悲しい笑顔
「フルート?」
大翔の珍しく上ずった声が生徒会室に響き渡った。誰とは聞いていないけれど、凛ちゃんからの電話な気がする。この反応からして、凛ちゃん、きっと手掛かりを掴んだんだ。ということは、行動開始か。
いつもと同じように、椅子の背もたれに体重を預けて、後ろにある大きな窓から外を仰ぎ見る。午後の授業が終わり、中庭の真ん中では、陸上部と野球部がそれぞれストレッチをしている。そこから少し離れたベンチでは、女の子達が楽しそうに彼らを見つめて談笑していた。
何気ないひと時が何物にも代えがたい大切なもの。身をもって分かっている。
だから守らなくちゃね。
「はっ、…それは…大丈夫…
上杉が…」
小声でぼそぼそとしゃべっていた大翔が、突然大声を出す。
”上杉”という名前に、わかりやすく私の心臓は跳ねる。言葉にしてはいけない色んな感情が胸の中を渦巻いて、ちょっと息がしづらいまであった。
…何で、あの人にだけ、私、上手くいかないんだろ。
「そう、か…
高宮…伝えておく。そっちも十分気をつけろ。」
大翔はこわばった顔で凛ちゃんに返事をして、電話を切った。それとほぼ同時に、ずっと窓の傍に立っていた茉吏が隣に腰かける。その透明な瞳が何を思っているのか、この案件に対して恐れをなしているのかどうかでさえいつも通り掴めない。
私と真白くんは、無言で大翔の顔を見つめる。張りつめた空気の中、大翔は、いつにも増して重い口を開いた。
「調査結果より、
次に狙われる可能性が高いのは、”音楽の教養がある生徒”だそうだ。
…そして、その調査中に、
……高宮と、上杉が、原因不明の体調不良を起こし、
今は、療養中、らしい。」
「それ、大丈夫なの⁈」
いけない、と分かっていても、とがった言葉が口をついて飛び出す。体調不良、という字面からはどうなっているのか見当もつかない。もし、果子が、…愁が……。
錆臭い味が舌の上で広がる。
「落ち着いて。」
普段は誰よりもおちゃらけている真白くんが私をなだめる。駄々っ子を相手するよやんわりと肩を押さえてくる動作が嫌に鼻につく。振り払っちゃいけない、と犬歯で言葉を噛み潰した。
「失踪した橋田の自宅に訪問して、そのときに気分を悪くしたらしい。
高宮は倒れて、今は微熱だが、それ以外の検査値が正常なのを確かめてから、凛太朗の自宅で目が覚めるのを待っていて、
上杉は、倒れるまではなくとも足元が覚束ず、微熱も認められたので、同じく凛太朗の自宅で療養中、という状況だ。」
落ち着いた大翔の声が耳に差し込まれる。ちゃんとその言葉が解せるまでに少し時間がかかったけれど、つまり、
「果子と愁は、とりあえず、無事ってこと?」
「あぁ。鍵塚の医者が確かめたらしいから、信頼はしていい。」
「…はぁ」
全身から力が抜ける思いだった。どうしてそんな状況に陥ったのか、聞きたいことはあるけれど、実働チームがほぼ活動停止状態に追い込まれてしまった今、動けるのは私達しかいない。やらなければいけないことが沢山ある。
顔を上げて、大翔に声を投げた。
「…分かった。
私達がしなくちゃいけないことは何?」
「とりあえず、凛太朗達が掴んだ情報を周知する。」
大翔は椅子に座ると、低い声でそう言った。
「まず、実働チームが発見したものとして
橋田の自室から見つかった、焦げたフルートの頭部管が挙げられる。」
「…橋田って、バンドのギターっすよね?
