第3話 理由
「『安楽死を反対する会』のリーダー……白川夜空さん」
夜空――素敵な名前だった。眠れず、孤独にいたボクを包み込んでくれた、あの暗く、けれど優しい星と月の明かりで慰めてくれた、夜の空を名前に持つ人。
「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわね」
教えてくれるかしら、とどこかおかしそうに笑う。これだけ胸の内を明かしながら互いの名前も知らずにいたのだ、と、少し不思議そうに。
「天野……日向です」
「ひゅうがさん。私と反対の名前ですね」
「はい。夜と、昼……」
やっぱり、この出会いは運命なのだ。胸の高鳴りはもう、止まりそうになかった。
けれど、先ほどの夜空さんの言葉が、ボクの気持ちに冷や水を浴びせる。
『恋愛のできない空っぽの人間』
違う、と、心が叫ぶ。
だって、夜空さんはさっき、亡くなった旦那さんへの愛を語っていた。恋愛を知り、今も恋愛に生きる人間だ。
あるいは、だから。亡き夫に操をささげているから、もう、他の誰とも恋愛はできず、する気がないのだと。
そんな、拒絶。
逃げるように、俯く。視界に映るのは、両手に持った名刺。
「……安楽死は、その死を選ぶ本人にとっては、幸いなのかもしれないわ」
死は、命を絶つ本人にとっては、救いになりうる。
どうしようもない現実からの逃避として。無に沈める方法として。
だから、ボクは死を望んだ。どうしようもない現実に心を痛めながら、この世界から逃げようとした。
夜空さんもまた、愛する夫の死から、逃げようとした。
けれどボクたちは今、ここにいる。
夜空さんは、置いていく側の人間ではなく、置いていかれる側の人間だった。
「残される者にとっては、災い」
「そうね、仮に余命宣告されても、日に日に自分の体が自分のものではなくなっていっても、それでも、可能性があったかもしれないと……そんな心残りが、生まれてしまうの」
ある日、奇跡的に劇的な免疫反応を見せる時が訪れたかもしれない。
快方に向かうかもしれない。
特殊な治療法が開発されて、臨床試験に臨み、病から救われるかもしれない。
そんな可能性を、安楽死はつぶす。
「希望が、可能性が、いつまでも胸から消えないの」
胸を押さえ、訥々と彼女は語る。深い悲しみを、その声に乗せて。
「置いていかれる身に置かれたら、安楽死なんて受け入れられない。安楽死は……身近な人の心に、爪痕を残すの」
だから、私は安楽死を反対するのだと。
安楽死を反対する会のリーダーは、凛と背を伸ばして語る。確かな悲しみと、大切な人の死を背負って。
けれどその姿は、どうしようもなく弱々しいものに見えた。
守ってあげたいと思った。救ってあげたいと思った。力になりたいと、心から願った。
強い思いに、涙があふれた。
彼女の苦しみを思って。
そして、苦しむ彼女と対比すれば、自分の苦しみなんてひどくちっぽけで。
自分がごく平凡な、普通の人間だと思えて、泣けた。
「……ボクに、あなたを幸せにさせてください」
気づけば、そう口に出していた。
一度口を開けば止まれないと、そうわかっていたのに。
それでもボクは動き、そしてもう、止まれなかった。
「あなたに、これ以上悲しんでほしくない。これ以上、苦しみを抱え続けてほしくない。……あなたが、好きなんです」
きっとあの日、あなたが、涙を流してくれた時から。
ボクは、夜空さんが好きだった。
けれどその淡い恋は、言葉にすることは叶わなかった。
その希望はボクの生きる理由で、砕ければ膝を屈してしまうだろうもので。
そして何より、あなたが、ボクの前にいなかったから。
けれど、今、あなたはボクの前にいる。夜空さんは、ボクを見て、ボクと同じだと笑って、ボクに、思いを打ち明けてくれた。
過去を思い出し、まだ言えぬ心の傷に、涙を流した。
そんな夜空さんの姿は、もう、見ていられなかった。
「夜空さん、あなたが好きです。ボクと、幸せになってください」
彼女は、じっとボクを見つめていた。目をそらすこともなく、瞳を揺らすこともなく。
驚きはなかった。きっと、ボクの思いに、気づいていたのだ。
彼女の薄い唇が、ゆっくりとわななく。告げられる言葉が怖くて、逃げようとする自分を必死に抑え込んだ。
逃げる――ああ、そうだ。
ボクは、この告白を受け入れてもらえないと、そう理解していた。
「ごめんなさい」
それでも、チャンスを探していた。
「……理由を、教えてもらえますか?」
どうしようもないことであれば諦めよう。過去を思い出すボクの顔なんて見たくもないというのであれば、受け入れよう。もう誰も愛せないというのであれば、ただの友として、あなたを幸福にしよう。
だからどうか、本音を語って。自分の心を、騙らないで。
それは、長い、長い沈黙だった。
喫茶店に流れる曲は二曲、三曲と変遷していき、雨音を思わせる静かな音色に代わっていた。
「……私の心には、彼がいるの」
わかっている。そんなことは、わかっている。
それでも、ボクは、あなたのそばにいたいんだ。あなたに、幸せになってもらいたい。だから、どうか、どうか――
「私は、もう、彼以外の男を愛せないの。だから――」
だから、諦めてくれる?
その、問いに。
ボクは笑った。
夜空さんが、不思議そうに首をかしげる。
ああ、そうか、と。
納得した。理解した。
ようやく、わかったのだ。
ボクが、ボクである理由が。みんなと違う理由が、ようやく、わかった。
きっと、今日、この時のためだった。彼女の、夜空さんのためだった。
「……ああ、ボクは、ボクでよかった」
言いながら、机の上で硬く握りこまれていた彼女の手を取る。
彼女は少し驚いたように肩を震わせて。そうして、はっと、何かに気づいたように顔を上げる。
彼女のこぶしは、大きかった。ボクの手のひらで包み込むことは、少し難しいくらいに。
違う――ボクの手のひらが、小さいのだ。柔らかいのだ。どうしようもなく、ボクの嫌いな、ボクの手なのだ。
ボクの嫌いな、ボクの体の、一部なのだ。
「あなたが、旦那さん以外の誰も愛せないのだとして」
ならば。
ならば、ボクがこうして生まれてきた意味は、確かにあったのだ。
「あなたが愛せる女性の枠は、まだ、空いていますよね?」
ボクが、女の体をもって生まれてきた意味は、確かにあったのだ。
「改めて、ボクは……わたしは、天野
問いかける言葉に彼女は、泣くように笑って。
そして。
あなたのために、生まれてきた 雨足怜 @Amaashi
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