春の花が咲く頃に

sayaka

第1話

 昨夜薄いカーテンと窓越しに雨が降る音を聴いていて、そろそろ桜が散ってしまうかもしれないということをぼんやり考えていた。

 春になったら一緒に桜を見に行こうと約束したのはいつの日だったのだろう。そんな懐かしい頃を思い浮かべながら、眠りにつくのはとてもせつない。


 すみれと初めて出会ったのは秋の午後の夕暮れの中だった。夕焼け色に染まった横顔に見惚れていると、鋭い眼光を向けられてひどく慄いた。彼女が泣いていることに気がついたのは、指の背で目元を拭う仕草を見てからで、私は咄嗟にハンカチを取り出していた。

「これ、よかったら」

「いらない」

 そう返されてあからさまに迷惑そうだった。よく考えたら知らない人の持ち物なんて触りたくないものなのかもしれない。私はポケットティッシュを渡した。

「じゃあこれ」

「……ありがとう」

 今度は渋々という感じで受け取ってくれた。よかったと安堵していると、彼女はティッシュを数枚抜き取って勢いよく鼻をかんでいた。最初の儚げな印象が揺らいでその姿にびっくりしていると、また睨まれた。

 確かにじっと見つめているのも失礼だったかもしれないので、目を逸らしながら二言三言を適当に話しかけていても、何も返ってこない。そんなふうにして気まずさを感じながらもどこか心地よさを抱えていて、ややあってその場から立ち去り別れた。


 再会したのは翌週の同じ時間帯、同じ場所だった。

 川縁で欄干に寄りかかっている彼女を見て、あ、と思わず声が出てしまい、口を押さえる。ショートボブの黒い髪の毛が風にさらされて、ゆらゆらふわふわとなびく様子がとても綺麗だった。また泣いているのかと思っていると、目が合って、微笑む顔にそのまま釘付けになる。彼女の口が開いて声が届くまで、僅か数秒の間に胸が高鳴るのを感じていた。

 それから私達は色々なことを話した。菫は私と同じ中学三年生で、透明感あふれる声で朗らかによく喋る子だった。私の名前を綺麗だねと褒めてくれて、何度も声に出して空中に呟いている様がとても可愛く思えた。

 別れ際、そういえば先週はどうして泣いていたのだろうということが気にかかったけれど、お互いに触れることなく時が過ぎていった。


 毎週一度だけの出会いを重ねて、季節は移り変わり、立ち話をするには寒い冬の日に、どこか暖かい場所に行こうとして二人でしばらく歩く。

 並んで歩くのは何だか新鮮だった。その時に、春になって温かくなったらどこかに出かけたいという話の流れから、発展してお花見をしようということになった。美味しいお茶とお団子と一緒に。私はお弁当の方が良いと思ったけれど、花見団子について熱く語る菫を見ていて、それもいいかもしれないと考えていた。


 そんなふうに長い回想をしていると、いつの間にか授業が終わっていた。教室の喧騒をどこか遠いもののように思いながら、帰り仕度をする。念願叶って進学した高校生活は、何だかひどく色褪せて見えて、毎日を退屈に感じていた。クラスメイトに挨拶して帰ろうとしているところで、背後から声をかけられる。駅まで一緒に帰ろうと言うのでどうしようか迷っていると、いつの間にか帰宅部数人が集合していた。人の中に紛れていると少し落ち着く。あまり会話にも参加せずに歩いていて、同じ制服の同じ年頃の少女達が群れ立っている中に溶け込んでいることに意識を集中していた。


 高校生になって、そういえば菫の進学先を聞いていなかったことを思い出してから同じ学校の中で彼女と再会することを夢見たりもしたけれど、いつしかそんな希望は淡く消えてしまった。それよりも連絡先を聞いておいた方が良かったのかもしれない。そんな単純なことにも思い当たらなかった自分にも愕然とする。


 だから、彼女と再会したのは偶然だった。

 運命的なことも何もなく、本当にたまたまそうだったということにしておきたい。願掛けをしたり、星占いを読み耽ったり、意味もなく出かけて似たような人を見かけては声をかけようか逡巡して人違いに気づくといったことを繰り返していたことは心の内にしまっておく。


