曼珠紗華
平澤唯
曼珠紗華
不毛の土地へ、太陽の光は容赦なく照りつける。それは地平線を越え、ずっと向こうへと続く。その荒野に一本の道が延びていた。誰が何のために敷いたのか、何一つ分からない。だが、一つだけ分かることがあった。それはこの道が、居場所を追われた者が通る「追放者の道」であること。そして、この延々と続く道に一人歩く男がいた。
男は、薄汚いボロ雑巾のような服を身にまとっていた。顔は、汗や涙でぐっしょりと濡れていて、それに対し打ちひしがれた、疲れとも諦めとも受け取れるような血色の悪い、乾いた表情をしていた。だが、容赦のない太陽は、依然と男を灼熱の地獄へと陥れた。男は熱光を浴び続けていたからか、男自身、なぜこの道を歩むのか分かっていなかった。理性を失い、本能のままにあるき続けていたのである。それでも、自分の居場所はもう存在しない、そう男は本能的に悟っていた。男は、その延々と続く道をずっと歩き続けた。腕は、糸を切られたパペット人形のようにだらりと下に垂れ下がり、脚は重苦しくギシギシと壊れそうな音を立てながら動いていた。全身には、痛みという痛みが列車の如く駆け抜けている。
息も絶え絶え歩き続けた男は、人骨と出会った。それは女性のものであり、薄汚いスーツを着ていた。見たところ、彼女はOLだったのだろう。近くに落ちた黒いヒールが物語っている。人骨は胎児のように横たわり、周りには水たまりがあったのだろうか、それが干からびた亀裂の跡があり、枯れた草木が地面からぐったりと顔を出していた。この人骨が視界に入った途端、それ目掛けて歩きだした。すでに白骨化していてよく分からないが、亡骸の辺りの地面の様子から察するに、もがいたり苦しんだりした様子はない。
可哀想…
彼女、途中デ死ンだ…
自分モ同ジ、途中死ヌノカ…
男は、亡き同士に無意識ながら同情と不安を感じていた。すると、ふと頭に雷鳴のような命令が鳴り響いた。それは頭痛を伴い、励ましを与えるものであった。男はうずくまり頭痛を耐えていた。途端、男の意識ははっきりした。今まで無意識に動いたり感じたりしていたのが、今は自分の理性が働いている。男は、この女性が進むようにと励ましてくれているのだろうと思い、自らの意志で進むことにした。
男は歩き続け、やがて死体に出会った。男の位置からは腐臭がするはずなのに、不思議とそれはしなかった。死体は青年のもので学生服を着ており、辺りには燃やされて黒く焦げたノートや参考書が散乱していた。その中心で大の字で青年は横たわっていた。額には「合格必須」と書かれたはちまきが巻かれており、首には縄がくくられていた。首には縄がきつく締められており、赤い痣がくっきりと出ていた。だが、その壮絶な様相に反して、表情は安堵で満ちていた。
首に巻かれた縄、散乱した参考書、ノート、着ている学生服から察するに、ストレスを溜め込み過ぎた受験生が首を吊って自殺したというところか…
安堵した表情をして倒れているのを、男は理解できなかった。死体を眺めて考察をしていると、ふと喉元に違和感を覚えた。それは喉元に巻き付き、男の首を締め上げていく。徐々に締まる一方、男はそれがもたらす安堵を感じていた。だが、安堵の中、男はここに留まればまずいと感じた。安堵感は男をそこに留まらせようとするが、男の脚は前へ前へと進んでいった。前に進まなければという思いが男を駆り立てた。すると徐々に首に巻き付いた違和感は弱まり、ようやく男は開放された。
ここでは倒れられない…
男はすぐさま道を歩みだした。それと同時に、男は一つの疑問を持った。「追放者の道」とは何なのか。
男は三日三晩歩き続けた。男の脚を、疲労の鉄球が引っ張っていた。それでも男は前に進み続けた。その間ずっと、男は己の歩く道について考えを巡らせていた。すると、目の前に転がっているロボットが見えてきた。ロボットは半円形の頭、円柱形の胴を持っていて、腕は無く、豚足に消しゴムが突き刺さったような、どんくさくてかわいらしい見た目である。その隣には老人の死骸が仰向けに横たわっていた。どうやらロボットは壊れているようで微動だにしない。老人の横に小銃が落ちていて、老人の頭部には弾痕があった。
また自殺か…
老人を見た男にとある想像が走馬灯のようによぎった。すると、それは男の周りの世界を包み込み、荒野ではない空間へと変えていった。
