スーツケースとショコラテケーキ

@ikoj

ショコラトルとネクロマンシー

  H県K市、S内海に浮かぶとある離島。ここは冬の間、気難しい別荘主やホテルの利用客で賑わっている。

  私が今日ご紹介するのはその島にあるショコラティエ。

ここを切り盛りするのは、フランス帰りの雪丸という青年。金持ちの客たちで賑わう冬を稼ぎ時として存分にフランス仕込の腕を振るい、それ以外の時期は簡単なショコラの販売のみで基本店先で本を読み、数少ない島人たちにカフェとして店を開いている。冬季以外に手の込んだお菓子を頼んでも、

「雪とショコラは冬が旬ですから」と訳のわからないことを言ってのらりと躱す。

  冬季以外にも本土と島を結ぶ船は働いているので、1シーズン一人ぐらいは旅客が来る。大概はこの近くにある江戸時代の街並みを遺したOS島や、ウサギと毒ガス工場の遺構が目玉のOK島と間違える外国人くらいで、皆一泊もせずに去っていく。

しかしこの春この島を訪れた客は違った。

 ゴールデンウィークを1週間前に控えたある日のこと、朝5時頃にショコラティエの扉を叩く音が響く。

「マスター私を泊めて下さい」扉を叩き声を上げているのは少女だった。彼女は小さな身体の白い肌を植物紋の目立つ華やかな装いで着飾り、自分の背丈ほどもありそうな大きなスーツケースを傍らに置いている。傍目に見て観光客であることが見て取れる。

「どしたんなお嬢さん」元漁師で朝早い生活が抜け切らないゲンさんが声を掛ける。

「こがいに早けりゃ、ショコラティエどころかホテルすらやってやすめえよ」と遠慮のかけらもなく方言十二割で諭す。彼の中では懇切丁寧に親身になったつもりでの対応だが、悲しいかな彼の八十年物の親切心も、生まれ故郷と時代の違いの前には為す術もなくへたれ込むばかりである。

「ゲンさん朝から大きな声で騒がないでくれ」

 扉の向こうから声がして、それに続いて「ガチャガチャ」と鍵を開ける音がして扉が開く。

「この島じゃおちおち朝寝に耽ることも許されないのかね」180前後と思わしきがっしりとした体格の眼鏡をかけた気の良さそうな青年が、黒い革手袋を着けた左手で目を擦りながらムニャムニャと腑抜けたように抗議の声を上げる。

「んにゃ先生、起きちょんかい。起きちょんなら早よ開けや。アッまた左手に手袋しちょる。暑ないんか」ゲンさんは喜び勇んでちょっとキツい物言いをしながらも、小走りに扉へ駆け寄り恥ずかしそうに少女を手招きする。

「さ、そちらのお嬢さんも。朝早くの便だっだったでしょう、今暖かい飲み物をお出しするので」ショコラティエの主である雪丸は、笑顔を崩さず少女を店内へ迎え入れる。

「『先生』……やはりマスターで間違いないのですね」少女は雪丸に聞こえるよう呟いて店内に滑り込む。

 それを聞いた雪丸の目が何色に光ったか、我々に知る由はない。


「先生わしコーヒー」

「いいよゲンさん、もう抽出している。そちらのお嬢さんはどうします?私としてはホットチョコレートをオススメしますよ」

 雪丸はフラスコに溜まったコーヒーをカップに手際良く注ぎながら少女に伺いを立てる。

「……では、それで」

 少女は不服そうながらも店主の言葉に従う。

「んにゃ先生そらちぃっと横暴じゃろ」

 鋭い香りの湯気が立つコーヒーを飲んで一息ついたゲンさんが、冷蔵庫から牛乳を取り出し鍋に注いでとろ火にかけ、そこにショコラを数粒投げ入れている先生に抗議の声を投げ掛ける。