なんでそんなものが。」
「不明だ。
ただ自室は、恐らく、橋田が失踪する前、最後に見つかった場所だ。」
つまり、橋田くんが失踪すると同時に焦げたフルートが部屋に現れたってことだ。橋田くんが誘拐されたとしたら、もしかしたらそれは犯人のマーキングなのかもしれない。
「そして、失踪した他五人の保護者に確認したところ、
全員の最終発見地からフルートの部品が見つかった。」
「じゃあ…フルートは犯人の置き土産説濃厚ってことっすね…」
真白くんは、いつも学校朝礼のときなんかに使うノートパソコンをいじりながらそう言った。それぞれに置いてあったフルートの写真を見ているみたい。
これでほとんどの可能性は事実に近づいた。きっと六人は誰か同一犯に、もしくは同じグループに攫われている。
「そしてさらに調べたところ、軽音学部に所属する三人のほか、残りの三人も外部で音楽関係の習い事をしていることがわかった。
このことから、恐らく犯人は、連城高校の音楽に教養がある生徒を狙っている可能性が高い。
よって、これから俺達は、この高校の音楽系の部活、
吹奏楽部、合唱団、軽音学部の警護にあたる。」
リーダーを任された大翔がこの場を取り仕切る。その判断は的確で、どこか凛ちゃんを思わせるところがある。そのしゃきっとした声を聞いていると、自然と背筋が伸びた。
「宇治原は吹奏楽部、飯蔵は合唱団、鈴峯は軽音楽部にそれぞれ行ってもらう。
俺は先生から学外で音楽系の習い事をしている生徒の情報を引き出してくる。
場合によってはその生徒達を集めるかもしれない。それによる持ち場の変更があれば、その都度伝える。
各自、異変があればすぐに俺に連絡をしてくれ。」
「りょうかいです。」
「おっけっす。」
「…」
茉吏からは何の返答もない。けれど椅子から立ち上がって、背後の壁に立てかけてある細長い巾着袋を手に取った。中に何が入っているのか…私にはまだ見せてくれない。きっとほかの生徒会メンバーも同じで知らないと思う。得物が入っているのか、警護や制圧に行くときはいつも持っていた。
「茉吏?」
顔をのぞき込みながら声をかける。いつも通り無表情で綺麗な目が、穴が開くほどまっすぐに私を見つめている。
「何かあったらすぐに言ってね。」
茉吏の髪を撫でる。つい執拗に何度も繰り返しちゃう。
今日は何となく、いつもと毛色が違う。合理的に、ちゃんとした証拠を伴って初めて行動に”正義”という意味をもつのが私達生徒会の活動。だけど、今の私は、”何となく”、本能をぶしつけに撫でくり回されているような、気味悪さを感じている。的中してほしくない”最悪の事態”を引き当てそうで怖かった。
されるがままの茉吏に、”いつもの景色”を重ねて、私の気持ちはほんの少しだけ和らいだ。
「早く片付けて、元気になった果子と一緒に、頭、撫でてあげる。」
精一杯の強がりで笑う。首を傾げたあと、茉吏の唇が何かを紡ごうとして、形になりかけた空気が音を伴わずに吐き出される。びっくりして思わず顔を見上げるけど、もう普段の無表情になっていた。
でも、珍しく私の瞳をしっかり見つめて、首を縦に振った。
皆何かを守りたくてここにいる。
「なあちゃん先輩、合唱団と吹部って確かB棟でしたよね。」
生徒会室前で茉吏と別れたすぐあとに、後ろから真白くんが声をかけてきた。私がちょっとした恐怖を感じているというのに、この後輩はいつも通り飄々としていて、口うるさく注意する大翔がいないのをいいことに、学ランのボタンを三つも開けて、中から真っ赤なTシャツを覗かせていた。
「もう、真白くん服はだけすぎだよぉ。」
「先輩、俺の前では猫被んなくてもいいっすよ。」
「何の話ぃ?私素面だよ?」
「愁先輩のこと、心配なんでしょ。」
言わないで、なんて無意識に思っていた。けれど、真白くんは的確に急所を打ち抜いてしまう。これから厳しい戦局になるかもしれないから、邪念があっちゃいけないって押し込めていた不安がもやもやと私の胸に漏れ出してきた。
黙ってしまった私に対して、真白くんは頭の後ろで手を組みながら「気分悪くされたんだったらすんません。」と思ってもないであろうことを言った。
「先輩、すっごく強ばった顔してるから、気になるんだろうなって。
電話一本くらい、いいんじゃないんですか?愁先輩は起きてるんですよね。」
「ううん、いいの。」
愁のことは、すごく心配。正直に言っちゃえば、今すぐ仕事を放りだして顔を見に行きたい。でも…
私が愁にしてあげられることは、たぶん、これじゃない。
