〈間奏〉 まだ言葉が必要なかった頃
「ねぇあにきーーー」
まだペダルに届かない足をプラプラさせて、凛太朗は唇を尖らせてみせた。
あどけない舌使い、子供らしい仕草。こいつは、そんなのがよく似合う。
こんな家に生まれていなかったら、もっとのびのびできる環境にいたら、もっと幸せに暮らせたんだろうな。
「凛太朗、”あにき”はここだけだぞ。
二人きりのとき以外は、」
「”あに”でしょ?わかってるもん。
でも何で外じゃ”あにき”って呼んじゃだめなの?」
「…仕方ないんだよ。」
『何で外じゃ”あにき”って呼んじゃだめなの?』
ごめん、凛太朗。俺もわかんないんだ。
学校では中学生になるまで一人称を”僕”にしなくてはならない理由。家庭教師と勉強したあとに塾に行かなければいけない理由。正座をしたらどれだけ足がしびれてもいいと言われるまで崩してはいけない理由。俺達の両親がもう何年も会ってくれない理由。
全部、俺もわかんないんだ。
だから、従うしかないんだ。
「そんなことよりさー」
ペダルつけてよ、とちゃっかりしている。はぁ?とその顔を見ると、届かなぁいとにこにこしながらほら、と促された。確かに、椅子が高くて、一度座ってしまったら降りるのがすごく面倒なのは大いにわかるけれど。
仕方ないな。俺は手にあったフルートを置いて、踏み台付きのペダルをつけてやった。
「今日はあったかいねぇ」
「昨日は雨で寒かったもんな。気持ちいい日だ。」
「ねぇー?」
ペダルの取り付けが終わって顔を上げると、凛太朗はもう鍵盤に指をかけていた。その横顔は五歳とは思えないほど大人びている。真剣なまなざしは、俺にはないものだ。こいつの、性格の子供っぽさと、行動の大人っぽさのギャップは、大きくなればなるほど、沢山の人を魅了するんだろうな。
小さく開けた窓から、からっとした暖かい春の空気が入り込んでくる。フルートを持った手を攫っていったそよ風は、優雅なメロディーを連れてくる。ここだけでも構わないから、新しい季節のお祝いを。
同じことを思ったのか、凛太朗とばっちり目が合う。いや、こいつは、それより前から俺を見ていた。その目には、”音楽を心から楽しめる人”だけが持っている、本能で嗅ぎ取った音への期待に輝く光があった。
「”春の歌”、やろ。」
俺も同じことを思っていた。譜面台なんかいらない。ちょっとくらい間違っていたってここなら構わない。ただ音を聞きたい。凛太朗の、のびのびしたあの音を。
俺がフルートを構えると同時に、凛太朗も前のめりになる。
俺の足でとった拍で、音楽を始めた。
凛太朗の透き通ったのびやかな音が、俺の高音を乗せて流れていく。とても気持ちがよかった。先生と練習しているときは、競り合うような気持ちになって、自然と音がぎとついてしまうけれど、凛太朗としているときは違う。それぞれに長所と役割があって、それを全うするだけで自然とお互いを高めてくれる。
気をつかわない半ズボンの足を、春の風が撫でていく。気持ちいい。
ずっとこのままでいい。これ以上もこれ以下も望まない。ただ、凛太朗と一緒に音を奏でていたかった。こいつの、自由なようで深みがあり、滑らかなようで力強い音を一番近いところでずっと聞いていたかった。
自然と、凛太朗の口角が上がっていた。
楽しいよな。俺も、とっても楽しいよ。
あれだけでよかったんだ。
ただ、自由に音を奏でたかっただけなんだ。
そんなに多くを望んだのか?
醜い欲だったのか?
俺がいけなかったのか?
そんなこと言ったって、もう、これで全部お終いだ。
じゃあな、凛太朗。お前の音、大好きだったよ。
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