「ゲンさん。彼女の顔を見てもらえばわかるが、疲れが非常に色濃く出ているよ。今の彼女に刺激の強い飲食物は厳禁だ。本人もわかってて俺の言葉に従ったはずだよ」

牛乳とショコラを暖める傍ら、バスケットから羊の角のように大きなクロワッサンを2、3個取り出し皿に載せ少女に差し出す。

「冷めたままで悪いが、ゆっくり噛んでお食べ」

 少女はクロワッサンにかぶりつき、雪丸の言う通りにゆっくりと咀嚼し噛み締める。サクリという歯触りで砕けて、バターの溶けたコクが広がる。

「……今何時ですか?」

 ミルクとショコラの甘く柔らかい匂いが立ち登る店内で、首をかしげて壁にかけてある時計を見つめながら少女は口にした。

「今ぁ午前の5時よ。ぶち早い時間じゃあ、まだお天道様も登っちょらん」

 牛乳と溶けたショコラが沸騰しないよう、丁寧に集中してかき混ぜている雪丸に代わって、ゲンさんが明るい声で答える。訛った方言も今度は通じたようで、少女ははにかんで「ありがとう」と答えた。

 そんなやり取りをしている所に雪丸が出来上がったホットチョコレートを運んで来る。

「お待たせ、そのまま飲んでもいいし、さっきのクロワッサンをこれに浸して食べるのもオススメだよ」

 少女は自分が胃の腑に収めるべき物が目の前に出揃ったのを確認して、店主である雪丸の言に従いながら矢継ぎ早に口にする。

「ごちそう様でした」

 一心不乱に食事を終えた少女が礼を述べる。

「ええ食べっぷりじゃったのう、お嬢さん」

「ああ食べ終わった?」

 二人の会話を聞いて、上で作業をしていた雪丸が降りてくる。

「美味しかったです、ありがとうございました」

「はい、お粗末さん。君が食べている間、来客用の泊まる部屋掃除したから。階段上がって左手の部屋ね。真っ直ぐいったら浴室、自由に使ってくれて構わないよ」

「んにゃ先生……」

「彼女は私の客だよ、ホテルを取らずともウチで休んで貰って構わない。……よろしければスーツケースを持って上がろうか?」

「ええ、それではご厚意に甘えさせて貰います」

 そう言って少女は大事そうにここまで持ってきたスーツケースを雪丸に手渡し、彼が上がり切るまでの間、晩春の日の出でやや明るくなった厚く滑らかにうねる紺色の海に見惚れていた。

「キレイな海ですね」

「ほじゃろ?世界各地から金持ちがこの海を見に来るのよ。お嬢さんもそうじゃろ?ここに来る観光客は皆、そがい大きなスーツケース持って来ちょる」


 少女が目覚めたのは、この島に来た日の夕方だった。熟れ蕩け落ちるような真っ赤な夕日の凝視で目を覚ましたのだった。彼女は何か焦燥感に駆られるようにして階段を駆け下りた。

「ああ、お早う。と言ってももう夕方の6時だがね」

 眠そうな顔で本に目を通していた雪丸が、朝とは違ったどこかドスの効いた声を掛ける。

 落ち行く太陽の熱い陽射しが流れ込む店内には、今日の夕飯のものと思われる、牛肉と玉ねぎの煮え脂の溶けた甘く重い匂いが広がる。それに反応して少女のお腹が鳴る。

「流石に腹が減っているようだね。でもそれを食べる前に此方をお飲みなさい」

 雪丸は海を一望出来る席に少女を誘導し、飲み物の入ったカップを差し出す。彼女はそれに顔を寄せ、匂いを嗅いでみる。ココアと言うにはいやに苦く、コーヒーと言うには少しツンと熱い匂いがする。少し考えて彼女は恐る恐る口にする。それは刺し抉られるように苦くて、熱し灼かれるように辛くて、骨の髄から汗をかいて目の覚めるような味だった。

