、あれから顔を合わせるのは今が初めてだ。

「ええと、パルクールをやってるんですよ彼女! それで追いつけたみたいです」

「パルクールってビルからビルに飛び移る奴やろ? それで原付に追いつけるんや。すごいなぁ。有名な選手とかなん?」

「さ、さあ。そこまでは……。それにしてもアリスさんもすごかったですね!」

 あまり追及されるとボロが出るので、さっさと話題を変える。

「あんな大男を一瞬で投げちゃうなんで。ジュード―ってやつですか?」

「せやね。昔ちょっとやってて」

「すごいです!」

「いやいや。ウチがうかうかしとるせいでひったくられたんやから。鈍ってもうたって怒られたんよ」

「へぇ」

 誰にだろう。ご家族とかかな?

 ご結婚はされていないはずだが、もしかしたら実家で生活されているのかもしれない。

「そういえばモーガンちゃん、あの教会で働いとるんやろ。なんか変わったこととか聞いとる?」

「いや、特には……。ただ教会もお金がなくて大変らしいです」

 モーガンは昨日の午後からお手伝いに出ている。初日は簡単な掃除を任されたらしい。

 簡単と言っても長らく手を付けていない箇所が多く、ほこりが積もっていて大変だったそうだ。ただ、魔法を使って高所や手の届かない隙間までを噴き上げてリコさんを驚かせたらしい。

「そうか。今の時代どこも厳しいなぁ」

「アリスさんは教会の事情にご興味が?」

 ふと口に出た疑問だったが、アリスさんは手を止めた。聞いちゃいけないことだったのだろうか。そう思っておそるおそる表情を覗くと、いつもの笑みが張り付いていた。

「ちょっと野暮用でな」

 アリスさんはケラケラと笑って、肉をナイフで切り分ける。

「ところで、アグネスちゃんはどない? もう仕事は慣れた?」

「……そうですね。いくらか。ただ、警察の時とは全然違う業務で、困惑してしまうことも多いです」

「ウチの仕事は色々特殊やし。普段やることは地味やしね。まあそう思うんも無理ないよ」

「ただ皆さんよく教えてくださるので、大変だということはあまりないです」

「そうか。そうなら教えた甲斐もあるわ」

 アリスさんは美味しそうにお肉を口に運んだ。私もそれに倣ってステーキに口をつける。普段のランチよりも数段美味しかった。

「昔はもうちょっといい肉使うてくれとったんやけどなぁ」

「今でも十分美味しいですよ?」

「ほなよかった。今度もうちょっとええ店連れてったる!」

「楽しみにしておきます」

 太っ腹なアリスさんに礼を言うと、アリスさんもニコニコとうなずく。私たちはしばらく他愛もない話をしていた。身分証明がないとお酒を売ってくれないとか、休日の呼び出しがひどいとか。

「そや、アグネスちゃんこの間聞いてくれたことあったやろ?」

「聞いたこと、ですか?」

「本物の魔女を見つけたらどうしたらええかって」

 私は一瞬身をこわばらせた。

「そ、そうですね。あくまで仮定の話なんですけども……」

「めったに聞かれへんことやから、うちも気になってちょっと調べたんよ」

 アリスさんは変わらず微笑んでいた。だけど、その瞳は先ほどまでと違うように見えてしまう。

「まあまず法律の方から話すると、『魔女追放令』第一条に従う形になるんよね」

 魔女追放令第一条、王国領内において魔法を用いて他者に危害を加えること、あるいは生命、及び財産を奪うことを禁ずる。また魔法を用いて王国領民の安寧並びに王国の平和を乱すこと、あるいはそれを計画することを禁ずる。

 魔女審問官として最初に暗記させられたのがこの一文だ。

「で、これが肝なんやけど、魔女追放令は『魔法を使う事』自体は禁止してないんよ」

 私は眉根を寄せた。

「そうなんですか?」

「そうそう。この勅令が禁じとるのは、ざっくり言うと『魔法を使って犯罪を犯すこと』やねん。それに魔女追放令ってのは古語を現代語に直した時の通称で、原文の直訳は『魔女令』だけ」

「はぁ……」

 確かに、言われてみればそうだ。よく読めば、魔女追放令は魔女の存在そのものを禁止しているものではない。

「せやから、もし魔女が目の前に追ったとしても、何かしらの犯罪を行わへん限り問題はないんよね。しかも審問は『犯罪に魔法が使われたことを証明する』ことが目的で、審問にかけられた魔女を罰することは出来へんのよ」

「魔女であること自体は罪ではない、という事なんですね」

「そういうこと。不思議やろ? まあ八百年も昔の勅令やし、現代の法解釈やとそう読めるってだけで、当時はちゃうんやったかも知らんけど」

 アリスさんは付け合わせの人参とグリンピースを器用に端に避けた。

「ほんで、次が政治的な話や。アグネスちゃんは、レニヒストハーフェンの魔女伝説は当然知っとるやん?」

「そりゃもう。パンフレットで嫌ほど見ましたし、昔から絵本なんかでも読んでました」

「そう、勇者アグネスは魔女モーガンを倒して、この国を魔女から解放した。そんで、レニヒストハーフェンの初代女王になったんや」

 その血筋は今でも続いていて、当代の女王陛下は初代アグネス一世から数えて二十一代目の女王とされている。

「すなわち、今の王家がレニヒストハーフェンを統治出来てるのは、魔女からこの国を解放したからということになるんよ。そうすると、魔女がまだ国におった、そんでもって悪さをしたというのは、王家の統治の根拠を揺るがしかねへん大問題になる」

 アリスさんはグリンピースと人参を私のプレートにちょこちょこと移してきた。

「あの……」

「いっぱい食べや? 大きなれへんで」

 別に嫌いではないので、黙って人参を口に運ぶ。

「話を戻すと、魔女審問会の真の役割もここにあるねん。魔女はおりません、アグネス様の働きは今でも有効ですよーって証明することで王室の統治権を保証する、そのための組織がうちらなわけや」

「なるほど……?」

「つまり、この国に魔女はおったらあかん。存在する、しないではなく、存在すると認めてはいけないということやねん」

 わかったような、わからないような。ただ、高度に政治的な意味合いがあったのだろう。

「大昔の記録とか見るとおもろいよ? 王家に反乱を企てた地方の貴族が、魔女の存在をでっち上げて王様に退位を迫ったりとか。で、魔女審問会が魔女なんておらんって証明してその反乱を収めたり。ま、今はそんなことせんでも王国は安泰やろうけどね」

 ステーキソースをパンで拭って、アリスさんはニコニコと口いっぱいにそれを頬張った。

「どう? うちらが魔女を捕まえられへん理由、ちょっとわかったやろか?」

「はい、ありがとうございました」

 そう言って頭を下げる。そして再び顔を上げた時、アリスさんの顔がすぐ目の前に会って思わず息を飲んだ。

「あ、アリスさん……?」

「ところでアグネスちゃん」

 アリスさんは細い目の奥を光らせて言った。

「なんや隠しとるやろ?」

 心臓が一拍止まった。

「な、なぜそんなことを?」

「うーん、しいて言うなら勘やね」

「勘、ですか。そんなあてずっぽうな」

「案外あてずっぽうでもないんやで。勘言うんはそれなりに根拠があるもんやねん。その根拠が自覚的か無自覚的は別やけどな」

 とても含みのある言い方だった。

「アリスさんの勘は、……根拠があると?」

「うちは昔から勘の根拠を見つけるのが上手いねん。せやから、結果的によー当たるんや」

 アリスさんは笑っていたが、私はとても笑えなかった。刃物を首に突きつけられたような感覚だ。

「ウチの勘が言うとるんよ。アグネスちゃんは何か隠しとる」

「な、何かとは……?」

 何とか声を絞り出す。アリスさんは表情を変えない。

「なんかってのはなんかや。あんまり人には言えへんこと」

「そ、それはありますよ。人に言えないことの一つや二つ……」

「せやね。ほんでも、仕事に関係することは言わなあかんよ?」

 表情を取り繕うことで精いっぱいだった。しかし視線がいつの間にかアリスさんから逃げ出す。これでは自白していることと同じだ。

「その、それは……」

「怒らへんから、言うてみ。困っとるんやったら何とかしたるよ?」

「ええと、その……」

 アリスさんの話を信じるなら、モーガンが今すぐ捕まるという事はないはずだ。とはいえアリスさんも、まさか本物の魔女が存在するということを想定していたわけではないだろう。

 モーガンの使う魔法は、使う人次第では大きな騒動を、場合によっては人命をも奪うものだ。別に魔法だけが特別危険だとは今は思わない。でも、そう考えるに十分な能力がある。

 少なくとも、そう考える人は必ずいる。アリスさんがそうではない保証はどこにもない。そして彼女は、モーガンを連れ去り拘束することが出来るだけの権限を持った人間だ。

 突如窮地に陥った私だったが、突破口もまた突然やってきた。

 昼休み終了の五分前を告げる予鈴が鳴ったのだ。

「ありゃ、もうそんな時間なんか」

 アリスさんがスピーカーを見つめたすきに、私はプレートを持って立ち上がった。

「あ、アリスさん! 急いで戻らないと午後の業務に遅れちゃいますよ!」

 逃げるような私の態度に、アリスさんは少し驚いたようだったが、

「せやな。急ご急ご」

 いつもの柔らかな雰囲気に戻って席を立った。

 食堂を出ると、二人で並んで廊下を歩く。さっきまでの状況が状況だったので、かなり気まずい。

「あんな、アグネスちゃん」

「はい……」

 アリスさんが先に沈黙を破った。

「話言うんは、モーガンちゃんのことやねん」

 胃の中に冷たいものが降りてきて、代わりにさっきのステーキが食道を駆けあがってくる。せっかくいいもの食べたのに、出してしまうなんてもったいないことは出来ない。

「あの子の事なんやけど」

「……はい」

 私は覚悟を決めた。

「彼女なん?」

「……はい。……はい?」

 アリスさんの発言の意味が理解できず、私は無遠慮に彼女の顔を見た。アリスさんはあわてて手を振る。

「あ、いや別に詮索しよーいう奴やないんやで! そこは部下のプライベートやし、法に触れへん限り自由にやってほしいんやけど」

「あ、いやその」

「ただ、なんか同居してるみたいなこと言ってたやん。せやけど自分単身者用官舎やろ? 規約もあるし、もし必要やったら家族向け官舎に移る手続きしなあかんから声かけてなって言いたかったんよ」

「えーと、え?」

「ごめんごめん。変なおせっかいやったな。堪忍!」

「いや、その……」

 照れ隠しのように笑うアリスさんに、私はすっかり毒気を抜かれてしまった。

「アリスさん、すみません、あの子は彼女ではないです」

「へ?」

 疲れ切った顔の私と、真っ赤になったアリスさんが同時に帰ってきたせいで、審問会のメンバーが少しざわついたのだった。


 それから数日が過ぎた。

 モーガンとの同居はおおむね上手くいっていると言ってもよかった。モーガンはいい加減なところもあるし、すぐに魔法を使いたがるが話が通じないわけではない。言いつけは基本的に守る子だ。ただ魔法に関しては別だった。

 特に私を魔法で遊ぶことには躊躇がないらしく、色々ひどい目に会った。遊覧飛行や念力程度ならまだいいが、なぜか気に入ってしまったらしく私に猫耳を生やそうとして来るので困っている。ほかにもネズミを使役して部屋の掃除をやろうとするなど、日々魔法のアピールに余念がなかった。おかげで私も少し慣れてしまったぐらいだ。

 仕事の方は順調らしく、色々と雑用をこなしているらしい。ただ時々魔法をこっそりと使って、リコを驚かせているのは勘弁してほしいが。

 だからか、気苦労は絶えない。いつヘマをやらかすか、ハラハラする日々を送っている。

「はぁ」

「どうした、アグネス」

 職場で思わずため息を吐くと、ジャンヌさんが心配そうに顔を覗かしてくれた。

「いえ、……少し友人関係で悩んでて」

「ああ。お前ぐらいの年だと色々あるだろうな」

「はい、実は同居してる子がいるんですけど」

 ジャンヌさんの手に握られていた包丁が滑り落ちた。

「同居!? あっち!」

 そのうえ煮えたぎる大鍋に触れてしまったらしく悲鳴を上げる。

「大丈夫ですか、ジャンヌさん!」

「あ、いやその、同居というのはつまり、その、恋人……」

「……あ! 別に恋人とかそういう奴じゃないです! ええと、や、事情があって家に置いてるんですよ彼女。それでちょっと色々あって」

「あ、ああ。なんだそういうことか。ならいいんだ、うん。よかったよかった」

「……ジャンヌさん、手大丈夫ですか?」

「……一旦薬を塗りに行ってもいいか?」

「はい、ここは見ておくので」

「すまん」

 ジャンヌさんはそそくさと出ていき、工房は私一人だけになった。

 この工房は本部に併設されている。普段ここでは魔女検分や儀礼に使用する魔女避けの香湯や聖水を作成しているのだ。

 古めかしいレンガ造りの壁に、大鍋を乗せたかまどが二つ。中央の作業台には聖水づくりに使用する薬草や香草が積まれ、壁や窓際には木の根やら何やらが大量に吊るされている。

 壁際の棚にも一面様々な植物や液体が鎮座していて、魔女の工房と言われても納得できそうなありさまだ。モーガンが見たら目を輝かせるかもしれない。

 今日はジャンヌさんと二人で香油の精製を行っていた。

 レニヒストハーフェンにはワルプルギスの夜というお祭りが秋の終わりに行われる。かつてこの日は、魔女の力が最も強大になると恐れられていたらしい。

 そこで人々は魔女避けの聖水を玄関にかけ、魔女が嫌うとされる匂いの香油を家の暖炉で焚き魔女から逃れようとしたのだ。

 時代が下るにつれ、魔女の仮装をして人々を脅かしたり、仮装のままパーティーをしたりするような楽しいイベントになった。最近だと一晩中お祭り騒ぎをするようになり、市街地の中心部では若者が大暴れして警察が出動するなど問題にもなっている。

 とはいえ伝統に則り、この日は今でも王宮や議会、裁判所といった国家機関の暖炉で香油が焚かれる。それを用意するのも魔女審問会の仕事だ。量がバカにならないため、夏の初めから業務の合間に少しずつ作っていかなければいけないのだ。

「そう言えば、こういうのも効くのかな?」

 銀や水晶にまつわる魔女の伝説は本当だった。モーガン自身も自分の魔力をコントロールするために銀のネックレスをしていたから、魔女の中でもよく知られていたものだったのだろう。

 ただ、聖水や香油は知らない。前に一度聞いたことがあったが、モーガン自身もよくわからないのだという。

「最近は香油を焚く家もほとんどないからなぁ」

 煙突のある家も少なくなっている。こんな風習があるということを知らない人も多い。モーガンも知らないうちの一人だった。

『ワルプルギスの夜って魔女の正装でうろついても不審がられないし、お菓子もらえるしで大好きだったんだよね』

 とまで言い放つ始末である。

 どうも魔女伝説の真偽にはムラがあるようだ。案外、実在の魔女とこの国の魔女伝説、そして魔女審問会は直接関係がないのかもしれない。

「すまない、アグネス。助かった」

 そんなことを考えているうちに、ジャンヌさんが帰ってきた。

「いいえ、こちらこそややこしいことを言ってしまい申し訳ありませんでした」

 鍋に触れたらしい左手には絆創膏が貼られている。

「……労災ですか?」

「いや、そんな大げさなもんじゃないよ」

 ジャンヌさんが笑う。

「ちょっと軟膏を塗るだけのつもりだったんだが、アリス首席に捕まってな。一応貼っとけと言われたんだ。少し赤くなっただけで、大したことはない。それに、そもそもあたしの不注意が原因だしな」

「ですが……」

 さすがに先輩にけがをさせてしまっては、申し訳がなさすぎる。すると、ジャンヌさんはいたずらっ子のような笑みで八重歯をのぞかせた。

「なら、一つお願いを聞いてもらおうかな」

「はい! なんでも!」

「安請負は良くないぞ、アグネス。あたしのお願いってのは、あと一年は一緒に働いてほしいってことなんだが、いけるか?」

 その言葉に、私は首を傾げた。

「今のところ転職の予定はないですけど……」

「ふふ、今のところ、だろ?」

 そう言われて、自分の失言に気づく。

「い、いえそんな。将来的な予定はあくまで未定だという意味でして」

「そうかそうか」

 ジャンヌさんは豪快に笑った。その朗らかな雰囲気のまま、私に言う。

「アグネス、この仕事嫌いだろ?」

「へ」

 喉から空気が漏れた。

「あー、いや。意地悪な聞き方になってしまったな。嫌いというよりも不満に思ってるんじゃないか?」

「そ、それは、そんなことは」

 そんなことはない。と言うことは出来なかった。魔女審問会に配属されたことは実に不満だったし、その仕事に納得がいっているかと言われれば、答えはノーだ。

 そしてそれを取り繕うことが出来るほど、私は器用でもなかったらしい。

 慌てふためく私を見て、ジャンヌさんは再び笑った。

「別にごまかさなくたっていいさ。アグネスみたいに志を持って公務員になったのなら、我々の業務を不満に思うのは当然だ。むしろ健全と言ってもいいとあたしは思ってるぞ。ああ、人間関係の問題があったら、人事院の通報ダイヤルに言ってくれ」

 ジャンヌさんはそう言って、作業台の上にざく切りにしてあった薬草を鍋の中に散らした。

「……正直、不満がないかと言われたら、嘘になります。人間関係は大丈夫です。その点は、よくしていていただいてるので」

「そうか」

「態度に出ていましたか?」

「いや。お前は良く働いてるよ。なんとなくそう感じてただけだ。それに、あたしも最初は嫌いだったからな、この仕事」

「そうなんですか!?」

 驚いた。ジャンヌさんは次席審問官として常にアリスさんを支え、組織のために働いているように見えたからだ。私に仕事を教えてくれる態度からも、魔女審問官であることを誇りに思っていることがひしひしと感じられていた。

