第7話 縮まらない空間

 そこで現れたのが少年野球チームの監督だったら、俺たちの問題は子どもどうしの喧嘩で決着していたかもしれない。だが、運が悪いことに、俺たちを怒鳴ったのは警察官の二人組だった。なぜ警察官が町を歩いていたのかは結局不明のままだったが、とにかく警察官は単に町を歩いているだけのことがあり、そしてそこでたまたま事件を発見することもあるらしい。それで、野口とその側近二名は、すぐさま俺を川で溺れさせようとした疑いをかけられた。


 俺はそのとき完全にパニックになっていた。本来なら自分をいじめていた奴らが断罪されていくのを見るのはスカッとするはずなのに、なぜかあとからあとから涙がこぼれ落ちた。俺の前ではあれだけ怖い顔をしていたはずの野口は、もはや俺以上に取り乱していた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、腹の底から絞り出すような悲痛な声で、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいーーとひたすらに謝り続けていた。それを見ると、俺は自分が野口の全てを壊してしまったような気がしで、さらに泣き続けた。野口の坊主頭は、無防備に地面の上に投げ出されていた。俺はその坊主頭を蹴り付けることができるような位置に立っていた。でも、俺は野口を蹴らなかった。


 事態は俺が思っていた以上に深刻化した。その二人の警察官が『暴行事件を現行犯で発見した功』で町から表彰されたことが、当時の社会がこの事件を大きく扱ったことを物語っている。全国級の新聞やテレビでも取り上げられた。『野球部の小学生が、同級生に暴行を加え、川に体を突っ込んで溺れさせようとした』とかいう話題性のある話は、暇な現代人には十分なネタだった。


 俺は野口と会うことはできなかった。事件の一週間後に俺が学校に出てきたときには、野口は遠くの町に引っ越したことになっていた。二人の側近は、先生と彼らの親に連れられて俺の家まで謝りに来た。彼らは自分たちの非を認めながらも、あくまでも野口に従わざるを得なかったのだと主張した。俺は彼らを許すしかなかった。


 俺はいつのまにか、野球がうまくなっていた。俺は野口がやるはずだったキャプテンに指名され、四番を任され、大会では活躍した。だが、俺は自分がここにいてはいけないという感情から逃れることができなかった。だから、県大会決勝で負けたとき、俺はほっとした。俺のチームを完璧に叩きのめした、敵チームのエースで四番に感謝すらした。


 俺は平穏に成長していった。中学をつつがなく終え、県内公立高校ではトップの難関高校に進み、俺の過去を知る同級生は横山のみになった。もちろん、横山が俺と野口とのことを言いふらすわけがなかった。


 それでも、俺は自分から野口について調べ続けていた。今の時代、インターネットで個人の情報などいくらでも探せる。野口は県内では逆に有名なほどの底辺校に進んでいた。野口はもとは頭は良かったはずで、その底辺校の位置からすれば、野口は俺となるべく遠い場所の高校を選んだように思えた。


 部外者は口をそろえてこう言うだろう。野口は日常的に滝川をいじめており、その結果として滝川を殺しかけたところを見られてしまった。野口が社会的制裁を受けるのは当然のことで、滝川に非はない。滝川は野口を心配する必要はないし、むしろ野口を憎み、ざまあみろと嗤うこともやっていいのだ、と。でも、それは俺は何かが違うと思う。俺と野口の関係は、そんな単純なものではなかったのだ。あの日、河川敷で俺を見下ろしていた野口の顔を知っているのは俺だけだ。


 ただ、俺はもう野口に会うことはないのだろうと思っていた。


 だから、野口が突然俺の前に現れたとき、俺は数年ぶりの複雑な感情に支配されることになったのだった。


⭐︎


「……野口か。久しぶりだな」


 俺はひとまず野口に挨拶をしながら、自分の声が上ずっているのを感じていた。俺が鈴谷高校の関係者と話すときにこんな声になることはない。ここは人が多い場所で、野口がいきなり俺に襲いかかってくるわけがないことはわかっている。それでも俺が反射的に一歩下がってしまったのは、心の奥底では野口を恐れていたからに違いない。俺の体は野口を許していないのだ。


 野口は俺から微妙に離れて立っていた。声は十分に届くのだけれど、久しぶりに会った友人同士にしては遠すぎる距離だった。


「滝川もオープンキャンパスか」


 野口のざらざらした声が、ふらふらと風で揺れるようにして俺の耳に届いた。俺は声変わりした野口の声を初めて聞いたことに今さらながら気づいた。


「そうだ。野口はどうなんだ」


 そして、声変わりした俺の声も、野口は初めて聞くはずだった。野口は髪を伸ばしていて、背中で髪をくくっていた。男にしては長髪だった。俺は野口が今は野球部には入っていないことを知っていたが、俺は鈴谷高校の野球部の頭髪が自由でよかったと心から思った。もし今の俺が坊主頭だったら、俺は野口の前から逃げ出していただろう。


 野口が一歩前に出た。俺は自分の足がひとりでに上向きになったことに気づいて、全力を集中して、足踏みをするような形でなんとかその場に踏みとどまった。


「滝川、頼みがある」


 野口の口が開いた。まるで空気の薄いところにいるかのように、野口の口は意味もなく息を吸い込んでいるように見えた。


「俺はこれから、滝川と同じ場所で生活することになるかもしれない。もちろん、滝川がそれを許すわけがないことはわかっている。俺はこれ以上、滝川と関わるつもりはない。なるべく他人のふりをしていてくれたらいいんだ」


 野口はそれだけを早口で一気に言った。俺はすぐにはその意味を理解できなかったが、野口が俺の目の中でだんだん小さくなっていくような錯覚を感じていた。野口と俺の間には何か大きなものがあった。それは壁というよりは、詰められない空間の歪みであるようだった。野口はそのままこちらから背を向けようとした。俺は一歩前に出ようとして、謎の見えない力に押し戻された。そのとき、いつものようなあの声が響いたのだった。


「あっ、滝川君いた! 何してるの? 友達?」


 堀田の無邪気な声と、こちらにぱたぱたと走ってくる足音を聞いて、俺の不思議な硬直は解けた。

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崩れたあとの生徒会 六野みさお @rikunomisao

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