第6話 滝川のエースで四番の歪んだ関係

 鈴谷高校野球部は見事に甲子園で優勝したが、それは俺にはあまり関係はなかった。そもそも俺は野球は高校までと決めていたのだ。なぜなら俺の進路はすでに決まっているからだ。俺の両親は医者であり、夫婦で開業医として働いている。俺は将来その病院を継がなければならないのだ。


 だから、夏休みも残り少なくなったその日、俺が県内唯一医学部のある大学のオープンキャンパスに足を運んだのは当然だった。堀田と吉永も俺と同じような進路を希望しており、俺は二人と待ち合わせていた。今思えば、俺はその日は起きたときからどのように堀田と二人きりになるのを回避するかばかりを考えていて、そしてこのオープンキャンパスという場所では、他の知人とも充分に会う可能性があることを失念していた。


「あれ、滝川じゃないか。久しぶりだな」


 俺がそう話しかけられたとき、とっさに目線を俺に話しかけた人からそらして一歩後ずさってしまったのは、そのせいでもある。


⭐︎


 俺はもともと運動神経の良い少年ではなかった。一応小学校から野球部には入っていたが、最初は空振りとエラーしかしない完全な雑魚で、もちろん当時のスクールカーストでは最下位だった。だから、俺が当時の少年野球チームのエースで四番のサンドバッグであったのは当然だった。暴力を振るわれるのは日常茶飯事であり、小遣いの限りジュースと駄菓子を奢らされ、宿題の代行までやらされた。


 今考えれば典型的ないじめられっ子だった俺だが、子どもの無知とは恐ろしいもので、当時の俺はその生活を意外と楽しんでいた。野球が下手で腕力が弱い自分がエースで四番に従わなければならないことは当然で、彼の宿題を代行し、おやつを奢ることが自分の存在意義だと思っていたのである。


 それに、いじめる側の彼といじめられる側の俺には、一定のルールがあった。たとえば、俺は自分の小遣いを超えて(親の金を失敬して)彼に何かを奢ることは絶対にしなかったし、彼が俺が大怪我をするまで殴ることはなかった。これはおそらく、悪徳地主と小作人の関係に似ている。搾り取れるだけ搾り取らねばならないが、搾りすぎて外部にそれが露呈すれば、搾り取る側はもともとの利益すら失ってしまうわけである。つまり、先生や親にばれない程度の関係だったわけだ。


 それでも『あの日』が起こってしまったのは、そもそも歪んだ関係というものは、必ずどこかで破綻するからなのだろう。


「お前がノーエラーで3安打なのは気に食わない」


 彼は俺にボールを投げつけ、そしてボールは彼の側近の少年二人に拘束されている俺の肩に当たった。俺の右肩に鈍い痛みが広がった。


「どうしてお前が正キャッチャーになっているんだ。どうしてお前は完璧な送球で盗塁を防いだんだ。どうしてお前が捕り損なった球が俺の暴投なんだ。気に食わない、気に食わない、気に食わない」


 またボールが飛んできて、俺の左肩に当たった。


「次はお前の鳩尾を狙う。それが嫌なら、今すぐ土下座しろ。俺に嘘をついたことを謝れ」


 側近たちの拘束が、俺に行動を促すように少し緩くなった。俺は即座に土下座した。


「野口くん、僕たちが今日試合に負けたのは、全て僕のリードが悪かったせいだ。本当にごめんなさい。僕たちが決勝点を取られたのは、僕が反応が遅れて、野口くんのスクイズ外しの球を捕れなかったせいだ」

「嘘をつくな!」


 側近たちがすぐさま俺を抱え起こし、野口はボールを投げたが、ボールは鳩尾を外れ、再び俺の右肩に当たった。


「それなら、どうして俺が暴投したみたいに言われるんだ。どうして俺が監督に叱られるんだ。お前が言いつけたんだ。俺のいない間に、こっそりやったんだ。お前が試合に出られるのは、俺が温情にも毎日レッスンをしてやったからなのに。俺はエースで四番で、お前は下手な八番のはずなんだ。気に食わない、気に食わない、気に食わない」


 野口はまたボールを投げたが、ボールは俺の体を外れ、側近の一人の鳩尾に当たった。側近が悶絶するのを見て、野口は顔を大きく歪ませて舌打ちした。そしておもむろに近づいてきて、俺の腕を掴むと、無言で俺を引きずり始めた。


「な、何だよーー」


 俺と野口の目が合った。俺はその日の野口の行動は明らかに一線を越えていると感じていた。野口の目は焦点が合っていないように見えた。それなのに、その目がぎらりとこちらに向いた。野口の目の奥に底知れぬ暗黒があるような気がして、俺は野口から目をそらした。そのとき、俺の視界が回転した。


 衝撃の感覚があって、そして俺は自分が川の水上に叩きつけられたことを理解した。続いて、俺の鳩尾に人の足らしきものが命中した。


 また俺と野口の目が合った。それでもそれは一瞬のことで、俺の目の上に川の水が乗った。夏だった。野口の頭の後ろで、長時間労働にいそしんでいる太陽が光り、水中から見ると野口と混ざり合って、不思議な色のコントラストを作っていた。


 ふっと体が軽くなって、再び俺は水面に浮上した。俺は不意に、野口の目が変わっているのを感じた。数秒前までの修羅的な激しい目は消え、そしてまた俺と野口の目が合った。今度は野口は俺を凝視していた。俺の目は水に濡れて安定していなかった。野口の目のあたりが一瞬白くなって、野口の唇がわずかに開いた。そのまま一秒後の場面が起こったとしたら、俺と野口には違う展開があっただろう。運が良かったのか、それとも悪かったのか。


「おーい、君たち、何をしている!」


 その声で、俺と野口のすべては終わった。

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