ハネムーン
仲井陽
ハネムーン
羽嶋雄介が初めて学校をさぼったとき、迂闊にも頭の中で尾崎豊の『卒業』が流れた。親世代の古い歌が浮かんだのは近頃CMで繰り返されているからで、雄介自身その限られたフレーズしか知らなかったし、普段なら「高二にもなって支配だの闘いだの」と鼻で笑うのだが、今日だけは少し背中を押してもらいたい気分だった。人の後ろとはいえ、生まれて初めて乗ったスクーターのせいかもしれない。
梅雨が明けたばかりの澄んだ空気を横顔に受け、見慣れた街並みが矢のように過ぎ去るのを眺めていると、苦い気持ちも悩み事も綺麗さっぱり流れ去っていくようだった。
「どこ行くー!?」
ハンドルを握る中柴玲子が叫んだが、風に紛れて断片しか拾えない。
「えー!?」同じように雄介も叫んだ。彼女の腰に回した手はまだ収まりどころを見つけられていなかった。
「どこ行くって聞いてんの!」
「海ー!」
「はあー!?」
「海見たいー!」
雄介は精一杯の大声を張り上げた。風が押しやるせいで後ろからの声は届きにくいようだ。
「ダッセー!」
そう言って中柴玲子はけらけらと笑った。制服の男女を乗せて夏の日差しの中を駆け抜けるスクーターは、まるで80年代の青春映画みたいだった。
実際、中柴玲子の姿はとても今時の女子高生には見えなかった。肩にかかるソバージュと足首まである長い丈のスカート、真っ赤なマニキュアを塗った爪に濃いアイシャドウと口元を隠すマスク。大昔のスケバンそのものだ。
ただ、昔と違うのはそれが恐れの対象じゃなく、完全な笑いものでしかないこと。学校にコスプレして来る痛い女、それがクラスにおける中柴玲子の評価だった。自意識をこじらせた変わり者だとしても何故いまさらスケバンなのか。誰もが疑問に思い、心の中で突っ込んだ。直接聞いた勇気ある(興味本位で無礼な)数名の女子もいたが、中柴玲子が無言で机を蹴飛ばしたので、「ごめんごめん! ちょーこわーい!」と笑いながら立ち去り、二度と話しかけはしなかった。
彼女は孤立した存在だった。彼女自身は怖がられていると勘違いしたのかもしれないが、どちらにせよ誰からも相手にされることはなかったし、彼女の方もそれで良さそうだった。
雄介が中柴玲子に声をかけたのはやぶれかぶれになっていたからだ。
朝、憂鬱な気持ちを抱えて学校の前までは来たものの、父親に告げられた事実が何度もリフレインしてどうしても門をくぐる気になれなかった。自分は普通の人間じゃないんだ、真面目に学校に行ったところでそれが何になる、どうせもうまともな人生は歩めないだろうに。そんな考えが鉛のように足にまとわりついていた。
今まで欠席はおろか遅刻すらしなかった雄介にとって、校舎の外で聞く始業ベルの音は断罪の響きを伴った。ささやかな優等生の誇りは崩れ、それでも立ち去ることができず、引力に囚われた衛星のように学校の周りをうろついていると、行き止まりの小路にスクーターを停めている中柴玲子を見つけた。
「それ、ナンバープレート塗ってんの?」
驚くほど自然に言葉が出た。突然話しかけられた彼女はびっくりした様子で振り向いた。
「……おお」
「なんで? オシャレ?」
使い込まれた小さなスクーターの後ろにはピンク色のナンバープレートが取り付けられていて、遠目だと分からないが近くで見ると所々かすれていた。ペンキか何かで塗ったようだった。
「……ピンクだと原付二種になるから捕まりにくいんだよ。二人乗りもできるし」
「へー、自分で塗ったの? 上手くない?」
「別に普通だし」
「バイクってやっぱ怖いの?」
すらすらと会話できるのが自分でも意外だった。どうでもいいと思いながら人と話すのがこんなに楽だとは。彼女とは目を合わせたこともないのに。しかしそんな雄介の内心とは裏腹に、中柴玲子は警戒を解いたらしくマスク越しにニヤリと笑って言った。
「バカ、すっげー楽しいよ。乗る?」
二人を乗せたスクーターは市街地を抜け、海へと向かう川沿いの道を走っていた。車通りもほとんどない一本道だ。雄介はめいっぱい首を回して後ろを振り返り、どんどん小さくなっていく交番を見つめた。
先ほど通り過ぎたとき警官がこちらを見た気がしたのだが、杞憂だったかもしれない。雄介は、あの警官が交番の脇に置かれたミニバイクで追いかけて来たらどうしようとヒヤヒヤしていた。
「ふらふらされると運転しにくいんだけど!」
中柴玲子が叫んだ。原付スクーターは軽くて不安定で、雄介が振り返るたびに車体が揺れた。
「交番があったよ!」
「えー!?」
