冷めた目で見る夏の雨
円堂 環
第1話
その感情をはじめて認識した、その場面は明確に思い出せる。小学四年の、夏休みが近い蒸した空気と通り雨はあれから何度でも姿を見せて、その事実を何度でも思い出させる。
幼なじみが住んでいる大きくて古風な屋敷が近所にあった。これ見よがしな門、手入れの行き届いた日本庭園、いくつの部屋があるかもわからない屋敷。開放感を感じさせる庭の雰囲気の中に、閉塞感のある場違いなものがひとつあった。庭の片隅に置かれた檻だ。一年ほどまえまではなかったその檻では一頭のハスキー犬が飼われていた。
番犬として飼われているのだろう、彼の視界に誰かが入るたびに吠える。家族であろうが侵入者であろうがお構いなしに。
「かわいそうじゃない?」
幼なじみは冷めた目で飼い犬を見つめながらそう言った。そこまで親しくしていたわけじゃないけれど、その平板な言葉と分けた前髪から覗いた氷みたいな瞳を忘れることはない。
そうして、いつしか警戒の咆哮だとは思えないようになっていた。解放を願う悲鳴に聞こえ始めて。だから、解き放ってあげようと考えが飛躍して。
かわいそうだと思ったから。
それが正義だと思ったから。
過不足ない暮らしであっても閉じ込められているのはおかしい。
気に入らないと思った。
気に食わない、と。
短絡的だと言われても知ったことではない。
憧れが芽生えたのだ。
誰かのために感情が。
激しい通り雨が降っていた日、満を持して屋敷に忍び込んだ。鋭く冷たい視線を感じる。檻の中から響く咆哮はレインコートに打ちつける雨と激しく競り合っている。檻の扉にかかっている南京錠の鍵が柵と屋根の間にしまわれていることは知っていた。餌をやったり、散歩に行くときにそうしていたのを幾度となく見ていたし、幼なじみも教えてくれていた。だから手間取ることなく、むしろ手慣れているぐらいで開けることが出来た。あっけなく、もしくは味気なく。吠えていた彼は、こちらに見向きもせず通りへと駆け出し、その後ろ姿は雨中へ紛れてすぐに見えなくなった。
頭の頂点から何かが抜け出すような、得も言われぬ開放感があった。潜水から浮上した先の、真っ白な酸素が体中を巡るような浮遊感があって、その日は興奮のなか眠れなかった。
翌日、うちの子を見かけませんでしたか、と屋敷の主――幼なじみの父親――が訪ねてきて、うちの母親が応対しているのをこっそりと見ていた。心配そうな声色を、不安そうな顔色を盗み見ていた。その日の夕食時に一度だけ話題に上ったが、盛り上がることなく消え入り、明日の天気に話題は移る。
その週末だった。彼は変わり果てた姿で戻ってきた。車に轢かれたのか、路傍に横たわっていたところを発見され通報されたようだ。どこからどうやって身元――というべきか――を判別して帰ってきたのかはわからない。
自らの衝動を満たしこと、自由を与えたことによって彼は死んだ。子細には知らないが自分が殺したとも言える。それでも行為自体を否定することはなかった。後悔することもなかった。悪いのは閉じ込めていたほうだ、と。解放された彼は五日であろうと五秒であろうと自由を、幸福を感じたに違いない。そうやって変換された幼い正義感は、いつのまにか原型を忘れてしまうほど歪に変形していた。
しばらくして、思い出も存在も消し去るように檻は撤去された。庭にあった閉塞感はなくなって、それからだ、見て見ぬふりをするのが得意になりはじめたのは。素知らぬふりをしなければならないと思い込むようになっていた。道に迷っていそうな人がいたところで、不良に絡まれている少年がいたところで、世間体に捕まる子羊がいたところで、見て見ぬふりをする。何ができるというのだろう。変に手を出して痛い目をみるのは避けなければいけない。状況の悪化は避けなければならない。あの浮遊感を味わいたい気持ちはあるものの、あまりにリスクが大きすぎる。気にはなっても声は上げず手も出さず。それが成長する、大人になることだと言い聞かせて。