「ふふ、ちょっと筆舌に尽くしがたい味だが、臓腑からスッキリするようだろう?ショコラトルと言うんだ。古くから気付けに飲まれているんだ」

 混乱したような少女の前に、笑いながら雪丸が夕食を並べる。焼きたてのロールパン、蒸して茹だったじゃがいも、酸味の効いたコールスロー、そして1ポンドはありそうな一枚肉のワイン煮込み。

「起きぬけには少しキツいかも知れないが、君ぐらいの年頃には丁度いいだろう」

 潮騒の響く店内で、琥珀色の沈む灯に浸りながら二人は食事を始める。雪丸はロールパンを手に取り、一口楽しんでからコールスローを皿に取り、牛肉のワイン煮込みを一切れ切り出し皿に取る。

 対して少女はじゃがいもを手に取って割り、湯気の立つ割れ目に、煮詰まりソースとかしたワインスープを滴らせる牛肉と煮込まれた玉ねぎ、酸味の香るような艷やかなコールスローを載せあつあつの内に息をふーふー吹きかけてからかぶりつく。

「お気に召して頂けたようで何よりだよ」

 食事に夢中な少女を眺めながら赤ワインを舌で楽しむ。

「……すいません、故郷の味付けに近いものでしたから、つい……」

「いや、なにも咎めようという訳じゃ無いんだ……今日訪ねて来た用事を聞いて置きたくて」

 その声に少女は少し身体を強張らせて、急いで飲み込もうとする。

「わかったわかった!食べ終えてからにしよう」

 日が完全に沈み切るまで、店内には潮騒と食器の音だけが響いていた。


「久しぶりにゆっくりと落ち着いて、こんなに美味しい食事をとることが出来ました」

 月の光が黒い鏡のような水面を滑るのを眺めながら少女が口にする。「それもこんな、故郷とは遠く離れた海辺で」

「さて、そろそろここを訪れた理由を聞きたい」

「あなたを訪ねたのは外でもありません。ネクロマンシーを用いて、とある人の遺した文章を完成させて欲しいんです」

「文章ねえ……結果が予測出来ないので前払いで構いませんか?」

「ええ勿論」

 彼女の言葉とともに、スーツケースの中身が開け放たれる。中にはざっと50万ドル程の札束の塊と白い封筒、そして机の上には少し大きすぎるトーテムポールだった。

 雪丸はまず札束ではなくトーテムポールを調べ始めた。

 一番上の鳥を象った部分が右に回り、回し続けると男性のものと思われる右手の指先が露見した。爪は綺麗に切り磨かれ、皮膚にもタコやイボなどが無いのを確認する。脂肪が厚くゴツゴツとしていながらも、いたって健康でマメな人だったことが伺える。

「この人が生前使っていたペンなどは?」

「白い封筒の中に入ってます」

 白い封筒の封を開けると、幾重にも塗装を塗り直されて新品同様の眩しい艶を放つ万年筆、遺言状、そして訴状が確認出来る。

「ふむふむ、『道具』も揃っていますし状態も大変よろしい。これなら明日の朝までには終わりますよ」

「引き受けて下さるのですか!?」

「勿論。では今から自室にて降霊を始めますので、どうか立ち入らぬよう願います」


 雪丸は自室に入ると先程の右手を机に置き、プリズムを砕いて散らしたような模様の書かれた布を敷く。その上に膠を張ったガラスのバットを置いて真珠の破片を散らし、赤黒い血染めの紙を浸して、温もりを持つかのような白色に染めていく。それを見届けると左手の手袋を外し、改めて左手に訴状と遺言状を持たせて手首を捻り、ペットボトルの蓋のようにもぎ取った。そしてもぎ取られた左手は儀式を始める言葉を空に紡ぐ。