「交番! 見られたかも!」
「マッポなんざ怖くねーよ!」
吐き捨てるように彼女は叫んだ。マッポという言葉に雄介は思わず吹き出してしまったが、幸い、風にかき消されて彼女には届かずに済んだ。生き生きとした中柴玲子の姿はクラスにいる時とは別人のようで、なんとなくケチをつけるようなことはしたくなかった。
「まだ大分あるけど、ほんとに行くのかよ!」
「海ー!?」
「あー!」
「行こうよー!」
「マジかよー!? 意外とぶっとんでんなー!」
またけらけらと彼女は笑った。雄介はこの成り行きの逃避行が思いもかけず楽しかった。バイクというのが良かったのかもしれない。風と光に晒されていると、この身に流れる醜い血が浄化されていくようだった。
雄介はできることならこのまま遠くへ行ってしまいたかった。家に帰れば父と顔を合わせなくてはならない。どう接していいか分からなかったし、それはもちろん母親ともそうだ。コレクションの隠し場所も変えなきゃいけない。いや、いっそ投げ捨ててしまいたかった。それだけじゃない。恋人なんか出来ようものなら両親は心の内でどう思うだろうか。そもそもこんな自分を受け入れてくれる女の子なんているはずもないだろうし、それにもし万が一秘密が漏れてしまったら……。雄介は恐ろしい想像に身震いをした。何故自分はこんな風に生まれついてしまったんだろう。何もかも全てが汚らわしかった。
この道が永遠に続けばいいのに。いっそこのまま海に着かなければいいのに。
そして、その願いはある意味すぐに叶うこととなった。車の通らない道はろくに補修もされておらず所々に穴が開いていたのだが、そのうちの一つに前輪がはまった。突然進むのを止められた車体は慣性の法則に従って後輪が浮き上がり、前方へ半回転する形となった。雄介はつかまっていた中柴玲子ともども地面に投げ出され、主を失ったスクーターは横倒しのまま滑っていき、道端の繁みに突っ込んで止まった。
「いってー……」
荒い呼吸とともに雄介は草いきれが鼻の中に広がるのを感じた。身を起こそうとしてアスファルトを擦るヘルメットの音がやけに大きく響いた。繁みの下ではスクーターが横たわったままアイドリングの低い唸り声をあげ、カラカラとタイヤを回していた。
幸い、大きな怪我はしていないようだ。着地した時に捻ったのか右手首が多少痛んだが軽い捻挫程度だろう。雄介は傍らで倒れている中柴玲子に目をやった。ヘルメットが脱げて転がっていたが、雄介が目を奪われたのはそれではなかった。そのすぐ側に、あの時代錯誤なソバージュが落ちていた。それはまるで中身を抜かれた動物の毛皮みたいだった。
中柴玲子が顔をしかめて起き上がった。痛むのか頭を押さえようとして、まばらに生えた産毛のような弱々しい髪に手が触れた途端、顔が蒼白になった。そして落ちているソバージュのカツラと雄介の視線で全てを悟った。
「見ないで!」
彼女はうずくまり両手で頭を抱え込んだ。マスクは外れ、片耳からぶら下がっている状態だったので、叫んだ際、口の中にほとんど歯がないのが分かった。
スマホで調べたバイク屋は運よく歩いて行ける距離にあった。スクーターを見てもらうと、カウルに派手な擦り傷は出来ていたが、前輪がパンクしただけであとは走れる状態らしい。修理に30分ほどかかると言われ、二人は近くの公園で待つことにした。
ベンチでうなだれる中柴玲子に雄介は缶コーヒーを奢ってやった。ソバージュとマスクは元通りになっていたが、うつむいて微かに震えるその姿は、さっきまでの生き生きした様子とも勿論クラスでの彼女とも違っていた。ただのか弱い女の子だった。
やがて彼女はぽつぽつと話し始めた。タンパク質の異常で髪や歯や爪などが正常に発育しないこと。それが原因で小学校時代は「ゾンビ」と苛められ、中学はずっと不登校だったこと。あるとき母親の昔の写真を見つけ、そのスケバン姿に興味を持ち、それから昔の映画やネット動画でレディースというものを調べ、真似るようになったこと。そうすると自分が強くなった気がして、徐々に明るく振る舞えるようになり、学校にも行けるようになった。母親は(彼女の家は母子家庭らしい)複雑な気持ちだったが、それで娘の気が晴れるならと黙認した。
彼女の声に涙が混じり、話は嗚咽によって途切れた。雄介はずっと黙って聞いていたが、ぽつりと一言「分かるよ」と言った。彼女はうつむいたままだった。
「俺も、先天性の病気なんだって。昨日父親に言われた」
雄介はそれ以上何も言わなかった。彼女の鼻をすする音と蝉の声が二人だけの公園に響いていた。