手を差し伸べたところで見返りが確定しているわけでもない。
首を突っ込んだところで旨味があるとはかぎらない。
そう気づきはじめていた。
「独善的な行為に見返りを求めるものではない」などと言う人は多いが、行動や言動に反射はつきまとうものだ。見返りがなくとも跳ね返るものはある。誰かに思いの丈をぶつけたって、ひとり壁につぶやいたって、何も起こらないなんてことはない。人の心にも、自身の心にも作用する。物理的で自然な現象だ。思っているだけでも作用する。だから、何も思わないようにする。
誰も彼も救えるなんて思えるわけもない。
だが、そんなものお構いなしに、思うがままに行動を起こす――ある方から見れば短絡的な――人間は存在する。自身の衝動や正義を貫き、行使する人間だ。それが現れたのは高校三年になったあの日だった。
ふたりの生徒が全校集会で表彰を受けている。ひとりは幼なじみのアイツだった。あれから数年経った今も関係性は変わっていない。近づいてもなければ遠ざかってもいない。
ふたりがどこで何をしたのかは知らない。校長先生の説明はたどたどしくてよくわからなかったし、耳を傾ける気にもならなかった。特殊詐欺から老婦人を救ったのか、溺れていた少年を助けたのか、悪漢に襲われる美少女を助け出したのか。隣の生徒たちの会話によればどうやら迷い犬を保護したらしいけれど。
でも本当にどうでもいい。
気に入らない。
気に食わない。
ただそれだけ。
拍手が鳴る。賞賛の拍手か、惰性の拍手か、馴れ合いの拍手か。どこか隔絶した雰囲気のなか壇上からにこやかに下りてくる当事者ふたり。
どうして見返りがあるんだ。
邪なことしか思い浮かばない。
日に日にそうなっている。
何か裏があるのだろう。
裏の顔があるに決まっている。
そう。
白日の下にさらさないといけない。
そうしてあげないといけない。
歪な感情が揺り起こされていく。
初夏の放課後、高校から駅へと向かう道すがら、ある家のまえを通るとき犬の鳴き声のようなものが聞こえてきた。いつもの道、鳴き声なんて聞いたことなかったので気になりながらも風に任せる煙みたいに逃げるように通り過ぎるだけ。しかし、翌日もその家から聞こえてきた。あくる日もその次も。結局、週末まで続いた。
家は路地を一本入った住宅地にあって、地元の人しか通らないような細道に接していた。周りを背の高いマキの生垣に囲われていて、入り口の車一台分くらいの間しかなかのようすを窺うことはできない。最初はあえて見ないように通り過ぎ、つぎは目線だけをそちらに向け、ついではっきりと庭へと視線を向けたが、人影も犬の姿も見える範囲では確認できなかった。
そのとき興味を惹かれたのは大きな蔵だった。木製の窓、扉、古びた白い壁、群青の瓦屋根。耳を澄ますとそこからかすかに鳴き声がしていることに気づいた。弱々しい鳴き声は助けを求めているように聞こえた。
これは使える。使えと言われていると思った。押したくなるようなスイッチが目の前にある。いつ押すか、どう押すか。押したあとの得も言われぬ開放感と幸福感を想像すると、血の巡りが速くなり体温が上昇していく。
計画は簡単だった。手紙をしたためそれをこっそりと標的の机に忍び込ませた。正義感をそこに仕向ければいいのだ。
彼女と会ったのは手紙を出したあとだった。