「ティトラカワン」「ネコクヤオトル」「オメアカトル」

 それに呼応するようにプリズムの破片たちが歌いだす。

「モヨコヤニ」「イパルネモアニ」「トロケナワケ」「ヨワリエエカトル」「イルウィカワトラルティクパケ」

 最後に雪丸が

「煙る鏡よ」

と唱えると儀式の準備は終わり、真珠の溶けた膠は黒く輝き何も映さず、煙によって この部屋では生者は見ることを禁じられる。

 雪丸のネクロマンシーは本来の意味でのそれとは違い、ある密教が目指した、生死の境の無い境地という法悦に近かった。生死の境いが曖昧になる空間を創り、それを部屋の壁と屋根を依代に固定する。そうすることにより彼岸と此岸が溶け合い、呼び寄せたい死者の一部と、彼の生前の愛用品により呼び寄せられ更に宿すことが出来るというものである。しかし儀式の間、注意する点が2つあり、1つは生者死者を問わず人の名を口にしてはいけないということ。(生にも死にも関係を持たない者の名は呼んでもよい)2つ目に成人男性に比べて非常に多感である、女性や子供は此岸の気に囚われ易いということ。囚われてしまえば魂を此岸に持ってからたり、自死を選びかねないということだ。

「煙る鏡」の奴隷となった生者を表す左手は、招かれ降霊された死者の手として動く右手に指向性をもたすため、遺言状と訴状の中から共通して登場する言葉を導き出す。

「2010年3月15日」「ドミニク・ジラール」「エミリー・ジラール」「ジャック・ボワイエ」「私生児」「教師と教え子」「ドミニク・ジラールの姉」「相続権」


「ふー、こっちはこっちでやれる事をしましょうか」

 ものの十分未満で降りてきた雪丸に、少女はびっくりする。

「もう終わったんですか?」

「いえいえ、お伝えしたとおり朝までかかりますよ。少なくとも僕が直接関わることは無くなっただけで」

 雪丸は冷蔵庫から卵、バター、牛乳、小麦粉、生クリーム、カカオバターを取り出す。

「ショコラテケーキを作ろうと思いまして」

「は、はあ……」

「いえ、自室で儀式を執り行っているものですから、寝ようにも寝られなくって。こうする他ないんですよ」

 少女は少し気まずそうに潮騒に聞き入ることにした。

 その間にも雪丸は黙々とケーキ作りを進める。

「親戚中を追われながら、ようやくここまで辿りついたんです」

 痺れを切らしたのか、それとも潮騒に湧いた旅情が郷愁の念を強めたのか、問わず語りに少女は語り出す。

「貴女の置かれている状況は、先程頂いた書類から推察させて頂きましたので、無理に喋ることはありませんよ」

 雪丸は手を止め、彼女に寄り添い労った。

 彼女エミリー・ジラールは14年前にジャック・ボワイエと言う学者と、ドミニク・ジラールと言うジャックの教え子の間に産まれた私生児だった。

彼女が私生児として産まれた理由は2つ。1つはジャックが自身の進退のために、親の持ってきた政略結婚を受け入れたため。もう1つにドミニクも愛する男の進退のために愛する男と結ばれないことを選らんだため。上記2つにより、父と娘は顔を合わせることなく破局となった。

 二人の間では、悲しくも美しい愛の美談として完結していたが、この美談を面白がらない女が2人いた。ジャックの母とドミニクの姉である。可愛い一人息子の実らぬ愛の結晶を彼の汚点としてもみ消したいジャックの母に、妹の結婚後金をせびるつもりでいたドミニクの姉は、口止めに月々1万ドル寄越すことを条件にこのことは口外しないという約束を築いた。しかし14年の月日を経てジャックとドミニクの2人が鬼籍につくと、ドミニクの姉は活気づき14年前のやり直しを図った。今回の依頼がまさにそれだろう。大方ジャックの遺言状が書きかけだったことを良いことに、自分に都合の良い文章を書いて貰おうという魂胆なのだろう。雪丸の下に持ち込まれたお金は、ドミニクの姉がジャックの母から奪った金で肥やした私腹だ。

