えんがわ

仲井陽

えんがわ

 酔った勢いで縁側にえんがわを置いた。まりちゃんがスーパーで買ってきたタイムセールの寿司詰めから一貫、パックの蓋を裏返し皿代わりにして。

 縁側のえんがわ。くだらなすぎて僕たちはバカみたいに笑った。クーラーのない日本家屋だから開け放たれた窓から温い夏の夜が滑り込んできていた。


 そのころ僕は多摩川近くの古い一軒家を男4人でシェアしていて、まりちゃんはそのうち一人の彼女だった。その夜は他の住人がみなそれぞれの理由で出払っていて、まりちゃんの彼氏も仕事が長引いて始発まで帰ってこれなくなっていた。

「えー、私もう帰れないよー」

 泊るつもりで終電に乗ってきたまりちゃんは、彼氏がいないことを知り、映画のビデオとビールと寿司が入った手提げ袋をぶらぶら揺らして僕に言った。


 映画も観終わり、感想を言いながらひとしきり笑ったあと、なんとなく無言になった。僕たちはどちらともその場から離れがたくなっていて、雑誌をめくったり、冷蔵庫を意味もなく開けたり閉めたりした。

 僕は座布団を枕にして横になっていた。携帯で別に見る必要のないニュースサイトをチェックしていると、まりちゃんが雑誌をたたんでごろんと仰向けになり、その拍子に放りだした手が僕の手のひらに当たった。

 でも、まりちゃんはそのまま動かさなかった。

 二つの缶ビールが汗をかいて畳に染みを作る。扇風機の低い唸りがやたらに響く。

 僕はゆっくりと、その手を握る。

 まりちゃんは仰向けのままこちらを見ない。天井をじっと見つめていて、寝たふりすらしてない。

 急に素面に戻ったみたいに頭が冴えてくる。じっとりと汗ばんでいるのは僕の手か彼女のか。口の中がひりついてうまく唾が呑み込めない。心臓の鼓動で体が揺れる。まるで地震みたいだ(震度2くらいの)。こんなにバクバクいってたらバレるだろ。あ、でも呑んでるからどのみち速いか。横目で彼女を見る(どういうつもりなんだろ)。タンクトップの脇からブラの肩紐が見えてる(せめて握り返してくれれればいいのに)。でも本当に握り返してきたらどうする?(何かできんの?)喉ひりつくなあ(でも唾呑み込んだら絶対音なるなあ)。一言でも喋ったら崩れそうだし(何が?)。せめてこの手を握り返してくれればきっかけになるのに(でもあいつの彼女だ)。ああ、空気が蜜のようにまとわりついて動けねーなー。

 ふと、物音がした。

 見ると猫が縁側に上ってパックの皿のえんがわを前足で弄んでいる。

「わー、猫!」

 まりちゃんが小声で叫んだ。

「たまに来るノラだよ。上がってきたのは初めてだけど」僕も小声で返す。

「お寿司につられたんだよ。名前は?」

「特にないなあ」

「えー、じゃあ絶対エンガワでしょー。エンガワっ、おいでー」

 この命名によって、縁側でえんがわを食べるエンガワ、ということになった。“じゃあ絶対”ってなんでだよ。

 まりちゃんは残った寿司でエンガワを引き入れようと企んだが、僕は野良を餌付けすることに躊躇して何も協力しなかった。というか、さっきの濃密な空気はどこへ行ったんだ。

「あー、行っちゃったー。触りたかったのにー」

 そういって笑ったのを合図に、その夜は解けてしまった。まりちゃんは無人の彼氏の部屋へ眠りに行き、僕も残ったビールを飲み干して自分の部屋へ帰った。


 その後、まりちゃんが彼氏とひどい別れ方をして、僕たちは会うことがなくなった。

 エンガワもいつの間にか見なくなった。一度だけよく似た猫に遭遇したけど、でもそれは二駅ほど離れた場所で、記憶より痩せていたからもしかしたら別の猫かもしれない。

 あの夜引き入れれば良かったんだろうか。

 こっそり無事を祈ったけど、そんな資格もないし、救いは胸の内だけだ。

 それだって結局はなんでもないけど。

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えんがわ 仲井陽 @Quesh

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