midnight①

バタンッッッ




大きな音を立てて扉を開けたのは愁だった。どうしたんだよ、と聞くより先に、大きなストライドでこちらへ歩いてくる。ぎゅっと握りしめた拳が震えていた。

愁が目の前に来た次の瞬間、俺は胸ぐらを捕まれていた。座っていた椅子を蹴られ、強制的に立たされる。前髪の隙間から見える愁の目は、これまでに見たことがないほどの怒りでいびつに見開かれており、そこから燃えるような敵意を感じた。


「お前、騙したなっ‼‼‼」


なんの捻りもない、ただの左ストレートだった。小細工がない分、とても威力は強かった。真っ正面から右頬に拳を受けて、防御もできなかった俺は、素直に吹っ飛んで壁に打ち付けられる。口の中に苦い味が広がった。

「えっ、愁先ぱ、え、」

まだ体を満足に動かせるほど回復していないはずの果子がベッドから這い出して、俺の方に手を伸ばす。それを遮ったのは愁だった。

「おい、高宮。」

かつてないほどの低い声。いつも愁に怒られている果子だからこそ分かるのだろう、びくりと肩を震わせて泣きそうな目でこちらと愁を交互に見た。

なに、何なんですか、」

「そいつ、分かってたんだよ。」

「何が‼」

果子はほとんど泣き叫んでいた。恐怖と疲労でがくがく震える体を必死に俺の前に投げ出して、迷子みたいに助けを求める視線を俺達に投げかけている。

それにお構いなしで「どけ」と押しのけ、愁は俺の上に馬乗りになる。

愁の顔まで大きく振りかぶられた拳が、照明の光に当たって眩しい。何も言わずにただ目を細めた。




「鍵塚祥太朗が宇治原を誘拐した、

宇治原が警護していた第一音楽室前から踏み潰された燃えかすが見つかった‼


…お前、ほんっとうにただの最低だ‼」




ごっ、と鈍い、骨と骨がぶつかる音がする。あぁ、俺の頬は、確かに殴られて痛いけど、愁の拳だってきっと同じくらい痛いはずだ。

うそ、と顔を真っ白にした果子が後ずさる。それもそうだよ。当たり前だ。










本当は、フルートが出てきた時点で、嫌な予感がしていた。兄貴じゃなければいい、ってずっと思っていた。

でも何となく分かっていた。多分、他人事じゃないって。


いつもそうだ。俺が何も知らないところで、色んなことが起きている。俺に関係あることでさえも、全てが終わったあとで、ついでのように聞かされる。


そうだったよね、兄貴。”どうして?”って聞いても何も答えてくれなかった。


でも、俺は兄貴が大好きだった。俺には兄貴しかいなかった。

だから目をそらした。兄貴がしたことから?いや違う。

”兄貴がしたことに気づかないふりした俺”から目をそらしたんだ。










愁に殴られ続ける俺の意識は飛びかけていた。もともと抵抗する気はなかったけれど、やはり学校随一の武闘派の拳を食らって、まともでいられる人はいない。このまま殴られて、それで死ねたらどれだけいい話だろうか。

「何とか言えよ、このっ」

愁は無抵抗の俺にも怒っているみたいだ。でもごめん、何も言えることはないんだよ。

愁の瞳は怒りに燃えていた。この人は、一見冷たく見えるけれど、実際はすごく仲間思いの人だ。俺とは違う。愁が体調を崩した時点で、これはおかしいと言えばよかったのに、兄貴がしたことだと思うと言葉が出なかった。その結果がこれだ。

