後編
顎が外れるほどポカーンと口を開けながら、それでも事実を認めようとしない阿野妻。
「は、はぁ?
司法がない? んな、馬鹿なこと……!」
「馬鹿なことって、こっちが言いたいよ。
何故って、お前が誰にも咎められることなく『ざまぁ』を完遂出来た最大の理由が、ソレなんだからなぁ?」
俺はそのままヤツを空中に高々とさしあげ。
そして次の瞬間、顔面から勢いよく床へと叩きつけた。
黒ブチ眼鏡が弾け飛び、部屋の隅へと転がっていく。
うつ伏せになった顔の下から、じわりと血がにじみ出し。
同時に股間のあたりからは暖かな液体が漏れ出して、血と一緒に床を濡らした。
「ぐぶ……あ……」
「不思議だとは思わなかったか? お前がいくら相手に暴力をふるっても、警察が来なかったのを。
楽しかったか? 警察も呼ばれず、好き放題に弱者をいたぶるのは。
さらに言えば――
お前が暴行をはたらいていた瞬間、その場には不自然なまでに通行人も隣人も存在せず。
警察を呼ぼうとする善良な市民さえ、お前の周りには存在しなかった。
それはお前の『ざまぁ』に都合がいいように、世界が書き換えられた結果だよ。
そしてその都合のいい世界は、今なお続いてるってぇわけだ。良かったなぁ?」
まずは――と。
俺はヤツの右足首めがけ、容赦なく斧を振りおろした。
「ぎえええぇえぇぇぇええ!!
イタイ、イタイイタイイタイひぎぎぃいえぃえええいえぇええ」
インパクトの瞬間、噴きだす血飛沫と共に部屋に轟く、酷い奇声。
俺自身も返り血を浴びながら、ブチブチと何か弾力のあるものが切断されていく手ごたえを、確かに感じた。
「ちなみに――俺の妹だけどさ。
ずっとストーカー被害に悩んでて、俺や彼氏に相談してた。
あぁ彼氏ってのは勿論てめぇじゃなく、『本来の』彼氏、つまり俺の義理の弟な。
そしてストーカーってのは……当然、貴様のことだよ」
それでも阿野妻はなお現実を認めず、俺にくってかかる。
「違う、違う……!
あの女はあの時確かに、オレに愛を誓ったんだ。
お付き合いを考えましょうって……!」
「違うなぁ。妹ははっきり、こう言ったはずだぜ?
『今後のお付き合いは考えさせてください、距離を置きましょう』ってな!」
「だからソレって、付き合いましょうってことじゃ……」
「違うわぁ!
『お前とは絶対無理』をうんと優しくした言葉だ。少しは社交辞令ってモンを知りやがれ!!」
次は阿野妻の左足首にも、容赦なく斧を叩きつける。
今度は少し当たり所が悪かったか、アキレス腱じゃなくくるぶしの骨を粉砕してしまった。
「うぐ、あ、ぐぇああぁあぁぁあぁあぁああ!?」
「あまりにしつこいから一度だけデートしたけど、自分の話とざまぁ小説の話しかしなくてつまらないし。
初手からモラハラ臭いことばかり言いまくるし、時間の無駄だから帰ろうとするとしつこく引き留めてくるし、しまいにはDVまがいの真似して脅してくるしで……
クッソ面倒な男だったってなぁ? てめぇは。
そして当然の如くフったにも関わらず、今度は彼氏面して執拗にストーカーだ。
必死で逃げ回って数年。ようやく幸せを掴んで、ささやかでも楽しい家庭を作ろうとした矢先に――!!」
「ひ、ひぃ、た、たたたた助けて、助けてぇえぇえ!!」
使い物にならなくなった両脚を引きずるようにしながら、阿野妻は遮二無二腕だけを動かし、俺から逃げようと試みる。
冷たい床に2本、ミミズの如き血の筋がべっとりと描かれた。
「妹も義弟もきっとそうやって、すがるような想いで助けを呼んだんだろうな。
お前はその悲痛な叫びも懇願も一切聞かず、一体何をした?
