正しい人/台風

仲井陽

正しい人/台風

 バスの車窓に張り付く雨粒がどこまでも伸びて、透明なミミズがたくさん這ってるみたいだと思った。ミミズたちは誰が一番早く窓枠に着くか競争してるけど、たとえ強い風が吹いても一斉に早回しになるからあんまり差はつかない。結局は張り付いた場所で勝敗が決まるから、生まれついての格差みたいだ。

 こいつらが景色を歪めてるせいで、私は降りるべきバス停を見逃した。もちろんこれは八つ当たりだ。でも車内はほぼ満員でこの席からだと前方の掲示板も見えなかったし、人いきれで曇ったガラスじゃどこを走っているのかも分からなかったし、はいはい、確かにぼんやりと考え事をしてたのも大きいですよ。とにかく気づいた時には何もかも手遅れで、帰り道を変更しなければならなかった。

 本当にツイてない時はとことんツイてないな。終点が駅だからそこから電車に乗り換えるしかないか。でもそれだと家まで結構長く歩かなきゃならないうえに、この雨でパンプスは拷問だ。ほんとはタクシーを使いたいんだけど、でも台風のせいでバイトが中止になったわけだから、贅沢なんかできるわけない。今月もあんまり余裕ないし。

 私はミミズから焦点をずらすと、窓に映る雑な化粧の自分の顔を眺めた。

 こんな目に合うのもあいつが先回りしてちゃんと連絡をしないからだ。ほんとに腹立たしい。社員のくせに私たちバイトよりも段取りが悪いなんて。私はちゃんと朝イチで確認の電話まで入れた。でも「一応来てもらえますか」って言うから、バイトなりだけど責任感を持って駆けつけたんだ。なのに着いた端から「本日の業務は無しになりました」だと? 「すいません。本社からの通達なんで……」来いって言ったのはお前だろう。お前の責任はどこ行っちゃったんだよ。社員だから許されるって? 私より無能なくせに。

「松ヶ上ー、松ヶ上でございます。お降りのお客様はバスが止まってからお立ち下さい」

 バスが止まり、何人かの乗客が降りて行った。こんなことを考えてるから乗り過ごすんだ。あー、くそ。怒りが染みついて取れない。

 私は心の中で溜息をついて、座席に深く身を沈めた。すると横に立っていたスウェット姿のオバさんがこれ見よがしに溜息をついた。オバさんといってもきっと私より5つか6つくらい上なだけで、でもくたびれて外見に無頓着な様子はオバさんと形容するのがピッタリだった。その溜息は明らかに席を譲れという圧力が込められていたけど、でもただ、私が乗り込んだ時ここは空席で、オバさんはそれを前にボケっと立っていたんだ。この人は吊革につかまって、誰も座ってない座席とその先に流れる景色を眺めていただけだ。それでも一応念のため、もしかしたら座るのかもしれないと思って、私はしばらく様子を見た。私はちゃんと待ったんだ。そっちに優先権があると思ったから。でもあんたはそれを行使しなかったじゃないか。だから座ったのに、今更そんな風にぶつけられても困る。知らないよ。世界はあんたの都合で回ってない。

「次は森崎病院前ー、森崎病院前ー、お降りの方はブザーでお知らせください」

 車掌が聞き覚えのないバス停の名を告げ、大勢の乗客がぞろぞろと降りて行った。

あれ? おかしいな。降りるべきバス停を過ぎたとはいえ、終点まで何度も乗ったことがあるし、こんなに乗り降りが多いところなら印象に残ってるはずだ。でも曇るガラスを手のひらで擦ってみても、雨粒に歪んで流れる景色はやっぱり知らないものだった。

 私は鞄を座席に置いて立ち上がると、にわかに空いた車内をよろめきながら反対側の窓の上に貼ってある路線図へ近づいた。転ばないよう吊革につかまってつま先立ちで目を凝らすと、ああ、しまった、行き先が違う。確かにいつものバス停を通るんだけど、その先からルートが二つに分かれていて、片方の終点は駅へ、で、もう片方はバスの親会社が運営するデパートの本店に行きつくみたいだ。つまりこのバスは帰り道の淡いよすがにすら辿りつかず、100%何の目的もないデパートへ私を連れ去っていくのだ。この嵐の中。タクシーすら躊躇する貧乏な女を。

 うんざりして振り返ってみると、あのオバさんがしっかりと私の席に座っていた。しかも私の代理だったはずの鞄は床の上に直に置きざりで。なんだこれ。私が立ち上がったのは路線図を見るためで、一時的なのはすぐに分かったはずだ。それを人の鞄をどかしてまで横取りするか? 素知らぬ顔でこんな風に? しかも雨に濡れた床の上に?

 私は慌てて鞄を引っ張り上げると、オバさんを睨みつけながら底を何度も手で払った。怒りに任せていたからバンバンとそれなりに大きな音が響いて何人かがこっちを見たけど、当のオバさんは一瞥くれただけでうんざりしたように鼻を鳴らし、あとは頬杖をついて寝たふりを決め込んだ。信じられない。本当に信じられない。世の中にこんな浅ましい人間がいるなんて。

 両手を鞄に取られていたので、バスがカーブに差しかかった拍子によろけてしまい、後ろに立っていたオジさんとぶつかってしまった。私は急いで吊革につかまると、すいません、と呟いてオジさんに会釈した。怒りで動転してたからちゃんと言葉になってなかったかもしれない。オジさんがほんの小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

 私は、ふと、この世に自分の居場所なんか無いんじゃないかという気持ちになった。私はちゃんとルールに則って暮らしている。なるべく人に迷惑をかけないように、物事ができるだけ上手く動くようにちゃんと考えて生きている。私は正しい人間であろうとしている。なのに、なんでこんなに踏みにじられなきゃいけないんだろう。なんでこんなに報われないんだろう。

 息苦しい。湿度も酷いし水の中みたいだ。窓に張りつく水滴がミミズじゃなくて気泡に見えた。そうか、水の中だ。だから誰にも私の言葉なんて届かないんだ。

 その時、終点を告げるアナウンスが流れた。私はこちらのルートの終点へ行くのは初めてだったから、これまで耳にしたことはなかったけど、それはデパートの本店へ客を迎え入れるための特別な言葉で締めくくられていた。

「次は本店前、本店前。今日が皆様にとって素敵な一日でありますように」

 ふいに投げかけられた祈りの言葉は思わぬ角度から差し込んで、私は完全に不意打ちを食らってしまった。気が付くと、自分でも何故かは分からないけど、目に涙を浮かべていた。私は慌てて顔を伏せた。こんなタイミングで人に見られたら何を思われるか分かったもんじゃない。でも鼻の奥がますますツンとしてきたから、立ったまま眠る人のように吊革をつかむ腕の中に顔を埋めた。

 弱っていたのかもしれない。こんな単純な言葉が琴線に触れるなんて。まるでちっぽけなことで悩んでるみたいじゃないか。全部簡単なことだって言いたいのか。たかがデパートのくせに。何も、誰も私のことなんか知らないくせに。ふざけるな。馬鹿にするな。

 そして、こんなことで涙ぐんだ自分を、恥じた。

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正しい人/台風 仲井陽 @Quesh

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