この雨が聞こえるうちは

土原景文

この雨が聞こえるうちは

 読んでいた小説の世界に、雨が降った。

 日々の生活に面白みを見出せない男主人公が、会社のビルの屋上で、空を見上げたところだ。

 慈悲もなく身体を濡らす雨粒と、徐々に勢いを増す雨音を聞きながら、その主人公は、あんまりいいことないな、と呟いた。

 周りが出世していく中、自分は仕事がうまくいかずにいつも上司に怒られ、転職したいと思っているのにいざとなると腰が動かず、そのだらしなさのせいで彼女にも愛想をつかされたのだ。

 高いところに行くと気がまぎれる、という理由だけで、屋上へ上がったことにそれ以上の意味はなかったが、主人公は雨雲が広がる曇天の空を視界におさめながら、垂れ落ちる雫と同じように、情けなく涙を流す、といったシーンだった。

 物語の中でしばしば登場する「雨」という天候は、なにかその世界の雰囲気を特別なものにするのかもしれない。と、僕は長年本を読んできた経験からそう考えていた。

 雨は、その物語の中でかなり重要な場面、それもどちらかと言うと、少し不穏な雰囲気が漂う場面や、暗くて憂鬱な気分にさせるような場面で降ることが多い。

 その理由には、おそらく「雨」そのものに、暗い、陰鬱な、といったイメージを多くの人が持っているから、というものが挙がるだろう。

 なにせ、外に出るのには傘が必要になるし、洗濯物も干すことができない。だからこそ、そんな雨が続く梅雨という時期は、しばしば人の心を憂鬱にさせる。

 僕も、もともとは雨が好きではなかった。そう。もともとは、の話だ。

 ――傘って、素敵だと思わない?

 かつて、彼女と歩いていた、雨降りの夜道。

 なるべく二人ともが濡れないように傘を持っていた僕の横で、ふと彼女がそう言った。

 僕の仕事帰りに雨が降ると、きまって彼女が駅まで傘を持って迎えに来てくれた。

 二人分の傘をちゃんと持ってきてくれる彼女だったが、結局いつも二人で一つの傘に入ることになった。

「こうして一つの傘に二人で入ると、なんかこの雨の音も、二人だけで共有しているっていうか」

 自分の思考に上手くはまる言葉を探すように、彼女はうーん、と唸っていた。

「なんか、世界が二人だけになるみたいな感じ。言いたいこと、分かる?」

 その時は、よく分からない、と僕は答えてしまった。なんでよー、と言う彼女の横顔を見ながら、僕は少し申し訳なく思った。

 本当は、少し分かる気がした。それでもその表現が照れくさく感じて、つい僕はとぼけてしまったのだ。

 いい表現だと思ったんだけどなー、と名残惜しそうにつぶやいた彼女に、ごめんね、と僕は謝った。

 濡れたアスファルトの道を走る一台の車が、涼しげな音を立てて僕たちの横を過ぎ去っていった。

 降りしきる雨は、空からの果てしない距離を駆け抜け、ぼんやりと立つ電灯に照らされるその一瞬だけ、夜の薄暗い空間に白い光の線を描く。

 このままだと、明日も止みそうにないな、と僕は思った。

 するとその時、ふと彼女が呟いた言葉。

 その言葉が、いくつもの年月が流れた今でも、僕の記憶に鮮明に残っている。

「私、昔からずっと思ってたんだけどね」

 傘が雨粒を弾く音に包まれた中で、彼女が言った。

「雨だけ、音があるんだよ」

 初めは、彼女の言っている意味が今度は本当に分からなくて、「どういうこと?」と僕は訊き返した。

「晴れと曇りと、雨と雪。この四つの天気の中で、雨だけ音が鳴るの」

 雨だけ音を聞いて、今日は雨だな、って分かるでしょ。と話す彼女に僕は、ほんとだ、と答えた。今まで考えたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。