授業を受け流し、計画の行く末を思案しつつ一日はつつがなく終わる。天変地異でも起こらなければ何の起伏もない、滑り台のような日常。眠って起きて、滑っておりてまた明日。
放課後、予報では降らないと言っていた雨が降り始めていた。もちろん、絶対というのはあり得ない。だが確かに昼までの晴天はどこかへ消え、学校の玄関で立ちつくす。早く駅にいかないと電車に乗り遅れてしまう。
――止みそうにないし、濡れて帰るしかないか。
決断して歩き出そうとした、そのときを見計らっていたかのように差し出された傘が視界に入ってきた。
夏の、通り雨。
濡れたアスファルトの匂い。
花の朽ちた紫陽花の葉が花壇で揺れる。
淡い赤。
赤い傘。
何かと思った。もちろん、自分に向けて差し出されているのだということを状況的に理解しなかったわけではない。こんな場面に遭遇することが人生で初めてだったとしても。
「何?」
傘を差し出した人物に対して、少々ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。そこにいたのは同級生の女の子。クラスメイトだが会話はもちろん挨拶を交わした記憶さえほとんどない。彼女はまったくこちらを見ていなかった。少し長い髪を後ろで束ね、前髪が瞳を隠すように、表情を悟られることを避けるように垂れている。薄い色の唇、それが動くことはなかった。
「貸してくれるの? でも、それだと――」
彼女は赤い傘をいったん引いて、鞄を提げたもう片方の手に握っている折り畳みの傘を見せた。そして、何も言わず赤い傘をもう一度差し出した。受け取らないのも悪いだろうと思い、傘の柄を握る。と、彼女は慣れた手つきですぐに折り畳みの傘を開くと、雨の中へ急ぎ足で飛び出した。
「あ、ちょっと……」
雨の音。
ローファーと薄い水たまりが踊る。
呼び掛けに彼女は振り返らなかった。
翌日、傘を返そうとした。教室で返せばいいのだが、どうしても周囲の目が気になる。あまりに幼いと自分自身感じてはいたものの気になるものは気になる。気にせずコミュニケーションをとるようになったらなったで急な変貌に周囲の見る目は変わるだろう――なんて自意識過剰のループ。
早めに登校して中庭の隅で彼女を待つことにした。自分よりも早く登校していたら困っていたところだが教室に彼女の姿はなく、運が良いと思った。鞄を置き、赤い傘だけを隠すように持って外へと向かう。中庭を横断するように渡り廊下があり、その中ほどに憩いの場というか、自動販売機と長いベンチが置かれている一角があった。そこは東屋のように簡易な屋根と低い壁が設置されているため廊下からは死角になっている。薄曇りの空のもと、色の溶けたベンチに座って待っている。どうやって呼び止めるかまでは考えていなかった。赤い傘が熱を帯びる。体温が移っている。
ほどなくして、にぎやかに行き交う生徒たちのなか彼女の姿を見つけた。束ねた髪、どことなく作りものに見える白い肌。人の流れから弾かれるように彼女はこちらに歩いてくる。気づいたのだろうか、これまた運がいいと思った。
「おはよう」挨拶もそこそこに赤い傘を差し出す。「これ、ええと、ありがとう……」
彼女はこくりと頷いた。
はたから見れば怪しげなふたりだが何事もなく任務は達成されたと思った――。
けれど、彼女は傘を受け取るやいなや鞄から一冊の本を取り出した。デジャヴのようにそれを手渡そうとして、反射的にそれを受け取り、ページをパラパラとめくる。数学のテキストだった。どうしてこんなものを渡すのか。そんな疑問を口にしようとした瞬間、はらりとしおりが落ちる。
彼女がそれを拾い上げつつこう言った。