「あたしは元々、内務省にいたんだ。保安総局で、警察行政に携わっていた」

「それって……、スーパーエリートじゃないですか!」

「そう言ってくれる人もいたな。実際はまだ若かったし、大した仕事はしていなかったが」

 官僚のエリートコースと言えば、外務省の外交官、財務省の予算局、そして内務省保安総局の三つだと言われている。保安総局は全国の警察や国家憲兵隊と言った警察組織を統括する重要な機関だ。この中の頂点を目指して、この王都官庁街では熾烈な出世争いが繰り広げられている。

「あたしは早々にレースから脱落した。ま、今自分の能力を考えれば妥当だったかなと思うよ。それで異動させられた先がここだったんだ」

 島流しという奴だったのだろう。出世に燃える官僚としては悔しかったに違いない。

「すぐに辞めてやろうかと思ったよ、こんな部署。やってることに意味はないし、国家国民に対してなんの影響もないしな。なくても誰も困らない仕事だ。民間コンサルでもやった方がやりがいもあるし給料もいいだろうって」

「でも、辞めなかったんですよね」

「ああ」

 ジャンヌさんが懐かしそうに遠くを見つめた。

「色々あってな」

「……それは、教えていただけませんか?」

「教えてやってもいいが、アグネスの参考になるような話にはならないと思うぞ」

 ジャンヌさんは少し笑うと、語ってくれる。

「魔女検分に行ったんだよ。ガッテルダムっていう港街まで。女王がバカンスで訪問されるから、その準備の儀式だった。あたしの担当はガッテルダム駅で、こんな格好で仰々しいことをやってるわけだから、当然人だかりができたんだ」

 そんな中、ジャンヌさんに声をかけてきた人がいたのだという。

「九十近いご老人でな。ただ駅の周りをぐるぐるしてただけのあたしに、ずっと頭を下げてたんだよ。それで聞いたんだ。どうしてですかって」

「……どうしてだったんですか?」

「『あなたを見ると安心するんです』ってな」

「……安心?」

「戦争の生き残りだったんだよ。ご老人。八十年前、レニヒストハーフェンが占領された時からその街に住んでた」

 八十年ほど前、世界中を巻き込んで勃発した大陸大戦。レニヒストハーフェンは開戦初期に隣国に占領され、四年ほど支配された。

 その後連合軍の反攻によって独立を回復し、帝国の敗戦で大戦は終結。この国は現在まで大きな戦争に巻き込まれることなく平和を享受している。

「魔女審問会は、戦後すぐに全国の魔女検分を行ったんだ。別に魔女を見つけ出そうってわけじゃない。魔女伝説をもとに成り立っているレニヒストハーフェンの復活を、国民にアピールするためにだ」

 そんなことをしていたのか。私は素直に驚く。

「あたしも驚いた。まさかこの仕事で感謝されるなんて思ってもみなかったからな。でも、悪い気はしなかった」

 ジャンヌさんは嬉しそうに微笑んだ。

「そう思ってくれる人が一人でもいる限り、この仕事に尽くすのがあたしの役目なんじゃないかて思ったんだよ」

 そう言って、照れくさそうに頬をかく。

「まあ、そんな仕事は二度とない方がいいし、あたしらが正面に出ていくっていうのは、魔女が出た、というよりは、この国の人たちが不安に陥っているときだ。地味だし役に立たない無駄飯ぐらいがちょうどいいのかもしれない。だけど、魔女審問会は間違いなくレニヒストハーフェンの柱なんだよ」

「柱……。正直、そんなことは考えたこともありませんでした」

 ジャンヌさんは、しみじみとしている私に笑って言う。

「ま、仕事にどう向き合うかなんて、人それぞれだからな。あたしはアリス首席を尊敬しているが、首席とあたしでもきっとこの仕事に対する哲学というか、考え方は違うだろうし」

「……私は、この仕事をどう捉えて、向き合えばいいんでしょう」

「それは知らん。自分で考えなきゃな」

「ええ……」

「とにかく、あたしにとって魔女審問会は、この国を支えてきた存在だと思ってる。その一員であることを、今のあたしは誇りに思っている」

 そんなジャンヌさんの態度に、意地の悪い私が顔を出す。

「でも……、世間ほとんどの人からはいらないって思われてますよね。もうすぐ廃止されそうだって」

 ジャンヌさんはその言葉に、寂しそうな表情で答えた。

「そうだな。国民の選択ならば、それは受け入れるしかあるまい。この国が新しい段階に進むんだ。めでたいと言ってもいい。……個人的に寂しくはあるがな」

 その答えもまたよくわからなくて、私は俯く。

「ま、なんでこの仕事する理由なんてわかってるやつの方が少ないさ。そもそも給料が欲しいだけでも立派な理由だしな。まあ大いに悩め若者よ!」

 ジャンヌさんはそう言って、私の背中を軽くたたいた。


「ただいま帰りましたー」

「アグネスおかえりー」

 その日の夕方、帰宅した私をモーガンはいつものように出迎えてくれた。

「今日は遅かったね?」

「少し立て込んだ用事が入ってしまいまして。連絡が遅れて申し訳ありません」

「ううん、わたしもちょっとシフト伸ばせたから大丈夫!」

 ジャンヌさんと二人で香油づくりに励んでいたのだが、急遽ジャンヌさんが呼び出しを喰らい、残りの作業を私一人で行わざるを得なくなってしまったのだ。

 ワルプルギスの夜に向けた準備はかつかつで、作業工程的にも翌日に回すわけにもいかず、仕方なく残業となってしまったのである。

「だから今日は牛肉を買っちゃいましたー!」

「ええ、そんな高級品を……」

「すごいでしょ? ちょうど割引してたんだよねー。わたしたち二人とも頑張ったからご褒美ってことで。牛カツレツにしています!」

「揚げ物……。久しぶりに食べた」

「油分も必要な栄養素だからねー」

 ウキウキで盛り付けと配膳をするモーガンにつられ、私も弾むように着替える。

 よく見れば、牛肉の炒め物以外にもレタスとトマトのサラダやリンゴが並んでいる。モーガンが来る前よりも格段に豪勢になった食事に思わず胸が躍るが、その予算に一抹の不安を覚えた。

「お金の方は大丈夫ですか? 食費はモーガンさんにお任せしようと思ってますけど」

「あー、うん。大丈夫大丈夫。わたしのお給料も入ってくるはずだし。心配しないで」

 心配になる回答だった。モーガンの大丈夫はあまり大丈夫ではないことを、ここ数日で学習している。

「私のお給料は急には増えませんからね? もし困ってもどうにもなりませんよ?」

「その時は魔女直伝の野草スープで何とかするから、任しといて!」

 野草……。アレーヌに生えてる草はあんまり美味しくなさそうだな。

「今は今日の夕飯のこと考えよ! ほら見て、牛肉の赤ワイン煮、めちゃくちゃ美味しそうじゃない?」

「赤ワイン使ったんですか!?」

 驚きながらも、物珍しさか鍋を覗く。細切れの牛肉が、赤ワインの風味とともにとても良い香りを出していた。

「つ、次からはもう少し節約も」

 顔を上げると、モーガンが私の顔を凝視していた。

「……なんか変なにおいしない?」

「え、そうですか?」

「うん、甘い、花みたいな香り……」

 心当たりがあるとすれば、昼間の香油だ。あれは何種類かの花や蜜を使うため、花のような甘い香りがする。作っている身とすれば柔軟剤に鼻を突っ込んだような感じになるので少ししんどい。

「今日の仕事のせいかもしれませんね。前に話したワルプルギスの夜で使う香油を……うわっ!?」

 いつの間にか、モーガンが私のお腹に顔を押し付けていた。

「モ、モーガンさん……?」

「いいにおい……」

 両腕ごと体をがっしりと捕まれ、動こうにも動けない。

「ど、どうしたんですか? そんなに気に入りましたか、この香り」

「うん。なんだかあたまがぼうっとしてくる……」

 モーガンが顔を上げた。その頬は赤く上気していて、眼は潤んでいて虚ろだ。焦点のあってない瞳が、ぼんやりと私を見つめる。

「すごい、アグネスすごい」

「モーガンさん、いったん、いったん離しましょう。ね?」

「や」

 体格の勝るモーガンが私にしなだれかかる。耐え切れず、私は床に崩れ落ちた。そのまま組み伏せられ、身動きが出来なくなった。

「いいにおい。すき」

 モーガンの顔がどんどんと私の顔に近づいてくる。

「モーガンさん!?」

 私の声はほとんど悲鳴に近かった。

 このモーガンは普通ではない。それに、今の私の状況ははっきり言って危機的だ。何がどう危機的なのかはよくわからないけど、本能がこれは危険だと早鐘を鳴らしていた。

「かみのけ……」

「た、食べないでください! 髪の毛は食べ物じゃないです!!」

 モーガンが私の髪の毛を口に入れる。つまりすぐ首元に、モーガンの顔があった。視線を動かすと、ほとんど頬に密着するようにモーガンがいた。

「おいしい……」

「美味しくない! めっ! 牛肉の方がいいでしょ!」

「もっと……」

 モーガンが近づく。彼女の息遣いが耳をくすぐる。体の芯が熱くなるのを感じた。

 やばい。食べられる。

 体は動かない。というか動けない。

「もー、がん……」

 しおり出すような声で、彼女に懇願した。だがモーガンからの返事は帰ってこない。

 その時、急にモーガンの体から力が抜けた。私にかかる重さも増して、思わずうっと呻き声をあげる。

「……モーガン?」

「んん……」

 返事のかわりに耳もとから聞こえてきたのは、気持ちの良さそうな寝息だった。

 私の髪はモーガンほど長くはない。手入れの手間も考えて、首あたりで切りそろえている。私はそんな自分の髪の毛を鼻の前まで引っ張ると、匂いを嗅いだ。ほのかに甘い香りがする。

「香油だ……」

 魔女を追い払う香油の香り。払うってこういう事だったのか……。猫にマタタビを与えたかのような状態になっているモーガンを見る。

 確かにこんな状態になってしまえば、魔女もロクに魔法を使えないだろう、けど。

「いや払えてないし……。超ピンチだったんだけど……」

 何がどうピンチだったかは自分でもよくわからない。けれども自分の身がピンチであったことは確かなのだ。

 なんとかモーガンの下から抜け出した私は、普段よりも多めにシャンプーを取ってシャワーで丁寧に髪を洗うのだった。


 そしてそれから数日が過ぎた。

 予想された事態が起きた。回避したかった事態でもあった。

「水道代と光熱費がヤバいです」

 毎月電力会社やガス会社、水道局から届けられた請求書を私はベッドにたたきつけた。

「ふぇ?」

 ベッドに寝そべってチョコレートを食べていたモーガンはキョトンとした顔で私を見る。ちなみに二段ベッドはまだ届いていない。安いメーカーの奴を中古サイトで購入したせいで、配送がかなりいい加減なのだ。ベッドが届くより同衾に慣れる方が先かもしれない。

 だが今それは重要な問題ではない。

「モーガンさん、心当たりはありませんか? ありますよね? あるでしょう。あと寝ながらチョコを食べないでください」

 先月までとの違いは彼女との同居を始めたか否かである。ガス代電気代が値上げの一途をたどっているとはいえ、ここまで急激に変化した原因はモーガンしか考えられない。

「そりゃ二人分シャワー浴びてるし、コンロ使って料理もしてるし、家で電気使う時間も増えたんだから当然じゃない?」

「そりゃそうですけども! 問題は生活費の上昇に給与が追い付いていないということです!」

「わたしが働いてきてるじゃん」

「その分を足してもです! 赤字に片足突っ込んでるんですよ!」

 家計簿を突きつけた。今月は完全に赤字。このペースでいけば来月以降も非常に厳しい財政状況が続き、何かあれば雀の涙ほどの貯金はすぐに底をつくだろう。

 私の剣幕にモーガンは若干後ろにのけ反る。

「おお……」

「わかっていただけましたか?」

 彼女と同居を始めるにあたり、必要な日用品を買い足したりもした。そのせいで今月はそもそも出費が激しいのだ。

 やっと問題を認識してくれたのか、モーガンは体を起こして腕を組む。

「教会のシフトはこれ以上増やせないんだよねぇ。リコさんも融通利かせてくれてるけど、やっぱりお金厳しいらしくて」

 ちなみにモーガンのお給料は週払いだ。日中はだいたい手伝いに出かけているらしいけれど、その割には少ない。

「私も残業をしようかと思いましたが、あいにく職場は残業が発生するほどの業がないんです」

 私はヒラの係員なので、残業をすれば残業代がでる。ほかの官庁であれば、少ない給料をここで補っているらしい。

 だが私が所属しているのは日ごろからさして仕事のない魔女審問会。残るほどの仕事がない。先日の香油づくりのようなことの方が稀だ。

 そのため残業手当の類はほとんど出ず、少ない給料をあれこれやりくりしなければいけなくなっている。

 まあ長時間労働や残業代の未払いが問題になっている国もあるらしいので、そこと比べればレニヒストハーフェンはまだマシなのかもしれない。

「収入が減らない以上、支出を減らすほかありません。節約です!」

 そう宣言すると、モーガンは少し考えてから言った。

「じゃあお風呂は一緒に入ろうか」

「なんでそうなる!?」

 私は叫ぶ。

「違うでしょう! シャワーを浴びる頻度を減らすとか、電気をこまめに消すとか、そういう感じのがまず出てくるでしょう!」

「えー、シャワー浴びたいし、何ならちゃんとお風呂入りたーい」

 レニヒストハーフェンは綺麗好きな国民性で知られている。シャワーは朝晩の二回浴びる人がほとんどだし、なんなら湯船にお湯を張る人も多い。極東にある湯船と洗い場を一緒にした 浴室もほとんどの住宅に設置されている。もちろん、この官舎もそのタイプだ。浴槽はものすごく狭いが。

 私はずっとお湯がもったいないのでシャワーで済ましていたが、この官舎の浴室も、湯船にお湯を張れるようになっている。

「二人分のお湯をあらかじめ溜めといて、二人で一気に入ればガス代も水道代も節約できるじゃん。おばーちゃんちではそうしてたよ。アグネス小さいからそんなに狭くないだろうし」

「あなたが大きいので私は狭いんですよ!」

 なんていうか、勝手だなこいつ。

 確かにモーガンの言うことは理にかなっているが、今はそう言う話ではない。そういう話では……。

「お風呂湧いたよー」

「なんでやねん!」

 洗面所で服を脱ごうとしているモーガンに、私は心からのツッコミを入れた。

「アグネスって西レニヒストの出身なの?」

「違います! 違いますが思わず心の中から出てきたんです!」

「早く入らないとお湯冷めちゃうよ?」

 久しぶりに浴槽に湯を張ったからか、モーガンのテンションは高い。気が付けば私と二人でお風呂に入る流れになっていた。魔法でも使ったのだろうか。

 Tシャツとジーパンを脱ぎ、下着もさっさと洗濯機に放り込むとモーガンは浴室へと駆けこんだ。

「気持ちいいー!!」

 磨りガラスの向こうから歓声が聞こえる。私だってお湯を張ったお風呂は久しぶりなんだぞ。このままでは一番風呂はモーガンに取られ、私はぬるいお湯を浴びる羽目になる。

「ええい、私の家だぞー!」

 女は度胸だ。私は勢いをつけて、シャツのボタンをはずした。

「狭い……」

「アグネス軽いねー。ちゃんと食べてる?」

「おかげさまで二キロ増えました!」

「じゃあもうちょっと増やしてあげなきゃね」

「もう結構です!」

 なぜだろう。

 私はモーガンに抱きかかえられる形で入浴していた。なんかもうちょっとほかにいい形はなかったのだろうかとも思うが、この家の浴槽のサイズと形状的に、二人で入浴するにはこうするしかないのだ。

 モーガンの方が頭一個分ほど私より大きいので、こうして後ろから抱きかかえられると素っぷりと体の中に納まってしまう。

「なんとまあ柔らかな体ですね、モーガンさんは」

 体全体で感じるふかふかの感触に、思わず嫌味な言葉が出る。

「すごいでしょー」

 だがモーガンには効かない。うらやましい性格だと改めて思った。

「でもちょっと痩せたんだよ、これでも」

「……ちゃんと食べさせてあげられなくてごめんなさい」

「そういう意味じゃないって! おばーちゃん、私が食いしん坊だって思っていっぱいご飯作っちゃうからさ。アグネスと一緒に食べるぐらいがちょうどいいんだよね。アグネスと一緒に住めて良かった」

「……どうもです」

 モーガンはこういうことをさらっと言ってくるので心臓に良くない。私は顔をお湯につけた。

 すると、後頭部に固い感覚があった。ちらりと振り返ると、モーガンが普段つけている銀のネックレスが胸のあたりで光っていた。

「それ、お風呂でもつけてるんですか?」

「今日は満月だからね」

 そうだっけ、と記憶を探る。意識して月を見てはなかったが、確かに月が明るかったような覚えがあった。

「満月は、魔女の力が増すんでしたっけ」

「そう。良く知ってるね」

「まあ。昔ちょっと聞いたことが」

 仕事で知りました。という話は、まだモーガンにはしていない。私が魔女審問官であることを、彼女はまだ知らない。

「満月の夜はこれをつけないと大変なことになるってよく言われてね。これだけは忘れないようにしてるの」

「大変な事、とは?」

「わかんない。外したことないし」

 モーガンは少し困ったように笑う。

「でもこれ付けても、月光の下で魔法を使うと自分でも制御しきれなくなっちゃうんだよね。だから、あんまり良くないことになるのかなって思う」

「…………」

 なんとなく、モーガンは不安がっているように見えた。彼女は基本的に前向きで、楽観主義者だ。だから、そんな声色の彼女は初めて見た気がした。

「ま、ここには窓はありませんし。あんまり心配しないでもいいんじゃないですか?」

 もう少しほかに言うことはなかったのか。自分の発言に軽く自己嫌悪に陥る。

「……そうだね」

 だけどモーガンの体から力が抜けた。そして、さっきまでの空気を振り払うように明るい超えて言う。

「あ、そう言えば電気代も節約しなきゃって言ってたよね?」

 モーガンは人差し指を振った。

 電気が消え、一瞬真っ暗になる。だが次の瞬間、天井がぼんやりと光りだした。

「わぁ……」

 プラネタリウムのような優しくてほのかな、青い光だ。それが天井に点々と、本物の星のように光っていた。

「綺麗でしょ」

「はい、星のようです」

「すごいでしょ? わたしの家はね、これぐらい星がきれいだったんだよ」

「それは、素敵な場所ですね」

「うん。いつか案内してあげる」

「楽しみにしています」

 モーガンの故郷を二人で散策する姿が浮かぶ。針葉樹林と湖沼、草原、はるかに見えるアルプス。北部地方はとても良い場所だ。そこを彼女と一緒にめぐることは、とても魅力的なように思えた。

