FUKUSHIMA F1

@wmine1812

FUKUSHIMA F1

★3.11


2011年3月11日、東北地方は未曾有の災害に見舞われた。午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生し、その直後に壊滅的な津波が続いたのだ。静かな午後が突然、大地の揺れと海の怒りに飲み込まれた。

続いて、福島第一原発(通称F1)で重大な事故が発生した。津波の衝撃で原発の冷却システムが損傷し、炉心溶融が始まるとまもなく水素爆発で建物が破壊された。原子炉内の圧力が危険なレベルに達したため、最後の手段として圧力弁を開放する決断を下した。圧力弁が開かれた瞬間、蒸気と共に多量の放射性物質が排出され、原発の周囲に放射性物質が広がった。F1の周囲30km地域の住民は緊急避難を余儀なくされた。福島県の凋落の始まりであった。


福島智治はこの時10歳であった。

智治を女手一人で育てた福島奈津子は、津波にさらわれ既に行方が分からなくなっていた。


智治は荒れ狂う海を見ながら呆然とたたずんでいた。彼の心はただ怒りに満ちていた。しかしこの気持ちをどのようにしたらよいのか全く分からなかった。


★不良時代


15歳になった智治は、生まれ育った町の変わり果てた姿の中で暴走族の一員として生きていた。母を失った悲しみと、地震と津波による混乱の中で育った彼にとって、仲間と暴走することが唯一あの時の怒りを具現化する手段だった。


智治は無免許ながら、運転技術を磨いていった。彼は古い車をもらい受け、エンジンやサスペンションなどを改造し、夜な夜な街や峠を駆け巡った。彼の運転は荒々しくも巧みで、まるで彼の心の叫びを道路に刻んでいるかのようだった。また、彼の周りには同じように苦しむ仲間がいた。彼らはエンジンの轟音とスピードの中でしか、自分たちの存在を確かめられなかった。


時には自分が選んだこの道に疑問を持ちながらも、母の記憶と、彼を取り巻く状況に抗い続けた。


2021年、福島智治は20歳になり、彼の人生はさらに複雑な局面に入った。福島県は、東北地方太平洋沖地震からの復興の兆しを見せ始めていたが、新たに襲い掛かったコロナ禍により、その努力が水の泡となった。経済的な打撃と共に、地域社会は再び混乱し、不安が渦巻いた。


この状況は、すでに苦難の中で生きる智治にさらなる試練を与えた。彼は、コロナ禍による制限と社会の閉塞感に反発し、自らの感情を荒々しく表現するようになった。暴走族としての生活は、自己防衛と自虐の手段と化していた。


彼の行動はより過激になり、暴れ回ることで社会に対する怒りを表現していた。彼の運転技術はさらに進化していた。そして県内を走りまわり自らの存在を主張していた。しかし、この行動は彼自身の苦悩と不安をさらに深める結果となった。コロナ禍による制約が彼の心に重くのしかかり、彼はますます社会から疎外され、自己破壊的な行動に走るようになった。


★極道との闘い


夜の静寂を切り裂くかのような鋭い緊張感が、辺りの空気を満たしていた。智治の目の前で、極道が刃物を振り回していたのだ。智治の心は怒りで満ちていたが、同時に冷静さも保っていた。また、彼は、自分の心の奥深くにある闘士の精神も呼び覚ましていた。


彼の手には、伝統と歴史を秘めた日本刀が握られていた。どこかの博物館から盗んだものだ。智治は居合と剣道の技術を磨いてきた。彼の動作は、訓練されたもので、瞬く間に完璧な一撃を放った。剣の軌道は、まるで美しいダンスのように流れるが、その結果は無残なものであった。


彼の刀は、極道の右腕を切り落とした。その瞬間、血のしぶきが空中に舞った。まるで悲劇的な芸術作品のように、赤い液体が月光の下で輝いていた。その血しぶきは、暴力の残酷さと、智治の心の中にある深い苦悩を象徴していた。


切り落とされた腕が地面に落ち、その重みと共に、智治の心にも重い感情がのしかかった。彼はこの瞬間に、自分の行動の重大さと、それがもたらす結果を深く理解した。彼の心は、自分自身との闘いと、周囲の世界との関係において、新たな認識を得た。たとえ相手が極道だろうが、人間の腕を切り落とした感覚は智治の心に深く刻まれた。


この出来事は、智治の人生の転換点ともなった。彼は、自分の行動がもたらす影響を深く省み、これ以上の暴力を望まないという決断を下した。彼は、自分の人生をより肯定的な方向に導くために、内面の変化を求めるようになった。この事件は、彼にとって新しい始まりの象徴であり、彼の内面に秘められた潜在能力と可能性を呼び覚ますきっかけとなった。