何もかもがうまくいくことなんて絶対になくて、だから、私が”愁に会いたい”という願いを叶えることが、愁の不利益になることだってあるわけで。
第一、言葉にできるほど私が強くないだけであって、本当は知っている。愁は…
「先輩ってかわいい顔してるじゃないですか。」
「なぁに?私のこと、口説いてるの?」
突然妙なことを言うから驚いて、意外に身長の高い口が達者な後輩の顔を仰ぎ見る。たまに見せる、子供のような大人の、好奇心と理性を宿した瞳は面白そうに私を映していた。
「ほんの少し周りよりかわいいだけなのに、自分がちやほやされて当たり前って勘違いしてる奴いるじゃないですか。
それに比べたら先輩よっぽどかわいいのに、みょーなところで中学生みたいな考えしてますよね。」
「褒めてるの?貶してるの?」
「いやぁ…苦しいですね、せんぱいっ」
にっこにっこしてる。…普段は一緒になって笑っているけれど、凛ちゃん、こんないじられ方されてるのか…かわいそうだったかも…あとで謝ろう。
真白くんはこんな風に気さくで誰に対しても壁を作らない。茉吏の対極にいるような人。でも、こんなに言葉数を使って話すのに、案外、真白くんについて知っていることは少ない。柵はないくせに深い堀があるような、捉えどころがない人だった。
「じゃあ俺は下なんで。」
B棟に続く渡り廊下には階段が設置されていて、そこを降りると合唱団の練習場所である教室に行けるようになっていた。
渡り廊下の前にある扉を開けると、夕方になって、少し冷たくなった風が入り込んできた。始まるんだなって、体の奥がひゅっと縮こまる。
前を歩いていた真白くんが振り返る。余裕そうに見えるにたにたした顔と裏腹に、体が強ばっているのがわかる。拳を握った右手が軽く震えていた。
それでも口だけはいつもの調子を崩さない。何気ない仕草で右手をズボンのポケットに入れると、私に言った。
「明日、二人のお見舞い行きましょう。」
「うん。四人で、絶対。」
私の答えに満足そうに頷いて、そのまま階段を下っていった。カンカンカンと軽い音が響く。
やることやらなきゃね。そう、愁には明日、これを余裕で終わらせたあとに会いに行けばいいんだから。
吹奏楽部には顧問の先生から話があったみたいで、私はすんなりと練習場所に入ることができた。全員を常に見ることができるようにしたくて、無理を言って合奏練習に変更してもらい、点呼をしてから練習を再開させた。先生にも『学校の近くで不審者が出た』ということしか伝えられていないみたいで、「これくらいでそんなに警戒しなくてもねぇ」と小言を言われてしまった。本当のことを理解してもらいたいところではあるけれど、言ってしまえばたちまちパニックが起きてしまうから我慢。
この教室は連城高校に数ある防音室の中で一番広いところで、その中に校内部員保有数No.1の吹奏楽部が全員入ると、何かの音楽鑑賞に来たような気がする。各々楽器をチューニングしたり、パートごとに音をそろえている姿は、中世ヨーロッパの舞踏会が始まる前みたいで、なかなか優雅だった。
でも緊張をほどいてはいけない。なんて言ったって、校内にある3つの音楽系の部活の中で、唯一フルートを常備しているのが吹奏楽部なんだから。おそらくこれまで発見されたフルートは犯人が事前に燃やして、持ち込んだものだとは思うけれど、今回がそのパターンだとは限らない。現地調達するとなったときに便利なのは、言わずもがな吹奏楽部に決まってる。もしも次に何かが起きるならここである可能性が一番高いのは明らかだった。
顧問の先生は椅子を勧めてくれたけれど遠慮して、ドアの近くに立つことにした。ここは五階だから、窓から侵入される可能性はほぼ皆無。最悪、コントラバスパートの横にある音楽準備室に潜伏されているかもしれないけれど、それを除外すると、侵入経路はドアを塞いでしまえばいいわけだった。
無事、こちらの緊張は伝わっていないのか、合奏練習は着々と進んでいく。先生がタクトを振るのに合わせて、忠実に音を奏でる吹奏楽部の演奏はその熟練度がよく分かった。さすが、地域の大会では右に出るものはいないと言われているだけあった。
ある程度練習をしていて、三曲目の練習に入ったとき、いきなり音楽が止まった。何かあったの⁈!と全身が泡立ったけれど、どうやら先生が電話に出ただけみたい。部員が椅子に座って一休みしている間、先生は少し相手と話をしたあと、すぐに電話を切って私の方へ来た。