 いつか、必ず一緒に行きたい。そう思ってしまう程度に楽しみだった。

「ねえ、モーガンさん」

「なに?」

 お風呂でゆであがってしまったのか、私は不意に口を開いた。

「あなたと出会えてよかったです」

「……どしたのさ、急に」

「モーガンさんと出会ってから、毎日が楽しくなりました」

 退屈な日々がずっと続いていた。子供のころからずっと。夢も希望も叶わないと知って、ただ惰性の中でもがく日々だった。

 そこから連れ出してくれたのがモーガンだ。色々トラブルはあるが、感謝の気持ちの方が大きい。

「わたしもだよ、アグネス」

「良かったです」

 モーガンにそう言ってもらったことに、私は嬉しくなってしまう。またこの気持ちを味わえるなら、この先の人生も楽しいと思えるような気がした。

「ところで、これはどういう魔法なんですか? 星の再現?」

「これは物を光らせる魔法。前に杖を光らせたでしょ? その応用」

「こんな星みたいに点々と光らせるなんて器用なことも出来るんですね、すごいです」

「あー、これね。天井のカビを光らせてるだけ」

「……は?」

「カビ光らせてるだけ」

「……モーガンさん」

「なーに?」

「明日、お風呂の掃除をお願いしてもいいですか? 天井のカビを取ってもらえると助かります。……もう二度と光らないように」

 世の中には知らない方が良いこともある。それを強く痛感した夜でもあった。


 職場のお手洗いから出た私は、廊下でアリスさんと鉢合わせた。アリスさんは出勤のためのスーツ姿だった。ちょうど今登庁したらしい。

「おはようございます、アリスさん」

「おはようさーん」

 家にいると否が応でも魔女のそばにいることになる。そうすると、翌日検分具が私に反応してしまい仕事にならない。だから仕事の前に銀短剣で魔力を吸い取るのが、私の日課になっていた。

「早い出勤やね。あんま気張らんでもええのに」

「あはは……」

 アリスさんはすでに制服に着替えている私をみて笑う。やる気があって、というよりは必要に迫られての事なので、私はあいまいに笑ってごまかした。

「いやぁアグネスちゃんがここまでやる気出してくれて、ウチも嬉しいわ」

「……私、あんまりやる気が見えない感じでしたか?」

 前にジャンヌさんから言われたことが引っかかり、不安になる。だがアリスさんは笑って首を振った。

「そんなことないで。うちに来てくれたこの中やったら、ここ何年かで一番頑張っとると思うわ。ジャンヌちゃんなんかも最初大変やったし」

「この間ジャンヌさんからもお伺いしました。自分も昔はこの仕事が嫌だったって」

「せやなぁ。えらい聞かん坊やったんやで、あの子」

 アリスさんは懐かしむように頷く。

「まあでも、自分なりにやりがい見つけてくれたみたいで、ほんま感謝やわ」

「アリスさんのおかげだって言ってましたよ」

 すると、アリスさんは照れくさそうに笑った。

「嫌やわぁ。ウチなんて何もしとらんよ。ジャンヌちゃんが自分で頑張ったんやで」

 そう言うと、私の顔を覗き込む。

「アグネスちゃんも、頑張る理由見つかったん?」

「…………」

 脳裏にモーガンの顔が浮かんだ。なぜだかわからない。だけど、魔女の未来について笑って答える彼女を放っておけない。守ってあげたいと思っている。だから私は、今日もこうやって職場に来ているように思えた。

「……そうかもしれません」

「うん、ええことやで」

 アリスさんはしみじみと言う。

「仕事に意味を見出すんはえらい大変なことや。それが見つからん人やってたくさんおるからな」

「……アリスさんは」

 私は思わず聞いた。

「アリスさんは、この仕事にどんな意味を見つけてるんですか?」

 その質問に、少しだけアリスさんは目を見開いた。

「せやねぇ」

 そう一呼吸置いて言う。

「大切な人たちを守る、ってことやな」

 それはどういう意味ですか。そう聞こうとしたとき、アリスさんは本部のドアを開けた。

「アリス首席!」

 顔色を変えたジャンヌさんが、アリスさんの顔を見るなり叫ぶ。

「枢密院議長から、出頭命令が来ています」

「……嘘やん」

 アリスさんは額を押さえて呻いた。

 そのあと、魔女審問会本部は妙な空気に包まれていた。バタバタと着替えたアリスさんは、一時間ほど経った今もまだ戻ってきていない。

「……ジャンヌさん」

 隣の席で作業をしていたジャンヌさんに、私はこっそりと声をかける。

「議長からの出頭命令というのは……」

「行政改革会議の答申が出たんだ」

 行政改革を訴える新政権が発足してから、内閣直属の諮問組織として設立されたのが行政改革会議だった。

 省庁やそのほかの国家機関、国立施設の統廃合、再編を審議し、内閣に提案することがその役目だ。枢密院は歴史的には王室直属の組織だが、現在は事実上内閣の管理下にある行政機関であり、この会議で組織の在り方が議論されていた。

 枢密院議長は宰相によって推薦され、女王が任命する閣僚ポストの一つである。官僚トップの書記局長ではなく、その上の立場にある議長から魔女審問会首席審問官が呼び出されるのは極めて異例だ。

「それは、つまり……」

「あたしたちの今後が示されたんだよ」

 ジャンヌさんの顔は、いつになく緊迫していた。

 それからほどなくして、アリスさんが帰ってきた。みんな席を立って彼女を囲む。私も、その中に加わった。

「アリス首席、答申の内容は」

「……今から説明するわ」

 キャンペーンハットを脱いだアリスさんは、自席の前に立つ。

「みんな気づいた思うけど、今朝内閣の行政改革会議の答申が通達された」

 その顔は、これまで見たことがないほど険しかった。

「結論から言えば、魔女審問会は廃止とのことや」

 予想された、だが避けたかった言葉。あちこちから息を飲む音が聞こえる。

「時代錯誤的な組織を存続させる理由はない。立法手続きの簡略化、枢密院の簡素化の面から考えても、廃止が妥当である。そういう話やった」

 それらが官僚的な言葉で書かれているのだろうファイルを、アリスさんは机に放りだす。

「今後、内閣は答申結果をもとに枢密院組織改革法案を作成、次期議会に提出する予定や。審議が滞りなく進んで法案が可決、成立すれば、今年度を持って魔女審問会は廃止される」

「なんとか……」

 ジャンヌさんが叫んだ。か細い悲鳴のような声だった。

「なんとか、ならないんですか……?」

「ならん。現状はな」

 それに対して、アリスさんの声はあまりに冷たく、はっきりしたものだった。

「察しとる子もおるやろうけど、ウチの廃止はほぼ既定路線やった。うちも色々やってはみたけど、大した時間稼ぎにはならんやった。ほんま申し訳ない」

「それにしても早急すぎやしませんか!? 魔女審問会は八百年の歴史がある組織です! それをたかだか一月ちょっとの議論で……」

「それもそうだ……」

「私たちの事を軽んじてるんじゃないのか……?」

 ジャンヌの主張に同調する声が聞こえる。だが。

「甘えたらあかん」

 アリスさんの喝が飛んだ。

「うちらは歴史の奉仕者やない、国民の奉仕者や。公に仕える僕や。今回の廃止は国民の意思やねん。……それに逆らうのはあかんよ」

 悔しさがにじんでいると、私は感じた。

 自分に言い聞かせているようだった。だが、それに反論できる人もいなかった。周囲は水を打ったように静かになる。

「今後、廃止に向けて具体的に動いていくことになる。その時はまた指示するから、それまでは通常通りの業務を続けてほしい。ほんなら、解散」

 アリスさんはそう言うと、そっと私に近づき耳打ちをした。

「アグネスちゃん、ちょっと」

「……はい」

 アリスさんに引っ張られるように、私は隣室の工房に連れ込まれる。

「どうされましたか?」

 そう聞くと、アリスさんは苦悶に満ちた表情で告げた。

「今回の答申で、公務員の削減も提案されることになった」

「削減、ですか?」

「そうや。廃止組織の公務員は、民間に移転させることでそのノウハウを提供する。まあ体のええ首切りや。うちらはほとんど首になる」

「……それって」

「再就職の世話をしてくれるほど、上は優しないらしい。自分で頑張らなあかんねん」

 アリスさんは力なく笑った。

「みんな優秀な子らや。ここに来る前の経歴もええもんもっとるし、そないに困らんのと思っとる。納得はせえへんやろけどな」

「なんで、それを私に……?」

「アグネスちゃんは……、そういうわけにもいかんやろ」

 私は押し黙った。

 確かに、私は働き始めて日が浅い。キャリアもスキルも資格もない。

「民間も不況で、就職状況も厳しい。そんな中にアグネスちゃんを放り出すわけにはいかんと、うちは思っとる。……せやから」

 そう言うと、アリスさんは私の袖をぎゅっと握った。

「今のうちに辞めてくれたら、うちの……、枢密院局長級ポストの伝手で面倒を見てあげられる」

「……天下り、ってやつですか」

「広義には」

 アリスさんは私を見上げた。

「せっかく、朝ああ言ってくれたアグネスちゃんにこういうのは心苦しいんやけど、辞めるなら早いうちに言うてほしい。アグネスちゃんの、大事なもんを守るために」

 

 少し考えさせてくださいとだけ返事をして、一旦業務に戻った。

 仕事を辞めることが出来る。

 ジャンヌさんに言われた通り、元々好きでもなかった仕事だ。大手を振って辞められる上に、再就職の世話までしてもらえる。そんな幸運なことはそうそうないだろう。

 だというのに、私は素直に喜ぶことも、二つ返事にその申し出を受け入れることも出来なかった。

 なぜだろう。

 自分でも、その理由がわからなかった。私は一体、何に引っ掛かっているのだろうか。

「アグネス?」

 顔を上げると心配そうな顔をしたモーガンが、私をじっと見つめていた。

「どうかしたの?」

「あ、いいえ。大丈夫です。少し、考え事を」

 豆と鶏肉とトマトの煮込みを、私はスプーン一杯頬張る。

「うん、今日も美味しいですね!」

「……悩み事があるなら、私が解決してあげようか? 魔法で」

「結構です」

 こんなこと魔法で解決できるはずがないし、よしんばできたとしても大騒動になりそうだ。

 とは言ったものの、今は魔法にすがりたい気分でもあった。

「……ねえ、モーガンさん」

「なに?」

「モーガンさんは、大事な決断なんかはどうやって決めたんですか?」

 わずか十五歳の少女は、身一つでアレーヌまでやってきた。私とは比べ物にならない決断力だったんだろうと思う。

 しかし、モーガンはよくわからないという顔で顔をしかめる。

「どうやって決断したか……。うーん、あんまり考えたことなかったな……」

「そうなんですか?」

「うん。わたしは、わたしが大事に思ってるものに従っただけだよ」

 そう言うと、彼女の荷物であるリュックサックの中から一枚のはがきを取り出す。

 そこには豪快な字で『困ったらアレーヌに行きなさい! 私の友達がいる! あんたはそこで頑張るんだよ!』とだけ書かれていた。

「それは」

「おばーちゃんの遺書」

 モーガンは懐かしそうにその文字をなぞった。

「厳しかったけど、大好きだったんだ。だから、おばーちゃんの言葉なら信じられたの」

「そうなんですね」

「おばーちゃんは、みんなで笑って暮らせたらそれが最高だって言ってた。わたしもずっとそう思ってる。だから、それが叶うようなことをやりたいってだけなの」

 魔法のところだと喧嘩もしたけどね。とモーガンは少しだけ口をとがらせる。だけど、良い関係だったんだろうなと感じた。

「アグネスは何か大切にしているもの、ある?」

「私は……」

 そう問われて、私は答えに窮してしまった。

 私にも大切にしていたものがあったはずだ。それが叶わないから魔女審問会を嫌がっていたのだ。

 だけど、今はそれがわからない。

「……少しだけ、私の話を聞いてもらってもいいですか?」

「うん、いいよ」

 明るく答えるモーガンさんに、少しだけ申し訳ない気分になりながら、私は自分の身の上を口にした。

「……私、ずっと施設で暮らしてたんですよね」

「…………」

「生まれた時に捨てられたんですよ。それで親がいなくて。高校を出るまでずっと」

 公務員試験の面接時に言ったことがあるぐらいで、それ以外人に話したことがないことだ。こんなこと、言われた方も困るだろう。

 でも、モーガンは真剣に私を見てくれるから、つい口から言葉が漏れてしまう。

「学校は普通のところに通ってたんですけど、すぐばれるんですよね。そしたら言われるんですよ。お前は税金で食ってるんだろって。それでいじめられたこともありました」

 福祉はすべての国民が平等に享受できるものだ。この国は、全国民が健康で文化的な生活を営む権利を保障している。

 私をいじめていた奴だって、国民保険の世話になり、教育費の控除を受け、将来的に年金給付や減税の対象になるはずだ。もし生活に困窮すれば、生活保護や住民税控除、医療費の減額を受ける権利がある。

 つまり、全員がどこか税金の世話になっているのであって、私をいじめる理由にはならない。法律の勉強をした今ならそう反論できる。だけど、当時は出来なかった。

「実際その通りではあったんで、何も言い返せませんでした。相手に言われるがままだったんです」

「…………」

「だから、公務員になろうと思いました。公に助けてもらった命ですから、公に返すのが筋だろうって思って」

 そこまで話したところで、モーガンが急に抱き着いてきた。

「モーガンさん?」

「……なんか、抱きしめたくなっただけ」

「はいはい」

 私に顔をうずめるモーガンに、私は少しだけ微笑んだ。そしてその頭を優しく撫でる。

「でも今、私は必要がないと言われる部署にいます。税金の無駄遣いだと言われて、とうとう廃止されそうです。クビになるかもしれません」

 モーガンが体を震わせた。安心させようと、その体を抱きしめる。大きいとばかり思っていた彼女だけど、こうしてみるとまだ細く、年相応の少女だった。

「大丈夫ですよ、モーガンさん。何とかしてもらえるとアリスさんからは言われています。ただ、どうしたらいいのか少しわからなくなってしまいました」

 私はなにがしたいんだろう。どうしたいんだろう。

 働いて、自立して、一人前になったと思っていたのに、何もわからない。

「今は、モーガンさんの事を支えてあげたいと思っていました。あなたの夢が素敵だったから、その助けになりたいと思って働いていました。でもいざ自分の仕事がいらないと言われてしまうと、心がざわついて、離れがたいように思えてしまったんです」

 魔女審問会をやめてしまえば、モーガンに嘘をつき続ける必要もなくなる。二人で生活し続けることも出来る。

 だけど、突然示されたその選択肢を、私は喜んで選ぶことが出来なかった。

「……ねえ、アグネス」

「なんですか?」

「占い、やってあげようか?」

「苦手だったんじゃないですか?」

 モーガンが顔を上げた。いつもより、少しだけ真剣な顔をしていた。

「うん。でも、アグネスのためになるんだったら」

 そう言うと、リュックサックの中からごそごそと何かを取り出す。

「一応持って来ててよかった。たぶん、これが一番当たるはず」

 そう言って取り出したのは、手のひらに乗るほどの小さな木箱だった。中心がすり鉢状にへこんでいて、中に東西南北の方位が刻まれている。

「何代か前のご先祖様が、東洋の占いを元に作ったんだって」

 そういうと、モーガンはキッチンに箱を持っていく。しばらくして、へこみいっぱいに水を汲んで戻ってきた。

「こぼさないでくださいね?」

「気を付ける」

 慎重に机の上に置くと、水が揺れるのをしばらく待つ。

「電気消すね」

 そう言って、モーガンは電気を消した。部屋が暗くなる。だが、箱に書かれた文字がぼんやりと青白く光っていた。

「これも魔法ですか?」

「魔女道具。魔女がそばにいると勝手に発動してくれるの」

 モーガンはいつになく真剣な声で言った。きっと集中しているのだろう。呼吸を整えるように大きく息を吐く。

「精霊様精霊様。アグネス・ロートの進むべき道をお示しください」

 そう言うと、手に握っていた小さな陶器の船を水面に浮かべた。普通なら沈んでしまうはずだが、船は静かに浮かんでいた。

 やがて、船がひとりでに動き出す。

「東、ですか?」

 陶器の船は『東』と書かれた方のふちにあたると、そのまま沈んでしまった。

「ふぅ。よし、ひとまず成功―」

 モーガンが脱力する。相当集中力を使ったらしい。

「えっと、これは?」

「アグネスのラッキー方位は東!」

「ラッキー方位?」

「何か困ったら東の方に行けばいいよってこと!」

「はあ。なるほど……」

 困ったときに東に行く状況はよくわからないが、それでもモーガンが私のためにやってくれたと考えると少しだけ胸が温かくなった。

「ありがとうございます、モーガンさん」

「やっと笑ってくれたね」

 モーガンが嬉しそうに言う。

「アグネス、今日ずっと沈んでたから笑ってくれて嬉しい!」

「それは、……ありがとうございます」

「それに笑ってた方が可愛いしね!」

「な、そ、そう言う事言います!?」

「顔真っ赤じゃん。照れてんのー?」

「うるさいですね!」

 私はそっぽを向く。

 でも、気持ちは確かに明るくなっていた。


 それから数日。業務は嫌に静かに進んだ。廃止の方針が示されたと言っても、やること自体が急に変わるわけではないらしい。

 良く晴れた日の午後。私は業者に発注する注文書や領収書の仕分け作業をしていた。伝統的な装飾を行っている工房や昔ながらの製法を守る薬屋など、魔女審問会が取引をしている業者は特殊なところが多い。