智治は、自身の苦しみと社会との断絶を抱えながら、複雑な時代の中で進むべき道を模索していた。彼の心は怒りに満ちていたが、それでもなお、未来に対する何かしらの光を求めていた。


福島県への復興交付金は打ち切られ経済はどん底に落ちた。若者の仕事がなくなったので、治安はますます悪くなった。予算は削られいたるところに廃墟が見られるようになった。


★鶴ヶ城


智治はいつもの通り仲間を引き連れて、爆音とともに走った。彼らのやるせない気持ちはこのような無謀なことをしなければあがなえないのだろう。


この時は会津地方を走っていた。そこには廃墟と化した鶴ヶ城(会津若松城)があった。


何か金目のものが転がってるかもしれない。智治らは車やバイクを止めて、鶴ヶ城に向かった。


鶴ヶ城への彼らの足取りは軽かったが、城に着いてみると、その期待はすぐに打ち砕かれた。荒れ果てた城には、金目のものは何一つ残っていなかった。あるのは、かつての栄華を偲ばせる寂れた廊下と、壁にかけられた古びた肖像画だけだった。


その中で、智治の目を引いたのは、「大山捨松」の肖像画だった。彼女の強く凛々しい表情に、彼は心を奪われたのだ。捨松の顔は、威厳と柔らかさを兼ね備えていた。彼女の目は大きく、澄んだ黒目が強い意志と深い洞察力を映し出していた。鋭く弧を描いた眉毛は、彼女の決意と力強さを強調していた。高く整った鼻梁と、端正な唇は、彼女の美しさと貴族的な風格を感じさせた。頬はほんのりと上気しており、生き生きとした健康的な印象を与えていた。彼女の髪は、緻密にまとめられ、その伝統的な髪型は気品と日本女性の美の象徴であった。彼がずっと心の奥底で慕っていた亡き母親の面影に似ていた。


肖像画は傾いていた。智治の目には、その傾いた肖像画が、まるで自身の歪んだ人生を象徴しているかのように映った。彼の心は強烈な衝撃を受けた。捨松の凛とした表情が斜めに傾く様子は、智治にとって運命の皮肉を感じさせるものだった。彼女の強さと母親の面影が混じり合いながらも、その歪みは彼の心に深い悲しみを刻んだ。智治は、母の顔をしたこの女性が、彼の母親のように不幸な運命を辿ったのではないかと思いを馳せた。


彼は肖像画に手を伸ばし、そっと額縁を直そうとした。その瞬間、彼の心にある種の開放感が訪れた。肖像画を直す行為は、まるで自分自身の人生を正しい方向に導くような、象徴的な行為に感じられた。


智治はしばらくの間、肖像画を見つめ続けた。彼は過去の過ちを思い出していた。母さえ生きていれば俺はこのようなことはしなかっただろう。母がなくなり居場所がなくなってしまった。自分の居場所はこんな所しかなかったのだろうか。単に母を思い出さないためにやった行為にすぎなかった。


彼は、これからの人生を正しい道に導くために何ができるかを真剣に考え始めた。


この瞬間から、智治は自らの過去と向き合い、自分自身を見つめ直す決意を固めた。彼は、自分の人生を再建するために、まずは自己の内面から変えていくことを誓った。


「俺たち、これでいいのかな...」彼はぼそりとつぶやいた。つぶやいた瞬間彼は周囲を見渡した。幸い周囲には仲間がおらず、その言葉は誰も聞かなかった。しかし、彼自身の心には深く響いた。暴走族としての生活、無謀な行動、社会への反発。それらすべてが、一瞬にして虚しさを帯びてきた。


智治は、肖像画に見つめられるような感覚を覚え、自分自身に問いかけた。「本当にやりたいことは何だろう・・・」。その瞬間、彼の中に何かが変わり始めた。それは、これまでの自己防衛と自虐のサイクルから脱する一歩だった。


★政治家への道


智治の改心と新たな決意は、ただちに彼を政治の世界へ向けられた。何かを動かすには政治家になるしかないと考えたからである。数十人の荒くれ者を統率した経験もある。しかし、元暴走族の過去が彼の背後について回り、地域社会からの受け入れは決して容易ではなかった。彼の政治家への道は、数多くの困難と偏見に立ちふさがれたかに思われた。


まず彼が直面したのは、当然なのだが地域住民の不信感だった。過去の行動が彼の信頼に影を落とし、多くの人々は彼の真意を疑った。彼は何度も地域の集会に出席し、自分の変化と復興への熱意を語った。しかし、住民は彼の言葉を全く受け入れることができなかった。