それは豪勢な晩餐。席は一人分、独り占めするにはあまりにも多すぎる量の晩餐がそこにあった。真ん中には鳥の丸焼きがあり、サイドにはマッシュドポテト、ミートパイ、ミートローフ、麦入りのポーリッジがあった。どれも豪勢な見た目をしており、男は食事を手に取ると頬張り始めた。しかしどれも口に入れた瞬間、灰のようにボロボロと崩れていき、味がしなかった。どれだけ食べても、満ち足りた気分にはならなかった。それでも男は手を止めること無くただただ頬張り続けた。食べることを止めなければ、いつか味がするかもしれない、そう思っていた。やがて男は食べる速度を落としていき、食べるのを止めた。晩餐はまだまだ残っていて、四分の一すら食べ切られていない。その時、男の手は餐卓の真ん中に伸びていった。今まで残った晩餐が、デザートに置き換わっていたのである。真ん中にはパンプキンパイ。そこからバタークリームケーキ、ゼリー、チョコレートケーキ、クッキーが円状に並ぶように出現していった。男の止まった手はパンプキンパイへと向かった。そして手づかみで頬張ると、口の中に、パイのサクサク、かぼちゃの甘さと濃厚な味わい、上に乗ったクリームの濃厚さが染み渡っていった。男はデザートで満たされると知るやいなや、デザートを頬張りだした。
甘い…
味わい深い、満たされる…
男はこれらがもたらす快楽へと身を任せて頬張った。晩餐と同じ量もあったデザートは男にすべて平らげられてしまい、男は満たされた気分になっていた。その時、男の額に穴が開いた。八ミリ程の小さな穴が一つ。それは、やがて二つ三つと増えていき、男の額は種の無いの蓮の実のように、無数の穴が開いていた。だが、男は気にもとめずにデザートを頬張り続けた。手を止めようとすら思わなかった。しかし、次第に男は違和感に気が付き始める。
この甘さ、この快楽…
全てが空っぽ…
男が感じたのは、空虚であった。そこには何も無く、ただどす黒く空間がぽっかりあるような甘さである。男は手を額に当てると、穴がいくつも開いていることに気づいた。まるで空っぽの空間に吸い込まれていくように何もない。男は慌ててその場から立ち去ろうとしたが、脚がうまく動かない。なんとしてでも動こうと男はもがき、椅子から転げ落ちると、手で這いなんとかその場から離れていった。すると男の前にはだだっ広い荒野が広がっていた。ロボット、老人の死骸と奥へ奥へと続く道しかもう存在しない。もう晩餐やデザートの姿かたち、その時の満ち足りた満足感は無かった。ただ疲労が彼へ重くのしかかっていた。だが、男は進み続けること決心していた。
男は疲れていた。今まで疲労を無視してあるき続けたのだが、もう限界に近づいていた。すると、目の前に大木がそびえ立っていた。男はちょうどいいと、木陰に入り急速をとることにした。大木の根っこを枕代わりにし、仰向けになると男は意識を失った。
男は会社員をしていた。年甲斐にしてはそこそこの地位に上りつめた、いわば「できる奴」だった。部下には慕われ、上司からは有能な若手として期待をされていた。そんな男は、ある一つの失敗をしてしまった。ある時、担当していた仕事にミスが発覚した。それは取引先が原因のものであったのだが、取引先はあたかも男のミスとしてこれを処理し、謂われのない因縁をつけてきた。そして契約を切ってしまったのである。それに対し男を酷く憤慨した。当然のことだ。謂われのない因縁を勝手につけられて怒らない人はいない。だが、男は当然を良いことに取引先を罵ってしまった。大人としてやってはいけないことをしてしまったと男は酷く落ち込んだ。勿論この事件は上司の耳に入った。上司も男と同じく腹を立てていたので、男の気持ちは痛く理解できた。だが、会社としては男に罰則を与えないと体裁が立たない。指を詰める気持ちで上司は男に降格処分を下した。男はこれが耐えられなかったのである。今まで会社に貢献してきたのが、この始末。男のプライドは打ち砕かれてしまったのである。そのおかげで男は心を病んでしまった。仕事に身が入らなくなっていき、家、ましてや布団から出ることがままならなくなっていった。男は焦った。降格処分を受けた上、今度は出勤できなくなってしまった。このままでは会社をクビになっても文句も言えない。しかし、男の身体は鉛のように重く微動だにしなかった。頭では動かなければと思うが身体は微動だせず、それに対して男は嫌気が差し、この悪循環が男の心を蝕んでいった。やがて会社は男を切り捨てた。会社という拠り所を失った男は、心の拠り所を婚約者に移す形で依存した。婚約者は、初めは「私があなたを支える」だの「ゆっくり休んで」などのきれいごとを並べていた。男は彼女の優しさにより塞ぎ込んでいき、彼女は面倒を見きれなくなった。そしてある日、彼女は何も告げずに去った。男は全てを失い、気づけば追放者の道を歩いていた。