 その日の私は、試験勉強のために図書室の奥にある自習机で教科書をめくったり参考書を読んだりしていた。勉強は好きだけど、あまり乗り気がしない時もあるので、気分転換に書棚をぶらぶら眺め歩いていると、小さく話し声が聞こえる。何とはなしに興味がわいてきて、本と本の隙間から覗き見る。あれ、と思って口に出していたかもしれない。あともう少しで呼びかけていたというその時、目の前の光景に私はとても混乱していた。女子生徒が二人見つめ合って仲睦まじくしている。その片方の女子が菫で、もう一人は知らない人だったけれど、二人とも制服のリボンから上級生ということが分かって、二年生だったか三年生かどちらだろうと記憶を巡らせていると、どちらからともなく顔を近づけてキスしていた。していたように見えただけだったかもしれない。しっかり確認して見届けていた訳じゃないけれど、とにかくそのことに驚いた私は立ち去ろうとして書架にぶつかり、何冊かバラバラとなだれ落ちる音が静かな室内に響く。    

 こんな間抜けな再会をしたかったのではないけれど、久しぶりに間近で見る菫はきらきらしていてとても眩しかった。

「図書室では静かにね」

 そう言いながら本を拾うのを手伝ってくれる。一緒にいた人はもう姿が見えなかった。

「すみません……」

 敬語になりながら、私はそういえば彼女のことを本当には何も知らない、そんな気がしていた。落ち込みながらも御礼を述べて、どうしたものかと悩んでいると本に触れた手に彼女の手が重ねられて、急に意識してしまう。

「ひすい」

 私の名前を呼ぶ彼女の声が、まるで知らない人のように響く。

「びっくりした?」

 した、と言おうとして、していないと口が動いたことにも自分で驚きながら、私は急速に世界が動き出すような感覚でいた。


 菫の本名は全く違う名前で、教えてもらった時に文句を言ったけれど、これまで通りに呼んでくれて構わないと言うので、それで溜飲が下がる。しかし本名でない由来もよく分からない名前で呼んでいるのを他人に聞かれるのも嫌だったので、校内では素直に先輩と呼んでいた。便利な二人称があって良かった。菫は現在高校三年生で、ということは私と出会った時には高校二年生であった筈なのに、年齢詐称をしていたのもよく分からない理由だった。私が先に名乗って年齢も告げたから、それに合わせたということで、同い年の方が親近感わくかなと思ったとのこと。実際にそうだったのだから何だか悔しい。


 一緒に桜を見たいと言ったことも覚えていたので、それじゃあ出かけようかという話になった頃には互いに大分打ち解けていて、桜の季節もとっくに終わっていた。結局、それはまた来年にということにして、夏の海を見に行こうという流れになった。

「海を見るの?」

「うん」

「泳ぐんじゃなくて」

「ひすいが泳ぎたいなら泳いでもいいよ、見ててあげるから」

「いや一緒に海行って私一人で泳ぐのはちょっと」

「じゃあ決まりね」

 それから待ち合わせ場所や時間を決めて、あっという間に当日を迎えた。心の準備をしている余裕もない。


 私は鏡の前で念入りに身だしなみを確認して、自分の浮かれた姿を見つめる。顔が自然に緩んでしまうので、そのあまりの嬉しさに身を包みながらはやる心を落ち着かせようと深呼吸をしていた。その時、携帯電話の呼び出し音が聞こえて、菫からの着信に気づく。どうしたのだろうと思いながら通話ボタンに触れようとして、心がざわめく。何だか嫌な予感がしてきた。

「はい」

 平静を装って声を発すると少し震えている。でも電話越しの微妙な音声なんて相手に伝わらないだろうと楽観的になりながら耳を傾けた。

「ひすい、ごめんね」

 菫の涙声にびっくりして、先程まで考えていたことが吹っ飛んでしまう。どうしたの、と聞いても同じことを繰り返すばかりで話にならないので、目の前にいないことがもどかしく感じてしまう。

 結局その日は予定をキャンセルして、泣いている菫を必死に宥めたけれど、通話が終わってからようやく心が萎んでいく。楽しみにしていたのに。責めても仕方ないけれど、やり場のない想いを抱えていた。