お前の手が痛むよ、それさえも言えない。最悪だ。




そんなとき、愁が開けたままのドアから、白い集団が入ってきた。その人たちは全速力で走っていたのか、息が荒い。

綺麗に見えないけれど、多分大翔達だろう。七聖はいない。ごめんと言うこともできない。

唇を噛んだ痛みでのけぞったとき、ぶれぶれの視界の端に、揺れる黒い髪を見た。白い制服を着ている。逆光で顔が見えない。

その人は走ってきて、目の色を変えて俺を殴る愁にためらいもなく突っ込み、バランスを崩させる。そして俺の前に大きく両手を広げて立ち塞がった。


「茉吏」


思わず声が出る。

俺のために愁を睨み付けたのは、どういうことか、茉吏だった。





「どけよ、」

愁は切れて血が出ている拳を絨毯に擦りつけて拭った。そしてそれを茉吏の前に振りかざす。果子が半泣きになるほどの覇気で凄まれても、茉吏はそこを動かなかった。

にらみ合いが続く。先に動いたのは茉吏だった。

何も言わず、愁の拳を両手で包んだのだった。愁は、どうしてか酷く震えていた。その震えが茉吏の腕にまで伝わっている。それまでも許容するように、茉吏は拳を握り続け、体の横にゆっくりと誘導した。

「なんで、おまえ、」

愁の口から単語が零れる。茉吏はそれを聞いても何も言わなかった。

ただ、目を閉じて首を横に振った。




「凛太朗、」

茉吏の行動に対する衝撃と痛みで動けない俺に、声をかけたのは大翔だった。

その表情は硬く、疑念を孕んでいる。殴られるより何倍もましだった。

「何か知っているなら、聞かせてほしい。」


これが、最後のチャンスか。俺は体から一切の力を抜いた。

こんな俺の話を聞いてくれるらしい。このまま見殺しにしたって、警察に引っ張ったっていいのに。

目頭が熱くなった。でも、泣くにはまだ早かった。

真白が俺の背中を支えてくれようとするのを断り、震える足で立ち上がる。



しゃくり上げて、涙まみれの顔を背ける果子。

さっきの怒りが全てを持って行ってしまったかのように、放心している愁。

疑いの表情を隠せないまま、俺を横目で見る大翔。

落ち着かない様子で立っている真白。

無表情で果子の背中をさすっている茉吏。




全員からの信頼は地の底に落ちた。これでお終いだ、

なんて甘いことを言ってはいられない。

やるべきことを、しなくてはならない。

















俺にとって、兄貴はどういう存在なのか。


普段そんなことをいちいち考えていないから、よくわからない。

ただ、今聞かれて、直感的に浮かんだ言葉を言うなら、

「兄であり両親、友であり敵、目標であり通過点である同志」だった。


…でも、兄貴にとって、俺がどういう存在なのか、検討もつかない。もしかしたら、今列挙したうちの、たった一つでさえも納得してくれないかもしれない。

それくらい、兄貴は近づけば遠ざかる、蜃気楼のような人だった。






両親について、覚えていることはほとんどない。

社内誌や経済誌、時には新聞なんかで見る俺達の両親とされる知らない大人は、とても寛容で懐が大きく、斬新な考えとともに伝統を踏襲する力量を持った、えらく優秀な人であるらしい。本当に知らないから、これくらいしか言えない。

たまにこんなことを聞かれる。

「親がいないのと同じじゃない?それって悲しいね」

どうだろう。悲しい…か。正直、それも感じないんだ。

俺の場合、1が0になったわけじゃない。顔を合わせたことがないと言っても過言ではない人達と、今も一緒に過ごしていないことが、どうして悲しいことなんだろう。

これまで0だったものが、これからも0であるだけ。もともと存在しないものを嘆くことなんてできないし、できたとして何の利益になるだろう。


でも、今なら分かる。

こんな粋がった子供のようなことを言えたのは、そんな両親の代わりがいたからだった。唯一の肉親と言える兄貴。

ほとんどもう失ってしまったと言っても嘘ではないこの状況になって、ようやく、

兄貴が俺に対して何を背負ってくれていたのかを知った。

俺の頭を撫でてくれる両親はいないかもしれない。でも、その代わり俺に大きな背中を見せてくれる人がいたんだ。


今、とても悲しい。辛い。痛い。

俺は、何も感じていないわけじゃなかった。

ただ、俺が悲しいと感じないように頑張ってくれていた人がいただけなんだ。






俺達兄弟は、様々な”先生”という人達に育てられた。家庭教師の先生、楽器の先生、華道の先生、そして、もう一人。

その人は、小綺麗だけど嘘くさい他の先生と違って、むさ苦しい、熊のような見た目をしていた。体格もよく、長いひげを蓄えていて、にこりとも笑わない。兄貴に連れられて初めてその先生の元へ行った四歳のとき、あまりの威圧的な雰囲気に、訳も分からず涙が零れたのを覚えている。泣き出した弟におろおろする兄貴を押しのけて、先生は俺を上からじろりと見下ろした。大きな体の影に隠れた視界の中で、先生の真っ黒い瞳だけがらんらんと光っていた。