さらに、智治は政治の世界における知識と経験の不足にも直面した。彼は夜遅くまで書籍を読み漁り、政治や行政に関する知識を独学で身につけた。地元の議会でのインターンシップを通じて、実際の政治プロセスを学び、必要なスキルを磨いた。


智治の最大の挑戦は、福島市長選挙でのキャンペーンだった。彼は自らの過去を公開し、それを乗り越えた経験を語ることで、信頼を得ることを目指した。彼の熱意と真摯な姿勢は徐々に人々の心を動かし始めた。彼は特に若者たちとの対話を重視し、彼らの声を政策に反映させることを約束した。


選挙戦は困難を極めたが、智治は地道な努力と誠実さで支持を広げていった。彼の公約である「復興と共に地域社会の再生」を中心に据え、多くの人々の共感を呼んだ。


結果的に、彼は福島市長選挙において僅差で勝利を収めた。市長としての彼の任期は、福島の復興に向けた新たなスタートであり、彼の変貌した姿は、変化と成長の可能性を証明するものとなった。



★福島F1グランプリ


智治の誠意は福島市民のみならず福島県民にも届いた。彼はその後福島県知事に就任した。その時彼が考えていたことは復興と経済再生のための革新的なプロジェクトである。その中心となるのは、「FUKUSHIMA F1」と名付けられたモータースポーツイベントの開催だった。世界には既に市街地コースで開催されるF1レースがいくつか存在するが、智治はそれに独自の要素を加えることを考えた。福島の山間部の複雑な峠道を利用した、ユニークで挑戦的なF1コースである。


智治が「FUKUSHIMA F1」を提案した際、彼は国際自動車連盟(FIA)との接点を構築する重要なステップを踏んだ。智治は、国内外のモータースポーツ関係者とのネットワークを活用し、日本のレース界の重鎮との会議も設けた。この会議で、彼はF1とドリフトカーの組み合わせという革新的なコンセプトを提示し、その斬新さとエキサイティングな要素を強調した。


智治の提案は、FIAの関係者たちの興味を引き、その関係者たちは観客がレースに熱狂する様子を想像した。普通のF1レースでは味わえない独特のスリルと戦略がFUKUSHIMA F1にはあることを認識し、この新しいレース形式が国際的なモータースポーツシーンに新たな風を吹き込む可能性に期待を寄せた。


このプロジェクトのために、智治はFIAと連携して、安全基準や規則に関する詳細な検討を行い、FUKUSHIMA F1の計画を具体化させた。また、銀行や大手のホテルチェーン、大手デベロッパーなどにも計画を伝え、参加を求めた。


計画は順調に進んだ。FIAとのこのコラボレーションは、智治が政治家としての地位を確立する上で重要な役割を果たした。FUKUSHIMA F1は、彼の政治的な才能と、難しい状況でも革新的な解決策を見出す能力を証明するものとなり、福島県民に新たな希望と誇りをもたらした。


メインスタンドはいわき市の中央インターチェンジ付近に設置されることとなった。このエリアには高級ホテルを誘致する計画も立てられた。この施策は、国際的な注目を集めると同時に、地元経済への大きな刺激が期待された。


さらに、智治はF1の開催に際して、コンコルド協定に定められた額を超える特別賞金として、優勝チームに10億円を提供すると発表した。福島県の年間予算が減少しているとはいえ、支払い可能な額であり、地域への投資としての意義も大きかった。


しかし、このような大胆なプロジェクトは、批判や懸念も招いた。一部からは、県の限られた資源を使ってのこのような大掛かりなイベントの開催はリスクが高いとの声も上がった。だが、智治はこれを福島県のイメージ再生と経済活性化のための重要な一歩と捉え、積極的にプロジェクトを推進した。


FIAが懸念していることがある。特に重要なのは、地元住民の支持を集めること、環境への影響を最小限に抑えるための対策を講じることである。


この点も抜かりはなかった。今や地元住民の多くは智治の味方である。また、福島県条例ではこのような大規模な開発には2~3年程度の環境アセスが必要となるのだが、これを3か月で行うよう予算措置もした。智治の努力により、プロジェクトは徐々に形を成し始め、国内外からの投資が集まり始めた。FUKUSHIMA F1は、福島の復興の象徴として、また地域経済に新たな活力をもたらす可能性を秘めた画期的なイニシアティブとして注目されるようになった。


FUKUSHIMA F1の一番の特徴は狭い曲がりくねった峠道と高速の長い直線コースが混ざっていることである。直線コースでは当然F1カーは最大の能力を発揮する。しかし峠道では真価は発揮できない。逆にドリフトカーでは、直線コースはそれほどスピードは出ないが(といっても300kmはゆうに超えるのだが)、峠道では有利である。