 ここがつぶれてしまえば、こういった業者の経営も危ういのかもしれない。そんなことを考えていると、卓上の電話が鳴った。

「はい、魔女審問会本部です」

 電話を取るのは新人の仕事、というわけではないが、私が一番に取る。受話器の向こうから聞こえたのは、年老いた女性の声だった。

『アリスはそちらにいらっしゃりますか?』

 ちらりと席を見ると、アリスさんはいなかった。確か、会議に呼ばれていると言っていた気がする。

「申し訳ありません。アリ……、ジョンストン首席は不在です」

『あらそう。なら言伝をお願いしたいのだけれどもいいかしら?』

「はい、承知しました」

『お話は聞いたわ。都合の良い時にお茶をしましょう。そう伝えておいてくださる?』

「わかりました。あの……」

 そういえば、相手の名前を聞いていない。

「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

『……ふふ』

 おばあさんが笑った。いや、なんで名前を聞いただけで笑われなきゃいけないんだ。

『名前を言わなくても、アリスに伝えたら彼女もわかってくれるわ』

「はぁ。承知しました……。ではそのようにお伝えします」

『そう言えば、あなたも魔女審問官さんよね?』

 電話を終えようとしていたのに、突然そう聞かれ、私は少し驚く。

「え、ええ。そうです」

『いつもありがとう。お仕事頑張って頂戴ね。応援しているわ』

 そう言うと、ご老人は電話を切ってしまった。

「……何だったんだろう」

 一応魔女審問会の連絡先は公開されているので、一般の人が電話をかけることも可能だ。

 だが普段かかってくるのは枢密院の上の人からがほとんどで、あのおばあさんの声には聞き覚えがなかった。

 それにしても、仕事を応援してもらったのはモーガン以外だと初めてだった。たったそれだけだけど、あの正体不明のおばあさんの好感度は高い。

 しばらくしてアリスさんが帰ってきた。

「たーだいまー」

「アリスさん、お電話がありましたよ」

 会の存亡がかかった重大な会議終わりのわりに、アリスさんは軽い雰囲気で帰ってきた。ここ数日職場を覆っている重苦しさを跳ね返せるほどではないが、それでも気持ちは救われている。

「電話? シャーロットやないやろうな?」

「いえ、おばあさんでした。話は聞いたので今度都合の良い時にお茶をしよう、とだけ」

 シャーロットとは、魔女審問会を統括する枢密院書記局長の名前だ。立場としてはものすごく上であり、アリスさんから見ても上司にあたる人なので、本来呼び捨てにしていい人ではない。が、魔女審問会に対してあたりがキツイ人なので、アリスさんはあまり良い感情を持っていない。

「おばあさん……。もしかして、えらい品のええ感じの?」

「そうですね。かなりご高齢のようでした。お名前を尋ねたら、アリスさんはわかるだろうって」

 そう言うと、アリスさんは額を押さえて唇を持ち上げるという、嬉しいのか困っているのかよくわからない複雑な表情になった。

「あー、そっかー。そうかー。せやなー」

「アリスさん?」

「ちょっと用事できたからまた出てくるわ。ジャンヌちゃん、もうしばらくここよろしく」

 そう言うが早いが、アリスさんは踵を返して部屋から出ていった。

「何事なんですかね?」

 そうジャンヌさんに聞くが、ジャンヌさんも首をひねっている。

「わからん。まあアリス首席のことだ。何か大切な用なんだろう」

 考えてもわからないことは仕方がない。私たちはさっきまでの仕事に戻ることになった。

 結局アリスさんこの日は戻ってこなかった。


「あー、みんなちょっと聞いてもらってもええかな?」

 それからさらに数日後、珍しくアリスさんが集合をかけた。

「ちょっと相談があってな。みんなにも聞いてほしいなと思うんやけど」

「何かあったのですか?」

 先日の廃止通告のこともあってか、ジャンヌさんが険しい顔で尋ねる。だがアリスさんは笑って手を振った。

「そないに深刻な話やないよ。むしろ楽しい話。実は、うちの存在をもうちょっと国民にアピールしてみようかと思っとるんよ」

 急な話に、ジャンヌさんはじめほかのメンバーも頭が追い付いていないようだった。もちろん私も。アピール? 国民に? 今更?

「アリス首席、お言葉ですが、その……」

「今更遅いって言いたいんやろ?」

「……そうです」

 ジャンヌさんが悔しそうに頷く。だが、アリスさんはあっけらかんとして笑った。

「なんで?」

「それは、すでに廃止法案が作成される方向だと……」

「そう。方向や。まだ作られたわけやない。ましてや法案が議会で審議されたわけでも、可決されたわけでもない。諦めるんはまだ早いってことや」

 アリスさんは机をバンと叩いた。

「世間への露出を強め、レニヒストハーフェンに魔女審問会ありと国民にアピールする。失敗したってどうせ最後や。手段は選んでられへん。派手にやったろうやないか!」

 ここのところ暗い顔が多かった同僚たちの瞳に灯がともる。アリスさんの掛け声に呼応するように頷きあったり、声を掛け合ったりしていた。

「アリス首席」

 そんななか、ジャンヌさんが手を上げる。

「それはつまり、市中検分を復活させるということですか?」

「そうやね。そう考えてもろうてかまへんよ」

 すると、ジャンヌさんは少しだけ複雑そうな顔になる。

「なるほど……」

「ま、言うて形式だけのプロレスみたいなもんに納められたらええかなとも思うとる。さっき言うた通り、うちらの存在を国民に周知することが目的やしな。人数も少ないし、大々的には難しいやろ」

「わかりました。最後のご奉公、とならないよう、全力で尽くします!」

「せや、その意気やで!」

 ほかの人たちがごぞごそと意気揚々に語り合っている中、私はそっとジャンヌさんに聞いた。

「ジャンヌさん、市中検分とは何ですか?」

「文字通り、魔女検分を一般市民や民間の建物に対して行うことだ。もう七十年近くやっていないが、かつては魔女審問会の主要な任務の一つだった」

 現在、審問会が検分を行うのは国の施設や要人に対してだけ。それも国家的な儀礼や式典の中の一つとして行われている。

 だがこの魔女検分は本来、魔女令に基づく行為であり、言ってしまえば騎士団が被疑者を逮捕したり拘束したりするのと同じ意味を持つ。

「魔女検分は魔女追放令第三条に基づいて行われる非常に強力な処置だ。女王陛下や王族、議員や外国の大使にだって魔女検分が出来るのも、実はこの条文のおかげなんだぞ」

 魔女令第三条、魔女審問官は魔女及び魔法の使用を調査するために必要な処置を講ずることが出来る。なおこの行為は王権行使の代行であり、王国領内において他のすべてに優越する。

 現代であれば成立することが許されないぐらいにはめちゃくちゃな条文らしい。らしい、というのは現在の魔女検分は法律の執行というよりは文化的伝統行事の側面が強いため、こんなものをいちいち意識したりはしないからだ。

 例えば外国大使がレニヒストハーフェンに着任したときにも、魔女審問会が簡単な魔女検分を行う。本来外交特権やらなにやらの兼ね合いがあるのだが、上手くぼやかすことで乗り切ってきたのである。

「警察が被疑者を逮捕しようと思ったら令状請求やら拘留期限やら色々大変なのに、魔女審問会はそのあたりもすべて無視して検分を行うことが出来る。ここに着任したときは、こんな出鱈目な法がこの国にあったのかと驚いたな。大々的に行うと議論を呼びそうだが、まあどっちにしろ廃止予定ならあまり気にするほどではないか」

 元内務官僚らしい着眼点だ。私なんかここに来て最初のころに条文を丸暗記させられた以来聞いた記憶もない。それぐらいに魔女審問官であっても意識しない古い法律なのだ。

「では各自、市中検分の候補地を考えてきて、明日からはその準備をするように。ほんなら以上解散!」


「アグネスおかえりー」

「ただいまです」

 夕食の香りが漂う自宅にも、だいぶ慣れてきた。モーガンはいつものように台所に立って、料理の準備をしてくれている。

「今日のお仕事はどうでしたか?」

「あーそれがねー。リコがちょっと暴走気味で大変だったんだよー」

 鍋をかき回しながら、モーガンは苦笑した。

「日曜礼拝のチラシを配ってたんだけどね。もらってすぐ捨てた人にリコがめちゃくちゃ怒っちゃってさ」

「リコさんがですか?」

 あのおとなしそうなリコが怒ったというのが、なかなか想像できなかった。

「そうそう。すごかったよ」

 曰く、神様の言葉が書かれたことばをあろうことかポイ捨てするなんて何事ですか! とすごい剣幕で食って掛かったらしい。

「まあその場はなんとかなったんだけどね」

 そう言いながらも、モーガンの顔色からは苦労の色が見えた。

「リコも色々大変みたい。信者さんからの寄付も少ないし、上司のハゲが色々言ってきたりで。なんか可哀そうになっちゃって……」

 初日にモーガンと一緒に挨拶に行って以来だったが、あの教会もリコもなかなか苦労していることが伝わってきた。状況はあまり芳しくないらしい。

「どこも大変ですね」

「アグネスは大丈夫? お仕事、疲れてない?」

「今のところは。こうやって食事の準備をしていただけているだけで、QOLも爆上がりでしからね」

「よかった! あ、もし必要ならめちゃくちゃ元気が出る魔法薬とかも作るから、いつでも言ってね!」

「それ法に引っ掛からない奴ですよね……?」

 そんないつものやり取りをしているうちに、ふと思った。

 市中検分でモーガンの存在が明らかになってしまう可能性はないのだろうか。

 今まで魔女審問会は枢密院の外に出ることはほぼなかった。だから、検分具が反応することも、私が原因であることを除けばなかった。

 だが万が一、モーガンが普段利用しているような場所で魔女検分を行うことになれば、検分具が反応し、魔女の存在が示されてしまう。

 そうなればモーガン個人だけでなく、魔女審問会の在り方そのものに影響を与えかねない重大な事態だ。

「…………」

「アグネス? どうしたの?」

「い、いえ、別に」

 そもそも、私はモーガンに自分が魔女審問官であることを隠したままだ。現状良い関係を築けているがゆえに、もし私の正体がばれてしまえばどうなるのか、とても怖かった。

 今更彼女をどうこうしようという気はない。そんな前例も意味も、魔女審問会には存在していないのだから。

 だけど、私が付いている嘘は、モーガンのことを傷つけることには違いないだろう。

「許される嘘もある、か……」

 今のままで誰も困っていない。真実が明らかになれば何かが壊れてしまう。ならば現状維持のために嘘をついても問題ないはずだ。

「あ、マーガリン切らしちゃってた。ごめんアグネス、ちょっと買ってくるね」

「あ、それ私が行きます!」

 エプロンを外そうとしていたモーガンを制止する。

「え、でもアグネスまだ着替えてないでしょ? 仕事終わりだし、ゆっくりしてたら?」

「いえいえ。モーガンさんもお仕事があったんですし。いつも任せっぱなしでは申し訳ありませんから!」

 そう言って、無理やりモーガンを押しのける。市中検分が復活するとなったら、あまりモーガンを外に出したくはない。今更遅いかもしれないが、可能な限り外出する用事は私が変わろう。

 何とかして今の生活を、彼女のことを守らなければ。

 私はそう決意した。


「市中検分の候補地を選定したいと思う」

 突然の会議だったが、参加している審問官たちの士気は高かった。元々は審問所として作られ、今は会議室や休憩室として使われている部屋に六名全員が集まっている。

「市中検分は魔女追放令三条に基づき、本来相手への事前通告も必要ない。また検分を行うことが出来る施設にも制限がない。だが今回は無用の混乱を避けるため、なるべく民間施設や民間人は避け、こちらの事情も勘案してくれるであろう場所を選びたいと思う」

 ジャンヌさんはそう言うと、移動式黒板にアレーヌ市の地図を張り出した。

「事前にアリス首席と相談のうえでいくつかピックアップしてみた。これに対して意見があれば発言してほしい」

「メインは美術館とか博物館、あとは教会やね」

 王立博物館や王立美術館、王立植物園に動物園といった観光スポットに赤いシールが貼りつけられている。

「ウチら、恰好的にも写真映えするし、ロンディウムの近衛兵みたいな感じで観光客向けにアピールしていくのもええんちゃうかなって思うとるんよ」

「SNSに投稿してもらうことで、知名度を上げる作戦だな」

 ここがいいのではないか。もっと人の多いところではどうだろうか。そんな議論が闊達に繰り広げられる中、私はある事に気が付いて動揺していた。

 アレーヌ市東区に一つだけポツンとシールが貼られていた。モーガンの働いているエストアレニア教会だった。

「東区のシールはどこですか?」

 審問官の一人が聞いた。

「あそこは住宅地とかビジネス街が多い街でしたよね。観光客が来るところなんてありましたっけ?」

「エストアレニアっていう神霊教の教会やね」

 アリスさんがちらりとこちらを見た気がした。

「レニヒストハーフェンで三番目に古い教会で、中世建築がそのまま残っとるわりに知名度が低いんよ。えらい立派な建物なんやけどなぁ」

「へぇ、そんなところが」

 この教会が注目されているだけで心臓に悪い。早く話題が過ぎ去ってくれ。

 そう願いながら話の行き先を見守る。

 しかしジャンヌさんも追随する。

「そうだな。教会ならさして業務の邪魔にもならないでしょうし、同じ魔女伝説を起源に持つ組織です。話も通しやすいでしょう。加えてここのあたりは、昼間の人口が多い地区。国民の注目を集められるに違いありません」

「ど、どうでしょう……? かなり古くて、言い方は悪いですがさびれている教会ですし……」

 角が立たない程度に反攻を試みる。

「それならむしろこの教会にとっても都合がいいんじゃないか? 人が集まるわけだから」

 だが、私の反攻はむしろこの流れを補強するものにしかならなかったらしい。周囲の人間はそれもそうだなんて無責任に言ってのけてくれる。

「あ、あまり責任は持てませんよ? 協力してくれるかなんてわかりませんし……」

「ほんならうちも行こか」

 アリスさんはニコニコと笑って言った。

「市中検分は二人一組で回るやん? せやから首席審問官であるうちとアグネスちゃんで行こ。これなら向こうも文句言えへんやろ」

「そうですね。ではあたしとオフィーリアは王立博物館と美術館、アンナとミーシャで王立大図書館とアレーヌタワーに向かいましょう。いいか?」

「はい!」

「承知です!」

「わっかりましたー!」

「かしこまりました」

「待ってください、私は!」

「ほなうちとアグネスで教会関係の施設回るわ。エストアレニア教会にアレニア中央大聖堂あたりまで行けたらええかな?」

 抗議の声はかき消され、会議は熱気に包まれたまま終わった。

 あれよあれよと最悪のパターンになったことに、私は戸惑いを隠せなかった。

「アリスさん……」

「ん、どないした?」

 エストアレニア教会はやめてください。そう言おうとしたのに、言えなかった。

 アリスさんから、普段感じたことのない圧を感じたからだ。

「……いえ、なんでもありません」

「うん。市中検分は慣れへんやろうけど、頑張ろな」

 いつもの笑顔、いつもの口調なのに、有無を言わせない雰囲気だ。私は大人しく頷くことしかできなかった。

 あの教会にあるもの。それはモーガン以外考えられない。

 アリスさんは、モーガンが魔法を使ったところを見ているのだ。あの時は上手くごまかしたかと思っていたが、もしかしたら私の浅い考えなどお見通しだったのかもしれない。

「まさか、モーガンさんを利用するつもりじゃ……」

 ふと浮かんだ考えに、頭が引っ張られる。

 魔女審問会は存続の危機にある。その中で、魔女であるモーガンの存在を明らかにすれば、ひとまず危機は去るだろう。

『魔女の脅威』というものが実在するのだ。魔女審問会は八百年ぶりに本来の存在意義を取り戻すことが出来る。

 魔女審問会のトップであり、この組織を愛しているアリスさんが組織存続の危機に手段を選ぶだろうか。モーガンは、審問会にとっての切り札になりうるのだ。ここで切らないはずがない。

「アグネスちゃん」

 席に戻ったアリスさんから、唐突に声をかけられた。

「はい……」

「市中検分、明日行くわ。出来たらモーガンちゃんには内緒でな」

 アリスさんは書類を片付けながら笑う。

「サプライズで行った方が向こうもびっくりして楽しいやろ?」

「……ですが」

「頼むで」

 また、有無を言わさぬアリスさんだった。まるで魔法のように、体が動かなくなってしまう。

「……わかりました」

 私はそんな彼女を前に、そう頷くことしかできなかった。


 終業後、私は家に帰らなかった。

 帰路につくサラリーマンに逆らって、夕闇に染まるエストアレニア教会の前に立つ。

 立派なビルに挟まれた教会は、夜になると周囲よりも暗く、余計に貧相に見えた。礼拝堂には明かりも灯っていない。

 モーガンにはまだ何も伝えていない。今日は遅くなるとだけ連絡を入れたので、今頃は家で夕食の準備をしているはずだ。

 そっとドアに力を入れる。大きく軋みながら奥へと開いた。

「こんばんはー」

 奥に続く廊下のドアは少しだけ開いていて、奥から明かりが微かに漏れている。恐らくリコは事務室にいる。

 明日の市中検分をリコに伝えるため、私はここへやってきたのだ。電話番号はモーガンに聞けばわかるのだろうが、彼女に怪しまれるのは避けたかった。

 魔女検分があるので追い払ってくださいね、とは言えなかったが、代わりに教会を留守にしてもらうとか、そうしたことを遠回しに提案する予定だ。とにかく、明日の魔女検分を乗り切らなければならない。

