野球観戦ができなかった話。

久々原仁介

野球観戦ができなかった話。

 ホームランを打たれた投手はどんな気持ちなのだろう。


 そんなことを考えたのは大学二年生の夏だった。もっと言えば8月12日の母校の観戦に訪れた、下関球場での出来事だった。


 その日はたまたま家の空調の効きが悪く、虫の居所が良くなかった。家がサウナ状態になって喜ぶようなマゾヒズムを僕は持ち合わせていない。むしろ心のどこかでは胸のすくようなイベントを求めていた。


 じゃあ僕が野球好きかと言われれば、決してそうじゃない。甲子園をこよなく愛しているとかそんなこともない。


 ただ単純に僕は、母校が嫌いだった。


 男子比率が圧倒的に多かった我が母校は、文武両道を掲げていた癖にひどく武道に偏った指導方法を採用していた。


 底が4mあるプールに生徒を突き落とすのは恒例行事だ。他にもフルマラソン強歩大会、軟禁監禁ドキドキ勉強合宿、英彦山修験道コース~地図見てなんとか辿り着け~などなど。どれも死人が出てもおかしくないし、ほぼ逝きかけました。体罰厳罰やりたい放題。伝統という名の悪しき因習を後生大事に掲げるOBと、そのOBが究極進化を遂げた「OB兼教師」みたいな連中によって僕の高校生活は毎日が灰色パラダイスもいいところだった。隣に女子校があったことも精神的に拍車をかけた。耳を澄ませば黄色い声が微かに聴こえる。小鳥のさえずりのような癒しをもって、僕らはなんとか正気を保っていた。あちらが天国なら、こちらはバイオハザード。幾重もの制汗剤の臭いが混ざり合い、身体に大変よろしくない化学反応を起こしていた。いつも教室からはシーブリーズと犬の缶詰を足して2で割ったような悪臭により体調を崩す生徒が後を絶たなかった。


 入学当初は210名だった我ら116期生は卒業を迎えたのは170名にまで減っていた。これにはさすがの僕も驚いた。ほぼ一クラスぶんが消失しているのだ。確かに「アイツ最近見ねーな」と思えば軒並み退学していた。そういうことが多い高校だった。ちょっとしたホラーサスペンス映画である。


 僕がいかに母校を憎み、嫌っているのかについては分かってくれたのではないだろうか。思えばこれが全ての間違いだったように思うけれど、人間は愚かな生き物である。目の前の快楽には抗えない。自分の母校がボロボロに負ける姿形を一度この目にしておきたいという性格の悪い思いつきがムクムクと膨らんだ。ペダルを全力で漕ぐとき、身体を流れる大量の汗など気にも留めなかった。


 その年の甲子園は猛暑であった。僕は太陽光が容赦なくグラウンドと観客席に降り注ぎ、海沿い特有のベタベタした潮風にいたずらに吹いては汗を流す。双方の応援席に立つチアリーディング部たちは身の細い子から次々と倒れていき、最終的に残った部員はみんなレスリング部とチアリーディング部を間違えて入部したのだろうなと解釈せざるを得ない精鋭となっていた。


 暑い、暑すぎる。骨までしゃぶられるような暑さだった。試合はとうに始まっている。3回表、こちらが攻撃だ。ファースト側のホームベースよりの応援席。客入りは全体的にまばらで、対岸の応援席もベンチの青色が目立つ。


 早々に空いている席を探して座ろうとしたら、その隣の席でハトがひっくり返って死んでいた。ハトはスタッフに言って回収してもらったものの、スタッフの人から「どうぞお座りください」と、言われる始末。僕はお亡くなりなられていたハトの隣の席に座りたかったのであって、お亡くなりになっていたハトを避けてもらってまで、そこに座りたかったわけではないんですよスタッフさん。これではまるで「ここは俺が毎年座っている席なんでね、どいてもらわないと困るよ」みたいになっちゃってませんか? 甲子園どころか、野球観戦など人生で2度目であり、ボールとボークの違いも分からないままの僕に、頑固爺さんみたいな扱いは辛すぎますよ。


 何はともあれ、僕はもう座るしかなかった。しかし座って20秒。僕のお尻に変化が訪れる。暑い。いや、むしろ熱い。焼けるような、いや実際に焼けるほどの熱が布越しとは思えないほどダイレクトに伝わる。これはフライパンだ。太陽光の影響がこんなところまで……。僕は天を仰いだ。全然、これっぽちも野球に集中ができなかった。お尻とはつまり肛門だ。意識はしないかもしれないが、肛門の奥には直腸があり、その先には大腸が続く。つまりは内臓だ。内臓とはタンパク質であり、タンパク質は熱に弱い。僕のお尻はまるでフライパンに熱せられている卵のように細胞がジュワジュワと踊り弾けようとしている。しかしながら僕のお尻はIHに対応はしていないのもまた世の理。


