冬尽きに知る香

さっこ

第1話 失った記憶、酒にて


鼻先に雪がひらりと一片落ちて、じわりと水になって消えた。

その冷たさだけは確かに記憶に残っている。

世界はぼんやりとしていて店々の派手なネオンが滲んでいた。


そこで記憶はブツリ、と途切れる。


少しのダルさとのどの渇きを感じながら意識がふっと浮上する。

ああ、昨日は雪が降っていたか、積もっていないといいな。最初に浮かんだのはそんな言葉だった。

そこからじわりと嫌な予感が広がっていく。


昨日は街を歩いていた。

雪が降っていた。

隣には、あいつがいて確か3件目に行こうなどと千鳥足になりながらと二人で歩いていた。


3件目、に行ったのだろうか。

そも、ここは、どこだ。


重い瞼を持ち上げれば枕元に几帳面にたたみみこまれた自分の服が置いてある。

そのまま自身が包まれている衣服へ注意をむければ、それは普段使い古している自分のスウェットとは似ても似つかないしっかりと柔軟剤の効いたコットン素材のパジャマだった。


やってしまった、久しく感じてはいなかったが既視感のある感覚。

いい歳をして記憶を飛ばすまで飲み明かすとは。


ふと、背中に温かみを感じてさぁと顔から血の気が引いていく。

まさか、いや、しかし。かろうじて残っている昨日の記憶の最後にはあの人好きのする屈託のない笑顔。


大したことではない。相手は自分の事を気の置けない友人としか思っていないのだから。

酔っぱらいの友人同士が一つの布団で寝たくらいなんの問題もないのだ。

こちらの気持ちが右往左往、上下乱高下するというだけで。


「ん」

という軽い息づかいのあとに後ろの背中が身じろぎする。

意を決してゆっくりと体を起こし、ぎぎと背後に目をやる。そこには不安だけではない、少しの期待があった。


スウスウと規則正しく寝息をたてる男が一人がいた。

整った寝息に似つかわしい、寝ていてもわかるほどに整った容貌。

目元に影を作るほど長い睫毛に、作り物のようにまっすぐ綺麗に伸びた鼻梁。


「だれだよ、お前」

思わず小さな声でつぶやく。

想像していた姿はそこにはなく、見知らぬ男が気持ちよさそうに寝息を立てていた。


いくら失った記憶を取り戻そうと必死になったところで酒で飛んだ記憶が戻るわけもなく途方にくれる。

目の前の人物であれば、何があったかを知っているかもしれない。がしかし知らない方が幸せな事もこの世にはあるのではないだろうかとも思う。

少なくとも、初めて会った人間の寝床に転がりこむなど人生の失態のなにものでもない。


一瞬、このまま逃げてしまおうか、そんな誘惑に揺れた。

一社会人としてそんな不義理をする自分を許せるはずもなく、気持ちよさそうに眠る相手には申し訳ないが声をけてみる。

「あ、あの、すみません」

少々控えめに声をかけつつ肩をゆすってみるが起きる気配は全くない。

「すみません!」

少々語気を強めてみるが、相手は気持ちよさそうに笑みを浮かべるだけで状況は何も変わらなかった。


少々途方に暮れたが、相手の目が覚めるまでに少し自分の状況を把握しておこうと考え直す。

立ち上がろうとベッドサイドへ腰かけ足に力をいれようとしたその時、ぐいと方に手を置かれそのまま柔ら柔らかなベッドマットへと強く引き倒された。視界がぐるりと揺れる。

衝撃に閉じていた目を勢いよく見開けば、予想通りに美しく整った顔が眼前に広がっていた。

その美しい容貌が視界の7割、残りの3割にはまだ新しく汚れ一つない白い天井が映り込む。

「どこ、行くの?」

寝起きからかややかさついてはいるが、聞き心地のよい柔らかな声にうっかり気が緩みかける。

まだ眠そうに瞼が半分落ちかけている名も知らぬ相手は、そのまま鼻先が触れそうなほどにぐいと顔を近づけてくる。

「黙って居なくなっちゃうなんてひどくない?」

そんなつもりはほとほとなかったのだが、突然の衝撃に否定の言葉を紡ぐことができなかった。

「昨日はあんなに激しく求めてくれたのに」

ニヤリ、と意地悪くほほ笑むその姿はあまりに蠱惑的でくらりと酔いが振り返す。

うそだ!と声を上げたかった。