『ざまぁ』とかいう、クソしょーもない自分だけの正義に溺れて!!」
「痛い……イタイよぉ……助けて、タスケテェ……
ボクには……待ってるんだ。
ボクだけを見てくれる、カワイイ彼女……が……!」
締め切られた鋼鉄の扉に向かって、必死で手を伸ばす阿野妻。一人称もおかしくなりかけている。
だがその扉は突然、外側からガチャリと開かれた。
そこに立っていたのは、セミロングの黒髪をもつブレザー姿の女子高生。
大きな瞳に凛々しい眉の、なかなかの清楚系美少女。
しかし今、その顔は酷く引きつっている。そりゃ両脚切断された男を目の前にすれば、当然といえば当然だが――
そんな彼女を見て、天使降臨とばかりに阿野妻の顔が輝いた。
「は、はうわあぁぁあ、瞳ちゃぁん!
やっぱりさすが、ボクの理想の彼女だ。ボクのピンチに駆けつけてくれたんだね!!」
最後の希望とばかりに、血みどろの手を彼女へと伸ばす阿野妻。
だが彼女がヤツに向けた目は既に、轢かれたカエルの死骸を眺める時のそれだった。
「阿野妻君……
もう、全部聞いてるんだ。この人から」
「え?」
「最低だよ。
ざまぁ小説が面白いのは私も知ってる。よく読んでるし、だから貴方とも少し話が出来た。
だけどいくら何でも、あれだけは本当に、やっちゃいけないよ!
妊婦さんのお腹を……って……!!」
それだけ言うと彼女は口を塞ぎ、そのまま阿野妻を一瞥もせず走り去っていった。
多分激しい嘔吐感に襲われたのだろう――可哀想に。
彼女が阿野妻の言う通りの優しく素直な理想の女性であれば、こんな話を聞けば吐いて当然だが。
「あぁ……あ……
どう、して?」
「一応、あの子に聞いてみたがな。
お前とつきあってるのか確認したら、真っ青になって否定してたぞ。
ただのクラスメイト。お前がweb小説好きらしいから、図書委員として声をかけてみただけだってよ」
「う、嘘だ……ウソだぁあぁあ!!」
彼女が走り去った後、カラカラと軋みながら揺れるドア。
最後の希望が呆気なく潰え、伸ばした手をだらんと下げるしかない阿野妻。
その真正面に、俺は傲然と立ちはだかった。これでもう、貴様の逃げ道は一切ない。
血の滴る斧を、カツン……と響かせる。
「さぁて……
ツケ払いの時間だぜ?」
数十分後。
血の海と化した部屋の中で、血だるまと化した阿野妻は、まだヒィヒィ言いながら横たわっていた。
俺自身、髪の毛から爪先まで、スーツもワイシャツもネクタイも全部返り血で真っ赤。
何をしたのかって? そりゃ、妹と義弟がやられたことをそのままやり返しただけだ。
「こ……コロ、セ……
いっそ、コロ……」
「誰が殺すかよ。そう簡単に」
血でべしょべしょになったヤツの髪をむんずと右手で掴みながら、俺はそっと左手を添えた。
すると不思議な淡い光が、手のひらを包む。
この『魔術』があれば、ヤツはどれほどの苦痛を受けようと、気絶も死ぬことも出来ない。
――そう簡単に。
そう簡単に、許されると思うな。
楽になれると思うな。
あぁ……そういえば、まだ一つだけあったか。やり返せていないことが。
多分、今の俺の『魔術』なら、可能だろう。
「そうそう。
最近のweb小説の流行りって、TSってのがあるらしいなぁ?」
「……」
「確か、性転換だっけ? 男子キャラが女子になるってヤツ」
「……!」
俺の意図に気づいたのか、阿野妻は慌てて身をよじる。
ただもう、両目潰れて俺の姿は見えていないだろうし、両脚も手の指も潰れて逃げられないし、その他にも色々潰れて――
というわけで、こいつは最早俺のなすがままだ。
阿野妻のそばにしゃがんだ俺は、その腹のあたりに左手を添えた。
すると血だるまだったはずのヤツの腹が、急速に膨れ始める。風船でも膨らみだしたかのように。
「う、うあぁ、あ、……!!
な、なんだコレ……すごい吐き気が……!!
