劣化

かえさん小説堂

劣化

 抱え上げた木製の箱の中から、一つの小さな欠片が落ちた。


 多角形のプラスチックが、安っぽいインクの色で塗装されたものである。そこに、装飾であろう幾何学模様が彫られており、それが何かの部品であるということを証明するかのように、不規則な凹凸があった。


 ショッキングピンクが色褪せた、灰色と黄土色の混じった汚らしい形相であった。妙に軽く、大きすぎる彼女の手のひらに不釣り合いだった。




 春から大学生になる綾乃は、手に取って数秒眺めて、それがようやく、自分が幼いころに大切にしていたおもちゃの一部であることに気が付いた。綾乃が小学生の頃に流行していたテレビ番組のグッズであり、当時の彼女はその番組を見ることに夢中になっていたのだ。


 両親に駄々をこねては、おもちゃを買ってもらうことに躍起になっていたことを思い出す。時には外出先で泣きだしてしまうこともあった。商品の陳列した店内で泣きわめく小さな自分が目に浮かび、綾乃は苦笑する。



 綾乃は大学生になると同時に実家を離れることになっていた。数週間後の東京への引っ越しに向けて、色々と物を整理しなければならない。引っ越しが決まってから早々に着手した物品整理であるが、受験勉強ですっかり散らかってしまった自室の片付けは、予想よりもはるかに労力がかかる。


 他人に私物を触られたくない気質の綾乃は、たった一人で作業を続け、気が付けばもう春休みの半分が終わってしまっていた。




 クラスメートと計画していた卒業旅行の日はとっくの昔に過ぎ去った。旅行の前日、綾乃は東京にあるアパートをひたすら調べており、なかなか決まらない新天地に焦りを感じていた。


 大学進学への不安が拭いきれず、夜中まで物件資料を漁っていたが、どうやら途中で寝落ちしてしまったらしく、目が覚めて一番初めに見たのは、飛行機の搭乗時刻を示したスマートフォンの数字であった。


 クラスメートから送られていた怒涛のメッセージに溜息を吐き、謝罪の文を送信する。結局、共に旅行に行くはずだったクラスメートは、綾乃抜きで旅行を楽しんだらしい。楽し気な笑顔を浮かべる写真がSNSに投稿されていた。心なしか、いつも綾乃が見ていた笑顔よりも輝いて見えた。




 だが、綾乃自身はそこまで落ち込んではいなかった。クラスメートとは一年間同じクラスだっただけの仲であるし、卒業してからも会って遊ぼうという気になるような関係でもなかった。向こうも、一年間の馴染みという気を遣って誘ってきただけであろうから、綾乃が行かなくてむしろ幸運に思っていたかもしれない。


 それよりも綾乃は、旅行に行っているはずだった三日間を物件探しに充てることができ、ようやく向かう新天地が決まったことに安堵していることの方が強かった。



 そんなこともあって、もう部屋の片づけも終盤に差し掛かっていたとき、押し入れの奥の方で埃を被っていた木製の箱を見つけたのである。



 箱の側面に、淵の部分がガタガタになったシールが張り付けられている。動物園で見かけるようなメジャーな動物がデフォルメされた可愛らしいイラストである。


 ざらついた上蓋には、何かのキャラクターらしき女の子のシールが所せましとへばりついていた。ニコニコとした愛想の良い表情に、埃が容赦なく覆いかぶさっている。


 ところどころにあるシールの白い残骸が、生々しく子供時代の証拠として存在していた。気に入らないことがあるとすぐに修正したくなるのは、小さい頃から変わっていなかった。雑にはがして残ってしまった接着部分をこすって、何度も綺麗にしようとしたことが蘇る。爪に食い込んだシールがなかなか取れず、はがしたことを後悔したものだった。



 上蓋を取ると、金属が錆びたような、かび臭い匂いが辺りに立ち込めた。太陽光に照らされて、空中を飛び交う塵がよく見える。綾乃は眉を寄せて、部屋の窓を開けた。冬の寒さがまだ残った、肌を刺すような冷気が入った。



 小さな箱の中には、既視感のある物質が空間を押し込んで詰まっていた。彼女が小さい頃に使っていたおもちゃである。先ほど拾った多角形のプラスチックも、このどれかの一部なのであろう。


 一つ一つを眺めて、それらの具体的な形を思い出す。思い入れのあるものもあれば、何故残っていたのか分からないものもあった。反射的に自らの記憶が意識の表面に浮かび上がり、綾乃は一時的に動きを止める。古びた木箱で静止しているそれらは、当時の時間が懲り固まった物のようだった。