ところで、FORMULA1の定義は次のとおりである。

①オープンホイールであること

②オープンコックピットであること

③シングルシートであること

つまりドリフトカーとは全く逆。そこで、FUKUSHIMA F1では、特別にこれらの2種類の全く異なった車両が混合して走るといったルールとした。


★F1グランプリ開催


FUKUSHIMA F1の開催が近づいた。

智治は、特別枠としてドリフトカーで参加することが許された。FIAの粋な計らいである。参加21台中ドリフトカーは7台であった。多分FIAは彼が最下位を走るのでレースそのものには影響はないだろうとみていたのかもしれない。しかし智治は本気でレースをすることを考えていた。かつての暴走族としての経験と、地元の峠道を知り尽くした知識を活かし、このユニークなレースに挑んだ。予選では9位となった。日本中がこのニュースで沸いた。


高速道路の真っすぐなコースでは、F1カーがその圧倒的なスピードで優位に立っていた。智治のドリフトカー車両も速かったが、F1カーの最高速度370kmには全く及ばず、直線コースでは次々と抜かれていった。しかし、レースが峠道に差し掛かると、状況は一変した。


智治にとって、このレースの真の舞台は山岳部の曲がりくねった峠道である。地元の福島智治は、この峠道を知り尽くしており、彼のドリフトカー、は峠道の狭いコーナーを縫うように走行する。ドリフトの王者としての彼の技術は、ここで最大限に発揮された。


智治は、少しでも時間的なロスを減らすため、車を滑らせずにコーナリングを行うために、アクセルとブレーキ、クラッチワークを巧みに駆使した。彼はコーナーに近づくと、ブレーキを軽くタップして車の重心を前方に移し、コーナーの進入角度を調整した。その後、アクセルをゆっくりと踏み込みながら、クラッチを繊細に操作して車をコーナーに合わせてスムーズに曲げていく。このテクニックにより、智治はコーナーの立ち上がりで加速する際に、タイヤのトラクションを最大限に保ちつつ、ドリフトを防ぐことができた。


コーナーの出口では、彼はアクセルを完全に踏み込み、同時にクラッチを繊細に操作して、車のパワーを効率的にタイヤに伝えた。このようにして、智治はコーナーからの立ち上がり時に車を急加速させることができ、次のストレートセクションに向けて速度を増す。彼のこのスキルは、特に峠道の狭いコーナーを曲がった後の直線区間で、F1カーとの差を広げるのに重要な役割を果たした。


また、彼のドリフトカーはコーナーからの立ち上がりでF1カーをしのぐ加速を示していた。彼のマシンは瞬間的な加速を重視したエンジン設定、また徹底的にコーナリングに有利なセッティングにしたのだ。そして熟練したクラッチワークとアクセルのコントロールにより、峠道を効率的かつ速く走行する。彼は、ブレーキングポイントやアクセルポイントを数キロ先から予測しており、これにより彼はコーナーごとに最適なラインとスピードを維持することができた。この緻密な運転技術により、智治はドリフトカーのパフォーマンスを最大限に引き出し、観客たちに驚異的な走りを披露した。


一方、現代のF1カーは、その高度なステアリング技術とブレーキング技術で峠道に挑む。電子制御されたクラッチと精密な車両コントロールで、F1ドライバーたちは峠道でも高いパフォーマンスを発揮した。ただし、智治の方が一枚上手であった。


レースは緊張感に満ちたものとなった。峠道では、智治のドリフトカーがF1カーに迫り、時にはそれを追い越す。しかし、直線や緩やかなカーブでは、F1カーの高速性能が優位に立ち、再びドリフトカーを抜き去る。この繰り返しの中で、智治は自分の技術と地の利を最大限に活かし、F1カーとの差を埋めようとする。この抜きつ抜かれつが観客を熱狂させた。


レースの終盤、峠道で智治のドリフトカーがF1カーを猛追していた。しかしゴール直前の長い直線コース。最終コーナーから、エンジンが壊れるのを覚悟でレッドゾーンまでふかした。しかし、F1カーは早い。最終的には、智治は12位にとどまった。しかし、彼のパフォーマンスは、地元住民や観客のみならず世界中から大きな称賛を受け、彼の運転技術と彼が乗り越えてきた困難への敬意が示された。


この「FUKUSHIMA F1」での智治の活躍は、彼の過去の暴走族としての生活から政治家への変貌、そして地元福島県への深い愛情を象徴するものであり、彼の人生における新たなマイルストーンとなった。夕日が沈む中、智治は深い感謝と共に未来へ目を向けた。福島の復興は、彼のリーダーシップの下で確実に進んでいる。彼の旅はまだ終わらない。今は新しい章が始まる時である。

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