第57話 聖女の噂

 振り返ると、そこにいたのはエリオットだった。


「お兄様」


 リリアナは小さな声で彼を呼ぶ。彼は仏頂面でリリアナを見下ろした。


「こんなところで何をしている?」

「えっと、えっと。お散歩?」

「人もつけずにか?」

「レディーには一人になりたいときがあるの」


 エリオットの眉がピクリと上がる。そして、大きなため息をこぼした。


「どうせ、『聖女の雫』について調べるつもりなんだろ?」

「なんで……」

「なんとなく。ほら、行くなら出口のところで待ってろ」

「えっ!?」


 エリオットはリリアナの背を押した。その途端、エリオットは大きな声を出す。


「おい! でかけるから馬を用意してくれ」


 リリアナは使用人が出てくる前に慌てて出入り口を潜った。エリオットと使用人の会話が聞こえる。馬車ではなくていいのか、そんな内容だ。


(今のうちに逃げちゃう? でも、馬にはすぐ追いつかれちゃうし……)


 エリオットにバレた以上、このまま逃げればルーカスに報告が行くのは一瞬だ。それならば、彼を説得して仲間に引き入れたほうが勝算はある。


 リリアナは諦めて草むらに腰を落とした。木の幹を背もたれにして空を見上げる。木々のあいだから覗く空は青々としていて澄んでいた。


「おい。ボーッとしている暇なんてないだろ?」

 馬を引いたエリオットが呆れたようにリリアナを見下ろした。リリアナは慌てて立ち上がる。立派な黒毛の馬は鼻息を荒くして、リリアナの頭に鼻を押しつける。


 結った髪がくしゃくしゃになった。


「どこに行きたい?」

「街に行きたい」

「街に行って、『聖女の雫』について調べるのか? あれはもうない。余っているわけがないんだ」

「もうないならいいの。でも、聖女が作った物だって偽るのは聖女への冒涜でしょ?」

「そんな難しい言葉誰に教わった? ああ、あの執事か」


 エリオットが舌打ちして「あとで文句言ってやる」と呟いた。


「いいか? おまえが聖女の力を持っていようと、前の聖女とはなんの関係もない。おまえが気にかける必要はないんだ」

「そうだけど……」


 どう説明すればいいだろうか。リリアナと聖女は関係がないとは言えない。元は聖女だった人間がリリアナとして生まれ変ったのだから。


 しかし、それをエリオットに言うわけにもいかない。


 リリアナは考えた末に言った。


「でも、放っておいたらだめだと思ったの!」


 エリオットは大きなため息を吐く。そして、リリアナを抱き上げ、馬の背に乗せた。


「父上に怒られても知らないからな」

「全部私のせいにしてもいいよ!」

「ふんっ。妹に責任を押しつける兄がどこにいる?」


 エリオットはリリアナの後ろに飛び乗ると、馬の背を蹴り上げた。


(もう馬にも乗れるなんて……! 子どもの成長って本当に早い!)


 リリアナにとっては兄であるが、聖女のころのエリオットのイメージが消えたわけではない。記憶では義姉の後ろに隠れているような子だった。今では颯爽と馬を走らせることもできるとは。


 エリオットと一緒に馬に乗るのは心配だったけれど、そんな心配は必要なかった。後ろからすっぽりと抱きかかえられたときの安心感。落とされるという不安すらない。


「最近、『聖女の雫』の噂は学院でも耳にする」


 繁華街の外れで馬から降りながら、エリオットは独り言のように呟いた。リリアナはエリオットを見上げる。


「『穢れ』をも消し去る『聖女の雫』なら、どんな病も瞬殺だそうだ。作られた『聖女の雫』が残っているはずはない。余っているならお祖父様やお祖母様だって死ななかった」


 エリオットは吐き捨てるように言った。エリオットにとっての祖父母は『聖女の雫』が足りなくて亡くなった。


 作っても作っても『聖女の雫』は足りなかったのだ。残っているわけがない。


「きっと病気で困っている奴らを食い物にしているんだ」


 その通りだと思う。『聖女の雫』と銘打ち、みんなを騙してただの水を配っているに違いない。病に冒され、弱くなると判断力が鈍くなる。そこを付け狙ったのだろう。


(諸悪の根源を調べる必要がありそうね)