「お前、死ぬぞ。」


低い、しゃがれた声だった。見たこともない動物に睨まれた気分の俺は、恐怖のあまり泣くのさえやめて、ただ棒立ちになって、その言葉を聞いていた。

「自分がどんな状態であっても、常に命を狙われていると思え。」

何を言われているのか分からない。命を、狙われる?

「今は屋敷にいるから守ってもらえるだろう。だが、ひとたびそこを出たら、お前達の命は、何百、何千の人にとって、何万、何億のかねを払っても葬り去りたいものとなる。

残念なことだが、お前達は、そういう宿命さだめの下に生まれてしまった。」

何を言っているんだろう。これまで俺は、ただ普通に生きていただけだった。いたずら以上の悪いことをした全く覚えはない。それでも無条件に命を狙われるってこと?

分からない、分からない、分からない。

「兄さん…」


「おい、坊主。」


「兄であっても信用するな。助け合おうと思うな。

お前の命に責任をとれるのはお前だけだ。

お前が一人でこの運命に向き合え。

それ以外に、生き残る道はない。」


兄貴は俺を見なかった。これまではあんなに頭を撫でてくれたのに、今は俺のことが見えていないみたいだった。

”お前の命に責任をとれるのはお前だけだ。”

そのとき、さっき聞いたばかりの言葉を、身にしみて実感している自分がいた。これまでは好きに遊んで、ご飯を食べて、ピアノを弾いて、ただそんなぬるま湯の中で生きてきた俺だけど、こんな状況下で、自分でも意外なほど静かに納得していた。

俺は、死にたくない。


「方法は教えてやる。

だが、途中でどうなっても知らん。

怪我をしても、倒れても、勝手にしろ。お前達がどうなろうが、俺は知らん。

ただ、死にたくないなら、俺が教えることを、お前を守るためだけに使え。

無駄な慈悲は敵を生む。

冷酷であれ。たった一人でも生き抜くすべを身につけろ。」




結局先生がどういう名前で、どういう理由で俺達に指導していたのか、最後まで分からなかった。それでも、あの死と隣り合わせの三年間を生き抜いたから、今の俺がいると言っても過言ではない。


先生が俺達に教えてくれたのは、一般的にいうところの”忍術”だった。まず最初にしたことは、足音を立てずに歩くこと。当然のようにできずに、それを習得するのだけで三ヶ月も要した。その他にも、いくつもの種類がある手裏剣・火器・道具なんかの使い方、体術、諜報術、防諜術…小学校に入るまでの三年間、そんなことを永遠に学び続けた。

本当に辛かった。忍術の時間だけは、兄貴が助けてくれなかったから。これが、実質初めての個人行動だった俺は、学ぶ内容の難易度云々以前に、一人で考えて行動することが苦しくて仕方なかった。

それでも、先生は全く容赦しなかった。ときには毒を混ぜられて死にかけたし、頭巾と短刀だけで一ヶ月山籠もりをさせられたこともあった。何度も三途の川を見たけれど、そのおかげか、今でも俺は生きているし、自分を守る力を身につけることができた。


そんな先生は、俺が小学校に入学した日を最後に行方をくらまし、二度と会うことはなかった。一体どこに行ったのか、家の使用人は誰も口を割らなかった。






小・中と、あまりいい思いをした覚えはない。

先生の宣告通りに、沢山の人から命を狙われたからだ。


酷い、という言葉では形容できないくらい熾烈だった。教室の机の引き出しに手を突っ込んだら毒針が仕込まれていたり、毒虫を放されたり、トイレで一人っきりのときに窓から侵入されて斬りかかられたり。

