深廻、僕らは呼吸を止めた

匿名希望

深廻空港


 何処どこだ、此処ここ

 青暗い水中のターミナル。不思議な光景だ。

 手を伸ばして動こうとするも、空気の抵抗を感じて前に進み辛い。

 それに反し、後退りするのはとても簡単だ。

 蛍光色のに巻かれた透明の改札が、少年の顔を幻影の様に、不明瞭に映し出している。

【酷い顔だ】

 スタッフらしき服装とは言えない、西洋風のベルボーイの様な格好をした男性が、腰を屈めて少年の顔を覗き込む。

【何か辛い事でもありましたか?】

 幼い声で彼はそう問いかける。

 辛い事

 この問いを、俺は前に何処かで耳にしたことがある。

【お名前は…グラム?】

 男性の蛍光緑の瞳が、俺の意識を吸い込んでいく。

深廻空港しんかいくうこうへようこそ」

 搭乗状をお持ちですか?





 あぁ、またこの夢だ。

 8.14

 きらきらとうごめく光が、窓から天井に反射する。

 無機質なアラーム音が鳴り響く、とある家の一室。

 棚には漫画本が置かれており、存在感を放つ橙色のシーツをひいたベッドからは、同じく橙色の布団が床に向かって首を垂れている。

 ベッドに横たわるは、16の少年。

 岳内群六たけうちぐんむ。彼の目は、まだ重い瞼が開かない。

 本日未明まで、彼は瞬きすることなくオンラインゲームにどっぷりと浸かっていた。

 そして朝だ。この有様。

 アラームの不協和音が耳に毒で、群六は目覚まし時計を叩き潰す様に切る。

 途端とたん、窓の外から群六を呼ぶ声が聞こえた。

 岳内家は、町の大半を畑に占領された田舎の一角に存在している。

 今群六を呼んだのは、恐らく近くのゴミ捨て場に寄ったついでに群六を起こしにきたであろう、近所の世話焼きな男性だ。

 名は海月飴鉄代くらげあめてよという。

「群六坊、こんな時間まで寝てっとガッコー遅刻すんぞぉ!」

 群六はその声でようやく瞼を上げ、ベッドの隣の窓を開け下を覗き込んだ。

 寝起き間もない少年は、むにゃむにゃと口をほぼ開けずに何かを言う。

「あ?」

 もちろん聞き取れなかった鉄代は、首を傾げてうざったらしく「なーんて?」と聞き返した。

 冷たい目でちらりとそれを見た群六は、先ほどよりはっきりした声で、一言一句を噛み締める様にゆっくり返した。

「まだ、七時にもなってないだろ…!」

 すると鉄代は、にかっと人のいい笑顔で歯を見せて笑い、綺麗に染まった白髪の一本一本の間から陽の光をちらちらさせ、

「早起きは三文の徳なんだぜ!」

 と親指を立てて言った。

 三文ってなんだ。そう思いながら、寝起きでぼやける頭を軽く叩く。

「…あ!」

 その行為により脳が冴えたのか、群六は唐突に目をカッと開き、勢いよく窓から身を乗り出した。

「テッさん今日何曜日!?」

 鉄代は、先程の大袈裟おおげさな行動とは反したその何気ない質問に、きょとんとした顔で少し間を溜めてから答えた。

「木曜日…だけど?」

 すると群六は、顔にかかった橙に近い茶髪を手ですくいながら、唖然あぜんとした顔で声を零した。

「サイアクだ…」

 鉄代はそれを聞くと、益々ますます不思議そうな顔をする。

「お?何々」

 その質問に、群六はツンと顔を背ける。鉄代は負けじと声を上げる。

「ねぇ何教えて!」

 鉄代が五月蝿うるさい声で駄々こねる中、群六はのろのろとした動きで窓を閉めようとし、縁に手をかける。

 と、その窓を閉じる直前で、群六はもう一度鉄代の方に顔を向けた。

「じゃ」

 それだけ言い、今度こそ激しくガラスで出来た窓を閉めた。

 その時に見た群六の顔。目の下に濃いくまが出来ていることに気づいた鉄代は、八月の日差しの中、額に脂汗を浮かべて誰ともなく呟いた。