 街の中に入ると、『聖女の雫』の話題で持ちきりだった。エリオットと大衆食堂に適当に入っただけで、簡単に情報は仕入れられた。


「『聖女の雫』は本当に信頼できるのかい?」

「聖女様の残された物だ。間違いない」

「隣の家の婆さんが『聖女の雫』を飲んだ瞬間、元気になったと聞いたが?」

「でもさ、それを飲んで倒れた奴がいるんだろ?」

「ああ、それを飲んでから意識が戻らねぇそうだ」

「そっちが偽物なんじゃねぇか? 毒でももられたのさ」


 男たちは酒をあおりながら言い合う。匂いだけでクラクラきそうなほどの酒にリリアナは鼻を覆う。


「新しい聖女様は俺たちになーんも寄り添ってくれないらしい」

「病気の子も見捨てたって話だ」

「あんなの聖女でも何でもないさ」

「あれは魔女の子だ。なんで神様は魔女の子に聖女の力なんか与えちまったんだろうな」


 酒がほどよく回ったのか、男たちはどんどん饒舌になっていった。それと相まって、隣に座るエリオットの機嫌も悪くなったのだ。


 母親を魔女呼ばわりされて笑っていられるわけがない。


(外の事情はわかったし、そろそろ帰ろうかな)


 本当はもっと探ってもいいのだけれど、これ以上はエリオットが暴れる可能性がある。リリアナはエリオットの袖を引っ張った。


「お兄様、ここ臭いから帰ろ」

「……ああ、そうだな。この近くに美味しいアイスクリーム屋がある。そこに寄って帰ろう」

「うん」


 エリオットの手や声が怒りに震えている。我慢の限界はもう近い。リリアナはエリオットに手を引かれ、アイスクリーム屋に向かった。


 どこもかしこも聖女の噂で持ちきりだった。


 大衆食堂を出て歩いているときも、前を歩いていた老夫婦が聖女の話を始める。『聖女の雫』に関する噂はたくさん聞きたいが、『新しい聖女』と『魔女の娘』という単語がセットになるのが問題だ。


 隣で歩くエリオットがいつ爆発してもおかしくはない。


 リリアナの悪口くらいであれば問題ないとおもうけれど、母親の話となれば別だ。


 リリアナはアイスクリームを舐めながら、エリオットを見上げた。彼は老夫婦の背中をまっすぐ睨む。


 そういうところはまだまだ子どもということだ。感情を隠せない。そのほうがわかりやすくて助かるけれど。


 リリアナはエリオットに向けてアイスクリームを差し出した。真っ白なバニラ味。幸せの象徴だ。聖女として多くの街を旅したときは、生きるための食事すら手に入れるのが大変だった。


「お兄様にもあげる」

「いい。食べかけを食べる趣味はないから」


 そういうところは貴族のお坊ちゃんだ。リリアナはアイスクリームをペロリと舐める。


(おいしいのに)


 リリアナの手が熱いせいか、バニラのアイスクリームはすぐに溶けて、持っていた左手に垂れる。慌てて左手についたアイスクリームを舐めとったら、頬にべっとりとアイスクリームがついた。


 この身体の使いに慣れていないせいか、こういうことはよく起こるのだ。


 エリオットは大きなため息を吐くと、ポケットからハンカチを取り出してリリアナの頬を拭った。


「おまえ、世話が焼けるな」

「この身体が言うこと聞かないの」


 リリアナは頬を膨らませる。子どもの身体はまだ慣れない。手も小さくて不便だし、とても不器用なのだ。


 エリオットは再びため息を吐いた。それでも仕方なさそうにアイスクリームで汚れた箇所を拭き取ってくれる。


 彼はなんだかんだ文句を言いながらも世話を焼いてくれるのだ。


「はあ……。こんなところに来るんじゃなかった。ただ疲れただけだっただろ? 次からは遊びに行きたいなんてわがまま言うなよ」

「うん」


 素直に従うつもりはないけれど、無駄に怒られるのも嫌だ。リリアナは笑顔で頷いた。これぞ処世術というものだ。


 リリアナはエリオットに文句を言われながらも、屋敷に戻った。久しぶりの乗馬はお尻が痛くなったし最悪だったけど、エリオットとのお出かけは悪くなかった。


 そう、屋敷に戻るまでは。


 馬小屋に続く裏門を潜った瞬間、強い視線を感じる。


「二人とも、どこに行っていた」


 地響きのような低い声。鋭い瞳。


 リリアナは無意識にエリオットの袖を強く握った。


「お、お父様……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

前世聖女のかけだし悪女 たちばな立花 @tachi87rk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画