 会いに行くために礼拝堂に足を踏み入れる。その瞬間、女性の金切り声が響いた。

『どうしてなの!』

 続いて、金属の何かを叩く音。思わず足を止める。

『なんでみんな話を聞いてくれないのよ!』

 リコが泣き叫んでいた。

『もう嫌……、もう嫌だわ……!』

 本か何かを叩きつける音とともに、リコの慟哭が礼拝堂にまで響き渡る。

「…………」

 私は止めた足を動かすことが出来なかった。

 以前会った時には明るく振舞っているように見えたが、彼女も限界にきているのかもしれない。

 神官を志すということは、私なんかよりもよっぽど強い思いがあってもおかしくないのだ。だけど今の時代、教会に熱心に足を運ぶ人は少ない。小さな教会はどんどん潰れてしまっている。

 強い思いを持ちながら相手にされないというのは、とてもつらいに違いない。その気持ちが、痛いほど伝わってきた。

『なんで……。なんで……』

 すすり泣くリコさんの声が聞こえる。私はそっと踵を返した。

 『魔女検分を行えば、きっと人が集まるだろう』というジャンヌさんの言葉がよみがえる。この教会にとって、人々の耳目を集めることは死活問題だ。

 私の勝手な願いで、それを邪魔することはどうしてもできなかった。


「……ごちそうさまでした」

 モーガンが作ってくれたキノコパスタを食べ終えると、私はいつものように食器を片付ける。

 食事の後片付けは私の担当だ。モーガンの分の食器も下げ、シンクに浸けた。

「アグネス、体調悪い? もしよかったら変わろうか?」

 モーガンの申し出を、私は笑って断る。

「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」

 彼女は人の表情に聡いところがある。大雑把に見えて、細かいところまで気が利くのだ。だけど、今はその優しさが痛かった。

「……モーガンさんは」

 努めて普段通りに、いつものようにスポンジを泡立てながら、私は尋ねた。

「明日もシフトは入っていますか?」

「うん。明日は教会のお掃除。倉庫の片づけだって」

「そうですか。上手くやれてますか?」

「まあね。こっそり魔法も使ってやってるんだ! リコったらすっごく驚くんだけど、めちゃくちゃ嬉しがってくれるの」

 その言葉に、私は一瞬動きを止めた。

 魔法が使われたということは、あの場で魔女検分を行えば間違いなく反応が出るだろう。そうしたら騒ぎになるかもしれない。

「魔法はなるべく使わないという話だったじゃないですか」

 だからか、つい強い口調で言葉が出てしまった。

「アグネス?」

「私言いましたよね! あなたが魔女だってバレたらどんな騒ぎになるかわからないって。ちゃんと意味わかってるんですか!」

 ひどい言い方だったと思う。だけど、止めることが出来ない。このままだとモーガンの存在が魔女審問会に露見する。そうなれば、彼女との生活にも終止符が打たれてしまうのだ。

「……アグネス、何にそんなにイライラしてるの?」

 モーガンは少しだけ不快そうに聞く。こんな態度を取っても節度をわきまえているあたり、彼女の方がずっと大人だ。

 私は泡だらけのスポンジをぎゅっと握りしめた。

「わたしの夢は、魔法でみんなを笑顔にすること。魔女は怖くて悪い存在じゃないんだってわかってもらう事なの。これはずっと言ってるでしょ」

「そうですけど」

「わたしは誰に迷惑をかけたの? 誰を悲しませたの?」

「…………」

 私は何も言い返すことが出来なかった。

 モーガンの夢に心惹かれたのは、まぎれもなく事実だ。

 ……違う。

 夢を追うモーガンに、私は心を惹かれたのだ。まっすぐで、明るい希望を信じている姿に、私にはない何かを見つけてしまったのだ。

 でも、もうおしまいにしなくてはいけないのかもしれない。

 魔女の存在が社会に受け入れられることはないだろう。それどころか、モーガン自身が傷つくことになりかねない。

 なあなあで流してしまったからこそ、今の危機的な状況を迎えているのだ。

「……とにかく、魔法は……、危険です。だから」

「アグネス、なんか変だよ?」

「…………」

「わたしは大丈夫だから。心配しないで」

 そう言うと、モーガンはもう話は終わりとスマートフォンに目を落とす。

「モーガン……」

 今ここですべてを言ってしまおうか。

 私は魔女審問官で、明日教会に魔女検分に行くのだと。そうすれば、モーガンが捕まることは避けられるかもしれない。

 だけど、今まで私の正体を隠していた事実が露見してしまう。モーガンはそれを知った時どう思うのだろう。今までのように、笑っていてくれるのだろうか。

 結局何も告げることが出来ないまま、夜は過ぎていった。



「準備はええか?」

「……はい」

 普段以上に制服を整えた私たちは、着け慣れない仮面で目元を隠した。魔女の呪いを回避するための物らしく、市中検分ではこれをつける風習があったらしい。

「ほな、各々よろしゅう。うちらの頑張り見てもらおうやないか!」

「「「はい!」」」

 威勢のいい声に紛れて、私は仮面の下で眉をひそめた。

 結局、モーガンとはぎくしゃくしたまま朝を迎えてしまった。一応今日の仕事は休むよう遠回しに伝えてみたが効果はなく、モーガンはいつも通り仕事に出ている。

 私もまた、重たい足を引きずるようにして出勤し、とうとうこの時を迎えてしまった。

「アグネスちゃん、馬は行ける?」

「はい、練習の通りに……」

「距離が長いからな。まあ無理せんと」

 それぞれの検分場所までは馬に乗って向かう。パレードや離宮の検分では伝統に則って馬に乗ることが多い。だが新人の私は初めての経験だし、東区まで五キロほどの道のりを行くのはアリスさんも初めてらしい。

「これでも注目が集まるやろ」

「そうですね……」

 レニヒストハーフェンは一応先進国と呼ばれる経済規模を持つ国で、道はほとんど舗装されているし、そこを行くのは自動車か自転車ぐらいだ。最近は電気自動車も多い。

 そんな中馬が歩いていたらそれはもう注目される。私も牧場以外で馬を見たことがない。

 案の定枢密院の敷地を出た途端、私たちは無数のカメラを向けられることになった。

 好奇の視線を浴び、たまに騎士団に呼び止められながらも、私たちはエストアレニア教会にたどり着いた。

 ちょうどお昼休みの時間だったからか、私たちの周りにはちょっとした人だかりができている。

 アリスさんが、芝居がかった動作で教会の扉を叩いた。私はその後ろで、直立不動で立っていた。

「はーい」

 モーガンの声だ。

 私は思わず目をつぶる。もうおしまいかもしれない。

 しかし扉が開く前に、アリスさんが叫んだ。

「こちらは魔女審問会である! これより女王陛下の命により、本施設の魔女検分を執り行う」

 返事がなかった。代わりにドタバタと何かが暴れる音がした。

「……来ないですね」

 小声でアリスさんに言うと、アリスさんもまた正面を向いたまま答えた。

「歓迎の支度してくれとんのかもな」

 すると、遠慮がちに扉が開いた。

「……な、何事でしょうか?」

 顔を出したのはリコだった。リコは怪しい顔で私たちを見てから、教会を囲んでいる群衆に気が付いたようだった。

「我々は魔女審問会です。ただいまよりこの教会に対し、魔女検分を執り行います」

 混乱しているリコに、さっきとは打って変わって優しいな口調でアリスさんが言った。

「詳しく説明させて頂きますので、入れていただけませんやろか?」

 そう言いながら、一枚の書類を取り出す。

「女王特許状……ですか?」

「魔女検分は女王陛下の命によって行われますので」

 女王の署名と王室の印が入った特許状だ。滅多に見るものではないが、その権威は絶大である。

「あなた、お名前は?」

「……エストアレニア教会神官補佐のリコ・シトラウスキーです」

「うちは魔女審問会首席審問官のアリス・ジョンストンです。こちらが部下の……」

「……アグネス・ロートです。魔女審問官補です」

 声と名前で察したのか、リコが大きく目を見開いた。

「あなたまさか」

「怪しい者やないってわかってくれましたやろ?」

「…………」

 私はキャンペーンハットを押し下げて目線を隠す。リコはちらちらと後ろを気にしていた。

「ええと、じゃあ」

「まあ話は中で。ウォルツェン神官長殿はご不在?」

「は、はい……」

 私は、事務室へ通じるドアの奥からこちらを見ていたモーガンを見逃さなかった。モーガンはこちらをじっと睨みつけると、そっとドアを閉じる。

「アグネスちゃん、うちはシトラウスキー殿と少しお話するから、礼拝堂の検分頼むわ。ギャラリーをようさん入れてな。一発ぶちかましたり」

「……わかりました」

 いまだに事情を呑み込めていないリコを連れて、アリスさんは奥の扉の向こうへと消えていく。ドアの向こうにモーガンの姿はない。きっとどこかへ身を隠しているのだろう。

 残された私は、そっと周囲を見回した。

 物珍しさからか、スーツ姿の男女が礼拝堂の中にまで入り込んでこちらを見守っている。私よりもすこし距離を取っているから、スペースの半分ぐらいが埋まっているような状況だ。

「なんだあれ。映画か何か?」

「魔女審問会だって。今から魔女検分ってのやるらしいよ」

「まだあったんだなぁ、魔女審問って」

 ざわざわと私を見守る群衆を前に、ただ突っ立っているわけにもいかなくなってしまった。

 私は手にしていた革のトランクケースから、木製の検分具を取り出す。

「ただいまより魔女追放令に基づき、女王の命による魔女検分を執り行う!」

 もうやけくそだった。

 私の声は、思いのほかよく響いた。

 ここで使う検分具はカメラの三脚と同じような形をしている。高さも私の背丈ぐらい。留め具には銀が使われていて、頂点には王室の紋章が丁寧に彫り込まれている。

 三脚と違うのは、三角形の真ん中に握りこぶしほどの水晶玉が吊るされているということだ。仕組みはいつもの書類検分と同じである。

 私は後ろを振り向き、私を見つめるカメラのレンズを見つめる。そして水晶玉を右手に持つと、左手で銀短剣を抜いた。

 シャッター音が響く中、練習していた通りに言った。

「執行者は魔女審問官補アグネス・ロート。女王陛下より賜りし銀短剣に誓って、魔女の偽りを見抜かん」

 刃先をそのまま左胸に当てた。「おお」とどよめく声が聞こえた。

 これは、普段王宮や議会で行う儀式と同じ様式だ。私はまだやったことはないが、外国の大使への検分もこの口上を述べてから行う。

 左胸に銀短剣を充てるしぐさで、審問官自身に魔法がかかっていないことを証明するのだ。私に関して言えば、いつものようにあらかじめ魔力は吸い取ったので今は何の反応もない。

 短剣を片手でくるりと回してから鞘に納めると、そっと水晶玉を手放した。そのまま振り子のように三脚の間で大きく揺れる。

 普段なら数分もしないうちに動きが収まる。そのタイミングで、『魔女の企みはこの場には及んでいないことを確認した。女王陛下の魔女審問会の名に誓ってこれを保障する』と言って検分は終了だ。

 だが今日は違う。今までの経験からして、この水晶が動きを止めることはないだろう。現に水晶玉は、三脚を軋ませる勢いで大きく振れている。この状態があと数分も続けば、観衆たちもおかしいと思い始めるだろう。

 どうする。幸いアリスさんはまだ帰ってきていない。この場は私一人だ。そしてほとんどの人が、魔女検分の様式なんて知りもしないだろう。

 私は再び銀短剣を抜いて片膝をついた。そしてじっと揺れる水晶を見つめる。

 水晶玉の中心をよく見極める。外せば、余計に怪しまれる。

 ここだ、と思ったタイミングで、私は水晶に短剣を突き立てた。

 カキン、という音がして水晶が止まる。手にぐっと押しこんでくる力がかかった。

 モーガンの魔法にかかった私に水晶が反応したことがある。あれは吊るした水晶玉が、私の方に少し動いただけだった。

 だが今は違う。水晶は何かに引っ張られるように、私の手首に力をかけてくる。

「何やってんだ?」

「魔女検分だって。ああやってやるんだ」

 まだ怪しまれていない。腕が振るえそうになるのを必死で耐える。今しかない。

「魔女の企みはこの場には及んでいないことを確認した。女王陛下の魔女審問会の名に誓ってこれを保障する!」

 私は叫ぶように宣言すると、そのまま水晶をキャッチして手のひらに納めた。先ほどまで意思を持つように暴れていた水晶玉は、嘘のように元の二酸化ケイ素の結晶に戻る。

「しまった!」

 だがその拍子に短剣を落としてしまった。大理石の床に金属音がこだまする。その瞬間、短剣が金色に光りだした。

 私がいつもごまかす時とは比べ物にならない光。まるで金のベールが風に揺れるかのように、明るく礼拝堂の中を照らす。

 早く何とかしなければ。落とした短剣に手を伸ばす。

 だが私よりも先に、小さな手が短剣を拾い上げた。

「……アリスさん」

「ご苦労さん」

 アリスさんはいつものように笑っていた。そして何事もなかったかのように、私の鞘に短剣を収める。

「ロート審問官補、検分ご苦労。以上を持ってエストアレニア教会への魔女検分を終了する!」

 そう高らかに言うと、入り口で唖然としている聴衆に毅然とした態度で敬礼をした。

「アグネスちゃん、行くで」

「は、はい」

 私も敬礼をして、検分具を片付ける。そしてアリスさんの後に続いて、人込みをかき分けて教会を出た。

「……アリスさん」

 馬に乗ってしばらくの間、私たちは無言だった。だが耐え切れなくなり声をかける。

「あの、さっきの……」

「今は仕事中やで。後で聞いたるわ!」

 アリスさんは振り向くことなく答える。

「……わかりました」

 次のアレニア大聖堂では、何事もなく魔女検分を終えることが出来た。相変わらずアリスさんは一人でどこかに行ってしまっていたけれど、やることは単純なので問題ない。

 本部に戻る間も話をすることは出来ず、帰り着いた時にはアリスさんは報告があるからとすぐに出て行ってしまった。

「バズってるな」

「バズってるっすね」

 SNSのトレンドには『魔女審問』や『審問官』といった単語が並んでいた。私たちを撮影した映像や写真も多く拡散されている。

「ここまで私たちが注目されたの、それこそ八百年ぶりなのでは……?」

 魔女審問官たちは感動していた。SNSの反応はおおむね好意的で、サプライズのイベントが行われたように取り扱われていた。

 普段日陰者に徹していた分、こうして注目されることに喜びを覚えるのは無理もない話だ。

「ニュース始まるっすよ!」

 休憩スペースに置かれたテレビでは、王立放送の夕方のニュースが始まっていた。全員がバタバタとそちらに移動する。私もそれに巻き込まれるようにしてテレビの前に移った。

『今日、アレーヌ市内では非常に珍しい光景が見られました』

 いくつかのニュースの後、女性アナウンサーが明るい口調で言った。背景には、馬で市街地を移動する魔女審問官の映像が写っていた。

「あ、これあたしっすよ!」

「ちょっとアンナ見えないのよ座りなさい!」

『おとぎ話から飛び出してきたかのようなこの女性たちは、枢密院魔女審問会の審問官たちです。今日、アレーヌ市でおよそ七十年ぶりとなる市中魔女検分が行われました』

 次に映った映像で、私は思わず息を飲んだ。エストアレニア教会に入る私とアリスさんだったのだ。

『レニヒストハーフェンの伝統的行事である魔女検分は、市内十二個所で行われ、市民たちを賑わせました。中にはこんなパフォーマンスを行った魔女審問官も……?』

 そう言って映るのは、銀短剣を光らせている私の姿。それを、アリスさんが拾い上げるシーンだった。

 すぐに見学した市民たちのインタビューに換わり、「珍しい光景で壮観だった」とか「伝統を感じられて良かった」と言ったコメントが流れる。そしていつの間に収録したのか、アリスさんが今回の魔女検分の意義を説明する映像で、ニュースは締めくくられた。

『今回の検分で、我々魔女審問会の存在を広く国民の皆様に認知していただき、レニヒストハーフェンの歴史と伝統に思いを馳せてもらえればええなと思っています』

「よ、よかったですね……」

 ひしひしと集まる視線を感じながら、私はぎこちなく笑った。だが、私に向けられる目は変わらない。

「いや、あれ何」

 たぶん、この言葉はこの場だけでなく全国の視聴者の思いを代弁したものだったと思う。

「ええっと、あれは、ですね……」

 頭をポリポリとかきながら、そっと目を逸らす。

「マジックです。ほら、耳がでっかくなっちゃったー的な?」

「いや、そんなレベルではないだろう」

「仮にマジックだったら仕事中何してんのさ」

「ひ、光の加減とかもあったんじゃないでしょうか。まさかここまで派手になるとは……」

 そして全国放送されてしまうとは……。

 先輩方の追及をなんとかかわし、私は席に戻る。

 一人、大きく息を吐いた。

 すべてが終わってしまったんのではないかという気がしていた。恐らく、モーガンは私が魔女審問官であることを知っただろう。仮面だけで正体がすっかり隠せるのは、それこそおとぎ話の中だけの話だ。

 モーガンの存在が露見しなかったことが唯一の救いかもしれない。とはいえ、あの異常現象をなぜアリスさんはスルーしたのかはわからない。すべてが丸く収まったのか、はたまた破綻してしまったのか。私の感覚では、後者の可能性の方が大きいように感じた。