腹が、重……っ……!!」
多分阿野妻は憎しみの目で俺を見ただろう。眼球があれば、だが。
「貴様が世界の道理をぶっ壊してくれたおかげで、俺も妙にバグった魔術的なもんが使えるようになってなぁ。こいつもその一環だよ。
貴様の性別を強制的に変更し、さらに――」
「んぐっ……むぐーーっ!!」
「あぁ、安心しな。
本当に胎児がその汚ねぇ腹に宿ったわけじゃない。そういう感覚を擬似的に味わえるってだけだ。
酷いつわりも含めてな」
「ゲボっ……がばっ、グバあぁああぁっ……!!」
もう一度、血みどろの斧を手にする俺。
阿野妻は潰れた目から血の涙を流し、口からは噴水の如く吐しゃ物をまき散らし、下からは……あぁ、もう説明するのはやめよう。
身体から流れるありとあらゆる体液をぶちまけ、幼児の如くイヤイヤと頭を振る。
「ヤ……ヤメテ……
このコを……コロさ、ない、デ……」
膨らんだ白い腹。涙を流して懇願する阿野妻。
その一瞬、俺の中で、ほんの僅かに憎悪が鈍った。
――分かっている。
この腹の中には、何もありはしない。
この男は擬似的に妊婦になり、妹のあの時の苦痛を追体験しているだけだ。
そして擬似的に出来た胎児に、擬似的な愛情を抱いただけ――
そう自分に言い聞かせてみても、斧を持つ手はどうしても震える。
血の海の中、心臓の鼓動に同調するように動く、その腹部を見ていると。
「……この、コを……」
だが、同時に湧き上がってきたものは、それまで以上に激烈なる怒り。
「覚えているか。
そうやって妹も、泣き叫んでいただろ?
お腹の子を、守ろうとして!」
この男は何故、これを見ても容赦なく暴行を加えられた?
悲痛に懇願する妹に対して、必死で生きようとするお腹の子に対して、何故?
自分勝手な『ざまぁ』の正義に突き動かされながら、人を人とも思わず、命を命とも思わず。
この男は『ざまぁ』と嗤いながら、叩き潰した。
――ならば、俺のなすべきことは。
俺は今一度、ぎゅっと斧の柄を握りしめ、大きく一歩を踏み出した。
「妹と姪っ子の受けた痛み――
きっちり、味わいやがれぇええぇ!!」
「ぎええぁあああぁああぁああぁああああああああぁあああぁああ」
**
数日後
とある病室
「うぅ……良かった、良かったよお……
ちゃんと生まれてくれて……!」
お互い包帯だらけの夫婦が、生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめ、泣きながら微笑んでいた。
「本当に良かった。
君のお兄さんが、あの不思議な魔術で僕たちを治してくれて……
おかげでちゃんとこの目で、この子が見られる。この指で、この子に触れる!
それに――もう一度ちゃんと、君も抱きしめられる!!」
「一時は、本当にどうなるかと……お兄ちゃんのおかげだよ。
世界がおかしくなってからお兄ちゃんが編み出した、あのスゴイ治癒術のおかげ。
あの術がなかったら――私たちみんな、どうなっていたか」
「でも、さすがにそろそろ術の効力も落ちてきたのかな。僕たちの包帯、まだ取れないし。
ということは、世界も元に戻り始めたのかも」
「あぁ……とんでもない世界だった。
警察という概念がなくなっただけで、あんなにも恐ろしいことになるなんて……」
母親の腕の中で、元気に泣き出す赤ん坊。
「あぁ、よしよし。もう大丈夫。
早くお兄ちゃんにこの子、会わせてあげたいなぁ~」
その病室の窓を見上げながら。
俺は血みどろのスーツもそのままに、妹夫婦と赤ん坊の声を聞いていた。
俺のこの恰好を見ても、見とがめる通行人は殆どいない。
世界がまだ元通りにならず、警察もまだ本来の機能を果たしていないだろうが――
それでも、俺はやらなきゃいけないことがある。
「そう簡単に、許されると思うな
……俺も、同じか」
俺は病院に背を向け、歩き出した。
向かい側のビルの間にぽっかり空いた、不自然な空間。
そこへ幻影の如く浮かんできた、警察署へと。
完
『ざまぁ』はどこまで許される? kayako @kayako001
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