 ただドミニクの姉にも誤算があった。妹の死後引き取った姪が、彼女のことを蛇蝎の如く嫌っていたこと。そして姪はネクロマンシーという後ろ暗い禁術を用いる者たちの存在を知っていたことだ。

「ところで一つだけお聞きしたい。ここを訪ねさせたのは誰の入れ知恵ですか?」

「とある青年実業家から『日本に金持ちたちのゴタゴタに首を突っ込むのを生業にしている、もの好きなネクロマンサーがいる』と伺ったもので……」

「……ひょっとしてそいつ、イルマ・ガーシュインとか言うチビじゃありませんか?」

「え、ええ……その通りですが」

 雪丸は笑顔を保ちながらも、しまった受けるんじゃなかった、と心の中で顔を顰めた。

「貴方を見たとき私確信しました。私を守ってくれるのはマスターだけって」

ホッとしたのか年頃の女の子のように、弱々しくも明るく笑う。

「マスター?」

「私に困ったことがあると、いつも貴方のような素敵な殿方が助けて下さるの」

 少女の無垢な笑顔に雪丸も笑顔で応える。

 雪丸は速やかにガナッシュクリームを仕上げ、生チョコを型に入れ、ショコラを混ぜた生地を延べ棒状の型の三分の一程度まで流し入れた。

「確認しておきましょう。貴女が書いて欲しいのは遺言状の続き。これに相違ありませんね?……いや勿論このようなことを確認しても、私にはどうすることも出来ませんが」

「ええ」

 厳かな顔つきで少女が答える。

「それでは私は仕上げがあるので失礼します」

 そう言い残して雪丸はスポンジ生地を予熱していたオーブンで焼き始め、自室に戻った。


 部屋に戻った雪丸は忙しなく動く右手の前に小さな麻袋を携えて立つ。麻袋の中身は冥界や死体に関わりが深いミント、クローブ、アニスなど、そして気付け薬となるシナモンやカルダモンなどを彼独自にブレンドしたもので、死者に直に干渉し刺激するための物である。

(こうなれば、いよいよイルマの思う壺だ)

 雪丸は恨めしげに心の中で悪態をつく。

イルマ・ガーシュイン。弱冠18歳にして世界中をまたにかける青年実業家。その裏の顔はオカルトまがいの冒涜的な秘術、奇術に精通した者で、さる高名な錬金術師の落し胤だの、森の魔女たちの隠し財産だのと言われている。

雪丸はスパイスを恐る恐る死者の右手にかける。生死の曖昧なった空間で、生者が死者に干渉するのだ。幾度と儀式を行った彼でも予測のつかない事態に及ぶこともある。

 今まで淡々と綴っていた右手は、怒り狂ったように踊り、プリズムの破片を駆け回ったかと思うと、真珠と膠の黒い鏡の中の用紙に書き殴るべく荒々しく動き始める。雪丸は部屋の中のベッドに腰掛け、死者が止まるまで神妙に待ち続けた。


 ショコラの溶けこんだスポンジ生地が焼き上がり、甘くこんがりとした匂いが店内に広がる。死者が書き終えた文書を2枚手にして降りてきた雪丸は、スポンジ生地の粗熱を取り終えると冷蔵庫に素早くしまった。

「さてさて、どうやら書き終えられたようなので、確認の程をお願いします」

 雪丸はそう言って紙を一枚差し出す。紙には血のような赤黒い文字で酷く荒々しく判別し難い文字で、目を凝らせば辛うじてエミリーやドミニク、ドミニクの姉やジャックの母の名が読み取れる。

「あの、これは?」

「見ての通り、と言っても少し読み辛いですが、訴状ですよ」

「……え?」

「どうも大人しく遺言を認める気分じゃ無かったようで、貴女やドミニクさんと一緒に暮らせなかったこと、母の勧めた政略結婚に逆らえなかった己の不甲斐なさ、そして母と母を強請る貴女の叔母への怒り、色んな物に対する怒りや恨みが書き連ねてあります。そしてもう一枚」