 綾乃はしばらく手を出すことができなかった。使い捨てゴム手袋が装着された両手は木箱の蓋を開けた状態で止まり、視線だけが箱の中に注いでいる。その木箱の中に手を伸ばすことが、少し億劫になった。


 長い間封じ込められた時間そのものが、たった指先で触れるだけで再び動き出しそうで、ほんの少し恐ろしかった。しばらくの間、木箱には薄い膜が張ったように見えていた。




 しかし、これらも片付けてしまわなくては終わらない。窓から遠慮なく入り込んできた冷気と共に、綾乃はとうとうその木箱に手をかけた。



 はじめに手に取ったのは、プラスチックの人形だった。腕と足が曲がるタイプの、好きにポージングさせることが出来るものである。もはや何のキャラクターなのか分からないが、派手な青色の衣装が着させられている。


 人形は意味不明なポーズで硬直していた。関節があらぬ方向へと曲がってしまっている。綾乃は手に取って眺めてみたものの、結局すぐにゴミ袋へと放り投げてしまった。


 次のおもちゃを手に取ろうと木箱を持ち上げると、箱の底で何かがゴロゴロと唸った。試しに綾乃が木箱を傾けると、ちょうど傾けた方向にゴロゴロと音が鳴り、コツン、と壁にぶつかったような音で止まる。おもちゃの隙間からちらと見えたのは、青色のビー玉だった。


 ただのガラス玉なのに、小さい頃は気に入ってよく集めていたものだった。何をするでもなく、ただ転がしたり、光に当てて眺めたりするだけの用途にすぎないのに、どうしてか、ビー玉を集めることをやめようと思わなかった。今思えば、不思議なものである。



 次に、綾乃は空気の抜けてぺちゃんこになったゴムボールを手に取った。これは損傷がひどかった。ゴムは劣化し、何故か少し溶けたかのようなべたつきがある。埃の塊のようなものが髪の毛と共に癒着しており、その不潔感から、綾乃は躊躇なくゴミ袋へと投げた。今では片手で持つことが出来る小ぶりなそれである。ゴムボールは跳ねることなく、ガサッというゴミ袋の音を立て、綾乃の視界から消えた。



 その他、小さすぎる指人形や、小さな鍵盤が付いたピンク色のキーボードに、明らかに数が足りないトランプ、一生回ることのないルービックキューブなど、もう使えないおもちゃの類が出てくる。



 最初の方は捨てるのに少し躊躇があったが、慣れてしまえばそれほど抵抗はなくなっていた。むしろ、思ったよりも数が多くて辟易としているくらいである。既視感のある物質を片付けていく度、スッキリと荷物が軽くなっていくような感覚がする。これから新しく旅立つのだと、不思議と間接的な実感がわいて出てくる。



 夢中になって断捨離を続けていくうちに、気が付けば木箱の中は底が見えるほどになっていた。単純な色をしたビー玉が三つと、複雑な形状をしたプラスチックの塊と、手のひらに収まるほどの小さな本だけが残っている。



 綾乃は一瞬、それらが一体何だったか思い出せなかった。だが、彼女は、その既視感がつい最近のものであることに気づく。綾乃は新聞紙やゴミ袋の山が散乱している周囲を見渡す。どこかに無意識に置いておいた、あのショッキングピンクの部品である。あれの本体が、この複雑なプラスチックだということを思い出した。



 足元に転がっていたその部品を見つけると、すぐに手に取り、曖昧な記憶をもとにプラスチックの本体へ取り付ける。少し硬くなっていたが、パチン、という音と共にすぐに合体した。


 なんとなく思い出してくる。持ち手らしきものへ手を添えてみると、意外にもすんなりと手になじんだ。ボタンらしきものもあるので、手慣れたように、ほとんど無意識に親指を押し込める。だが、電池がなくなっているようで、何の反応も見られなかった。


 綾乃は興覚めした。一瞬の好奇心と懐かしさから手に取って眺めてみたものの、どこまで行ってもこれはただのプラスチックだった。ところどころ塗装の禿げたそれを見ると、古臭いおもちゃをよくもこのようにとっておいたものだと思えてくる。