「きょう、先生休みで授業がなくなるから……」
頭のなかを疑念と疑問が支配している。だから何だというのだろう、と。考えているうちに彼女は逃げるように立ち去る。
疑問の霧はすぐに晴れた。昼休み後、最初の授業は抜き打ちのテストだったのだ。彼女が言っていた通り先生が休みで、事前に用意していた小テストを解くこととなった。
傘を忘れる。折り畳みの傘を常に持ち歩き、雨の予報があれば長傘を持って行く――そういうひとは少数派だろうけれど、きっちり準備することには何の珍しさもない。
では先生が休むことはどうか。知っていた可能性はあるだろう。テストを用意していることだって。この先生はときおり抜き打ちテストをすることもあったし、生徒の虚をつくことと生徒の不正を許さないことに邁進するような人物だった。だからどこもおかしくはない。
それでも、テスト時間も気はそぞろ。対角線上の席に座る彼女の動きを気が付けば追っていた。感情の起伏を感じさせない横顔、すらすらと進むペン――答えを知っているかのように滑らかな動き。どこまでを知っていて、どこからが想像なのか、そんなことばかり考えていた。
散々だったテストを終えた放課後、テキストを返すために彼女の席に向かった。もう周りの目とか、そういったものはどうでもよくなっていて、それよりも疑問を解決しないと気分が落ち着かなかった。感謝の言葉を踏み台にして本題を切り出す。
「知ってたの?」
テキストを受け取った彼女はちらと視線を上げた。何かしらの返答があるかと待ちかまえていたが、密度の濃い沈黙が流れただけ。そして、テキストを真新しいくらいに綺麗な鞄に仕舞うと一枚のハンドタオルと一冊の本を差し出した。
「何これ?」
思わず受け取った。シンプルな白地のタオル。柔らかな感触と柔らかな香り。それと花柄のカバーが付けられた薄い文庫本――『冷めた目で見る夏の雨』というタイトル。
「――必要になるから、です……」
聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声の返答を置いて、彼女は消えるように教室を出て行った。そこにいたのが幻であったかと思えるくらい。
ぼんやりと歩く帰り道、駅までの道。
昨日とは違う。一昨日までと違う。
朝方まで降っていた雨、ところどころの水たまり。
通り過ぎる運送会社のトラック――。
跳ねる飛沫。
左腕と鞄にかすかにかかる。
ついてない、と普段なら思ったことだろう。
――必要になるから。
言葉が浮かんで、惑わすようにふらふらと巡る。
いつもより鞄が重く感じた。
まさか――。
鞄のなかに仕舞われたタオル。
物語としてはありきたりで、日常としてはあり得ないような。
寒くもないのに身体が小さく震えていたことにそこで気づいた。
自分の気持ちが暴かれるかもしれない、と。
計画が台無しになるかもしれない、と。
『冷めた目で見る夏の雨』は復讐の物語だった。学校で虐げられていた少年が、敵に復讐したいというふつふつとした思いを抱えながらも日々は淡々と過ぎるというのが序盤の流れ。思いはあっても手段はなく、悶々としながらも時間だけは過ぎていく。天然ダムのようにただただ水をせき止め、いつか決壊する日まで傍観者みたいに諦観しているだけ。そんな彼に二人の友人が生まれる。ひとりはある復讐を成し遂げた少年、もうひとりは転校してきた成績優秀で前途洋々な少年。前者は未来に絶望し、後者は未来に夢を見ていた。
この本が必要だと彼女が言った理由はなんだろう。