 翌日、校内で菫を見かけて声をかける。どことなく落ち込んでいる様子だったから、気遣ったものがいいのか、それともその内容に触れるのは無神経なのか考えあぐねていると、かえって不自然になってしまった。そんな私の様子がおかしかったのか、やや力なく笑みを浮かべている。

「あの、大丈夫なんですか?」

「昨日はごめんね」

「はい」

「今度埋め合わせするから」

 真実すまなさそうにしている菫に返事をしながら、何となくその日は永遠に訪れないような気がしていて、どうしてこんなに悲観的になっているのだろう、私は菫の言うことが信じられないのだろうかと疑問が浮かんでいた。

 突然目の前からいなくなってしまうような気がしなくもないけれど、でも彼女は確かに目の前には存在していて、そのことにずっと現実感がなくて、どこかふわふわしているような夢の中にいるような感覚が続いている。足が地についていなくて、常に漂いながら彷徨っている気がする。そんなことを考えていると、片腕を引っ張られた。それほど強くもない力だったけれど、思ってもいなかったので体ごと前方に倒れこみそうになりながら、菫と図書室で出会った時のことを思い出していた。それから、初めて出会った時のことも。


 薄々感じてはいたものの考えないようにしていて、出来れば素通りして何でもないことのように振る舞っていたかった。そうすることを望まれているような気がしていたから。そうやって心に寄り添っているかのようにしていれば、近くに居られると錯覚することも出来て、それはちょうど良いしあわせのかたちだったと思う。

「わっ、わー、びっくりしたぁ……」

 さほど驚いていないような口調で菫は喋っている。その声をこんなに近くで聞いたのは初めてで、私よりも少しだけ背の高い彼女の首元に顔を寄せながらあまりドキドキしていなくて冷静に状況を分析しているのが殊更に変な感じだった。そのまま抱きついていても、特に高揚するとか悲嘆に暮れることもなく、何も変化のないことがそのまま私達の関係性を示しているかのようだった。

「先輩」

 僅かに身を離して見上げると、当たり前だけど菫の顔が目の前にあって少したじろぐ。贔屓目じゃなくても、菫は本当に整った顔立ちをしていて、困ったように眉根を下げる表情も、どこか落ち着かなくゆらゆらしている瞳もとても可愛らしい。その目にいつまでも私のことを映していてほしいとか馬鹿げたことを考えてしまうのも、だからきっと、あり得てしまうことなのだと、私は今でははっきりと自覚していた。


 そうは言っても不利なことは確かで、実際にどうやって菫を振り向かせたらいいのか分からなかった。私のことを嫌ってはいないとは思うけれど、別段好かれてもいないような気がする。

 季節は夏休みで、学校で偶然に出会うこともしばらくはない。休日に気軽に連絡できるような気安さでもなく、菫は一応受験生なので夏期講習に励んでいて、前途多難だった。私も勉学に勤しもうと思いノートを開くと、菫への募る想いをつらつらと書いて時間がひたすら過ぎてしまった。こんなことでいいのだろうか。いいのか悪いのか分からないまま、モヤモヤした感情を持って外に出ると、夏の日差しがとても眩しい。

 こんな炎天下に外出する人の気が知れないと思いながら、晴れた夏の空を見上げて、何となく歩いていた。帽子か日傘を持って来ればよかったと後悔しながら思いを巡らせてみる。


 それが最後の日になるとは思わなくて、それまで続いていたものが途切れてしまうこと、今までのことが全て夢だったかのように、何も残っていなかった。思い出とか自分の記憶とか感情とか、そんな不確かなものでしかないことは、どこまでが本当で、どこからが虚像なのか分からない。私が見ていたものとか思い浮かべていたこと、それらが全部、本当にあったことなのか、現実感がまるでなかった。音もなく降る雪に染まる景色、それをしばらくの間見つめていた。

 次の日も、その次の日も、一週間経っても、同じだった。

 冬は何日間続くのだろう。そんなことを思いながら、毎日同じ場所に足が向かうのを止められなかった。やがて春が来て、いつしか遠い日のことのように感じる時が来る。そうして忘れてしまうことがこわくて、出来る限り覚えていたかった。