「だから、雨の音って、なんか特別なものに感じるの。この雨が降っている間も、こうして同じ傘の中にいられるんだって思ったら、この音がどんどん好きになるの」

 僕は、そう語る彼女の横顔を見つめていた。なんて詩的な表現で、素敵な言葉なんだろうと、率直に思った。

 そんな彼女の体温を寄せ合った肩に感じながら、僕はその温度から彼女という存在の幸せを全身に巡らせていた。

 そして、その温かい二人の世界を、降りつづける雨の音が優しく、穏やかに包んでくれているような気がした。

 それ以降、僕は雨が――この雨の降る音が、少しだけ好きになった。

 やがて、本を読み終えた僕は、ふと窓の外に目を遣った。

 朝から降っている小ぶりの雨は、まだ止む気配はない。

 僕は、空になったコーヒーカップをキッチンの方へ持っていった。

 結局その小説の展開は、雨の降っていた屋上に偶然女性が訪れて、主人公に声をかける。実は女性の方も仕事に悩みをかかえていて、二人でその悩みを共有し、お互いに支え合い、次第に仲を深めていく。

 その後社内でのいろんないざこざにも巻き込まれるが、最終的には二人でそれを乗り越えて、主人公の告白をきっかけに関係が進展していく、という、言ってしまえばオーソドックスなタイプのお仕事系恋愛小説だった。

 しかし、その穏やかな文章と淡い心情の表現力。そして何よりも、暗い雰囲気を醸し出していた雨のシーンを起点にして、物語や主人公の心理が少しずついい方向に進んでいく、というのに好感を持った。

 この話は、雨というものを単に憂鬱なものだけとして扱わなかったということだ。

 僕は別のコーヒーカップを取り出し、自分のカップとその新しいカップの両方にコーヒーを注ぐ。そして、その二つのカップをリビングのテーブルに置いた。

 リビングの椅子に座った正面に置いてある棚。その上には、彼女の写真が飾ってある。

 相変わらず、いい笑顔をしているな、と思った。ついこちらまで笑顔にさせられるような、不思議な力を持った微笑み。

 写真の中で彼女が持っている黄色の傘は、僕が何気なくプレゼントしたもので、傘が好きだと言っていた彼女はそれをとても喜んでくれた。雨降りの休日にその傘を持って散歩をしたいと言い、そのときに撮った写真がこれだった。

 雨が降っている日は、僕は少しだけ窓を開けている。降り注ぐ雨の音を、静かに聞くことができるからだ。

 雨降りの休日には、そんな優しい雨の調べをバックミュージックにして、ゆっくりと本を読んだり、のんびり部屋で過ごしたりするのが好きだった。

 雨だけが、日々違った音を聞かせてくれる。ざあざあと聞こえるときもあれば、ぽつぽつと聞こえるときもある。静かにしとしとと降る音も好きだ。傘に弾かれる雨粒は、ぱらぱらという弾けた音に変わる。

 これもすべて、彼女のおかげで知ることができた、雨の魅力だ。

 ――雨だけ、音があるんだよ。

 僕は雨音を聞くと、その彼女の美しい言葉と横顔を、いつでも鮮明に蘇らせることができる。

 静かなアスファルトの夜道を叩く雨粒と、僕の持った傘に弾ける雨粒の音に包まれながら、まるで二人だけになったかのような世界を思い返しながら、僕は、もうそろそろかな、と時計を見上げた。

 しばらくすると、リビングの扉が開いて、彼女が部屋に入ってきた。

「おはよう。今日、雨なんだね」

「うん。夕方くらいまで降るんだってさ」

 おはよう、と返して、僕は次に読む本を本棚から取った。

 天気予報によると、今日からはしばらく、日中は雨が降ることが多くなるようだ。

 世間ではそれを憂鬱に感じる人も少なくないだろう。その気持ちも僕には分かる。外に出るのには傘が必須になるし、洗濯物も干すことができない。気圧のせいか、頭も少し痛くなる。

 でも、まだ止まなくていいよ。

 僕はそう心の中でつぶやいて、眠そうに目をこする彼女に微笑んだ。

 この雨が聞こえているうちは――――

 この世界は、僕と君だけのものになるから。

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