「今から外部顧問の先生がいらっしゃるから、その人は通してくれる?」
「えっと…」
何とも言えなかった。そんなリスクの高いことなんてしたくない、っていうのが本音で。
「これまでも来ていただいた方ですか?」
「そうねぇ…ここに”先生”として来るのは初めてじゃないかしら。」
「え?」
どういうこと、と困惑していると、背後からトントンとノックの音がした。
来た‼私は先生を背中に庇って後ずさる。こんなにタイミングがいいなんて、どう考えても普通じゃない。ここで仕留めないと、教室に入られたらお終いだ。
「宇治原さん?どうしたの」
そんなに反応しなくてもいいじゃないと言って、先生は私の手をどかそうとしてくる。
「やめてください、下がって」
「ちょっと、これ以上普通の部活を妨げるなら帰らせるわよ」
だんだんと疑念のこもった声になってきて、こっちも焦る。でも今から本当のことを話したって、相手は板一枚挟んだ向こうにいるわけであって、そんな時間はない。
先生と押し問答をしている間に、扉の向こうにいる人はドアノブをひねっていた。
きいぃと不気味な音がして、ゆっくりと扉が開く。やられた‼
「先生、お願い、下がって――――――‼」
「七聖ちゃん、どうしたの?」
「え?」
先生に押しのけられて、腰を180度曲げながら見たその人は、見覚えがあるどころではないほど知った顔だった。
「宇治原さんがびっくりするようなことするから、先生も驚いているじゃない。」
先生がすねたような声を出す。ちょっと若作りしすぎたそれも気にならないくらい、私は拍子抜けしていた。…先生だって人が悪いよ。これなら、名前出してくれたっていいのに。
外部顧問の先生は人懐っこい笑顔を浮かべて、私に向かって手を差し出した。条件反射でその手を握る。
「ご無沙汰で。元気にしてた?」
「はい、おかげさまで…」
「いつもあいつのこと、ありがとうね。」
「いえ、お互いさ」
ちくり、ほんの少し棘が刺さったような痛みが握手をした方の手首にあった。
何か植物が入っていたかな、なんて脳天気なことを考えていたのは一瞬で、
棘が刺さったところから全身にかけて、立っていられないくらいの脱力感に襲われた。
「ぐっ、かはっ」
何もかもが分からないまま、口から泡が飛び出した。綺麗に受け身もとれなくて、容赦なく床に打ち付けられる。
握手した手の袖を見上げると、相手の中指の爪が、他のそれより尖っていて、しかも濡れているのが分かった。毒だ。つけ爪か何かに毒を塗って、それを直接、血管に注入されてしまった。道理で毒の周りが早いんだ。
何でどうしてこの人が。先生に助けを求めたいのに、麻酔をかけられたときみたいに唇が緩みきって音の1つも出てこない。
「…でしょうか、僕が…」
「いえ…わけには…」
「……です、………なかで…」
二人の会話を聞いて全てを理解した。だから私が狙われたんだ。
握手している私が倒れたことで、外部顧問も床に片膝をついていた。うまく聞き取れないけれど、私を連れて行くつもりらしい。
いよいよ声もハウリングして、ほとんど聞こえなくなってきた。横抱きにされたのか、解像度の低すぎる視界に、その人の顔がいっぱいになって映る。
さらさらの髪の毛に、色素の薄い肌。
どうしてこの兄弟はこんなにそっくりなんだろう。
何が理由でこんなことをしているのか、私にはわからない。
けれど、見上げたその笑顔は、笑っているのに、瞳が凍っていた。何も感情を浮かべないよう、努力しているように見えた。
…なぁに、その悲しい笑顔。そんなのが似合う人だった記憶、私にはないですよ…。
きいぃ、ぱたん。
扉が閉じられて、広い廊下に二人きりになる。目の前にある、上品なジャケットの胸ポケットから出てきたのは、ついさっき見た写真の現物だった。
油断した私が馬鹿だった。もうほとんどの感覚はないはずなのに、なぜかこのときだけ鮮明に声だけが聞こえた。
「七聖ちゃんには必要ないね」
床にそれを捨てて、上から革靴で踏み潰す。
その人は、
私達の先輩で、凛ちゃんの兄、
鍵塚祥太朗だった。
自分のふがいなさにたまらなくなる。でももう、涙が流れているかどうかでさえ、わからなくなっていた。
こんなことなら、愁に電話、かけとけばよかったな。
今度こそ本当に意識が落ちていく。消えていく五感にさよならを告げると、後に残ったのは、底なしの後悔と絶望だけだった。
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