もちろん、それを掻い潜るだけの努力はしてきたから、自衛に対しての心配はなかった。それくらい、俺達は頑張ったし、恐れることはなかった。

本当に辛かったのは命を狙われることそのものではない。俺を葬るために情報を流している人が、あどけない表情をした同級生の中にいるということだった。

俺は小学校からずっと連城の学校に通っていた。小・中では、高校と違い、あまり武道強豪校というわけではなく、ただ格式高い名門私立という位置づけだった。だから、そこに通う人達は大抵、どこかいい家庭の御子息御令嬢だった。

彼らも、俺達と度合いが違うだけで、まだ幼いうちから大人の都合に踊らされていた。俺の昼ご飯が何か、そこに毒物は混入させられそうか。俺が席を立つのは毎日、だいたいいつ頃か。俺の友人でさえ、そんな情報を流していないか、断言することはできない。その友人に貸した俺のノートに青酸カリが振りかけてあった翌日、学校に来なくなったから。確か、鍵塚が買収した大手家電メーカーの息子だった気がする。


そんな日々を何とか生き抜くことができたのは、事実、兄貴がいてくれたからに違いない。誰かが俺や兄貴の命を狙うたびに、それを回避するたびに、俺達は他人を信用しなくなった。そして、兄貴がどう思っていたのか分からないけれど、少なくとも俺は兄貴に絶対的な信頼を寄せるようになった。世界の中で、俺達二人だけだって、本気でそう思っていた。




兄貴は、忍術を教わるよりずっと前から、よくアンサンブルをしてくれた。兄貴がフルートで、俺がピアノ。幼少期になんとなく選んだ楽器を続けているという格好にはなるけれど、それはそれぞれにとって、沢山押しつけられた習い事の中では、一番上達し、気に入ったわけだった。

兄貴のフルートは、滑らかな心地よさと芯の強さが兼ね備えられた、唯一無二の音色を持っていた。もちろん、コンクールでは賞を総ナメし、少なくとも国内で右に出るものはいないとまで言われたけれど、兄貴の音は、格式張ったホールなんかで聞くより、家の自室、庭、そんなところで聞いたほうが何倍にも魅力的だった。開放的な音を聞くことができる、それも確かに理由の一つではあるけれど、それよりも、音を奏でる兄貴のコンディションが最高に上がるところがそこだったから。

ひとたび家を出ると命を狙われ、ホールなんかの比較的危険が少ないところであっても、今度は”賞が””実績が”と騒がれていたら、体に変な力が入るし、第一楽しくない。だから俺も兄貴も家で楽器を扱うのが一番好きだった。

兄貴は俺が落ち込んでいるとき、いつもアンサンブルに誘ってくれた。俺が一番リラックスできる環境を、俺よりもよく理解してくれていた。

俺も兄貴も季節にあった曲を弾くのが大好きで、春ならメンデルスゾーンの”春の歌”、夏なら久石譲の”summer"…といった具合に、言葉少なに、いつまでも弾いていた。それを見ていた使用人が、俺達にアンサンブルを披露するように勧めた。本当はそんなことしたくなかったけれど、兄貴はともかく、俺は本当にコンクールが大っ嫌いだったので、アンサンブルをしたらコンクールに出なくてもいい、という話を聞いて、それに飛びついた。兄貴もそれでいいと了承してくれたので、俺が高校生になってから、正式にアンサンブルを披露し始めた。


高校生になると、俺の世界はこれまでの何倍にも広がった。もともと兄貴が務めていた生徒会長を引き継ぐくらいの武道の実力を必要とされたし、アンサンブルもしなくてはならない。でも、俺には仲間ができた。幼なじみの大翔だけではなく、生徒会の仲間である愁や七聖にも出会うことができて、初めて、学校に通う楽しさを感じることができた。生徒会活動にものめり込んだ。誰かを助けることがこんなに達成感のあることだと知らなかった。

だからって、アンサンブルに対する思いが消えたわけではない。でも、もしかしたら、俺も気づかないうちにどこかで、アンサンブルや兄貴ではない、何か別のよりどころを見つけてしまったのかもしれない、と今になって思う。