 さっさと気持ちを切り替え、綾乃はそのプラスチックを新聞紙に包んでゴミ箱へと押し込んだ。



 残ったのは、ビー玉と小さな本だけである。厚紙でできたそれは、本というよりも、紙の塊と言った方が正しかった。


 恐らく手作りだと見受けられるそれは、拙い鉛筆の字で、「きらめきひろいん」と書かれている。その下には何やら豪華そうなドレスを身に纏う女の子……らしき人物が、ニッコリと笑顔を見せていた。


 恐らく、自分が描いたものなのだろう。綾乃は半信半疑になりながらも、その本を手に取って、小さくて捲りづらいページを繰った。



 中のページに書かれていたものも、表紙と同様に読みづらいミミズのような字で、偏りのある文字列が並んでいた。「ひろいんのおきて」と見出しに書いてあり、その下は箇条書きになっている。


「いつもやさしいこでいること」

「いつもえがおでいること」

「あいさつをすること」

「るーるをまもること」

「おともだちとなかよくすること」

「しんせつなことをすること」


 ……などと、無謀とも言えるほどの聖人君子の条件が平気そうに書かれていた。これらすべての条件を守ることなど、ほとんど不可能に近しい。生きているだけで疲れそうだな、と綾乃は思った。



 つまらなそうにページを繰り、とうとう最後のページになった。そのページだけはペンの色が変わっており、鉛筆ではなく、赤色のサインペンになっている。





「ぜったいひろいんになる!」










 ……綾乃は少し思い出した。



 母親のサインペンをこっそりと持ち出し、床のフローリングにはみ出しながら一生懸命に書いて、母親に見つかって怒られたのだった。



 その時点でひろいんとやらにはなれなさそうな心意気だが、それでも当時の綾乃にとっては、それは手が届く夢であった。



 裏表紙は、ひろいんになったであろう綾乃らしき女の子が、キラキラとした星の中で踊っている絵が描かれていた。


 その手には先ほどのプラスチックの塊……ヒロインクラウンハープ……が持たされている。その道具で、女の子はヒロインに変身するのだ。綾乃はようやく、あのおもちゃの名前を思い出した。




 綾乃は先ほど包んだ新聞紙を振り返る。無造作に押し込められたそれは完全に色あせ、もの言わぬ新聞紙の塊になってしまっている。綾乃はもう一度あのハープの姿を見たいと思った。しかし、今更新聞紙から取り出すのも億劫に思えた。手を伸ばしかけたが、少しためらって、やはりやめた。




 その小さな本をそのままゴミ箱に放り込むのは、何故だか気が引けた。ひとまずは足元に置いておいて、木箱の中を再び覗き見る。ビー玉が、三つ。











 ……違う。これはヒロインが必殺技を出すときのコアだ。赤、黄色、青の三色を合わせることによって、強力な攻撃を放つのである。本当は専用のおもちゃが売っていたのだが、どうしても買ってもらうことが出来ず、仕方なしにビー玉で代用していたのだった。


 当時の自分には難しくてできなかったビー玉の持ち方も、今では簡単にできる。指の間にビー玉を挟み、顔の前でキラリと光らせて、先ほどのハープにかざすのだ……。



 綾乃は溜息を吐いた。


 どうして今まで忘れていたのか分からない。懐かしさと虚しさが胸の奥からじわじわと流れ込んでくる。先ほどまでは身軽に感じていたのに、今では空っぽで虚ろなように感じられてくる。小さい頃は、本当に大切にしていたもののはずなのに、先ほど見たときには、ただのプラスチックとしか見ることができなかった。


 大切なものはたくさんあったのに、今は何もない。何となく生きて、何となくで進学している。


 思えば、あの時は毎日が輝いていた。すべてが特別であった。町を歩いても、空を見ても、視界に夢を描くことが上手にできていたはずである。しかし今の視界は明瞭で、鮮明で、どこか寒々としていた。






 小さい頃を思い出すとき、どうして俯瞰した視点からしか思い出すことが出来ないのだろうか。


 どうして記憶のなかの自分は、三人称視点から見ているものだけなのだろうか。


 自分が見た景色を、思い出すことが、できない……。おもちゃ屋で駄々をこねた、あの時の視界が……。







 綾乃はうなだれたまま、しばらく動けなかった。


 自分は成長したのだ。大人になったのだ。子供ではなくなったのだ。そう言い聞かせてみるも、どこか奥底に潜んだ魔物のような自分が、冷ややかにかき消してしまう。



 成長? いや、ただの劣化でしょ。




 瞼の奥で、失望したような顔をした幼い少女が、綾乃をじっと見つめている。

 



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