 そう考えると奇跡のように思えてくる。結局、菫と会っていたのは三ヶ月にも満たないくらいの期間で、それからの空白期間の方が長かった。

 今現在こうしてまた会えたり、彼女のことを思ったり出来るのは、不思議な感覚だった。過去よりも今の方がずっといい。その筈なのに、気分は晴れなかった。会いたい。文字にするとたった四文字しかない単純な言葉だけれど、その中に複雑な色々な感情が混ざっていて、表現するにはとても足りないように思えてくる。

 ちょうどよく持ってきていた携帯電話を取り出して、メッセージアプリでそのまま送信してみる。程なくして「いいよー」と返信がくる。呆気ないものだった。このくらい軽い方がいいのかもしれない、なんて思いながら待ち合わせ場所を相談して決める。


 店のドアを開けると、冷たい空気が体に染み込むように感じる。とても涼しい。汗ばむ肌にシャワー浴びてくればよかったと思いながら店内を見回すと、手を振る菫の姿が見えてほっとする。

 席に近づいていき、だんだんと視界に入ることに喜びを感じる。

「久しぶりだね、元気だった?」

「はい」

「暑かったでしょ」

「え、はい」

 何だか思っていたよりも緊張してしまい、うまく話せない。久しぶりに会う菫は制服じゃなくて爽やかな夏の私服で、髪型も普段と違って凝った結い方をしている。これがサマーバケーション効果なのだろうか。適当な格好で出かけて来たことを後悔していた。

 飲み物を注文する段階になってそういえば現金を持ち合わせていないことに気づいて焦ったけれど、菫が奢ってくれると言うのでそれに甘えることにした。

 二人して同じ飲み物を頼む。まるでデートみたいで今更ながらドキドキしてきた。向こうはそんなことちっとも思っていないのだろうな、とちらりと目線をやるとにっこりされた。

「なんだかデートみたいだね」

 私もそう思っていたところと言ってハートマークの一つや二つでも飛ばせたらいいのかもしれない。

「したいです」

「え?」

「デートしたい」

「えっ?」

 そう何度も返されると虚しくなってくる。

「デートかあ、そうだね、いいなぁ」

 菫は何だか遠い目をしている。

「そういえば海もまだ行ってなかったね、行こっか」

「あ、でも、先輩勉強で忙しいでしょ。遊んでる暇あるの?」

「暇はないけど……、ひすいとデートしたいかな」

「本当に?」

「うん」

 現実の有様に圧倒されていた。こんなにあっさり叶ってしまうなんて、あれこれ思い悩んで考えていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくるくらいに。


 そして当日、私は鏡の前で自分の姿を入念にチェックして、前にもこんなことがあったような、と思い出す。幾分気を引き締め直してから、浴衣の着崩れした時の直し方を復習しておく。そろそろ出掛けないと。

 菫が花火大会を見たいと言うので、都合良く近場で開催される日を選び、「じゃあ浴衣デートだね」ということになった。あまり慣れない格好で出歩きたくはないけれど、菫の浴衣姿が見られるのはそれなりに楽しみだった。私は期待に胸をふくらませながら、ご機嫌で待ち合わせ場所に向かう。秋も近くて夕暮れの薄い闇の中が広がる空はとても綺麗だった。


「ひすい、お待たせー」

「こんばんは」

「ふふ」

 出だしはなかなか好調だった。互いの装いを褒めあって、気合を入れてきて良かったと一安心する。菫は淡い色合いの花柄の浴衣を着ていて、頭には同じ色の髪留めをしていた。薄い灯りに照らされていると、いつもよりも大人っぽく見える。こうしていると、本当に歳上の子なのだなということが感じられてしんみりしていた。