「ありゃ相当キテんなぁ…」




 横の祭壇に手を合わせてから、12段ある階段をゆっくり降りていく。

 ふと5段目を降りると、卵焼きらしき食べ物の匂いがふわりと鼻をついた。

 良い気分で一段下の階段へ足を伸ばすと、突然。

 何やら雄々しい野武士の様な叫びが聞こえてきた。

 同時に、何か金属物を落とす音と、びちゃっという液体を溢す音が聞こえた。

 急いで階段を駆け降り、キッチンに向かうと…

「あっつぅ…」

 痛々しく真っ赤な手を氷水に浸し、憂いを帯びた表情で胡座をかいてやけに姿勢良くキッチンに鎮座している少女が居た。

 その姿を見、群六は固まる。

針尾はりお…何したんだ」

 その呟きで群六の存在に気づいた少女は、無表情であたかも通常運転だという雰囲気を醸し出し、場の状況を説明した。

「群六。さっきスープの湯の温度間違えて手を火傷したんだ。今この状況」

「上まで声聞こえたわバカ」

 反射的にそう突っ込んでしまう群六を尻目に、少女は「代わりにご飯作って」と呑気に呼びかけてくる。

 この岳内針尾たけうちはりおという少女は、群六とは根本的な何かが異なる二卵性の双子の姉だ。

「スープは?全部溢した?」

「全部は溢してないよ。お玉一杯分だけ」

「あー可哀想、溢されたそのスープ可哀想」

 悪態をつきながら、群六は針尾のエプロンを奪って調理台の前に立つ。

「針尾、冷蔵庫から味噌出して」

「ボクが作ろうとしてたもの知って言ってんの」

 鍋の隣に置かれた中華スープの素を無視して味噌汁を作ろうとする群六に不満を覚える針尾。

「中華スープには申し訳ないけど俺は味噌汁の気分」

 完成していた卵焼きを切りながら群六はそう述べる。

 針尾は「ボクは中華の気分だったのに」と口を尖らせ、冷蔵庫から保冷剤を取り出す流れで味噌も取り出し、調理台の上に置く。

 そして壁から下げられた当番表を見て、今度は口をリスの様に膨らませた。

「なんで連続でボクがご飯作らないといけないんだ。理不尽」

「お前が一回サボったから」

 ズバッとそう言う群六に何も言えなくなり、針尾は子供の様にそっぽを向くと、さっさと台所から出て行った。

「着替えてくる。ご飯できたら呼んで」

 彼女の暗い紫色の髪が揺れる小さな背中に、群六は心に原因不明のざわめきを覚えた。



「今日研究部に呼び出されてんでしょ?」

 群六が作った朝食を口に運びながら、針尾は何気なくそう尋ねる。

 だが予想と裏腹に、群六の表情はぴしっと凍りついた。

「ぁあ、最悪…」

 冷や汗をだらだらと流しながら、群六は冷水の入ったコップに手を伸ばす。

 針尾はその様子を見て徐に目を細め、テーブルに肘をついてため息をついた。

「メロウ博士は一応先輩なんだから信用しても大丈夫だよ」

 メロウ博士とは、群六と針尾が通う高校の研究部部長であり、本日群六を呼びだした張本人でもある。

 というか、何故群六が入ってもいない研究部に呼び出しを喰らっているのか。

「ホントに何で呼び出されたんだよ…怖…」

 実は群六自身も知らなかった。


『キミ、岳内群六クンだっけ?』

 上級生にそう話しかけられたのが、丁度一週間前。

 その時に、どうして返事なんてしてしまったのだろうと今でも後悔している。

『あぁ良かった。突然なんだけどキミ、来週の木曜日用事ある?』


 そのまま断る間もなく話が進んでいってしまい、そして今日に至る。

 初対面の人間に話しかけられ、自分は何も言えないままその人の部に呼び出される。

「まぁメロウ博士って色んな噂あるからね」

「話しかけられた時には噂なんて知らなかったから…」

 なんせ男も女も平等に侍らせているとか、夜な夜な人体実験を行なっているとか、実は本人も改造人間サイボーグなのだとか…。

