空のペットボトル

ばたっちゅ

空のペットボトル

 暗闇の中、街灯の明かりだけが文明を感じさせる。

 さっきまでは夜でも十分な明かりがあったが、この裏路地はこんなものだ。

 時間は深夜2時を回っているし、肌を突く様な冬の寒さが堪える。

 本当にいい加減にしろと思う。何度この会社を辞めようと思ったのか分からない。

 でも、今はダメだ。


「はあー……」


 会社には、先輩が残したプロジェクトが残っている。

 これだけは投げられない。最後までやり切らないと。

 だけど、これが終わったら必ず辞めてやる。


 そんな事を考えて家路についていると、名物自販機が目に入る。いや、そう呼んでいるのは俺だけなんだけど。

 自ら輝きながらも、街灯をスポットライトの様に浴びて更なる自己主張をしている自動販売機。この暗闇に現れたアイドル様だ。

 ここまで来たら、そろそろ家に到着――いつもならそれしか考えないだろう。

 しかし今日はいつもと違った。

 スポットライトに照らされているのは自動販売機だけではない。

 その手前には、空のペットボトルが転がっていた。

 ちなみにここにゴミ箱は無い。

 心の中で舌打ちをしながら、先輩の事を思い出す。

 あれはまだクソ暑い夏の頃だった。





「ねえ、偽傷行動って知ってる?」


 今日と同じ様に夜遅く。就業時間をとうに過ぎたのに黙々と残業をしている時だったか。突然先輩が声をかけて来た。

 偽傷行動……知ってはいるな。


「鳥なんかが、雛を守るためにやる奴ですよね。傷ついて飛べないふりをしながら肉食獣を引き付けて、巣から離れると飛んで逃げるって奴」


「そうそう。でも鳥だけじゃないのよ。野生の馬なんかもやるの」


「へえ?」


 想像もつかない。どんな感じなんだろう。

 というか最後はどうするんだ。飛んで逃げるわけにはいかないし、走って逃げきれるものなのか?

 つか巣とか無いよな。


「馬なんかはどうやって逃げるんです?」


「まず失敗して食べられるわね」


「ダメじゃないですか」


 偽傷行為というか、そのまま傷ついて食われたんじゃ普通の自己犠牲じゃないか。

 というか、馬でもそんなことするんだ。

 あ、でも確か、


「年老いたり病気になった馬なんかが、群れを守るためにやるんですかね? ヌーの群れのドキュメンタリーで見たような気がします」


「ブブー、残念。あれは本当に弱っている個体が襲われているだけ。それに野生馬の場合、やるのは群れのナンバー2やナンバー3。いつもボスの座を狙っている優秀で壮健な若い雄よ。だからごくまれに逃げられたりするのよね」


「へえ、それはちょっと意外ですね。というか、そんなのいるんだ。馬ってハーレムですよね」


「確かにハーレムなんだけど、雄一頭と他全部雌って訳じゃないのよ。雄に何かあったら大変じゃない」


「確かにそりゃそうです」


「だから馬の群れにはリーダーの雄。それに付き従う雌とその子供。他に常にボスの座を狙う若い雄。それと、独立して新しいハーレムを探すでもなく、ボスの座を狙う訳でもなく、ただ安全のためにくっついているだけの雄で構成されている訳よ」


「それはまた……」


 情けないと言いそうになったが、俺もそんな偉そうな事を言える人間ではない。

 独立するわけもなく、社会の歯車としてこうして黙々と残業をしているわけだ。

 だから代わりに別の言葉が口から出た。


「ボスの座を狙っているなら、そんな所で死んじゃだめじゃないですか」


「それもそうだけど、大事なのはそっちの話じゃないのよ」


「ん? 何です?」


「何で偽傷行為をした馬が、群れのナンバー2やナンバー3って分かると思う?」


 そりゃ確かにそうだ。体格? 速さ? 若さや気性か?

 どれも違うな。それは強さを構成する要素だとは思うけど、それだけあっても意味がない。


「性格ですかね?」


「微妙に正解。行動よ」


「行動?」


「そう。ボスの座を狙っている雄は、いつもアピールをしているの。自分こそがこの群れの次のボスにふさわしいってね。だから率先して外敵を警戒して、仔馬がはぐれないように見張って、弱い肉食獣相手なら力ずくで追い返すわ。他にも些細な事なんかも色々やるわね。そうやって常に行動しているから、それが群れのボスの座を狙う上位層だって分かるの。逆にくっついているだけの雄は何もしないわね。ただ群れに紛れて、ただ食べて、ただ寝て、何もせず、何も残さずに死んでいくわけ」


「世知辛いですね。でもやっぱり、そこまでしながらいざという時に死んじゃうんじゃだめじゃないですか」


「確かにそうかもしれないわね。でもね、本当に動かなければいけない時、動けるのはいつも自分から動いている者だけってこと。これは馬でも人間でも同じよ」


「そんなもんですかね」


「そんなものよ。よく“今は何もせずにうだつが上がらないけど、いざとなったら活躍するんだ”なんて話を聞くけど、実際はないない。結局はね、普段から動かなければいざという時に動き方が分からないのよ。さっきそれで死んじゃあだめって言ったけど、ボスになろうってやる気がある馬は、そうなる為に普段から群れの為に動いているの。だからいざその時が来た時、それがどれほど危険でも自然と動いちゃうのよ」


「それって良い話なんですかね?」


「そうよー。理想の自分になりたいなら、待つんじゃなくて自分からそこに走って行かなきゃ。そんな訳で、普段あまり動かない君にこれをプレゼント」


 机の上にどさっと置かれる大量の書類。


「殺す気ですか?」


「先輩からの餞別です。いざという時に動ける、立派な人間になる為のね」


「体よく仕事を押し付けただけじゃないですか。ん? 餞別?」


「……実はね、退職する事にしたの」


 冗談はやめて欲しい。

 こんなブラックに片足突っ込んだような会社で働いているのは、全部先輩がいたからだ。

 今はまだ何の実績もない平社員だけど、それでもいつか何かの機会があれば——、


 言葉は出なかった。


「これでも悩んだのよね。仕事に未練はあるの。このプロジェクトは、入社した時から何度もずっとチャレンジして来た物だから」


 確かに、よく上司に企画を持って行ってはボツをくらっていた。もう風物詩のようなものだったけど、そうか……遂に通したのか。


「だから休職でも良いかなって。だって無責任じゃない。でもそうもいかなくなってね。だから、今は少しでも長くこの子と一緒にいたいの」


 そう言って、慈愛に満ちた瞳でお腹に手を当てている先輩が眩しかった。

 そして同時に、全部遅かった事を悟った。

 動かなければいけない。そんないざという時はとうに過ぎ去っていた。

 俺はただ、目の前に”その日”が来ることを願いながら日々を過ごしていただけだったというわけか。


「だけど君になら任せられる気がするの。私が入社する前から温めていた夢、引き継いでくれるかな」





 嫌な事を思い出している内に、ペットボトルの手前まで来てしまった。


「ちっ」


 特に理由があったわけじゃない。でも自然にこのつまらないゴミを拾っていた。体がそう動いたから。

 さすがにゴミだけ持って帰るのは虚しすぎる。俺は自分の分のジュースも買った。

 なんとなく、わざわざゴミ箱を置かないオーナーの思惑にはまったような気もする。


 けど、少しは理想の自分とやらに近づけているのだろうか?

 今度はちゃんと行動できるだろうか?

 それで失敗する事だってある。だけど、それこそが自分なのだと自分を誇れるのだろうか?

 そんな事を考えながら、それなりに複雑な満足心と共に帰路に付いた。

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