ふと男は目を覚ますと、懐に違和感。懐に手を入れて抜き出すと、出てきたのは一輪の花。それは曼珠紗華であった。それを見ていると前に進まなければという気持ちになった。
ここではない…
もっと奥へ…
男の身体には、確実にガタが入ってきていた。太陽の容赦ない光に飽き足らず、これまた三日三晩、ほぼ静止することなく進み続けたからである。男をここまで突き動かしたのは、懐に入っていた曼珠紗華。男は、脚を止めれば確実に動けなくなると無意識に理解していた。脚を絶え間なく前に出していると、男はふと、この先、何が待ち受けるのかと煩った。
地平線のその先、ずっと続く道を歩いて何になるのか…
そんな邪念が、彼の心を曇らせ、前へ進むという意志を鈍らせた。その度、彼は懐を弄り、曼珠紗華を引っ張り出し、心を保った。それは、スラリとした緑色の茎から、赤々とした花びら、つぼみ、雌しべ、そして雄しべが、蜘蛛の足の如く生えていた。花を見ると、「まだ進まなければ」と思った。その赤々とした熱い決意で心を満たされるのである。身体を駆け巡る痛みを忘れて、前に進むことができたのだ。
曼珠紗華、またの名を彼岸花は、古来より不吉の象徴として、飢饉には貴重な食料として、人間と営みを共にしてきた。葉を生やすことなく、秋に突然、冬という死季の到来を告げる使者として現れる。生えたと地にモグラや虫が寄り付かなくなる、食べれば毒によって死ぬ、などの理由が不吉さに起因するものであろう。だが男の持つ花は、印象とは裏腹に、赤々と激しく、妖艶な見た目をしていて、見たものを虜にする、情熱的な、刺激的な様相を呈していた。
男は、進み続けると、そこには一面に広がる曼珠紗華。男の身体は、もう限界を迎えていた。花を手にした男は、その妖艶な花原に向かって、脚を進めていた。男は花たちを求め歩き続けた。すると花たちは男に応えた。男は花たちを求め、花たちは男を求め返した。そして男の手足めがけて、花たちは、触手のように雄しべを器用にくねらせながら絡みつけた。男は、幾千も絡みついた雄しべから、道を歩み始めてからずっと味わったことのない、圧倒的な安堵感と暖かく包み込む快楽を感じ、恍惚とした表情を浮かべた。男に絡みついていた雄しべからは、快楽と安堵、そして痛みを伴う毒が流し込まれていた。それでも男は進み続け花原に脚を踏み入れた。やがて辺りからは声が聞こえてくるようになった。それは女性的で妖艶な声で男を誘う。
モットチカクへオイで…
ヨコになりなよ…
気持ちよクなれるよ…
一緒に寝ようよ…
私たちに全部任せて横になるの…
すぐに気持ちよくなるから…
男はたちまち痛みのあまり、花原の中心で崩れ落ちた。すると痛みは和らぎに変わり、それに比例して男は動けなくなってしまった。快楽の渦に呑まれながら、男はわずかに残った理性で考えた。
「追放者の道」とは何なのか…
なぜ「追放者の道」を歩き続けたのか…
今まで何を求めてあるき続けたのか…
なぜ今になって体が動かないのか…
手に握られた彼岸花、出会った亡骸(どうし)とその場所。花たちは、男を赤々と妖艶に、且つ、甘く包み込み優しく声をかける。男の左右上下には赤一色。男の体と脳は毒と快楽に蝕まれていき、わずかに残っていた理性は消えていった。男は一筋の涙を流し言った。
「やっと着いた」
荒野は、地平線を超えて延々と続き、そこには一本の道が続いており、それは居場所を追われたものを自らの求める安住の地へと導く。道には、水たまりがあったであろう干からびた窪みと枯れた草木、その傍らに人骨が。その先には、燃えた参考書とノートが散乱した場所があり、そこには、腐りに腐って原型をとどめていない遺体が大の字に寝ていた。その先には腐り果てた老人の屍と錆びたロボット、その先には高くそびえ立った死木が立っていた。そのもっと向こうの先に、かつて満面に咲き誇っていたのであろう、枯れた花の跡がずっと広がっていた。その中心に一輪、赤々と花は、寂しそうに咲いていた。
曼珠紗華 平澤唯 @hirazawa_yui
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