 そんな噂がおびただしい数あるのがメロウ博士だ。

 出来るなら関わりたくなかった。

 一人で呻きながら頭を抱える群六の隣で、針尾は朝食を食べ終わったらしく、皿をまとめて席を立った。

「ご馳走様ちそうさま。ほら群六も食べ終わったなら準備する」

 群六の分の皿も取り、台所の流しに漬けていく。

 群六はぼーっとキッチンに立つ針尾の背中を眺める。

 と、

「…?」

 空耳だろうか。群六の耳に、何かここにあるべきではない音が聞こえた。

「…!」

 聞き間違いではない。確かに聞こえた。

 ごぽり。

 耳元で音が鳴る。

 流しの水の音では無い。

 水の中で息を吐いた様な、そんな音。

 ごぽっ。

 口から気泡が漏れる。

 針尾に手を伸ばそうとする。空気の抵抗を感じた。

 あぁ、あの夢だ。

 あの夢と同じ感覚だ。

 耳の中で、先程聞いたあのセリフが蘇る。

 

『深廻空港へようこそ』


「群六?」

 肩で息をする群六を見て、針尾は心底不思議そうな表情を浮かべる。

 虫出た?と周りをきょろきょろと見渡す針尾を見て肩の力が抜けたのか、群六はどさっと椅子の背もたれに体重を預けた。

「いや、なんでもない」

 そんなこんなで、岳内群六の憂鬱な木曜日は幕を開けた。


 

「おはよーございまあす」

 群六は、気怠げに挨拶をする生徒達の間を縫う様に歩いていく。

 針尾は先程、友達とばったり遭遇してしまったので別行動だ。

 正門前で、男性公務員が通り過ぎる生徒に愛想よく挨拶している。高スペックのせいか、女性人気が異様に高い男である。

 黄色い声をあげる女子を尻目に、群六は正門を通り抜けようとする。

 と、唐突に背を叩かれた。

「おはよう群六くん。針尾さんはいないんだね」

 反射的に振り向くと、そこには目つきの悪い童顔の少年が居た。

「あー…おはよ、ろん

 春瀬蘭はるせろんは、群六の学友であり血の繋がった従兄弟いとこだ。

 そして、彼もよく女子にモテる罪な男だ。

 群六は、今日何度目かのため息をついた。


 放課後、授業が終わり、生徒は帰路につく。

 その波に乗って群六もさっさと帰ろうと思ったが、その考えはすぐに泡となった。

「先週ぶりだね群六クン。お迎えに来たよ」

 帰ろうとする群六の手を掴んだのは、研究部部長メロウ博士ことメロウ・シャルロットだった。

 彼はイギリス出身の留学生だが、彼此この町には3年ほど滞在しているらしい。

「今日は約束の日だよ。来てくれたまえ」

 性別不詳の彼にされるがまま引っ張られ、連れてこられたのは勿論もちろん研究部室である実験室。

 メロウはその扉に手をかけ、勢いよく左に引いた。

 大きな音を立てて開け放たれた扉の向こうには、3人の生徒と、

「やっと帰ったな!助っ人は?!」

 割れて破片が散らばった水槽があった。

「群六クン、僕はキミに勧誘のつもりで声をかけた。しかし今日、予想外の事態が起こってしまってね」

 嫌な予感がひしひしと心を踏み鳴らす。

 メロウに不謹慎なことをされなくてよかった。が。

 嫌な予感が別の方向に的中してしまった。

「お片付け手伝ってもらえないかな」

 と言うわけで今現在、群六は実験室の床を拭いている。

 破片は手分けして片付け、今は四方八方に散らばった水滴の処理をしている所だ。

「はぁ…何で俺がこんなこと」

「頑張りましょ。これも何かの縁」

 文句をこぼす群六にそう励ましをかけるのは、一人の男子部員だ。

 元の水槽が大きかったのもあるのだろうが、床の水は教室の半分ほどの広さに広がっており、拭き終わるのには恐らく結構な時間を要するだろう。

 その事実にため息をつき、群六は上げていた顔を伏せる。

 すると、

 