いくら酒に飲まれたとはいえ、自分の理性がそこまで飲まれるわけがない!と。

しかし、哀しいかな記憶のない自分は、はく、はく、と口を上下に開くだけでうまく言葉がでてこない。

「ひ」

「ひ?」

ようやく口をでた一文字を目の前の相手は小首をかしげて繰り返す。

「人違いです!!!!!」

ごすん、と意図したわけではないが相手の額と自分の額にダメージを与えて勢いよく立ち上がり、まとまっていた自分の衣服を小脇に抱えて一目散に走り出す。

頭の片隅では妙に冷静にここまで分かりやすい状況に人違いもなにもないだろう、と思う自分。

幸い部屋をでればすぐに玄関があり、そこに自分の靴も鎮座していた。

足を引っかけるだけの形で外に転がり出る。


外に面した共用廊下はぼんやりと薄暗い。

空には夜明け一歩手前の光る橙が薄っすらと混じり始めた群青が広がっている。その景色を見つめたままに冷えた空気をすうと肺に入れ込んだ。

部屋の中から人の動く気配にはっとし、止まっていた足を動かし走り出す。

廊下の突き当りにエレベーターと階段があり、とっさに今自分が何階にいるのかも分からないまま階段を選び駆け降りた。

「なん、なんだっ、ほんと」

そも自分が浴びるほど飲み記憶を失くしたことを棚に上げ息をあげながら悪態が口を出てしまう。

地上階へたどり着き、横のエレベーターがまだ到着していないことを確認しエントランスを駆け抜け、そのままちらりと自分の居た場所を見やる。

全く見覚えのない、おそらく10階程度の新しめの洒落たレンガ調のマンション。

そのまましばらく知らぬ道を走り、路地を何度となく曲がりようやく一息つく。

ここまで走ったのは小学生のマラソン大会以来じゃないだろうか。

まったく整う気配のない息に、そろそろ自分もジムとか通った方がいいのだろうかなどと考えていると、ワンという甲高い鳴き声に逃避していた意識が現実へ引き戻される。

人懐っこそうな小型犬がぶんぶんと尾を振りこちらに近づこうとしていた。

笑顔満面といった小型犬とは反対に、そのリードを強くひく品のよい奥様、といった風体の女性が今にも通報せんともいう疑った目線で自分を怯え睨んでいる。

(しまった)

客観的に今の自分の姿を想像てみた。汗だくのパジャマ姿の男が早朝の道に立ったいるという不審者以外の何物でもない姿に肝が冷える。

なるべく、気持ちを逆立てないよう、にこりと愛想笑いをしてみたものの奥様はきゃっ小さな悲鳴をあげ犬を抱きかかえるとそのまま先程までの自分の様にものすごい勢いで走り去ってしまった。

このままではまずい。

非常にまずい。

腐っても社会の歯車の一つとして生きている身だ。

人目につかない路地に入り込み、パジャマの上から無理やりスーツのズボンと上着を着こむ。

コートを着込めばなんとかごまかせ、ていると思うことにした。

幸いなことにスマートフォンも財布もコートのポケットに入っていた。

ふう、と一息吐きスマートフォンの地図アプリで現在地を確認すれば、自宅から2駅程度のところにいると分かった。


反省も、この後の事も後で考えよう。

全ての事は後日の自分にぶん投げてまずは家へ帰ろうと駅に向かい一歩踏み出す。

ふと、濡れた地面が目に入る。

ああ、やっぱり積もらなかったと安心半分、なぜか気落ちする自分がいた。


また一歩踏み出した時、ふわり馨る。

あの部屋からずっと纏っていたのだろうが、馴染みすぎてここまで気が付かなかった。

柔らかなローズにラム、女性向けにも感じるが少しの煙草の葉の香りがピリッと効いていているところで男性向けのそれだと分かる。

ずいぶんと趣味がいい香水だ。

瞬時に気に入ったはずのその香りだったが、妙に馴染みすぎて何故か苛立ちを覚えた。

ち、舌打ちをし今度こそ家路を急ぐ。


幸か不幸か、スマートフォンを何度となく二つの電話番号が揺らしている事に気がつくことはないままに。

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冬尽きに知る香 さっこ @sacco_k

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