 この日は簡単な報告書を作成し、市中検分の反省会を軽く行って業務終了となった。アリスさんは結局終業時間を過ぎても帰ってこなかった。

 家へ帰る道はいつもよりも暗く、重たく感じた。月は明るかったから、私の心情によるものが大きいのだろう。

 メトロを乗り継いでいく中で、私はわずかな希望にすがろうとしていた。

 もしかしたら、魔法のような奇跡が起きてモーガンは突如教会に現れた魔女審問官たちの正体を見破れなかったかもしれない。

 あるいは懐の深いモーガンが、私のこれまでの心情に思いを寄せて、見なかったことにしてくれるかもしれない。

 そして今まで通り、何事もなかったように二人で、一緒に。

 しかし自室の前まで来て、私が抱きたいと願ったわずかな希望が打ち破られたことを悟った。

 換気扇越しに香る食事の匂いが、まったくしなかった。

 古いシリンダ―に鍵を回してドアを開ける。

 だけど開けてしまえばすべてが終わる気がして、私はしばらくドアノブを持ったまま立ち尽くしていた。

 ゆっくり、ゆっくりとノブを回し、そっと部屋の中を覗く。電気がついてない室内は、月明かりだけで照らされてて薄暗い。

 台所にモーガンはいなかった。ふわりと風が頬を撫でる。部屋の奥に目をやると、窓が開いていてカーテンが揺れていた。

 そのレースに隠れるように、荷物をまとめた正装のモーガンが立っていた。表情は帽子に隠れていて良く見えなかった。

「…………」

 私は何を言ったらいいのかわからなかった。

 モーガンも何も言わず、じっとこちらを見ているようだった。

 自分の呼吸音が嫌に耳についた。ガチャリとドアが閉まる音がした。

「……モーガンさん」

 かすれるような声とともに、一歩近づく。モーガンが一歩後ずさった。その拒絶に、私はそれ以上動けなくなる。

「……ごめんなさい」

「……こっちもごめんね」

 モーガンから飛び出た謝罪の言葉に、私は少し驚く、

「なんで、ですか」

「気、使わせちゃったよね」

「そんな……」

「アグネスがわたしを騙そうとしていたわけじゃないって、ちゃんとわかってるよ」

 やめて。優しい言葉をかけないで。

「まさかアグネスが魔女審問官だったなんて、思いもしなかったな。ごめんね、色々悪口言っちゃってた」

「なら……」

 私は言う。

「なんで、出ていこうとしてるんですか」

「迷惑でしょ。わたしといたら」

 違う。

「魔女と、魔女審問官は一緒にはいられないんだよ。アグネスにも良くないことになっちゃう」

 嫌だ。

「魔女はみんなを笑顔にさせたいからさ。アグネスがわたしのせいで困っちゃったら嫌なんだ。だから今までありがとね」

 待って。

「じゃあね、アグネス。一緒に過ごせて楽しかったよ」

 私の叫びが喉から出るより先に、モーガンは箒に乗った。

「待って!」

 いろいろな思いが喉に引っ掛かる中、ようやく出た言葉がこれだった。だけど、モーガンは振り返ることなくベランダから飛び立つ。

「モーガンさん!」

 やっと体が動いた。ベランダまで駆け寄る。だけど、モーガンの姿はもう見えなくなってしまっていた。

 ベランダの手すりから身を乗り出す。空も地面も向かいのアパートも、いつもの、何の異常も魔法もないただの景色だ。

「……モーガンさん」

 私はよろよろとベッドに座り、そのまま倒れこんだ。ベッドにはまだモーガンの香りが残っていた。

 そのままシーツに顔をうずめる。幼児返りを起こしてしまったように体を丸めて、シーツを抱き込んだ。

 別になんてことはないはずだった。モーガンと暮らしたのはたった一か月のこと。それ以外の十九年間私は一人で生きてきたのだから、結局もとに戻るだけなのだ。

 暖かで美味しい食事も、狭いけれど温もりのあるベッドもなくなるだけ。日々の生活で、しょうもない事に感想を言い合ったり、言い争いをしたり、相談したりすることもなくなる。

 その原因はすべて私にあるのだから、自業自得だ。モーガンの好意に甘え、頼り、自分本位の都合と自分勝手な希望を押し付けるだけだったツケが周ってきたのだ。

 だから悲しむ資格も、惜しむ資格も私にはない。そのはずなのに、モーガンが与えてくれた温もりがあまりに眩しく、素敵なものだったせいで、私は涙を止めることが出来なかった。

 

「……あら、ひどい顔やね」

 朝一番、アリスさんが私の顔を見てそう言った。

「なんかあったん?」

「ちょっと、色々……」

 私が口を濁すと、アリスさんも苦笑いで応じる。

「そうか。若いうちは色々あるわなぁ」

 一晩中泣きはらしていたせいで、私の眼は腫れ上がり、ひどいことこの上ない惨状となっていた。いつもより念入りにメイクはしたものの、やはり誤魔化しきれなかったようだ。

「それはそうと、昨日はお疲れさんやったね。途中からおらんようなってしもうたから申し訳なかったけど」

「いえ。……こちらこそありがとうございました」

 私がこの顔になったのは、この人の発案した市中検分のせいなのだから、あまり素直にお礼を言う気分にはなれない。だが、そこはこらえて頭を下げる。

「そう言えば……、あのエストアレニア教会での事なんですが……」

「ああ、あれね」

 アリスさんは思い出したように言う。

「ちょっとあそこの神官補さんに色々聞きたいことがあってな、奥に行って資料とか見させてもらってたんよ。一人にしてすまんやったな」

「い、いえ、そうではなくてですね」

「それ以外は特になかった」

 アリスさんはくるりと踵を返すと、自分の席へ座る。

「なかったんや、ええな?」

「……なぜ、ですか?」

「それはウチらの仕事やない」

「…………」

 意味が分からなかった。

 魔女検分は反応した。魔女がいた。なのに、審問会の仕事ではない?

「エストアレニアでは何もなかった。これ以外はなんも考えんでええ」

 有無を言わさない口調で、私はそれに従うしかない。休憩ブースでは昨日の市中検分の様子が流れていたが、エストアレニア教会のシーンは流れなかった。

 同僚たちも、もう何も言わなかった。昨日の事で少し盛り上がった後は、いつも通りの業務に戻っていた。

「……アグネス、少しいいか?」

 お昼近くになって、ジャンヌさんに呼び出された。

「今日お前どうした? ミスが多いぞ」

「あ……」

 差し出された書類は、私が必要な署名を入れるものだったが欄が一つずつずれていた。

「すみませんでした」

「いや、いい。だが、今日は朝から少し変だぞ。何かあったのか?」

「いや、その……。……同居していた友人が、出て行ってしまいまして」

「……喧嘩でもしたのか?」

「まあそんなところです」

 ジャンヌさんはしばらく私の顔を見つめていたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「恋人か」

「こいっ!?」

「いや、いい。わかる、わかるぞその気持ち」

 何がわかったのかはわからないが、ジャンヌさんはしたり顔で頷く。

「話を聞けと言っても聞いてくれないんだよな、こういう時は。で、結局言いたいことだけいって出ていくんだ」

「は、はぁ」

「でもな、こうやって少し距離を置くことも大切だぞ。冷却期間っていうやつだな。そうしてると、お互いに悪かったところが見えてきて、妥協点が見つかってくるんだ」

「そうですか……」

「そしたら一緒に酒でも飲んで、一週間もすれば笑い話さ。まああんまり気にするな」

 ジャンヌさんがトントンと肩を叩く。まったく慰めにはならなかったけれど、よくある話なのだと思えば少し救われるような気もする。

「……ちゃんと連絡は入れてやれよ。あとは当人たち次第さ」

 ジャンヌさんは「あと、仕事はきっちりやれ。給料分だけでいいから」と言って離れていった。

「連絡……」

 ちょうど昼休みのベルが鳴ったので、私はそっとスマホの画面を見つめた。普段から大して連絡を取るタイプではないので、チャットアプリに未読メッセージはない。一番上にはモーガンと一昨日やり取りをしたメッセージが残っていた。

 再放送のドラマが面白くて感動したとかいうモーガンのメッセージから始まる、今までやったことのなかったしょうもないやりとり。ついこの間の話なのに、ずいぶんと昔の事のように思えた。

 画面をタップして開く。すると、昨日の日付で『このメッセージは削除されました』という表記が三つ残っていた。時間的に、モーガンが出て行ってからのものだった。

「モーガンさん、何を……」

 モーガンが何を言おうとしていたのかわからない。そして、私も何を言っていいのかわからなかった。

『何をしていますか?』

『どこにいますか?』

『帰って来てくれませんか』

『申し訳ありませんでした』

『帰ってきて』

 そんな文章を打ち込んでは、消す。どれも違う気がして、私が彼女に何かを言うことは出来ない気がして、何も送ることが出来ない。

 結局、何も打ち込まないまま、私はアプリを閉じてしまった。

 スマホをポケットにしまい、ぼんやりと虚空を見つめる。

「アグネスちゃん」

 いつの間にか、アリスさんが私の隣に立っていた。

「ジャンヌちゃんから聞いたんやけど、モーガンちゃんと喧嘩したらしいな」

「……はい。そうですね」

「今彼女どこおるん?」

「わからないです」

 すると、アリスさんは少しだけ険しい顔になる。

「仲直りしたいんやったら、はよした方がええで。時間たつと逆にこじれるときもあるし」

「……喧嘩、まではしてないんじゃないかなって思ってます」

「ほーん」

「私がずっとついてた嘘がバレたんです。それで、もう一緒に暮らせないって」

「縁まで切ってもうたん? それはえらい極端な話やな」

 他人事な調子のアリスさんに少しだけ腹が立つ。八つ当たりだとわかっていても、自分の気持ちは止められない。

「……そりゃ悪いことしたなぁ」

 だからアリスさんがぽつりとつぶやいた内容に、私は少し驚いた。

「アリスさん?」

「モーガンちゃん、まだ十五やろ」

「え、ええ。はい」

「ほかにアレーヌに知り合いはおるん?」

「いないと聞いています」

 アリスさんはそれを聞くと眉をひそめた。

「探してき」

「へ」

「あの子はすごいかもしれんけど、まだ子どもや。アレーヌは子どもが一人でうろつけるような街と違う。何があったかは聞かんけど、放り出すわけにはいかんやろ」

 そう言うと、いつの間に持ってきたのか、ロッカールームにあった私のカバンを机の上にドンと置いた。

「午後から半休にしたるから、ちゃんと探して向き合ってきなさい」

「でも」

「ええから。どうせ暇やし」

 おそるおそるカバンを受け取る。

「その、これは、彼女が魔」

「ちゃうで」

 私の言葉をアリスさんが遮る。

「昔ジャンヌちゃんが別れる別れへんでもめてた時にも帰したことあるし。部下のパフォーマンス向上のために有休使わせるんは上司の役目やからな」

 ニコニコ笑いながら言う。

「アリス首席! その話はなしだと言ってるでしょう!」

 ジャンヌさんの悲鳴が飛んできた。同僚たちもそのやり取りを見て笑っている。

「ここで行かんと後悔するかもしれんで」

「……わかりました」

 私はカバンを受け取った。いつもよりも重たい気がした。


『今どこにいますか?』

『ごめんなさい。でももう一度会って話がしたいです』

 そんなメッセージを入れる。ただ返事もなければ既読を示す表示もつかなかった。

 昼間の街は多くの人が行きかっていたが、モーガンのような格好をした人はいない。

「……彼女の行きそうな場所はそう多くはないはず」

 モーガンはアレーヌの地理に詳しくはなかった。ならばうちを出て行っても行ける場所は限られているはずだ。そのうちの一つ、それは。

「エストアレニア教会……」

 私ははやる足を押さえながら、教会へ向かう。

 昨日はあれほど人にあふれていた教会も、今日はいつものように閑散としていた。相変わらず時代に取り残されたような佇まいで、人の気配もない。

 正面の扉を開こうとすると、鍵がかかっていた。仕方なく強めに扉をノックする。だが、人が来る気配はない。

「すみませーん! リコさんはいらっしゃりますかー!」

 恥を忍んで叫ぶ。だが扉の向こうからは何の反応もなかった。

 鍵がかかっているということは、どこかに出かけているのかもしれない。リコが帰ってくるのを待つべきだろうか。私は玄関前の石段に腰を下ろした。

「あれあなた、ここに何か用なの?」

 すると、すぐに声をかけられた。リコの声ではない。顔を上げると、二十代後半ほどの女性が不思議そうな顔で私の事を見つめていた。

 着ている服はギルドの制服だ。どこかで会ったような……。

「ああ、あなたソレイユさんと一緒にいた子じゃない? ほら、私があの子にここ紹介したときの」

 その言葉で思い出した。この女性はモーガンに教会の職を見つけてくれたギルドの案内のお姉さんだ。

「お久しぶりです。その説はお世話になりました」

「いいって。私は仕事しただけなんだし。今日もソレイユさんの付き添い?」

「付き添いと言いますか、まあそんなところです。ただここのシスターのリコさんが不在のようでして」

 そう説明すると、お姉さんは顔をしかめた。

「え、そうなの。そうか……」

「なにかご用事でしたか?」

「うーん、用事っていうか仕事って言うか……」

 お姉さんはしばらく迷ったように視線を空にさ迷わせると、「秘密ね」と口止めをしながら声を潜めて言った。

「ここの教会に近々警察の捜査が入るかもしれないって噂になってるの」

「……警察?」

「なんでも土地取引の不正だって。来週は発売の週刊誌で特集されるって話が急に出てきてね。それでうちとしてもひとまず様子見に来なくちゃいけなくなったわけ。ほら、ギルドで仕事を斡旋してたわけだし」

 そう言うと、お姉さんは首をぽきぽきと鳴らしてため息をつく。

「うーん、留守ならまた出直すかぁ。ソレイユさん、変な事に巻き込まれる前に辞めるって言うならまたうちに来てね。いい仕事見つけてあげるから」

 お姉さんは手をひらひらさせながらつかつかと帰って行った。

 嫌な予感がした。あのリコが不正に手を染めていたとは考えにくい。だけどこの教会の土地をめぐって色々と動きがあることはリコ本人からも聞いていた。

 もしかしたら、モーガンは何かしらの犯罪に巻き込まれているのではないだろうか。

 もう一度スマホを確認するが、相変わらずメッセージはない。既読もついていない。

 いてもたってもいられなくなった私は、その場から走り出した。


 とはいっても、心当たりはまるでなかった。一度自宅に戻ってみたり、家の周りを探してみたり、安いホテルにモーガンらしき人が宿泊していないかを聞きこんだりもした。

 だが手掛かりはつかめなかった。気が付けば日も落ちかけている。空には満月が浮かんでいた。

 私は公園のベンチに座って、ぼんやりと月を見つめる。

 モーガンは満月の下では魔法を使えないと言っていた。そう言えば、満月の光を浴びることも少しおびえている様子だった。今ももしかしたら、月の光が届かないところにいるのかもしれない。

 レニヒストハーフェンの夏はそれほど暑くない。夜は風にあたっていると、少し身震いしてしまうほどだ。モーガンは暖かいところにいるだろうか。

 昨日から食事もしっかりとっていないはずだ。私もまともに食べていない。モーガンのお財布にはいくらお金が残っていただろう。べッドはどうだろう。きちんと眠れているのか。服の洗濯は出来ているだろうか。

 何か、危ないことに巻き込まれていないだろうか。

 ……案外上手くやっているのかもしれない。彼女に理解のある人と一緒に、魔女の復権という目標に向かって頑張っているかもしれない。

 私と離れたほうが、幸せに暮らせるのかもしれない。

 様々な思いが胸に去来する。だが最後にやってくるのは、やはり後悔だった。

 もっと早くに、ちゃんと正直に話しておけばよかった。そうすれば、お互いの妥協点を見いだすことだって、きっとできたはずだ。

 それなのに私がずるずると告白を引きずったせいで、魔女検分の現場で出会うという最悪の方法で私の正体がバレてしまったのだ。これではだまし討ちをしてしまったようなものだ。モーガンが聞く耳を持たないのも納得である。

 そんな悔いが頭を支配し、体を重たくする。起き上がる気力を削ぐ。

 もう、このまま。

 その時耳元で大きな羽音がして、突然視界が遮られた。

「カァアアアアアア!」

「きゃあ!?」

 頭の上に何か重たいものが落とされる。チャリンという音がした。

「な、何事!?」

 視界が開けると目の前にカラスがいた。そして、見覚えのあるネックレスが落ちている。

「……モーガンさんのネックレスだ」

 モーガンが身に着けていた銀のネックレスだった。ただ、チェーンの部分が切れてしまっている。

「……あなたが届けてくれたんですか?」

「カァア!」

 カラスが一声鳴く。そして、ばさりと飛ぶと、私の頭の上で輪を描いて回った。

「…………」

 夕暮れの満月が、カラスの輪の中で輝いていた。

 確か、モーガンは言っていた。満月の中では魔法が暴走してしまう。それを防ぐために、このネックレスをつけているのだと。

 そんな彼女が、今日この日にネックレスを外すなんてありえない。何かがあったに違いない。

「ねえ、あなた!」

 飛んでいるカラスに向かって呼びかける。

「モーガンさんの居場所を知っていますか? 知っていたら案内してください!」

「カァア!」

 カラスは返事をするように鳴くと、一直線に飛んだ。気まぐれに逃げたとは思えなかった。

「東の方向……」

 うだうだ言っている猶予はない。私は小走りでカラスを追いかけた。


 道路標識や道端の看板なんかにカラスは留まって待ってくれていた。私が追い付くと、再び同じ方向に向かって飛び立つ。

 カラスは一直線に東に飛んでいた。私は人々の合間をすり抜け、走るようにカラスを追った。

 日もすっかり落ち、あたりは暗くなっている。LED灯と満月が、私たちを照らしていた。

「一体どこまで……」

 私は別に体力がある方ではない。普通のOLよりはパレードの練習だ儀式の練習だで外に出ることは多いが、これほどあちこちを走り回ることはない。

 OLを装うべく少しかかとのある靴を履いているせいで、足が悲鳴を上げていた。

「あっ!」

 バランスを崩して転倒する。何とか受け身を取るが、ストッキングが破れてしまった。脱いで見ると、かかとがぽっきりと折れていた。

「もう……っ!」

 安いものを買ったせいか。それとも歩き回ったせいか。だがここで立ち止まるわけにはいかない。

 私は意を決して、もう片方の靴も脱いだ。こっちの方が走りやすいはずだ。

 私を見つめるカラスに、自分の決意を伝えるように視線を送った。伝わったのかはわからないが、カラスは一声大きく鳴いて、再び飛び立った。


「このあたりですか?」

「カァア!」

 カラスは大声で鳴くと、すっと目の前の建物の上に移動する。

「……ここは」

 見覚えのある場所だった。いや、それどころではない。私は昼間もここに来た。

「エストアレニア教会……」

 高層ビルの間に忘れ去られたように立つ教会、エストアレニア教会だった。

「カァア!」

「ここにいるの?」

 昼間来たときは誰もいなかった。今も明かりはついていない。扉にも鍵がかかっていた。

 私は扉を叩いた。

「もしもし!」

 返事はない。耳を澄ましても、人の気配はないように思えた。色ガラスの向こうも暗い。だけどカラスを信じるしかない。

 ふと、ビルと教会の間に隙間があるのを見つけた。私一人ぐらいならなんとか入れそうだ。

 カバンを抱えながら、その隙間へと入り込む。しばらく行くと、予想通り教会の裏庭に出た。相変わらず殺風景な庭だったが、壊れていたブランコが治っていたり、新しく花壇が出来ていたりしていた。花壇にはモーガンの字で花の名前がいくつか書き込まれている。