 ご ぽ ん


「え」


 ごぽり


 あの音がした。

 群六はすぐに悟る。朝のあの音も泡も、きっと幻聴や幻覚では無かったのだろう。

 眼前に散らばった水滴の一粒一粒に、映っている。

 あの、青暗いターミナルがはっきりと。

 どくどくと鼓動が早く息が荒い。

 頭の中に恐怖と疑問を抱きながら、群六は蒼い水滴に手を伸ばす。

「群六クン?」

 メロウの声が聞こえる。だが、今の群六に返事をする様な余裕はない。

 掌が水滴に近づく程、水泡の音は大きくなっていく。

 全身の産毛が逆立ち、髪が後ろに引っ張られる。

 水圧に気圧されているみたいだ。

 ノイズ混じりの水音を、彼は確かに耳元で聞いた。

 水圧が堪らなくなり、思わず目を閉じる。

 音が止む。群六はゆっくりと目を開ける。

 そして、青く薄暗い水中で息が出来ていることを当たり前の様に受け入れた。

 来てしまった。


 深廻空港


 青の中に、目立つ蛍光緑を見つける。

 昔あの青年は、群六にニーナ・アイロニーと言う名を名乗った。

 と、考え事をし周りを見ていなかったことが仇となり、群六は突然一人の男とぶつかった。

「あっすみません」

 勢いで謝ると、男性は人のいい笑顔で

「大丈夫だ」

 と言った。色素の薄い髪に、何処かで見たことのある茶色の三白眼の男性だった。

 何処かで見たことがある…というか、酷似こくじしている。

「テッさん?」

 その問いに、彼は狐につままれた様な顔をした。

 違っただろうか。確かに、鉄代と比べるとほんの少し気弱そうだ。

「何で?」

 彼は困った様に笑う。この顔もそっくりだ。

「凄く似てたから」

 群六ははっきりそう返した。仕草の一つ一つが、あのお節介な男にそっくりだ。

「鉄代の知り合い…」

 その後の会話によると、彼は鉄代では無く鉄代の兄だと言う。名を、海月飴蒼くらげあめそう

 爽やかな好青年と言った印象だ。

「俺はこれから深廻航空機しんかいこうくうきに乗るけど、よかったら一緒に来る?」

 その言葉に甘え、行く宛の無かった群六は蒼に着いていくことにした。


「ようこそお越しくださりました」

 空港の改札で、ニーナと名乗ったベルボーイが客から手紙の様なものを受け取っている。搭乗状だ。

 深廻空港へ来る方法は二つある。

 一つは、あの搭乗状を受け取る事。あれは深廻空港側からとある条件を満たした人間に送られる。

 そしてもう一つは、『主に招待されること』である。

 群六は搭乗状を持っていない。

 つまり何も持っていないのに勝手に干渉し、しかもその結果きちんとここに入れてしまった群六は、主の招待を受けたと考えるのが自然だろう。

 主が誰で、どんな人かは群六も知らない。

 そして、小さい頃どんな方法で深廻空港に来たのかさえ、群六は覚えていない。

 ただ、此処の夢を何度も見る。それだけだ。

 蒼は群六より先に搭乗状をニーナに渡し、待っていると言って航空機に乗り込んで行った。

 蒼を見送ったニーナは、くるりとこちらを向いて微笑みをかけた。

「ようこそ、グラム様」

 この青年は、昔から群六のことを「グラム」と呼ぶ。

 ニーナが勝手にあだ名をつけたのか、それとも違うのか。

 特に群六は何も思わないが、実際はどうしてなのだろう。少し気になった。

 ニーナは、幼い声でこう告げる。

「搭乗状は不要です」

 


