仲井陽

新宿駅のホームで夕焼けに包まれた。絞ると朱色が染み出てきそうな空で、私はキャリーバッグを車両に乗せながら、まるで違う世界に旅立とうとしているみたいだなと思った。

　昔々あるところの話。 　伍介（Gosuke）は善良だけれども、知恵というものが跡形もなく溶け出しているような男だった。いつも洟を垂らし、動くものが見えるとすぐに気を取られ、ひと…

　酔った勢いで縁側にえんがわを置いた。まりちゃんがスーパーで買ってきたタイムセールの寿司詰めから一貫、パックの蓋を裏返し皿代わりにして。 　縁側のえんがわ。くだらなすぎて僕たちは…

ふと思ったことです。

　バスの車窓に張り付く雨粒がどこまでも伸びて、透明なミミズがたくさん這ってるみたいだと思った。ミミズたちは誰が一番早く窓枠に着くか競争してるけど、たとえ強い風が吹いても一斉に早回…

　そういえば、もう何年も爪を切っていないな。 　道雄がそれに気づいたのは夏も終わりの夜深い時間だった。いつものように得意先との接待を終えタクシーで帰宅すると、シャワーを浴びてもう…

　Ｋ県の田舎にはいぇるにぐらう祭というものがあるらしい。僕がそれを知ったのは大学生のころで、当時付き合っていた女の子から教わった。彼女の田舎では毎年梅雨の始まりに祭の準備をするの…

　一匹の蟹が、その尖ったハサミの間に絶妙な力加減でもっておむすびを挟み、砂浜を横切っている。 　そこへ柿の種を拾ったばかりの、もう一匹の蟹が現れる。 　最初の蟹を蟹Ａとして、柿の…

「だ、だったら地主さま、俺と賭けをしましょう」 「賭けだと？　何を賭けるんだ？」 「お借りしているこの田圃、です。もし、俺が勝ったら、これを頂きたい。お、俺よりも分かってると言う…

　そのころ私には橙子ちゃんって友達がいて、その子とはおんなじピアノ教室に通ってたこともあって、小学校のころはよく一緒に遊んでたんだけど、なんて言うんだろう、ちっちゃい時に仲が良く…

羽嶋雄介が初めて学校をさぼったとき、迂闊にも頭の中で尾崎豊の『卒業』が流れた。親世代の古い歌が浮かんだのは近頃ＣＭで繰り返されているからで、雄介自身その限られたフレーズしか知らな…

　善郎爺さん（Yoshiro the old man）は善良を絵に描いたような人間だった。心正しく温厚で、困っている人がいれば惜しみなく手を差し延べた。献身的な知恵者であり、村人…

「……本当に何でも相談していいんだな？」Ｋは言った。 「おう。俺を誰だと思ってんだよ。お前の親友だぜ？」話しやすくなるようにわざとおどけて返したが、Ｋはクスリともしなかった。 　…