考えて、考えて、答えは結局出ないまま朝が時間通りに届けられて鬱々とした感情のなかベッドから抜け出す。答えが出ないのではなく、思いついた答えが誤りであると決めつけているだけだ。彼女は何もかもお見通しで、計画の邪魔をしようとしているのではないかという答えを。
作中の主人公と友人の会話が商品名を連呼するコマーシャルソングみたいに離れなくなっている。
「病なんだ」
未来が視えるという病を抱えているんだ、と少年が淡々と言った。
「病気ってこと?」
ああ、と少年は溜息みたいに肯定した。
「……でもさ、そんな病気聞いたことないよ」
「信じなくたっていいさ。辛そうにしてなきゃわからないよな。ああ、いやそれでもわからないんだ。痛そうにしても、苦しそうにしても、どうしたって自分がその立場になってみなけりゃわからないんだ。おれだってそうだからな」
「ご、ごめん」
「あのな、勝手に謝るなよ。気にするなって」
「え、と、治るの?」
「いや。いつの間にかかかっていて、もう治らない」
「どうして?」
「知らない。きっと神さまが決めてるんじゃないか、これは治る、これは治らないって」少年は思い出し笑いみたいに口もとをゆるめる。「遊びに振り回されているんだ。手のひらで踊らされてるんだよ。ホントは寂しがり屋の神さまに付き合ってやってるんだけどな」
それは強がりにも見えた。
「本当に治らないの?」
質問に対して少年はもったいぶって言う。
「あるんだよ、ひとつだけ。見つけたんだ、たったひとつの方法をな」
「なに?」
「うつすんだ」
「うつすって……」
「オレが死ぬとき、べつの宿主を探すんだよ」
「でもそれじゃあキミは?」
「そういうことだ。別れの瞬間、オレの近くにいる人間に引っ越すんだ。そんときはじめて解放される。――なぁ、どうしてお前がそんなに暗い顔をするんだ?」
「心配しているんだよ」
「いいや違うね。憧れてるんだろ?」
「ううん」ぼくは否定する。でも、こころは頷いていた。
「うつしてほしいんだろ?」
ぼくは首を振る。
「羨ましいんだろ?」
「そんなことないよ。だって、大変じゃないか」
――バレたら大変じゃないか。
計画がバレたら台無しじゃないか。
ウワサは本当だったんだって安心しているんだよ。
誰もまだ気づいていないんだと安心しているんだよ。
――どうやら仮病らしいよ。
――ちげぇよ、家出だよ。
――そうなの?
――ほら、スケベ教師のアイツ知ってるだろ?
――は? 誰よ?
――数学のアイツだよ。駆け落ちしたんだと。
――カケオチ? 何それ?
――恋仲なんだとよ。
――コイナカ? ええと、恋愛関係ってこと?
――表向きはな。
――嘘だね。そんなの信じるわけないっしょ。
――証拠は揃っているぜ。
昼休みの教室、つらつらと並べられる言葉。件の教師はきのうきょうと無断で休んでいること。ふたりが校内で談笑している姿を、馴れ馴れしく触れ合っている姿を目撃されていること。雰囲気、過去の事例から察するにただならぬ関係でありそうなこと。
――とどめは、ヤツの家に入っていくところを見たってやつがいるんだって。
――家? どこよ?
――学校の近所。知らない? でっけぇ蔵みたいのがあるとこ。
――蔵? ああ、あそこか。
――どうなると思う?
――さぁね。
――また犠牲者が増えるかもな。
――意味不明。
――知らねぇの? ヤツは弱みを握っていいようにいたぶるんだ。主従関係だよ。
――弱み?
――タバコらしい。
――見つかったの?
――らしい。没収されたんだってタバコとライターを。
――それで、不問にする代わりってこと?
――そそ。でもな、それもヤツの罠なんだよな。縄張りに誘い込むんだってこと。そうやって食い尽くすんだよ。逆に表だな。わかるだろ?