その頃兄貴は高校三年生。受験も生徒会もこなし、そのうえこんな弟のことまで気遣い、かなり疲弊していただろう。これくらいになると、俺達が顔を合わせるのは楽器の練習の時くらいで、これまでのようにずっと一緒にいる、というようなことはなくなっていた。どんなことに直面して、何に悩まされていて、何に苦しんでいるのか、もともと兄貴はあまり俺に弱みを見せなかったけれど、これまで以上に分からなくなっていた。そして、俺は、それに気づけなかった。


正直に言うと、俺達のアンサンブルは、かなり評判がよかった。初めはコンサートの前座で二曲、というところから始まったけれど、今となれば、自分達だけで場を設けられるくらいになった。そして先日、ついに文部科学大臣から、文科省の式典でのコンサートを依頼された。それを知らされたとき、何とも言えない興奮に満たされたのを覚えている。ついに、ここまで来たか。俺達の最高の状態の音楽が、権威のある人に認められたんだ。

最高に気分がいいまま、それを兄貴に伝えに行った。五月に二十歳の誕生日を迎えた兄貴は、大学やコンサートと並行して、父親の秘書として、鍵塚の仕事に携わるようになっていた。次男の俺には全く分からない世界で、でもこれまで全然顔を見せなかった父親に、いきなり息子だと世間に紹介されるのはきっといい気分ではないだろう、とか、それくらいしか考えていなかった。




「兄貴‼俺達、」

ばたんっと音を立てて兄貴の部屋のドアを開けた。

次の瞬間目に飛び込んできた、その中の形相を認識したとき、俺は声を失った。


几帳面な性格の兄貴の部屋が、見たことないくらい、荒れていた。いや、荒れていたというより、

クローゼットから引っ張り出された風情の、ハンガーに掛かったままの洋服が床に散乱している。足を引っかけたのか、上の方にある数枚はまとめて生地が破けていた。嗅いだことのない刺激臭が鼻を突く。絨毯の上に転がっている、いくつもの茶色い瓶から匂っているらしい。その他にも、兄貴が食べているのをあまり見たことがないコンビニのパンやカップラーメンなんかが、処理もされずに食べかけのまま床に放置されていた。そして、何かから守るかのように、俺の足下、つまり部屋の出入り口には綺麗なビジネスバッグが置いてあった。

部屋には電気さえついていない。夜だから外からの明かりもなく、兄貴がどこにいるのかさえ分からないまま、俺は目を凝らす。ふいに風が吹いた方を見ると、小さい頃、よくアンサンブルをしたピアノが置いてある向こうの窓枠に、兄貴の横顔が見えた。

そういえば一ヶ月くらい、まともに顔を合わせていなかった兄貴は、酷くこけていて、全身から水分と何か大切なものが抜け落ちているように見えた。目の焦点も合っていなくて、いきなり飛び込んできた俺にも気がついていない。

「あ、にき…」

俺は足下に気をつけて、兄貴のいる方に近づいた。

兄貴は俺をその目に映して、誰だか分かっていない様子で首を傾げた後、恐怖をあらわにした。


「近づくな‼」


目を見開き、両手を振りかざす。よく見るとその爪も噛みちぎられていて、まともな状態ではないことが見て取れた。

「来るな、俺を見るな‼」

「落ち着いて、俺だよ、凛太朗だよ‼」

「お前が、お前が…」




「お前が、俺に何をしてくれるんだ⁈

俺の何が分かるんだ⁈

ずっと子供のままのお前に、それでも構わないお前に、何が、」




ごほごほっと咳き込んで、兄貴の呪詛は唐突に終わった。体を二等分に折り曲げて、苦しそうに呻く。俺は近づいて背中をさすった。兄貴は、俺が凛太朗だと気づいていない様子で、ただされるがままになっていた。正直、兄貴のその言葉は、聞いていてとても苦しい思いになったけれど、そんなことを言っている場合ではなかった。絶対に普通じゃない。何かが抜けた兄貴の体は、目を離した隙に、夏の透明な夜空に吸い込まれてしまいそうだった。

何かあったに違いない。きっと父親の元で辛いことがあったんだ。俺がのほほんと学校に行っている間に、兄貴は父親と言えるのかどうか怪しいまでもの血が繋がった男の元で、ずっと働いていた。二十歳までほとんど会ったこともない人といきなり仕事、しかも秘書の役を任されたって、波長も考えも合わないに決まってる。