「花火何時から?」

「あと三十分くらいです」

「それじゃそれまでぶらぶらしよっか」

 そう言って菫は私の手をとって歩き始める。咄嗟のことに反応が出来なかった。ふらふらと歩きながら、浮かれ心地になっていく。

「先輩」

「ん?」

「今日はありがとうございます」

「えー、聞こえない」

「あ、ありがとうって言ったの!」

 大声を上げる私を見つめて、満足そうに笑う。悔しいし恥ずかしいけれど、こういう時の菫は最高に可愛い。

「ひすいは、わたあめとりんご飴どっちが好き?」

「どっちかいうとたこ焼きが好き」

「そうなんだ」

 周りの出店をひやかしながら手を繋いで歩いていると、何だか本当にデートしているみたいな気分になって落ち着かない。手に汗をかかないか、今更ながら気になってきた。菫の指先はいつも冷たくてひんやりしている。夏なのに、いつも暑がったりしていることを見たことがなくて、それはとても羨ましかった。

 先日の御礼にかき氷を食べて、同じ色の味を選ぶ。いちご味の初めて食べたと言うと菫は驚いていた。

「美味しいでしょ」

「まあまあ」

 そもそもかき氷のシロップなんて香料で誤魔化されているだけであってどれも同じ味な気がするということを考えていると、菫が持っていた手提げから練乳を取り出して絞っているのに仰天する。凝視していると物欲しそうに見えるのか、細長いスプーンで一口すくって差し出された。

「はい、あーん」

 素面でこういうことをやってのけることにも怖気ついてしまう。恐る恐る口を開くと、そのまま食べさせてくれて、その動作が何だかやけにゆったりと遅く感じられた。舌の上が甘くて冷たくてズキズキする。

「……美味しい」

「それはよかった」

 きらきらと輝いて見える、その笑顔が眩しくて、私は眼を伏せてしまう。どうしよう。こんなつもりじゃなかったのに。


 夜空に浮かぶ大輪の花火、大きな音が耳に響いている。

 その音と音の合間を縫って、しんと静まりかえる瞬間に思い切って私の気持ちを菫に打ち明けてみた。

 私が今できる精一杯のことを表現したくて、その勢いに菫は圧倒されているように見えたけれど、実際のところはどうなのか分からない。

 それでも真剣に聞いてくれたことが嬉しくて、その後のことを全く考えていなかった。

「あ、ありがとう……、やだ、ちょっと待ってね」

 菫はそう言って胸に手を当てて呼吸を整えている。驚いているのか、それとも嫌がっているのか、どういう反応なのだろう。ほんの数秒の間に色々なことを思い描いて、先程よりも余程焦りを感じている。

 やがて菫が口を開く。物凄く言葉を選んでいるのが分かるので、こんなふうに考えてくれることに私は胸を打たれていた。

「ひすいがわたしのこと、そんなふうに想ってくれてたなんて、全然思ってなかったからびっくりした。けど、したけど、嬉しい」

「………うん」

「わたし、人から好きって言われたのはじめてで、すっごくびっくりしたよ」

「えっ、そうなの?」

「そう。だって、ひすいには失恋してるところばっかり見られてるし」

「あ、そうなんだ……」

 言いながらこれまでのことを振り返ってみる。そういう場面ばかり出くわしているのも、確率としては珍しい体験をしているなんて、どうでもいいことを考えながら、私は今の今まで菫が好意を持たれることが多い美少女で手の届かない存在かのように思っていた。そうでもなかったのかとやや失礼な感想を持つ。まあきっとこれまでの人たちは見る目がなかったのだろう。私が見つけることが出来て良かったと誇らしく思っていた。

「それで、ひすいの気持ちは嬉しいんだけど」

「え、ちょっと待って」

 思わず言葉を遮ってしまう。

「ごめん、なんかお断りしますの時の前置きみたいなこと言うから」

 菫は面食らったような、困ったような顔をしている。

「断るも何も、まだ言ってないよ」

「はい」

「そもそもひすいはわたしのことがただひたすらに大好きだってだけで、交際したいとか付き合いたいとか恋人同士になりたいとか、そういう願望があるわけじゃないんでしょ?」

 そういう風にズバズバ言われると反撃を食らっているかのようだった。言われても、考えてみてもよく分からなかった。私は一体どういう答えを期待していたのだろう。いや、なりたいのだろうか。なりたくないと言えば嘘になるけれど、今の時点でいきなり関係を詰めたいと思っているかというと、そうでもなかった。ただ、少しでもいいから私に目を向けて欲しいと思っていた。実際に見つめてくれているし、向き合って考えてくれている。そのことだけで十分ということなのだろうか。私は随分と謙虚な人間だったことに呆然としていた。