 ハトの呪いだろうか。彼の安らかな眠りを妨げてしまったのが、原因なのだろうか。気付くといつの間にか母校のチームメンバーが攻守交代している。どういうことだ。さっきまで君たちは攻めていたじゃないか。もうアウトを取られたのか。情けないやつらめ。


 臀部に気を取られていた僕は、味方の攻撃を見る間もなく終わってしまったとでもいうのか。真っ青な空が広がる甲子園球場でこんなにもやもやした気持ちになっているのも僕を除いて他にいないだろう。


 「3‐1」のビハインドで始まる守備に緊張感が走る。手に汗どころか肛門から漏れてはいけない油まで出てきそうな勢いである。立っての応援も考えたが、周囲の誰も立っていない。精鋭チアリーディングの丸太のような足だけが階段に乱立している。なぜみんな頑なに立たないんだ。お前らの肛門だけ断熱材でも入ってんのか。

立つか、立つまいか。それが問題だった。お手洗いに行くことも考えた。スマートな解決策だ。しかしながら、ここでお手洗いに立てばその間にまた席は太陽光の餌食となってしまう。ようやく適正温度になってきた僕のベンチは再び熱せられることは避けられない。


「おい兄ちゃん、ケツ熱くないんか」


 僕の般若のような形相に異変を感じたのか、それともただの気の良い小太り中年男性なのか。男性は額の汗をタオルで拭いながら気さくに声をかけてくれた。


「今日は特別に暑いからなタオルでも敷きな」


 今日僕は初めてまともな言葉を聞いたかもしれないと感動した。感動で目から汗が流れそうである。


「いや、それがタオルを持ってくるのを忘れてしまい」


 服を脱いでお尻に敷くのもありかなと考えないこともなかったが、今日は乳首の毛の処理が甘いので断念した。


「それはいかんな、どれ一枚貸しとこう」


 そんなそんな。さすがに悪いですよなんて言いながら、内心はブレイクダンスをしたいほど嬉しかった。近くに僕のお尻をこれほどに案じて頂けるような気の良い中年男性と出会えるとは思っておらず、全力スマイル。ありがとう、おじさん。この恩、肛門に誓って忘れないよ。


 おじさんはおもむろに自身の服のなかに手を入れる。そのまま背中に両手をやると「ぷち、ぷち」と何かのホックを外した。そしてずるずると引き出すとカップの2つ付いたカラフルな布地が露になる。


 それは見事な赤色のブラジャーであった。


「これ、やるよ」


 まるで獲れたての魚をあげる釣り人のような笑顔でおじさんはブラジャーを僕の手を引っ張り握らせる。なぜおじさんはブラジャーを着けているのか。なぜ僕は球場でおっさんが着けていた汗だくのブラジャーを渡されているのか。謎は深まるばかりだった。天を仰いで漏らした「どうして」という言葉はおじさんにだけ届く。


「ああ、だいじょぶだいじょぶ」


 おじさんは僕の心配を察してか、補足を入れようとしてくれた。そうだ、何事も疑ってかかってはいけない。もしかするとおじさんにも、ブラジャーを身に着けなくてはならない理由があるのかもしれない。誰にだって歴史があり、生きてきた人生である。そこには今の自分になる原因や理由があるのだ。白いレースの入った赤い花柄のブラジャーとおじさん。このミスマッチが成立する理由とはなんだろうかと思考を巡らせつつ、ただおじさんが乳首の感じやすいだけの中年男性であることを切に願った。


「これ、母校カラーだから」


 そして斜め上の回答である。

 お前もOBかよ張っ倒すぞ。元男子高校の悪しき風習を2年ぶりに体感し、恐れ戦きながらおじさんブラジャーを尻に敷く。お尻の丸みとブラジャーのカップが見事にフィットしてしまい、少しイラっとした。


 野球観戦しに来たはずだったのに、おじさんのブラジャーの上に座る僕というシュールレアリスムが生まれてしまったことに苦悩する。おじさんの汗をしっかりと吸収したブラジャーは、徐々に僕のズボンを湿らせる凶悪な魔物へと変貌を遂げていた。僕の胸には後悔ばかりが募っていた。母校が負ける姿だけ見れればいいと思って訪れた球場では、間違いばかりが起こっていた。


 そして間違いは起こり続けていた。


 かきん、と。


 金属音は、僕が気を取り直してグラウンドに顔を向けるとほぼ同時に鳴り響いた。


 バットの甲高い音がグラウンドに響いて、何もない時間が三秒ほど続いた。あれほどけたたましかった吹奏楽団も呼吸を忘れ、音は吸い込まれるようにして夏の空気に消えていった。