「ぶはっ!」

 数十秒間息を止めた後の様な感覚に襲われる。

 必死に息を注ぎ、なんとか肺を満たした時に、初めてここがもう深廻空港では無い事に気がついた。

 天井は真っ白。蛍光灯の光がやけに眩しく、薬の香りが満ちている。

「無事か?」

 保健室のベッドに横たわる群六に、側で座っていたメロウが声をかける。

 自分の周りを研究部員が囲んでいる。今一度状況が飲み込めなかった。

「…俺に何があったんですか?」

 勢いあまり、日本語がおかしくなってしまった。焦っているのだろうか。

「嘘、覚えてないのか」

 研究部員の一人が冗談めかして聞いてくる。

 その問いに群六が頷くと、部員達は驚いた様に顔を見合わせた。

 そして暫し待つと、一人の女子部員が長いポニーテールを揺らしてこちらを振り返った。

その部員は、先程起こった事の経緯を簡単に教えてくれた。

「床を拭いている時、お前が何やら下を眺めて動かなくなった後、唐突に気絶したんだ。だから私たちで此処に運んできた」

 恐らく、倒れたのは意識が深廻空港に行ったからだろう。気絶していたのは何分位なのだろうか。

 群六がそう考えを巡らせていると、白いカーテンの向こうから保健室のドアが開く音が聞こえた。

 そして、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「先生居ないね」

「先生、職員室かな。群六どこー?」

 針尾と蘭だ。その声に、メロウが振り向く。

「こっちだよ」

 彼はカーテンを少し捲り、針尾達に手招きする。

 聞き慣れないメロウの声を聞き、感覚的に針尾が振り向く。

 

 ぶわっ。

 

 針尾がこちらを向いた拍子に、水の中で何かが通り過ぎた時の様な、えもいわれない感覚に襲われた。

 慌てて辺りの空間に手を伸ばすが、そうしても先程の感覚が襲ってことは無かった。

「まだ疲れてる?」

 突然何もない空間に手を伸ばした群六を見、針尾が不思議そうに呟く。針尾の言葉を聞いたメロウは、群六のおでこに手を当てて、熱は無さそうだねえと言った。

 ひんやりとしたメロウの手は、活性化し過ぎた脳に水をさしてくれた。

 その掌の感覚に、群六はまた眠気を感じてくる。

 針尾達の会話が随分と遠い。

「ボクが背負って帰るよ」

「荷物は僕が持つね」

「…あれ?」


「なんか群六の髪濡れてない?」




世俗神話せぞくしんわだ」

 よく通る男性の声がやけに近くから聞こえてくる。

 数分ぶりに戻ってきた筈なのに、何故だかこの雰囲気が懐かしく感じる。

 しかし、此処はもう空港ではない。

 背中に座席の固い布の感覚がある。両隣を見ると、左側に蒼、右側には知らない女性が座っていた。

恐らく此処は、深廻航空機の中だ。

「群六、寝てたな」

 少し不貞腐れた顔で蒼は言う。やはり、何度見ても鉄代にそっくりだ。

「…何の話でしたっけ」

 群六がそう聞くと、蒼は抱えていた本の表紙を見せた。

 その表紙には、特徴のあるフォントで深廻色奇譚と書かれている。

「知ってる?」

 深廻色。色と付いているくらいだから、色の名前だろうか。

 首を横に振った群六を見て、蒼は先程聞いたのと同じ様な台詞を言う。

「この世界の世俗神話だよ」

 世俗ということは、この世界に来た誰もが認知している話ということだろうか。

 しかし群六はそんな話、一片たりとも聞いたことがない。

 首を傾げた群六に気づいたのか、蒼は慌てて首を振った。

「そう言っても、知ってるのは俺みたいなニッチな情報収集マニアだけ」

 すると、群六の隣で微睡まどろみながら話を聞いていたらしい女性が、中性的な声で戯けた風に言った。

「なら私もニッチなマニアってか」

 神話を知っているのだろうか。蒼が「あ、すんません」と平謝りしている。

「君は知らないの」

 その問いに素直に頷くと、どういう訳か鼻で笑われた。

「この海はね、主の涙なんだ。だからこんなに暗く悲しい色をしているんだよ」

 女性は淡々と話す。一人の涙でこの海が作れるのか。一体どれくらい泣いたのだろうか。

「何で泣いたかって言うと、この世界に来た人々の気持ちに同情したからなんだって」

 目を瞑り、女性は「まぁそんな話」と締め括った。

 その時、スピーカーからニーナの声が聞こえた。

『フライトはお楽しみいただけましたか?当機はこれより着陸体制に入ります』


「起きないね」

 群六を背負って田舎道を歩く針尾は誰とも無く呟く。

 隣を並行して歩く蘭は、群六の顔を見て「寝てる」と告げた。ふと

「蘭くん」

 針尾が蘭を呼んだ。どきりとした様に、蘭は針尾に目を向ける。

 そんな蘭を見て、針尾は言った。

「気づいてるよね」

 