修理が終わったのはそれから一時間も後だった。バイク屋は遅くなったお詫びにとカウルの傷をサービスで目立たなくしてくれて、スクーターは転倒など素知らぬような顔をして返ってきた。
「どうする? まだ行く?」
ハンドルに手をかけ中柴玲子は言った。泣いたことですっきりしたのか、少しリラックスしているように見えた。
「海? 行こうよ。せっかくここまで来たんだし」
雄介も何事も無かったかのように返した。日は頂点を過ぎ傾き始めていた。これから海まで行けば、家に帰りつくのは夜になるだろう。
「分かった。じゃあ乗って」
中柴玲子はシートに座って微笑んだ。雄介は後ろにまたがり彼女の腰に手を回したが、最初に乗った時よりもそれはずいぶん華奢に感じた。
甲高いエンジン音が鳴り響き、二人を乗せたスクーターは再び海までの道を走り始めた。雄介は頬に当たる風を感じながら、昨夜の出来事を思い返した。
夕食の後、「話がある」と神妙な顔をした父親に呼び出されて書斎に入ると、机の上に置かれていたのはベッドの隙間に隠していた秘蔵のDVDたちだった。『強制排泄女学園』、『濡れ濡れナースのお仕事3 ~アナル浣腸10本勝負!~』、『変態オジさん出没注意! ~あなたのトイレ、盗撮させてください~』
雄介は血の気が引いた。バレた、怒られる、変態だと罵られる、なんで勝手に触るんだ、様々な思いが一気に噴き出し、恥ずかしさと怒りで何も考えられなかった。父親は、滝のような汗を流して固まる息子を前に、言葉を選びながら慎重に語った。
いずれ話さなければいけないと思っていたんだ。咎めたり、怒ったりしたいわけじゃない。早とちりしないでよく聞いてほしい。こういうことに興味を持つのは分かっていた。お前は自分が特殊な性癖だと悩んでいたかもしれないが、そうじゃない。羽嶋家には代々、男だけがかかる奇病があるんだ。それは思春期を過ぎたころから発症し、一生背負っていかなければならない呪いのようなものだ。だから受け止めきれないかもしれないが、知っておいてほしい。
そこまで言うと父親は、今好きな子はいるか、と聞いた。雄介は混乱したまま首を振った。どうやらそういうことと関係があるらしい。
告げられた病気の名は『スカトアントロポス症』。別名、遺伝性強迫食便症。つまりウンコを食べたくて仕方がなくなる病気だ。しかも食べないでずっと我慢していると震えが止まらなくなり、パニックに陥って下手すると死んでしまうこともあるという。それはホルモンバランスの変化と関わっていて、特に恋愛感情を抱いた異性のものを食べたくなるそうだ。
「大丈夫だよ、恥ずかしいことじゃない。父さんだって、何度も母さんのウンコを食べたんだ」
そう言われて安堵するどころか絶望が増した。変態よりもタチが悪かった。父親は、経過を見ながらゆっくりと受け入れていけばいいと言った。
「どうしても我慢ができなくなったら恥ずかしがらずに言うんだぞ。好みじゃないかもしれないが、父さんも母さんも協力するから」
それは、いずれ、本来食卓に上るべきではないモノが用意される、ということだろうか。
雄介は結局一言も喋らずに書斎を出た。朝まで一睡もできなかった。
木漏れ日が作るまだらな光の中を二人の乗ったスクーターは滑るように走った。目を閉じるとまぶたを通り過ぎる光が心地良くて、うっかりすると眠ってしまいそうだった。
「なー!」
中柴玲子が叫んだ。
「そっちの事情もそのうち教えてくれよなー! アタイばっかりだと、なんか、恥ずいぢゃんかー!」
雄介は笑った。
「そのうちねー!」
「ぜってーだぞー!」
「そのうちねー! 多分!」
「約束しろよー!」
雄介は返事をする代わりにつかまっていた腕に力を込めた。あまり強く抱きしめると折れそうだ。こんな細い体で戦っていたなんて。考えてみれば彼女のことを何も知らなかった。ただの変人で、頭が悪くて目立ちたいからこんな恰好をしてるんだと思っていた。でも違った。自分が知らないだけだった。もしかしたら、それぞれ形は違うかもしれないけど、誰もがみんな、人知れず重い荷物を背負っているのかもしれない。
道は緩やかなカーブに差し掛かり、雄介は車体に合わせて体を傾けた。この数時間のあいだでタンデムにもすっかり慣れたようだった。道の先に松の防砂林が見えた。海はきっともうすぐだ。
雄介は潮風の匂いを感じながら、ふと、中柴玲子のウンコはどんな味だろうと思った。
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