悔しくて、唇を強く噛み締める。兄貴はあんなに俺を助けてくれたのに、俺は何もできなかった。


そうだ、俺がこんなときはいつも、兄貴が「ほら、座って」とピアノのいすに促してくれて、二人で音楽を奏でて、そうしたら自然と心が落ち着いてきて…。

今できることはこれしかないだろう。確信に近い気持ちだった。


「兄貴、フルートしよ」

俺はそう言った。そのとき、無反応だった兄貴がぴくりと動いた。次第に背中ががくがくと震えだす。

「どうしたの⁈苦しい?え、」






あははは、兄貴の口からそんな音が漏れた。

初めはそれが何か分からなかった。ややあって、それが笑い声だということに気がついた。痩せこけた背中が震えるほどに、兄貴は笑っていた。

「あははっ、凛太朗、あのさ」




「俺が、音楽好きだと思ってた?」




「え?」

何を言っているのか、全く分からなかった。でも、それと同時に、あぁまたいつものあれか、とも思った。俺が知らない間に、全てが進んでいく。俺だけ何も知らないまま、れ物だけ大きくなっていく。






「ごめん、俺、音楽で元気になれるほど、音楽、好きじゃないんだ。

というか、むしろ嫌い。

あんなのに気持ちを動かされるなんて信じてる奴の気が知れない。」






目の前の、この人は誰なんだろう。

あれだけ一緒にアンサンブルをしたのに、肝心な気持ちは、この十八年間、ずっと離れたままだったのか。

あっははは、面白いね、兄貴は笑う。さっき、呪詛を吐いた時とは違って、目に光がある。普段の兄貴と似た瞳をしていた。それが余計に辛かった。

突然、ぴたっと動きを止めて俺を見た。落ちくぼんだ瞳が、その中の黒くて鈍い光が、俺を暗闇に引きずり込もうとしていた。


「凛太朗、俺は、もう二度とフルートもアンサンブルもしないよ。

もういいだろ。俺をお前のおりから解放してくれ。」


何も言えなかった。

棒立ちになっている俺が見えていないみたいに、兄貴は俺と肩をぶつけながら立ち上がり、ふらふらと部屋を出て行った。






そして、それから二度と家には戻らなかった。
























兄貴が抱えている何かに、俺は気づいていた。

なのに、何も言えなかったんだ。兄貴の言葉に傷ついた自分を守ることに必死で、あの日、兄貴を追いかけることさえしなかった。


もし、もう一度会えるなら、「ごめん」と、ただそれだけを伝えたい。


ごめん、これまで兄貴のこと、何も分かってなかった。分かろうと努力さえしなかった。

ごめん、自分のことばっかりで、兄貴のこと、何も考えていなかった。

できることなら、俺が兄貴のことを、唯一の肉親だと思ったように、

次のチャンスがあるなら、絶対に兄貴のことを兄貴だけに押しつけたりしないから、だから…






なんて。

もう遅かった。

また、俺がのろのろとしている間に、最悪の事態が起こってしまった。


七聖にどんな顔をしたらいいんだろう。

兄貴と目を合わせられるのだろうか。

愁に、大翔に、果子に、真白に、茉吏に……






『ただ、死にたくないなら、俺が教えることを、お前を守るためだけに使え。

無駄な慈悲は敵を生む。

冷酷であれ。たった一人でも生き抜くすべを身につけろ。』


先生の言葉を思い出す。


先生、俺、やっぱり、約束、破っちゃいました。

そして、自分で、最悪の事態を引き当てました。


俺が、無駄なことを思ったから。

人を助けることに達成感なんか必要なかった。

誰かに注視していたら、自分の懐がガバガバになるのなんて、どこかで分かっていたはずなのに。

見ないふりを、してしまいました。









俺が何も知らないところで、色んなことが起きているわけじゃない。

命を狙われる恐怖も、両親に構ってもらえない寂しさも、誰かの辛さも、こんなことに至る端緒さえ、

見えていたのに、聞こえていたのに、気づいていたのに、

俺は簡単に知らないふりをしているだけ。




















こんな人間、最低だ。



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