 機体の中にニーナの声が響く。

「私は赤十字せきじゅうじだよ」

 女性が唐突に口を開いた。名前、だろうか。

「赤十字さんか」

 蒼が言う。名前らしくないので偽名だろうか。

 突如、航空機が着陸する様な軽い衝撃が走った。

 どうやら、この機体は現実の飛行機と違って着陸する時の音や衝撃は少ない様だ。

 窓の外で透明の魚が泳いでいる。蛍光色の海藻が揺れている。

 航空機の下降の水圧で生まれる小さな泡が、背景の青に映えて星空の様だ。

『グラム様』

 マイク越しに、ニーナがくぐもった声で話しかけてきた。

『主がお呼びです。どうぞ、奥の部屋へ』


「気づいてるの、蘭くんだけだよ」

「…やっぱり。悪い夢かなって」

 不明瞭な針尾の姿を見、蘭は深いため息を吐く。

 意味深な会話の中、覚悟を決めた針尾の生唾を飲む音が聞こえる。

「行くんだね」

 針尾はその問いには答えず、ただ微笑むだけだった。

 儚い。あまりにも。

「背負うよ」

 針尾の背中から群六を下ろし、自らの背に預ける。

「ありがと、蘭くん」

 針尾の声に、ぶくぶくという水音が混ざる。

 それが別れの言葉だと言うことは、言わずもがな伝わってきた。

「…ねぇ」

 次に隣を見た時には、もうそこに針尾の姿はなかった。


「群六」

 目の前で姉が笑っている。状況が理解できなかった。

「なんで」

「6歳の時のこと、思い出せる?」

 結構昔だけどね、と針尾は頭を掻く。

 昔の記憶。それが、群六の中を稲妻の様に駆け巡った。

「深廻空港の主はボクだ」

 その一言で、群六の中の全てが繋がった。

 忘れていたあの日のこと。暗い、海。

「此処は…何?」

「ボクらの家系図覚えてる?」

 家系図は小さい頃に一度、巻物を祖父に見せて貰ったことがある。

 岳内家は

「先祖が霊媒師だったでしょ」

 元霊媒師の家系だ。

 祖父の家には、数珠や札が沢山あった。

 それを受け継ぎ、群六の家にも階段横に祭壇が置かれている。

「深廻空港はね、ボク達の先祖が天国への行き道として用意した死者の空港なんだ」

 針尾が指差した窓の外には、天へ続く長い階段が設けられていた。

 果ての見えないこの海と同様、この階段にも果てが見えない。

「深廻空港が出来たのはここ最近の話。でも、此処の初代主は1000年位前のボクらの先祖」

 話がよくわからなかった。死者がこの世界を創ったと言うのか?