わからない。
どうしてここに来たのか。
午後の授業を抜け出して気づけばあの蔵のまえに立っていた。
蔵の南京錠は外れていて、あの日みたいに開ける必要はなかった。
そっと扉を開けて目に飛び込んできたのはいっそうの闇。隙間から差し込む西日だけでは不十分で、近くの窓を開けようとしたとき、足元にあった何かにつまづいた。すんでのところで壁に手をかけて体勢を整え、木製の窓を開ける。
光が差して。
ちらちらと埃が反射して。
そこに横たわっていたものを曝した。
動かなくなっている人間を。
触れなくてもわかった、もうこと切れていることは。
無断で休んでいるはずのあの教師だったもの。
あの日、横殴りの雨のなかを駆け出した彼をすぐに思い出す。咆哮が頭のなかをめぐる。
だが、ここに犬はいない。気配もない。
誰がどうしてこうなった。
ここに来るよう彼に手紙を出したのはたしかだ。
不正の現場だと告発する文章で。
でも、どうして。
罠を掛けたはずなのにどうして。
『憧れているんだろ?』
否定して。
それをまた否定して。
後悔をして。
それをまた否定して。
そしてまた後悔して。
するべきことはなんだ。警察を呼ぶべきか。ズボンのポケットを探る。触れたのはスマホではなく、軽い紙の感触。
それを取り出してぼんやりと眺める。花柄のカバーを眺めていると、心が腹の底から離れていきそうだった。
ここにいるはずだった彼女はどこまで知っているのか。
手紙は二つ作った。
ひとつはこの教師に。
もうひとつは彼女に。
手紙の差出人が誰なのかわかっていたのか。
だったらこの状況は。
もしも彼女が――。
いや、女子がひとりでできるようなことではないはずだ。
なら――共犯者がいるのか。
いやそんなことわかりきっているだろう。朝礼の壇上からにこやかに下りてきたふたりのことを羨ましく見ていたじゃないか。ただの傍観者として。
「誰も理解できないんだ……」
声は届かず。
手は届かず。
目を向ければ逸らされる。
この感情を理解してくれる人なんていない。
正義なんて隠れみのにすぎないのに。
見て見ぬふりが得意になった?
見なければいいんだって気づいただけだろう。
見なければ無視されないから。
憧れがあったのだ。
正義に?
違う。
彼女に。
幼なじみの彼女に。
そうだろ。
特別な存在になりたかったんだろう。
よく覚えているじゃないか。
通り雨のたびに思い出しているじゃないか。
取り出した文庫本を破りはじめる。簡単に破れる。何枚も何枚も。
特別な存在になったのは彼女のほうだった。
この本をくれた同級生の。
僕だってアイツのためにやったのに。
そう、アイツが言ったから。
『かわいそうじゃない?』
あの日、冷めた目で、こう言ったから。
『――この庭、かわいそうだよね。こんな檻を置かれてさ』
だから、必要じゃなくせばいいって。
だから――。
見返りがあってもいいじゃないか。
振り返ってくれてもいいじゃないか。
わからない。
でも、もういいよ。
本当にどうでもいいよ。
気分よさそうな彼女は放課後の廊下を跳ねるように歩く。授業をサボったからではなく、邪魔者が消えたから気分がいいのだ。
「ここまでうまくいくとはね。――アイツの手紙にはなんて書いてあったの?」
「犬が閉じ込められているって……」
「完璧だね」彼女の声も跳ねるようで。「で、どうしてあの本を?」
「あれは、話が――」
虐げられている少年が復讐する物語。だが目的が移り変わって、前途洋々な少年に矛先が向いていく。嫉妬だったのだろう、未来がある、有望な将来がある彼からそれを奪ってやろうとした。未来を視える少年を利用して、病をうつして、未来が視えてしまうという絶望を与えてやろうと。
「ふーん」
彼女はつまらなそうに髪をかきあげた。理由の詳細を訊ねようとしたが興味はべつのものへと移っている。その冷めた視線の先に、雨が降っている。
「傘、持ってきてないや」
呟いた言葉の先に赤い傘が差し出される。
「まだ置いてたの?」
「うん……もしものときのために」
どんなときだよ、と心のなかで彼女は指摘をしつつ傘を奪うように受け取る。
「用意周到なのは好きだよ。でもさ――」
――もう必要ないんじゃない?
計画はすべて終わったのだから。
邪魔者はふたりとも消えたのだから。
その台詞は夕暮れの通り雨に消え。
赤い傘がひとつだけ雨を受け止める。
動き出した二組のローファーに雫が跳ね、遠くではけたたましい消防車のサイレンの音が鳴り響いていた。
冷めた目で見る夏の雨 円堂 環 @sleep-asleep
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