 雪丸はもう一枚紙を差し出す。紙には力強いポニーの跳ねるような筆跡に薔薇色のインクが溜まって輝いている。

「……これは?」

「私は意図を理解した上で読むのを避けましたが、多分それは恋文でしょう。貴女と  ドミニクさんに向けた物だと思われます」

 エミリーは文書に目を幾十度も通し、涙で目が滲んでも読むのをやめなかった。

「さてご依頼に添えたとは思えませんが、仕事は仕事。こちらが出来ることは全部致しましたので」

「ええ……大丈夫です。ありがとうございます……」

「あともう少ししたらショコラテケーキの仕上げをします。是非とも食べて行って下さい」

「いえ、マスターからは沢山の物を頂きました。この一枚で十二分です。それではもうじき船が出ますので」

 そう言ってエミリーは恋文だけを持って、籠の扉を開けられたように小鳥のように飛び出した。

 それを見届けた雪丸は不乱にショコラテケーキの仕上げに取り掛かる。スポンジ生地を3枚に薄く切り分け、ラム酒を水とハチミツで割って作ったシロップを薄く塗る。生地、ガナッシュ、生地、ガナッシュ、生地の順に積み重ねて行き、最後に上に半結晶のショコラソースを塗り上からココアをまぶし、ホイップクリームを等間隔で搾りその横に生チョコを2つずつ添えて出来上がった。それと同時に店の扉が開く。

「先生、このお嬢さんが服着て海に飛びこんどったけぇ、そりゃいかんってわしもあと追ってのお。なんとか助かったけん、お姉さんぶちついとるのぉ」

 ずぶ濡れになったゲンさんが、同じくびしょ濡れになってぐったりしたエミリーを担いで入ってきた。

「いつもすまないねゲンさん」

「先生んとこ止まる人は、いつも入水ばっかしちょる。なんぞ悪いこと吹き込んで弄んどるんとちゃうか?」

 2人の為に急いでホットミルクを作る雪丸に、ゲンさんが憎まれ口を叩く。

「人聞きの悪いな……人を戦前の文豪みたいに言わないでくれよ。……女性ってのは多感なんだよ男性よりよっぽど」

 倉庫から電気ストーブを引っ張りだし、浴室に湯を張りに行き、ふかふかのバスタオルを2枚持って戻ってきた。そこでエミリーは目を覚ました。

「……あれ?ここは……」

 明るい灯と、スパイスと牛乳の熱い匂いが広がる店内を見渡す。

「残念ながら天国ではありませんよ。かと言って地獄でもありませんが」

スパイスの効いたホットミルクの入ったカップを差し出し、厚い手でタオルを持ち彼女の頭を拭いていた雪丸が答える。

「それを飲んだらお風呂に入ってきて下さい。身体を暖めるのが大事です」

エミリーは店主の言葉通りに湯船に浸かり、じっくりと身体を暖めた。潮騒の響く黒いタイル張りの浴室はゆらゆら揺れるようで、彼女は南国の明るい海の人魚のように微睡んだ。

 エミリーが風呂から上がると、切り分けられたケーキが差し出される。

「お嬢さん、ぶちついとるのう!このケーキは限られた時期、限られた金持ちしか食えのんじゃけえ」

 ゲンさんは嬉しそうに頬張っている。

「なんでこのお仕事をされているのですか?」

 雪丸はエミリーからの思わぬ問いにきょとんとして、少しフリーズしてから答える。

「私が言わずとも、そのケーキを食べて頂ければ自ずとわかりますよ」

 エミリーはケーキを口に運ぶ。しっとりとしていて香り高く甘すぎない生地、クリームとカカオの香りが舌に纏わり溶けて鼻に抜けるような厚いガナッシュ、ねっとりと舌の裏側ごと味蕾を覆い離さない重たいショコラ。

「ふふ……すごく美味しいです」

「生きていて良かったでしょう?死んでいたらこのケーキは食べられませんから」

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