名も無き司書の物語
河村 塔王
第1話
フィッシュの言葉を借りて、吉田篤弘は語る。
「すでに死んでしまった人物と出会えるのは書物の中だけである。これは比喩ではない」
ならば、皆が宇宙と喩えるこの空間は霊廟と称するに相応しい場所であり、この紙葉の束は死者の魂魄に等しい。何故なら、この空間はあらゆる書物を所蔵しており、その膨大な蔵書の中には、文字通りどんな本も存在する。架空の本でさえも。
フィッシュの言葉を借りて、吉田篤弘はこうも語っている。
「死者に出会うために本はある。これは紙魚の感慨ではない」
つまり本は、時空を超えて生者と死者とを結縁させる装置なのだ。
だが、本は神具ではない。
粘土板。
蝋を塗った板。
木簡・竹簡。
巻子。
羊をはじめとする獣の皮を鞣したもの。
或いは、植物性の紙葉を綴じた冊子に過ぎない。
時間の経過と共に朽ち果て、何時しか永遠に消滅する。例外は無い。
例え、神の御言を記した経典でさえ、火に投ずれば灰となり、煙と化して遥かな高みに立ち昇るテキストを読む事は二度と叶わない。故に、わたしはここに居る。あらゆる書物を司る「司書」として、あなたが今読んでいるこのお話に遣わされたのだ。
果てしない曠野に無数の墓標が佇んでいる。
その御柱には、書架に並んだ本の様に、整然と死者の名が記されている。
しかし、大半の墓碑はその名を判読出来ない。経年劣化によって名を失った墓標もあるが、そもそもの始めから名を持たない死者も少なからず居るからである。
名は如何なるものも、名を付けた対象に特別な意味を与える。生前は勿論、死後も名を持たなかった者は、何者でもない者である、と言う意味なのかも知れない。
名の有無を問わず、墓標の下には棺が安置されている。
わたしはそっと、その棺桶の蓋を開ける。中には死体の代わりに一冊の本が納められている。死者の書だ。人は死ぬと本になる。
生きた人生。
生きなかった人生。
生きられた人生。
生きられなかった人生。
生と死とその間の様様な想いを綴じた本。
それが死者の書である。
死者の書は死者の数だけ存在する。無論、同じ内容の本は一冊も存在しない。
わたしは両腕を伸ばし、生まれたての赤子を抱擁する様に、死者の書を手にする。
そして、厳かに頁を捲る。
本は至極傷み易い。ただ、読むだけでも、本は傷付き、摩耗するのだ。だが、本は読み継がれる事でしか存えられない。読まれなくなった本は、その存在さえも忘れられ、やがて永遠に消滅する。
本を一冊失う事は、宇宙が一個滅びるのと同じ意味を持つ。
だから、わたしは本を読む。死者の存在と物語とを、未来に伝える為に。
本はあらゆる物語を秘めている。
幸福な物語。
悲劇の物語。
退屈な物語。
波瀾の物語。
どんな物語であろうとも必ず終わりはある。
途切れる文章。
零れる言葉。
震える文字。
数本の線。
一刷けの墨滴。
永遠の空白。
そして、物語は息絶える。
その先には果てしない白、白、白、白、白、白、白、白、白、白、白、白、白。
目を凝らしても、インクの滲みひとつ無い、色の無い曠野。
だが、あなたが今この瞬間、目にしている不壊の紙束には、まだお話の続きが書かれている。指でなぞると確かに、蝋を引いた板に記された尖筆の筆触に似た瑕が刻まれている。
痕か徴か。徴か痕か。
死によって明瞭に縁取られた、未生の痕跡。わたしは盲者の様に、指先で目に映らない筆触を辿る。生きている間には書かれなかった物語。死んで初めて語られるその物語にどんな意味があるのか、わたしには解らない。
しかし、これこそが死者にとっての真実の物語ではないか、とわたしは思う。何故なら、死者の想いは強過ぎて、わたしの指先は裂け、真っ白な頁に血が滲む。血はやがて紙の繊維の間に浸透し、色の無い曠野に本当の物語を浮かび上がらせる。二度と消す事の出来ない、血の通った物語を。
全てを語り終えた本を閉じると、わたしは次の本を読む。
刻刻と死者は増え、時は止まらない。
このお話を読んでいるあなたも、いずれ一冊の本になる。わたしがあなたの本を読む時、あなたは一体何を物語るのか。一介の司書と、一冊の死者の書として、わたしとあなたが再会するお話の始まりまで、今は暫しの別れを赦し給え。
名も無き司書の物語 河村 塔王 @Toh_KAWAMURA
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