「……モーガンさん」

 裏庭の戸には鍵はかかっていなかった。扉の軋みも修理されたのか、前よりもスムーズに開いた。

 最初に事務室の戸を叩く。だが返事はない。試しに開けてみると、中は暗く誰もいなかった。書類や本が前に来た時以上に散乱しているのが少し気になった。

 本当に誰もいないのだろうか。そう思いかけた時、礼拝堂の方から物音がした。

 私はそっと、礼拝堂へ通じるドアを開けた。

「別に遠慮しなくてもいいわよ」

 そう声をかけられ、私は固まった。

「昼間はやり過ごしたかと思ったけど、まさか裏から回ってくるなんて。公務員さんも強引なのね」

「リコさん」

 リコは礼拝堂の中にいた。パイプオルガンの座席に一人座っていた。

「あなたは」

 私は震える唇を押さえながら言う。

「何をしているんですか」

 礼拝堂の椅子は乱暴にどけられていて、真ん中に大きな鳥かごのような檻が置かれていた。そしてその中に、モーガンがいた。

 モーガンはぐったりと檻にもたれかかっていた。家を出た時と同じ正装で、目は開いていないが、かすかに胸が上下している。

 礼拝堂には甘い香りが充満していた。奥の暖炉から香っている。おそらく魔女避けの香油を焚いているのだ。

「『魔女狩りの檻』よ。審問会には残っていないのかしら」

「私は何をしているのかと聞いているんです」

「銀は不思議な金属なのよ。純銀は魔力を吸い取り、魔女のネックレスのようにほかの金属と混ぜれば、一定の条件で月の魔力の暴走を抑えたりも出来る。あなたたちは知らないでしょうけど」

「何をしたんですか!」

 私の声が礼拝堂に響いた。リコは薄く笑っているだけだった。

「あの子、昨日の晩ここに飛び込んできたの。文字通り箒でね。あなたと喧嘩したんですって? だから、奥にしまってあったあの魔女狩りの檻に閉じ込めたのよ」

「なんで、そんなことを」

「魔女は狩るのが当然でしょう?」

 当たり前のことのように、リコが言った。

「とはいえ、私も驚いたわ。まさか本当に魔女がいるなんて。あなたたちが魔女検分に来るまでは信じられなかった。毎年魔女避けの香油を貰っていて良かったわ」

「見てたんですね」

「ええ。当然。魔女のいる教会なんて許されないのよ。それを見なかったことにしたあなたたちもね」

 リコは立ち上がると、モーガンに向かって歩く。

「信じられない。ありえないわ。魔女よ? この国を支配し、人々を恐怖に陥れた魔女が目の前にいるのに、どうして何もしなかったの?」

「この子は魔女である前に人間です。モーガン・ルヴァン・ソレイユという一人の少女です」

 私はリコを睨みつける。

「みんなに笑顔になってほしいと願う、心優しい素敵な子なんです」

「でも、魔女の能力は人々を誤らせ、惑わせ、破滅へといざなうわ。あなたたちがそれをわかっていないようじゃ、この国はもうおしまいね」

 話が通じない。私は一歩前に出た。

「なんとでも言ってください。モーガンさんは私が連れて帰ります」

「いいえ、仕方のない事よ。みんなそう。魔女の恐ろしさを知らない。だから神の神秘と加護もわからないのよ」

 リコは懐から大きな古い鍵を取り出した。

「わからないのなら教えてあげることも神に仕える者の務め。そう思わないかしら?」

「何をするつもりですか……」

 私の問いには答えず、リコは鍵を開けた。そして籠を開く。

「満月の元、銀の鎖を外した魔女がどうなるか、あなたは知ってる?」

「……知りません」

「なら教えてあげるわ。そして思い知りなさい。魔女の恐ろしさを」

 リコはそう言うと、中からモーガンを引きずりだした。同時に、天窓から月の光が差し込む。モーガンが月に照らされた。

「……っ!」

「モーガンさん!」

 さっきまでぐったりとしていたモーガンは、急に目を見開いた。そして苦しそうに呻く。

「あ、あああ、あああああ」

「モーガンさん!」

 思わず駆け寄る。だが、リコに腕を掴まれた。

「やめた方が良いわよ。聖職者として、目の前で人が死ぬのは見ていられないもの」

「何を!」

 その手を振り払おうとした。だが目に飛び込んできたモーガンの変化に、私は固まった。

「がっ、ががああ。ああああ!」

 全身から金色の毛が伸びていた。体躯は瞬きする間に二倍、三倍と大きくなり、バキバキと骨が鳴る音が響く。手からは鋭い爪が伸び、口からは牙が生えた。服が毛に埋もれると、背中からカラスの黒い羽が生える。顔はいつの間にかライオンのような猛獣のものになっていた。そのくせ首は恐竜のように長い。

 後ろ足は鳥の足。こちらにも、一メートルはありそうな爪が三本、両足から生えている。するすると伸びる尾はトカゲのように太く、鎧のようなうろこで覆われていた。

「ゴォォァアアアアアア!!」

 モーガンは、モーガンだった化け物が吠えた。ガラスが共振してガタガタと震えた。

「な、なんですか、これは」

「月光の怪物。魔女が魔力の暴走で変化した姿よ」

 リコはモーガンがこうなることを知っていたらしい。平然と、だが少し恐れるように言う。

「古代の人々が魔女を恐れる気持ち、少しはわかったかしら?」

「彼女を、街に放つつもりなんですか!?」

「ええ。そうすれば、人々も魔女の恐ろしさを知り、神の偉大さを知ることになるでしょう」

「なんでそんなことを……」

「だって、誰も話を聞いてくれないもの」

 リコはモーガンを見つめていた。

「教会は時代遅れだと。もう神に頼る時代じゃないのだと言われ続けたわ。でも、私は信じてやってきた。でも……」

 モーガンのこぶしが固く握られる。

「ウォルツェン神官長様が、ウォルツェンが、この教会の土地を不正に高く売りつけようとしていたの。この間来たあなたの上司がそう言って、この教会から証拠資料をすべて押収していったわ」

「……アリスさんが?」

「あの男に確認したらあっさりと自供したわ。そして言ったのよ、神じゃ金は稼げないって」

 なぜアリスさんが出てきたのかはいったん置いておくとして、リコの顔には悲壮の色が浮かんでいた。

「あなたはわからないでしょう? 信じていたものが否定されたときの気持ちを。誰も私の気持ちをわかってくれないのよ?」

 一歩、モーガンに近づく。

 爬虫類のようなモーガンの眼に、理性はなかった。獣が目の前のものに反射的に興味を示すように、リコをじっと見つめていた。

「でも、これでみんながわかってくれる。みんな、私の話を」

 モーガンが口を開いた。私の体はとっさに動いていた。

「きゃ!?」

「うわっ!」

 体当たりでリコもろとも床に倒れこむと、さっきまで頭のあった位置を炎が通り過ぎた。モーガンが口から吐いたのだ。

「出せるじゃないですか、炎……」

 私はぼそりと文句を言うと、そのまま下敷きにしているリコを睨みつけた。

「私も公務員ですので、目の前で人が死ぬのは見たくありません。あなたの御託はしかるべき機関に身柄を預けたのちゆっくり聞かせていただくので、しばらくどっかに隠れててください!」

 そう言ってリコを放り出す。

「モーガンさん、さすがにこれはやりすぎですよ」

 炎は礼拝堂のステージを燃やしていた。カーテンや説教をするための台がチリチリと燃えていて、奥の壁が黒く焼き焦げている。暖炉は跡形もなく吹き飛んでいた。

「いろいろと伝えたいことがいっぱいあります。……また私とお話してくれませんか?」

 そう言って、ゆっくりと立ち上がった。蛇縦に割れた瞳孔が私を睨む。

「ガァアアアアアッ!」

 返事は咆哮。まあこれで元に戻るとは私も思っちゃいない。私は駆けだす。モーガンは私を追って首を伸ばす。

 啖呵を切ったのはいいものの、良いプランはない。良いプランはないが、ここで決着をつけなければならない。今のモーガンが街に出たら、大パニックが起きるだろう。

 その時、視界の端に光るものが見えた。モーガンが閉じ込められていた銀の鳥かごだ。

「……銀!」

 銀には魔力を取り除く力がある。それを使えば、モーガンを元に戻せるかもしれない。

「ってひゃあ!?」

 モーガンの前足が飛んできた。必死に倒れこみ、爪が私の背後の壁を切り裂く。分厚い石づくりの壁は、まるで発泡スチロールのように深い切れ込みが入って砕けた。

「乱暴すぎませんかね……」

 匍匐前進で、散乱している長椅子の陰に隠れるように進む。モーガンは私を見失ったようで、きょろきょろとこちらを見ていた。どうも理性や知性は下がっているらしい。

「銀、どこかに銀は……」

 リコは銀にも種類があると言っていた。事実、銀の鳥かごはモーガンが変身した拍子にひしゃげてしまったらしい。今も尾が触れているが何の反応もない。中に閉じ込めていないと効果がないのかもしれない。どっちにしろ物理的にもう不可能だ。

 ならば、彼女が普段使っていたネックレスはどうだろう。あれは魔女の暴走を抑えられるものだ。あれを上手く使えば、モーガンを元に戻せるはずだ。

「ってカバンがない!」

 ネックレスを入れていたはずのカバンがなかった。礼拝堂に入るときには持っていたはずだ。一体どこに。

 そっと首を伸ばしてあたりを見回す。

 かばんはあった。ただしモーガンの足元に。

 あんなところに出て行こうものなら、爪で切り裂かれるか炎で焼かれるかの二択しかない。一体どうすれば。

 そうしているうちにモーガンは業を煮やしたのか、天井に向かって炎を吐いた。熱と風圧で天井付近のガラスが一斉に割れ、破片が頭に降り注ぐ。

 ヤバい。あまり長引かせると、モーガンをここに閉じ込めていても騎士団を呼ばれるかもしれない。少なくとも前の通りを歩いている人からは、中で何か騒動が起きていることぐらいわかるだろう。

 天井の照明や断熱材が燃えたのか、焦げ臭いにおいが鼻をつく。ぽとぽとと溶けたプラスチックや火の粉が降ってきて、大変鬱陶しかった。

「スプリンクラーぐらい付けといてよね……」

 私は天井を睨んだ。いくら歴史のある建物とはいえ、消火設備ぐらい付けていてほしかった。石造りだから燃えにくいとはいえ、まったく燃えないわけでは……。

 その時、私の頭にひらめきが降りた。もうこれに頼るしかない。


 用意を手早く終えた私は、モーガンの前に仁王立ちで立ち上がった。突然のことに戸惑ったのか、彼女は動きが止める。

 私はその隙を逃さず、手にしていた消火器のレバーを思いきり握った。白い煙がモーガンの顔面を勢いよく覆う。

「ガァアアア!」

 モーガンが戸惑うのをよそに、私は彼女の足元に向かって走る。そしてカバンを手にすると、そのまま股下をくぐって反対側の椅子の陰に滑り込んだ。

「セーフっ!」

 カバンを開ける。中にはちゃんとネックレスが入っていた。これをモーガンの首にかければ……。

「首にかけれない!」

 モーガンの首は地上から二メートルは上にある。首回りも大木のごとく太い。そのうえ人を見かければ火を吐いてくるような獰猛な状態だ。カバンを取るよりも不可能である。

「触るだけで効果があったりしないかな……。無理か」

 鳥籠を見る限り望みは薄そうだった。リコは確か、このネックレスも銀を元にした合金で、一定の条件下でしか効果が出ないとかなんとか言っていた気がする。他に手がない以上試す価値はあるだろうが、リスクが大きすぎる。

「触れるだけで効果がある奴があればいいのに……」

 私はそのアイテムを一つだけ知っていた。魔女審問官の銀短剣だ。制服であれば腰に差しているのだが、今はない。こうなるとわかっていたらこっそり持ってきたのに。

 その時、すっとあたりが暗くなった。生臭いにおいが鼻をつく。

「……嘘でしょ」

 嫌な予感がしてそっと上を向く。すると、モーガンが私を見下ろしていた。そしてカっと口を開く。牙の並ぶ大きな口が嫌にはっきりと見えた。そして喉の奥が赤く発光し、炎が渦を巻く。

「……モーガンさんのバカ!」

 終わった。最期にモーガンのトマト煮が食べたかった。

 ちゃんと謝りたかった。

 彼女の目指す未来を、一緒に見たかった。

 凄まじい熱が私を襲った。

「……え?」

 が、体が焼けるようなことはない。暖かいお風呂に入った程度の熱だ。恐る恐る目を開ける。

 私は本能的にバックを盾にしていた。そして炎は、そのバックに当たって消滅していたのだ。

「な、なんで!?」

 私が疑問に思ったのと同じように、モーガンも不思議そうに首をひねる。そして再び炎を吐いた。

 私もバックで防ぐ。炎はバックの表面に触れた瞬間に、再度霞のように消えてしまった。

 高級品でもいわくつきでもない、量販店で売っている安物のビジネスバックだ。撥水加工も怪しいのに炎なんか弾けるわけがない。

「……これは」

 カバンの表面は焼き焦げていて、溶けて縮れた合成皮革の中から中身が見えている。その中に、金色に光るものがあった。

 三十センチほどの革製の鞘に包まれたそれは、今は金色に光り輝いていた。

「なんでこれがここに?」

 銀短剣だ。私のものは更衣室のロッカーにおいて来ていたはずなのに、どうして。

 いや、今それはどうでもいい。これがあればモーガンを助けられる。

 私はカバンから銀短剣を取り出すと、鞘を投げ捨てて構えた。モーガンは心なしか慄いたようだった。

「と、とりゃああああ!」

 人間、いざというときには叫んでしまうのだろう。思わず出てしまった情けない声とともに、私はモーガンに突っ込んだ。

 モーガンが前足を振るう。私は銀短剣でそれを受け止めた。

 衝撃が私の体を襲った。同時に、モーガンと触れた部分が激しく輝く。飛ばされそうになるが、両手に力を込めて耐えた。ここで手を放してしまえば、また初めからになってしまう。

 光はどんどん強くなる。私の視界いっぱいに広がり、眼を閉じた。

「帰ってきて、モーガン」

 ふと、腕にかかる力が弱まった。私の頭の上にあったモーガンの腕が、どんどんと小さくしぼんでいく。

 光が弱くなるのを感じた。薄く目を開けるが、眩んでしまいよく見えない。ふと嗅ぎなれたコンディショナーの香りがした。柔らかい体が私にもたれかかってくる。私は思わず転んでしまった。

「おかえりなさい」

 目が慣れてくる。気を失ったモーガンさんの顔が、すぐ目の前にあった。元の可愛らしい顔だった。

 かばんを手繰り寄せると、中からネックレスを取り出す。それを首にかけ、鎖を結ぶと、モーガンがゆっくりと目を覚ました。

「気が付きましたか?」

 モーガンはしばらく呆然と私を見てから、ポロポロの涙を流して泣き始めた。

「……ごめんなさい、アグネス」

「何を言ってるんですか。謝るのは私の方です。ごめんなさい、モーガンさん」

 モーガンは震えていた。私はそっと彼女の体を包み込む。いつかと反対だ。

「わたし、アグネスを傷つけちゃった。魔法で、人を傷つけちゃった」

「事故ですよ。何とかなったんでいいじゃないですか」

 そう言って頭をなでる。だけど、モーガンは泣き止まなかった。

「ごめんね。ごめんね……」

「私ね、モーガンさんに言いたいことがあったんです」

 私の胸の中で泣く彼女に、そっと囁く。

「あなたが夢を追っている姿が大好きなんです。魔女と人間が、この国で仲良く共存できる世界を作るっていう夢も、とても素敵だと思っています」

「うん……」

「でも私は……、魔女審問官です。あなたの夢を応援するわけにはいかないし、モーガンさんも、私たちの事は苦手だと思います。だから、お別れをしなくてはいけないって」

「…………」

「でも、そんなのおかしいですよね?」

「え?」

「魔女と人間が仲良くできるのなら、魔女審問官と魔女だって仲良く一緒に暮らせるはずです。むしろ、私たちから率先していった方がいいんじゃないかって思ったんです。何より私が、モーガンさんと一緒にいたいんです」

「いいの?」

「ええ。モーガンさんは嫌じゃないですか?」

「……嫌、じゃない。アグネスと一緒にいたい。それに、みんなで仲良くが、私の夢だから」

 私たちは固く抱き合っていた。もう起き上がる気力もない。

 そう言えばリコはどうなっただろう。とっくに逃げ出したのだろうか。それならそれで構わないが。

 その時礼拝堂のドアが開く音がした。外の空気が流れ込み、焦げ臭いにおいを追い出す。サイレンの音も聞こえた。どうやら誰かが騎士団と消防を呼んだらしい。

 なんて説明しよう。面倒だな……。

「ガス爆発かと思われます! 要救助者の確保をお願いします!」

 よく聞く声が聞こえた。その人物の名が出てくるより前に、私たちは消防の人たちに担架に乗せられ、酸素マスクをつけられる。

 搬送されていく直前、その人物が、私に向かって笑った。

「よぉ頑張ったな。後は任せとき」

 アリスさんは、なぜか警察の制服を着ていた。


「絶対に、絶対に失礼のないようにしてくださいね?」

「わ、わかった……」

 私とモーガンは緊張してカクカクになりながら、豪華絢爛な廊下を歩いていた。

「そないに緊張せんでもええのに」

 前を行くアリスさんが優しく笑う。

「アグネスちゃんなんかこの間喋ったやん」

「知らなかったんです!」

 私の声が広い廊下に思いのほか響き、はっと口を押える。ここはこんな大声を出していい場所ではないのだ。

「っていうかアリスさん、わたしこの格好で良かったの……?」

「魔女の正装なんやろ? かまへんかまへん」

 私とアリスさんが魔女審問官の正装であるのに対し、モーガンは魔女の正装、黒いローブに魔女帽子といういで立ちだ。この国の中枢であるここでこんな格好をした人間がいることは本来異常である。