 内野手も外野手も打者を除いた三人の走者さえも、地面に足を縫い付けられたかのように動かない。まるで人形劇でも見ているかのように、首だけが上から下へゆっくりと動いている。


 誰もが天空を仰いでいた。


 青空と入道雲に隠れた放物線を探すように振り返った。セカンドを守る選手は、僕よりもずいぶん頭上を見上げていた。とうにボールを見失った僕は、ピッチャーマウンドに立つ選手を見た。彼だけが自身の右手を俯くようにして見ていた。可哀想な背中をしていた。あの瞬間、マウンドに立つ彼の背中だけが何十年も時間が早く進んでしまっていた。


 僕を含めた観客は糸に釣られたかのように席から立ちあがっていた。そこにはもう暑さなどなかった。寒気さえ覚えた。


 呆然と立ち尽くしていた僕の頭を殴りつけるみたいに、歓声が爆発した。それはまるでパンパンに膨らんだ風船を針で刺したみたいで、肺が一気に縮み上がった。

そのとき僕はようやくボールを見つけた。レフトスタンドでスーパーボールのように跳ねたそれは、団子のような観客のなかに埋もれ、取り合いになっていた。


 客席から眺める限りなく小さい点になった白球は、間違いなく今もなお項垂れる彼の欠片に違いなかった。


「やめろ。やめてくれ。かわいそうじゃないか」


 ボールに寄ってたかる観客に僕は叫んだ。しかし、球場の歓声にかき消されて、言葉は誰にも届かなかった。


 我々を貫くトランペットの音とバスドラムの音が、爆弾の雨みたいにグランドへ降り注いだ。相手チームからの黄色い声援は止みそうになかった。「7」という絶対的な数字が得点板に刻まれる。


 キャッチャーはマスクをかぶりなおした。タイムは取らなかった。新しいボールが審判から渡されて、それをピッチャーへ投げつける。


 その後、追加で4点を取られた我らが母校は、コールド負け。二回戦で敗退した。誰もが無言だった。おじさんも、僕も無言だった。ブラジャーは丁重に返した。


 帰り際に自転車を漕ぐ元気はどうしてか湧かなくて、球場の外にある自販機横のベンチで買ったサイダーを半分まで飲んだ。しかし全部は飲みきれなくて半分はアスファルトの上に流して捨てた。


 まったく違うことを考えようと思った。お風呂に入りたいな。ひんやりした水で全身を洗って、熱い湯船に浸かれば、何もかも忘れられそうだった。野球のことなどすべてそぎ落とした裸の姿で、熱いシャワーを浴びたい。ヘアシャンプーをたっぷりつけて、たっぷり泡立てた頭を、やわらかいお湯で流すんだ。


 しかしそんな妄想は長く続かない。サイレンが鳴った。次の試合が始まるサイレンだった。


 敗北を望んでいた。そして想像以上の結果をこの目にすることができた。しかし満足などはなかった。口の中には呑みこむこともできない、いやに苦い飴玉のようなものが残っていた。


 空になったサイダーのペットボトルに、別のサイダーを入れてももう新品な気持ちで飲み込むことはできない。僕もそれと同じで、二度と純粋な気持ちで甲子園や野球そのものを楽しむことはできないだろうと思う。そこには必ず、僕が自身の快楽によって他人の努力や時間を蔑ろにしてしまったという事実があるのだから。


 あのピッチャーは、ホームランを打たれたときどんな気持ちだったのだろうか。タイムも取らないキャッチャーや、何の励ましもないチームメイトに、どんな感情を抱きながら次の球を放ったのだろうか。その答えは彼の中にしかない。あの可哀想な背中にしかない。


 もしかすると、球場から出てきた彼に訊いたって正確なことはわからないかもしれない。この硬いアスファルトの上で、思い出した冷静な感想などに僕は魅力を感じなかった。


 僕はタクシーに颯爽と乗った。それは格好だけで、内心は逃げたくてしょうがなかった。自転車のことなんか忘れていた。甲子園が終わってから取りにくればいいと本気で考えていた。僕の夏から自転車が消えた瞬間だった。


 僕はもう野球を見ることはできないけれど、彼にとってもあの金属音が永い呪いになってしまわないだろうか。と妙な胸騒ぎがじくじくと続いた。


 家に着くと僕は玄関で服を脱ぎ捨て浴室に入る。あれほど浴びたかったシャワーは温いまま、僕の足を伝い流れる。汗と泥と無数の僕と、少しの夏が排水口に落ちていく。


 青春を、砕いて浚う音がする。

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