「それはそうなんだけど……、そうじゃなくて」

 私は誰かに恋をしている菫が好きということなのだろうか。

 自分の気持ちが分からなくて、困惑していた。

「わたしはひすいと友達でいたいの」

 だからこれもきっとある意味では幸せな回答なのだと思う。

「仲の良い友達でいたい、それじゃだめかな」

 私よりもずっと切実そうに訴えかける菫を見ていると、それもいいような気がしてくる。菫はそもそもあまり友達がいないということから、友情を優先したい気持ちがあるのだろうか。

「私は、………菫のこと友達なんて思ったことない」

 我ながら酷い発言をしている。ほんの少しの友情も存在していなかったといえばそうでもないのかもしれないけれど、そんなことを確かめようがない。私の気持ちがどこからどこまで線を引くことは出来ないし、区切りが存在しているのかどうかも分かりようがない。自分でも滅茶苦茶なことを考えていると思ったけれど、どうしようもなかった。菫の悲しそうな表情を見ているのはとてもつらい。いつも笑っていて欲しかったし、喜ばせたいと思っていたのに、こんなふうに傷つけたいわけではないのに。どんなに言葉を重ねても、気持ちが届かないのは苦しいものだった。


 二人して沈黙したまま帰り道を歩いていた。花火大会の騒がしさも立ち消えて、辺りはとても静かで、街灯の光もなんだか頼りない。

 よくよく考えたら菫とは変な出会い方をしたものだった。最後くらい本名で呼んであげた方がいいのだろうか、と考えながら、私は二人で会うのはこれがもう最後だと思っていることに気がつく。

 菫もそうだろうなと横を見やると、隣で歩いていたつもりがいつの間にか距離が空いていたようで、随分と後方にいた。私が体全体で振り返ると、菫は歩くのを止めて立ち尽くす。そのまましゃがみ込んでしまった。慣れない履物で結構歩き回ったから、足が痛いのだろうか。

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃない………」

 形式的に聞いたつもりが、変な返答をされる。

 仕方がないのでそろそろと近寄っても、膝を抱え込んでいるので表情が窺い知れない。

「先輩」

 呼びかけても反応がない。

「あと少しだから頑張って歩いて」

 返事がないので置いていこうかなと思っていたら、手を差し伸べられた。引っ張ってほしいということなのだろうか。それくらいならと思いその手を掴む。菫の肌から伝わる体温にまだほんの少しだけ揺れる心を感じていると、そのまま物凄い力で引っ張られた。バランスを崩しそうになりながら寸でのところで堪えて、文句の一つでも言ってやりたくなる。地面に膝が当たるのを感じながら、裾が汚れてしまったらどうしようとやけに現実的なことを考えていた。そのまましばらくして、菫に抱きしめられていることに気がつく。さすがに驚いて、身じろぎも出来ないくらい強い力に、なんだかだんだんと絆されていくのを感じていた。泣いているのだろうか。ごめんね、と呟くと彼女の肩が震えているのに愛おしくなる。ありがとうの方がよかったのだろうか。こんな時にふさわしい言葉なんか持ち合わせていないので、ただ無心でそのままじっとしていた。菫の気が済むまで待っていようと思っていたのか、こんなふうに無防備に曝け出している彼女を見ていると、心の余裕をありありと感じた。同時に情けなさも感じていたけれど。

「わたしの方が好きだもん」

「はい」

「絶対、わたしの方が好きなんだから」

「はいはい」

 先輩の戯言に付き合っていると、なんだか本当にそんな気もしてきた。

 この調子でいられたら、そう遠くない春の日には、暖かい日差しの下で二人一緒に居られるのかもしれない。ありもしない理想を思い浮かべながら、私はそんなことを夢見ていた。

 きらきらと光る星空を見上げながら、今なら何でも叶うような心地になって、菫の名前を呼ぶ。それで泣き止んだのか、大人しくなって手を引かれて歩く様子が影になってずっと続いていった。


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