「死者しか主になれなかったんだよ。最初は生者が主になろうとしたらしいけど、弾かれちゃったみたいで。だから、祭壇に祀られてた死者の命を使った」

 ボクがおじいちゃんから聞いた話だよ、と針尾は後付けする。

 先程から、群六は針尾の"とある可能性"に対し半信半疑で聞いていた。

 しかし、それは話を聞くにつれ現実味を帯びてくる。

 天国への行き道。死者の世界。

 死者しか主になれない。

「針尾は、死者?」

 問いかけではない。それは、自らへ現実を叩きつける為に言った。

 針尾は死んでいるのだ。

 10年前。

 針尾は海で溺れた。

 彼女は病弱であり、その日はどうしても、と無理をして海に来ていた。

 そして、二人で泳いでいる最中に突然気を失った。

 沈んでいく針尾に気づいた群六は、慌てて海の中に潜った。

 そして、見た。

 深廻空港を。

 水の中で息が出来た。でも、針尾は捕まえた腕の中でもう息をしていなかった。

『酷い顔だ…』

 針尾を抱えて泣きじゃくっていた群六に、ニーナはそう声をかけた。

『何か辛いことでもありましたか?親御さんは?お名前は?』

 針尾が死んだ。親はいない。群六は正直にそう言った。名前は、きちんと群六と言ったつもりだった。

 だが、泣きじゃくった鼻声のお陰で舌が回らず、別の言葉に聞こえたらしい。

『グラム様、ですか』

 ニーナが群六をグラムと呼び始めたのはその時だ。

『貴方は、まだここにきてはいけませんよ』

 いつの間にか、腕の中の針尾が居なくなっていた。

 困惑する群六の頭を、ニーナは不器用に、それでいて優しく撫でた。

『また、いつか』

 あの時、針尾は主として認定されたのだ。

 『来てはいけない』。群六が生者だったからだ。

「姉としてキミの成長を見たかった。だから勝手に現実世界に幻想として来た」

 それももう終わりだ、と言うふうに針尾は告げる。

 その顔は、いたく幸せそうだった。

「蘭くんには気付かれ、た…けど…」

 群六の顔を見た針尾の言葉が、徐々にスローモーションになっていく。

 彼女は小さく微笑み、群六の頬を拭った。

「ボクが居た8月14日は夢。悪い夢。忘れてよ」

 6歳の頃は同じ位だった身長も、今では圧倒的に群六が大きくなっている。

『成長を見たかった』

「ほら、泣かないの」

 群六の額を指で弾き、二度と会えなくなる深廻空港の主はそう笑った。

 窓の向こう、いつの間にか着陸が終わっていた航空機の扉から人々が出てゆくのが見える。

「蒼君と赤十字さんは最後に群六と話せて幸せだと思う」

 同じ様に窓の外を眺める針尾が言った。

 階段を登る直前、蒼は此方に気づいたのか、小さく手を振った。

「群六も帰るんだよ」

 針尾は群六に何度目かの愛撫あいぶをする。それで十分だった。

 群六の視界が水で溢れていく。果たして、これは深廻の泡なのか、違うのか。

「じゃあね」

 針尾は群六にそう笑いかけた。

 目の奥がつんと痛い。


 そんな夢だった。


8.14

 岳内群六たけうちぐんむは、勢いよく目覚まし時計を叩き切る。

「起きてっかー?」

 外からハリのいい男性の声が聞こえる。開き窓を覗き込むと、案の定そこには鉄代てよが居た。

「起きてたか!偉い!」

 さわやかな笑顔でそう告げる鉄代だったが、その表情はすぐに失われた。

「…どうした?変な夢でも見た?」

 そう聞かれ、群六は初めて自分の目元が濡れていることに気がついた。

 下の方に居る鉄代にも分かるということは、きっと目も充血しているのだろう。

「…何の夢だったんだろ」

 群六には、肝心な夢の内容が思い出せなかった。

 それを聞くと、鉄代は不思議そうに首を傾げた。

「まぁ、そんなこともあるんじゃね」

 ふと、優しく笑う鉄代の仕草がとある人に重なった。

「…?」

 それが誰か、群六には思い出せなかった。

「俺もう学校の用意するから」

「ん。今日も一日頑張れよ」


 祭壇に手を合わせてから、12段の階段を降りていく。

 5段目を降りた時、何も起こらなかったことに群六は違和感を覚えた。

「昨日なんかあったんだっけ…」

 何も思い出せない。

 一階に降り、台所へ向かう。そこには誰も居ない。壁に目を向けても当番表など貼っていない。

「変」

 何を見たの?

 いつも通り湯を沸かして汁を作る。味噌を冷蔵庫から取り出し、溶かす。

 卵を焼き、等しく切る。

 二人分のそれらを食卓に並べ、あれ?と群六は声を上げた。

「なんで二人分作ってんだ」

 まぁいいかとそのまま席につき、味噌汁に手を伸ばす。

 それを一口飲むと、群六の口からは笑みが溢れた。

 舌が麻痺したのか。

「温い」

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