第2話 運命
10年――それは、子どもであったボクにとっては、本当に長い年月だった。
大学四年。就活も無事に終わり、ゼミもある程度余裕ができた秋口、ボクは一人京都を訪ねていた。
小学六年生のあの日、飛び降りようとした清水の舞台にボクは立っていた。
開けた視界。映る京都の景色は、ボクという人間を受け入れてはくれない。
けれどもう、自分の中で折り合いをつけることくらいはできる。ボクはボク。皆は皆。割り切って生きることができるようになったのは、間違いなく、あの日が理由だった。
同じ秋の景色は美しく、ただ、少し紅葉には早かったのが残念で。
あの日を思い出しながら、舞台に背を向けてルートを進もうとして。
「……あ」
こちらに手を伸ばすような姿勢で固まる彼女の姿が視界いっぱいに映った。
あの日と同じ、ボクのために泣いてくれた女性だった。
これは、きっと運命だ――高鳴る鼓動を感じながら、ボクは彼女に笑いかけた。
「どこかで、お茶でもしませんか?」
趣ある古民家カフェ。腰を落ち着けて、改めてボクは彼女を見つめる。
記憶にある彼女よりも少しだけ、彼女は老けて見えた。なんて、女性相手に口にする言葉ではない。
「……きれいになりましたね」
「あなたこそ。ヅカの男優が現れたかと思いましたよ。あまりにも見違えていて、最初、本当にあなたか、わからなかったほどですから」
「そう……ですか」
ふわりと笑うその笑みには、あの日の優しさの面影があった。目じりを下げて笑う彼女は、けれど、その目に確かな悲しみを宿していた。
そして、思い出す。あの日のほうが、彼女はずっと、その目に悲しみをたたえていた、と。
「……清水には、よく行かれるのですか?」
「ええ。そうね……あの日から、よく通っていたわ」
あの日――それが、ボクが自殺未遂した日だと、直感した。もしかして、またボクが自殺をしようとするのではないかと思い、止めようとしてくれたのだろうか。
そう思うと、非常に申し訳なく思った。
「ああ、違うのよ。……いえ、確かに、あなたの姿を探していたのは事実よ。でも」
「でも?」
「理由は違うの。私は……あなたに、お礼が言いたかったの」
「お礼を言うのはボクのほうですよ。結局あの日、命を救ってくれたあなたに、ボクはお礼の一つも言えませんでした」
きっとそれが、ボクの足をあの場に運ばせた最大の理由。人生の岐路に立ち、そうしてふと、過去に立ち返りたくなったのだ。自分の転換点に戻り、客観的に過去を見つめ、そしてあわよくば、あの日の心残りを解消したかった。
記憶の中に焼き付いて離れなかった、あなたに会いたかった。
「あの日、助けてくださって、本当にありがとうございました」
深く、テーブルの天板に額が付きそうなくらいに頭を下げる。本当は、これでも足りないくらいなのだ。
あなたがいてくれたから、他でもないあなたが止めてくれたから、あの日、ボクは死ななかった。あの日から、ボクは生きてこられた。
ボクの中に、あなたがいてくれたから。
「いいえ、私が、あなたに助けられたの……」
震える声。
はっと顔を上げれば、彼女はあの日のように、目じりに涙をたたえていた。
悲しげな笑みに、胸がひどく苦しかった。
「あの日、私は、死ぬつもりだったの」
息が詰まった。そんなことを言わないでくれ――懇願は、口に出すことはできなかった。
口を開いてしまえば、胸の内で暴れる思いのすべてが、零れ落ちてしまいそうで。
ボクはただじっと、彼女の独白を聞いた。
「……夫が、安楽死を選んだの」
それは、今から10年と少し前。ボクと出会う、少し前のこと。
彼女の夫は、ガンに侵されていた。技術が進歩し、手術も高度化が進んで。
けれど脳の奥にあった彼のガンは、摘出困難だった。そしてそれは、薬によっても小さくはならなかった。
「少しずつ、彼はいろいろな機能を失っていったわ。まるで、人間から人形へと、変わろうとするように」
そうしてとうとう、彼は自分の決意を明かしたのだという。
自分は、スイスに笑って、自死すると。
過去を語る彼女の声は、ひどく震えていた。
「彼は、私に言ったわ。『僕が君を愛した男でいられるうちに死なせてくれ』って。彼は……記憶の欠落が始まっていたの」
渡航後、彼女の妻は故郷から遠く離れた土地で眠った。
安らかに、彼女が愛した男のままで。
「……眠る彼を前にして、まだ、すぐに目を覚ますはずだって、そう思ったわ。だって、その前日まで、彼は普通に話をしていたの。ちゃんと、生きていたの……ようやく、私が、彼を死なせてしまったのだと、理解したわ」
「それ、は……」
何を、言えばいいだろう。
安楽死を求めた夫と、それを受け入れた妻。決断は、本人のもので、何より、ボクは、その旦那さんの立場で見ていた。一度は、死を望んだ人間として。
けれど、止めていられればと嘆く彼女の気持ちだってわかる。
ボクは、何も言えないふがいない人間だった。
そっと目じりをぬぐって、それから、陰鬱な空気を吹き飛ばすように、彼女はふっと笑った。
「彼を愛していたわ。……いいえ、今も愛しているの」
それは、彼女の心からの言葉で。
泣いて赤くなった、うるんだ目で愛を訴える姿の痛ましさに、愛おしさに、胸が痛くて仕方がなかった。
「彼が、死んで。私は、恋愛のできない空っぽの人間になったわ。そうして、自殺しようとした。もう、すべてがどうでもよくて……けれど、身を投げようとしたあなたを前にして、とっさに体が動いたの」
そうして気づかされたと、彼女はどこか誇らしげに語る。
「わたしは、まだ、生きたいって。生きていないといけないって。あなたの命を腕の中に抱いて、そう、思ったの」
「ボクも……思いました。生きなきゃって、ボクのために怒ってくれた、泣いてくれた、あなたのために、生きないと、って」
「あら、私たち、似た者同士ね」
「そう、ですね……そっくり、かもしれません」
同じように自殺を考える者が同じ場に居合わせた。一方が救い、一方は救われ、そして、どちらも救われた。
それは、まさに運命と呼ぶべきものだった。
運命。ならば、ボクと彼女は――普通ではないボクが、彼女と巡り合った意味は。
「恋愛のできない空っぽの人間になって……けれど、やりたいことができたの。そうして、会を立ち上げたの」
言いながら、彼女は名刺入れを取り出す。
「……すみません。まだ、名刺を持っていないんです」
「気にしなくていいわ……もしかして、学生?」
「はい。来年から社会人です」
彼女は眩しそうに眼を細める。その目には過去が――おそらくは、亡き夫との日々が、映っていた。
目の前に座っている、ボクではなく。
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