 だがアリスさんはまったく気にも留めていない。

「ま、色々気になることもあるやろうけど、その辺も説明してくださるわ。陛下が」

 そう、ここはレニヒストハーフェン王国の女王陛下がお住まいになられている王宮、その廊下だ。

 歴史と伝統に裏打ちされた重厚で気品あふれる空間に、私とモーガンはすでに圧倒されている。

「だいたい職場のすぐ裏やん。何今更緊張しとるん。毎日会っとるようなもんやで」

「拡大解釈が過ぎますって」

 和ませようとしているのかふざけているのかわからないが、いつもと変わらないアリスさんの態度に若干救われる。

 救われると言えば、アリスさんにはあの夜からとてもお世話になった。

 モーガンが暴れたエストアレニア教会での出来事は、ガス爆発による事故ということで処理された。私とモーガンは病院に運ばれ一晩入院することになったが、翌日には異常なしということで退院している。

 そこから一日だけ休暇をいただいて、さあ出勤と思ったときにモーガンもろともここに呼び出しをうけたのだ。

 アリスさんの正体やリコの処遇などもそこで説明すると言われ、まだ何も聞けていない。ちなみにモーガンは、なぜ自分が招待されたのかがわからず直前まで行きたくないと駄々をこねていた。気持ちはわかる。

「ここなー。この部屋に陛下おるから」

「こ、ここですか」

「うわぁ……」

 普通のドア五個分はありそうな背の高い木製の扉が廊下の奥にそびえていた。結構前から見えていたが、一向に近づかないと思ったらこういう事だったのか。

 扉の前には近衛騎士団の騎士たちが立っていて、私たちを見ても眉一つ動かさず見張りを務めていた。アリスさんはそんな彼らにひらひらと手を振る。騎士はアリスさんに対して一糸乱れぬ敬礼をした。

「お知合いですか?」

「うち、前は近衛騎士団おったから」

「ええ!?」

「まあその辺も中で」

 アリスさんはフランクに扉をノックした。

「陛下―、アリスです。例の二人連れてきましたー」

「はあい」

 すこしおちゃめな調子のおばあさんの声が聞こえた。

 アリスさんが扉を開ける。

 出入口のサイズのわりに、部屋の大きさは普通だった。とはいえ面積だけ見れば、教会の礼拝堂と同じぐらいのサイズはあるので一人の部屋のサイズとしては普通ではない。

 普通だと感じたのは、豪華な廊下と比べれば、簡素でシンプルな家具で揃えられた部屋だったからかもしれない。白い壁紙に木製の装飾が入った壁。家具は庶民の家にあるような、特別感はさほどない普通のものばかりだ。

 モーガンが小声で話しかけてくる。

「女王様ってお姫様ベッドに寝てるのかと思ってた」

 モーガンの言う通り、ベッドにもレースのカーテンなどはなく一般家庭にも置かれていそうなものである。

 そんなしょうもない会話をしていると、向こうから声をかけられた。

「ようこそ、魔女さんに審問官さん」

 バルコニーを望む白いソファに、女王陛下は腰かけていた。私たちは同時に背筋を伸ばす。

「そんなに緊張しなくてもよいのよ? お茶はお好きかしら。せっかく来ていただいたから、良いお茶を用意したのよ」

「陛下、この二人若いからジュースとかの方が良かったんちゃう?」

「あらそうね。ごめんなさい、うっかりしていたわ」

「いえいえいえいえいえ! 大好きですお茶! ね、モーガンさん!」

「え、あ、うん! 好き! 好きです!」

 陛下とアリスさんはかなり気心の知れた仲のようだった。いや、いくら気心が知れていても、女王にあんな口調で語りかけられるものなのか?

「まあ座って頂戴な。色々大変だったのでしょう? 私からもお話しなくてはいけないことがたくさんあるのよ?」

 陛下に促され、私たちはソファに腰掛ける。ソファは思っていたよりもフカフカだった。なんなら私の家のベッドよりも寝心地が良いかもしれない。

「意外と地味でびっくりしたって顔ね?」

「え、まあ……」

「うーん、それはそう」

「ほら、このおうち外はキラキラしてるでしょ? さすがに毎日見てると目が痛くて、自室はシンプルなものにしているのよ」

 白い無地のティーカップに、陛下がお茶を注ぐ。

「はい、どうぞ」

「ど、どうも」

「ありがとう! ……ございます」

 陛下にお茶をいれさせるなんて、不敬にもほどがあるのではないかと自分でも思ったが、あいにくこんな時どうすれば良いのかわからず硬直してしまっていた。特に怒られていないのでもう気にするのはやめよう……。

 お茶の味はよくわからなかった。たぶん美味しいのだと思う。

「そうね、まずお話しなくてはいけないのは……」

 陛下は自分で入れたお茶に口をつけると、悲しそうに目を伏せた。

「モーガン、シャルの事、とても残念だったわ。最期に挨拶をしたかったのだけれど、私も無理を言えない立場なってしまって……」

 その言葉に、モーガンは大きく目を見開いた。

「シャルって……、おばーちゃんのこと……?」

「ええ。シャルロッテ・ルヴァン・ソレイユ。私の大切な親友だった」

 陛下は懐かしむように目を細める。

「貴女にも何度か会っているのよ、モーガン。シャルに変身術をかけてもらっていたからわからなかったでしょうけど」

 モーガンは口をパクパクとさせている。私も衝撃を受けていた。

「モーガンさん、もしかして、アレーヌのおばあさんって」

「……女王様のことだったの?」

「まあ、ここに住んでいるおばあさんは私ぐらいなものね」

 陛下は微笑んだ。

「……わかるわけないじゃん。おばーちゃんのバカ……」

 モーガンが頭を抑えた。

「シャルらしいわね。あの子、孫には厳しかったから。でもとてもかわいがっていたけど」

「ううう」

 私はある事に気づいた。いや、とっくにその予感はしていたが、改めて確認を取ろうと口を開く。

「……では、陛下はモーガンのおばあさんを……、魔女の事を知っていたということですか」

「ええ。初代のアグネス一世から私まで、歴代の女王や国王は魔女の存在を知っていたわ。そして、その存在を世界から隠していたの」

「一体、なぜ……」

「魔女が、世界から疎まれてしまったからよ」

 陛下は大きく息を吐く。

「かつて、レニヒストハーフェンは魔女と人間が共存している土地だったと言われているわ。でも時代が進むにつれて、魔女は得体の知れない術を使って人々を惑わす存在だと思われるようになってしまった」

 私はモーガンをちらりと見つめた。モーガンは真剣な顔で、陛下の話を聞いていた。

「アグネス一世は、魔女の一族を束ねていた『モーガン』と話し合って、彼女たち魔女を世間から隠匿することにしたの。レニヒストハーフェン王家は魔女を退治したと世界に訴えることで、この国の統治を盤石にして、魔女の一族を守ろうとしたのよ」

「そんなの!」

 モーガンが叫んだ。

「そんなの、勝手だよ……」

「そうね。勝手な取り決めだったともいえるわ」

 モーガンの非難に陛下は目を伏せる。

「でも、外国ではそのあと、魔女狩りの名でたくさんの人々が殺害されてしまった。社会が混乱して、多くの悲劇を生んだ」

「レニヒストハーフェンは『魔女狩り』の任務を国に独占させた。ゆえに、魔女狩りは公式には確認されとらん」

 アリスさんが説明を引き継ぐ。

「では魔女審問会も」

「うちらは元々、魔女の存在を隠し、世間の目を逸らすことを目的に作られた。そして魔女を保護するレニヒストハーフェン王家の安定と平和を守るために活動しとる」

「王家の安定と平和……?」

 私が繰り返すと、アリスさんは何でもないことのように言う。

「反王室活動の取り締まりやな。公になるとまずいから、秘密裏に、やけども」

「……嘘でしょう」

「魔女令はその辺の都合がつけやすいんよ。警察なら違法になるおとり捜査や潜入捜査も出来るし、令状なしの捜索や逮捕やって出来る。民主主義の確立からこっち、王制保護のために王室直轄の特務機関として色々やっとるんやで」

 この国は議会制民主主義を取る自由民主主義国家である。女王は君臨すれども統治せずと言われ、国政に対する実権はほとんど存在しない。

 不敬罪も大昔に廃止され、反王室活動は政治活動の自由の範疇として公でも認められてはいる。テロや暗殺といった行為に及ばない限り騎士団の捜査も行えない。

「そこを捜査して情報を得るのが魔女審問会の、正確にはうちの仕事やな。全員は関わっとらんよ。ジャンヌも知らん」

 もしこの活動が世間に知られてしまえば、それこそ王室存続にかかわりかねない重大なスキャンダルになる。万が一の時には、魔女審問会首席審問官が個人的に行っていたことと釈明し責任を取れるよう、ほかの審問官には知らせていないらしい。

「じゃあアリスさんと女王様がめっちゃ仲良しなのも、その任務のおかげ?」

「これはまあ昔色々あって」

「シャル以外にも気心の知れた友達が欲しかったのよ」

 言いづらそうに顔を逸らしたアリスさんとは対照的に、陛下は嬉しそうに言う。

「あなたたちとも是非お友達になりたいわ」

「じゃあ陛下って呼ぶね!」

「お、畏れが多すぎます……」

 モーガンの順応性が高すぎて怖い。怖いと言えば……。

「その、審問会の裏の任務について私が知ってしまっても良かったんでしょうか……? 色々問題がある気もするのですが」

「もうこうなったら言わんわけにはいかんやろ。一蓮托生やで、アグネスちゃん」

「……はあ」

「っていうかアグネスちゃん、仕事続けてくれるんやな」

 そう言うアリスさんは素直に嬉しそうだった。さっきまでのふざけた態度はない。私は急に恥ずかしくなって、視線を逸らした。

「まあ、はい……。モーガンさんとも、約束したので」

「……ふぅん。ほな、今後ともよろしゅう」

 ニヤニヤと肩を組んでくるアリスさんに、私は苦笑いを浮かべる。何かとんでもないことに巻き込まれてしまった気がした。もう色々遅い気もするが。

「で、アリスさんは一体何をして、今回の事に至ったんですか?」

 話を進めるためにそう質問する。

「うちは元々、今の宰相の資金周りを洗っとったんよ。改革派で王室廃止論者のフォーラムに出たこともあったんで、監視対象やってん」

 アリスさんはどさりとソファに座りなおす。

「そしたらウォルツェンに繋がった。どうもエストアレニア教会の土地売却で得た利益を宰相に渡すことで、自分のやっとる不動産取引でさらに便宜を図ってもらおうとしとったんや」

 アリスさんは紅茶を一杯啜って続けた。

「宰相もそれに乗っかった。その証拠に、売却のハードルになっとったあの教会の歴史的建造物指定は突然取り消された。どうもほかにも同じやり口で教会潰して、土地の売り買いがあったらしいわ。ずぶずぶな関係やったんやろうな」

 だが宰相側もそれに感づいたらしい。だから魔女審問会を廃止するべく強硬策を取ったのだという。

「決定的な証拠がつかめんで難渋しとった。まあウチらの廃止論は長い事あったから、ここらで潮時かなと思ったんやけど、陛下から多少無茶してでも生き残れって直接言われてもうてん」

「少し乱暴な手を取っていただいたの」

 あの時の電話はその話をしていたのか。思えばあの日から、アリスさんのやり方は少し乱暴になっていたように思う。

「市中検分の名目でエストアレニアに乗り込んで、リコ・シトラウスキーに牽制したんや。ほんなら予想通りウォルツェンに問い詰めてよった。ウォルツェンはその場やと開き直っとったが、慌てて証拠隠しに行ってん。そこを押さえたったわ!」

 アリスさんは勝ち誇ったように鼻を鳴らして、今日付けの新聞をテーブルに置いた。

『神霊教神官長、宰相への贈収賄の疑いで逮捕』という見出しが躍っていた。ちなみに逮捕したのはアレーヌ地方検察特捜部であり、魔女審問会の名前はどこにもない。

「宰相は近いうちに辞職やろな。ま、うちらの廃止もこれで流れたようなもんや」

「はぁ……」

 相手が不正をしていたとはいえ、目の前の小柄な女性が女王の指示で政権を転覆させたのだ。ケラケラと笑うアリスさんと、穏やかに微笑む陛下からはそんなすごいことをやったとは想像もできなかった。

「ただ、まさかリコ・シトラウスキー神官補があんな凶行に及ぶことまでは予想も出来なかったわ。そこにモーガンが巻き込まれてしまうことも」

「リコは消防設備点検不備の疑いで取り調べを受け取るけど、罪には問うのは難しいわ。すぐに出てくると思う。なるべく自分らと接触せえへんようにするから、任せといて」

 アリスさんがそう言うと、陛下は静かに頭を下げた。

「ごめんなさいね。あなたたちを危険な目に会ったのは、私に責任があるわ」

「あ、頭を上げてください!」

 偉い人に頭を下げられると居心地が悪い。私はあわあわと両手を振る。

 だがモーガンは複雑そうな顔をしていた。

「……モーガン?」

「わたしは、魔女はずっと受け入れられてないものだと思ってた。みんな魔女の事を誤解してるから、それを正せば仲良く暮らせるようになるって」

「残念だけど、それは難しいでしょうね」

 陛下は首を振る。

「人は未知のものや、自分と異なる者を恐れるわ。魔女は普通の人間にはない大きな力を持った存在。正しく理解されたからと言って、その恐れが消えるわけではない。悪意ある人間に利用され、悲しい事件を引き起こすかもしれない。だから、そっと暮らしておく方がいいのよ。……と、シャルに言われて大喧嘩をしたことがあるわ」

「え?」

「へ?」

 私とモーガンは同時に首を傾げた。

「シャルは頭が固かったのよ。魔法もなかなか見せてくれなかった。私が街に誘ってもなかなか出てきてくれなかったのよ?」

「……うん。おばーちゃんはそんなの無理だって言ってた」

「でしょう? 確かにシャルは魔女として苦労したこともあったと思うわ。だから、魔法の事を隠しておいた方が良いと思うのも無理はないかもしれない。でも私は、それ以上に人間の可能性を信じているの」

 陛下の目は生き生きとしていた。もう八十を超えているというのに、少女のように明るい目だった。

「何より魔女と人間が仲良く一緒に暮らしている世界の方が楽しいじゃない。ね、モーガン」

「……うん!」

 陛下はモーガンの手を取った。

「あなたの夢は、私の夢でもあるわ。そしてきっと、シャルも、あなたのおばあさまも夢見たこと。大変な道のりだとは思うけれど、私は応援しているわ」

 そして可愛らしくウインクをする。

「そして、私が死んだら天国のシャルに自慢してあげるわ。あなたの孫はちゃんと夢を叶えたのよって。だから待っているわね」

「陛下、長生きせなあかんね」

 アリスさんが笑い、陛下も笑った。

「もちろん。百歳までは現役で頑張るわ」

「姫様がまた頭抱えるで」

「この程度で頭を抱えていたら女王なんて務まらないわよ」

 そして再び私たちの方を向く。

「今日はそれを伝えたかったの。あなたたちを巻き込んでしまったお詫びと、あなたたちの夢の応援。受け取っていただけるかしら?」

「うん」

「……はい」

 私とモーガンは大きくうなずく。そんな私にアリスさんが言った。

「ほんなら魔女審問官としてはちょっと考えもんやな。どないしよか……」

「え」

「……ふふ。冗談やで。これからもよろしゅう」

 アリスさんは手を差し出す。私はおずおずとその手を握り返しながら聞いた。

「いいんですか? その、色々と」

「かまへんよ。むしろ二人は一緒におった方が都合もええやろし。それにうちはもともと、魔女云々はどうでもいいって立場やからな。陛下のことを守れたらそれでええし」

 そう言ってから、少しだけ意地悪く笑う。

「ま、うちの秘密を知ったからにはいろいろと動いてもらうかもしれへんけど。まあそこはお互い様っちゅうことで」

「は、はい……」

 何に巻き込まれるんだろう。少し怖い。

 そんな私の腕を、モーガンがぎゅっと握ってきた。

「……よろしくね、アグネス」

「……ええ、モーガン。こちらこそ」


「モーガン! 狭いんですここで魔法を使わないでください!」

「ええー。絶対こっちの方が早いし楽だよ?」

「木の板が飛び回るのは怖いんですよ! 痛っ」

「あ、ごめん」

 休日を利用して、私とモーガンはようやく届いた二段ベッドを組み立てていた。組み立ての手順を調べていた私をよそに、モーガンが魔法で部品を飛ばし、私の頭に当てたのだ。

「まったくもう! ええと、まず一番と二番を付属のねじを使って……」

「あれ、ねじとかあったっけ?」

「え、見てないですか?」

 狭い部屋は段ボールと緩衝材に埋もれている。この中からねじを探す? うそでしょ。

「モーガン……、一回全部浮かせてもらえませんか……?」

「それはちょっと無理かな……。そうだ、ネズミ呼ぶ? あいつら狭いとこもいけるよ?」

「それはなし! ええい手分けして探しますよ!」

「りょーかい!」

 魔女と一緒に過ごすというのは、きっと一筋縄ではいかないのだろう。大変なこともたくさんあるかもしれない。

 でもモーガンとなら、何でもできる。今の私は、心からそう思えた。

 まるで魔法のようだ。

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現代世界の魔女審問官、魔女と出会ってさあ大変 徒家エイト @takuwan-umeboshi

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