エンドレス・ラプソディ【短編】

河野 る宇

エンドレス・ラプソディ

 ──俺は、清々すがすがしいほどに顔に笑みをたたえている。

 ピンク色の朝焼けを全身に浴びて「ああ、今日は晴れだ」なんて思いながら、まさに、全身に太陽の光を浴びている。

 辰年なだけに、俺の龍がた──下品なことを考えている場合じゃない。そんな立派なものじゃねえだろとか幻聴まで聞こえてきそうだが、このままでは、年始早々にお巡りさんのお世話になってしまう。

 とりあえず遠くに見えるのは、朝まで飲んでいたやつと、終電を逃して飲み明かしていたやつだけだろう。

 どっちも同じようなもんじゃないかとツッコミを入れるのは、俺が逃げ切れてからにしてほしい。

 とにかく、ここから離れて、ひとまず誰もいない路地裏にでも逃げ込まなければ人生が詰みそうだ。

 俺がどうして全裸で街にいるのかは話せば長くなる。



 ──俺は、大晦日に忘年会と称して、友人たちと居酒屋で飲んでいた。解散して腕時計を見ると、二十二時をまわっていた。

 酔い覚ましに、お気に入りのファストフード店に寄り、いつものメニューを注文してコートのポケットから文庫本を取り出す。

 ホットコーヒーで少し酔いが覚めたため、読書しながら年越しも悪くないと考えていた。

 そんなとき、入り口の方がざわついた。なんだろうと顔を上げると、注文カウンターにいる店員に拳銃を突きつけている中年の男がいた。

「おいおい……」

 もしや強盗? こんな大晦日に? 呆気にとられていたが、ふと俺はあることに気がついた。

 あれは、間違いなくオモチャの拳銃だ。素人の俺でも分かる。どうしてそれがわかるのかと言うと、引き金のところに値札がついているからだ。

 しわの寄った紙からして、リサイクルショップとかで買ったのだろうか。動かすたびにカチャカチャと軽い音がした。

「か、金を出せ!」

 男は強い口調で発するが、その声はオモチャの拳銃を持つ手と同様、小刻みに震えている。店員の青年は、男の顔と拳銃を交互に見やり戸惑っていた。

 男の格好は、お世辞にも清潔とはいえない。来ているオーバーは薄汚れて、所々ほつれている。

 きっと、事情があるんだな。俺がそう思ったということは、店員もそう考えたのだろう。

「あの、どうしてお金が欲しいんですか」

 青年は勇敢ゆうかんにも問いかけた。

「いいから金を出せって!」

「ギャンブルとかですか?」

「う、うるせえ! オレはな、あした食う金もねえんだよ。借金もあって、もう終わりだ。だから何やったって怖くねえんだよ! わかったなら早く金を出せ!」

 なんだかんだで、しっかりと説明している。

 そんな男の様子を目の前で見ていた青年は、オモチャの拳銃ということで強気に出たのか、説得を試みようと瞳を輝かせた。

「えと、あの。店内でお召し上がりでしょうか」

 緊張のあまり、とんでもない返答をした。

「は?」

 何言ってんだこいつと顔をしかめた男だが、店内にいる全員が同じ気持ちだ。

「おすすめはミック・ジャガーセットです」

 違う。肉じゃがセットだ。イギリスのロック・ミュージシャンをどんなセットで売りつける気だ。

 若いのによくミック・ジャガーなんて知ってるな。

「オレはボン・ジョビィが好きなんだよ!」

 強盗犯はアメリカのハードロック・グループを挙げてきた。年代的にはそうだろうな。

「是非、食べてみてください。当店、イチ押しの商品です」

 ファストフード店で肉じゃがなんて珍しいが、確かに美味い。

 だから俺も、仕事帰りによくここで飯を食う。これでアルコールが充実していれば居酒屋なんだろうが、あくまでもファストフード店を貫く気概きがいが、「ファストフード」という店名に出ている。

 よりにもよって、そのままかよ! って初見で思ったが、気になって入ってみたら居心地はいいし、料理は美味いしで気がつけば常連になっていた。

「鶏つくねバーガーもおすすめです。ソースはおろしポン酢とゆず胡椒をお選び頂けます」

 この状況で最後まで言い切った、店員のかがみだ。

 さすがに男も腹が立ったのか、拳銃を仕舞って包丁を取り出した。

 入れ替えたことで拳銃がオモチャであると自白したようなもんであるが、その輝きから今度は本物の刃物だと解る。

 それによって店内はざわつき、青年は青ざめる。

「お、落ち着いてくだしゃい」

 おまえが落ち着け。

「うるせえ! いいから早く金を出せよ!」

 怒号に青年は慌ててレジに手を伸ばす。けれども、青年はぴたりと動きを止めた。

「なんだよ。早くしろよ」

 いらついて怒鳴るも、青年はあわあわとしているだけで、一向にレジに手をつけない。そこで俺は悟った。

 こいつ、もしかして……新人か!? 案の定よく見ると、左胸の名札にはわかりやすく初心者マークのステッカーが貼られている。

 おそらく、まだレジの使い方を教えてもらってないくらいの新人なんだな。青年は困ったようにきょろきょろして、目に留まった女性店員に助けを求める視線を送った。

 けれど、女性店員はへたり込んだままガタガタと震えている。当然の反応だろう。

 さて、新人くんはといえば──レジを開けられない事を説明したそうな表情だが、果たして男はそれを信じるだろうか。

 それよりも、説明したことで男が女性店員に矛先を向けたら大変なことになる。新人くんも、それには気づいたようで口をつぐんだ。

 悩み抜いた新人くんは、足早に奥に駆けていった。

「おい!? 動くなって言っただろ!?」

 しばらくして戻ってきた新人くんの手には、店のトレイが握られている。それをカウンターに置くと、そこには肉じゃがの入った紙製のカップが乗せられていた。

「なんだこれ。金は!?」

「あの。是非、食べてみてください!」

 勢い込んで差し出されたトレイに視線を落とした男は、湯気を立てている肉じゃがにつばを飲み込む。

 新人くんは、バイオマスプラスチックのフォークスプーンを透明の袋から取り出し、カップに添えた。

 湯気と共に立ちのぼる甘い匂いに刺激されたのか、男は左手でフォークスプーンを掴むとよく煮込まれているジャガイモをすくって口に含んだ。

 その途端、男の表情は緩み、次に牛肉を頬張ると包丁をカウンターに投げおき、フォークスプーンを右手に持ち替えカップを持ち上げてむさぼるように食べ始めた。

「美味いなあ……。美味いなあ」

 涙ぐみながらか細く発する。それを見た新人くんは、今度はすき焼きをカップについで差し出すと、中に入っている半熟卵をつぶしてそれも口に詰め込んでいく。

「お気に召して頂けてうれしいです」

 そんな新人くんの笑顔に、男は手を止めて青年の顔を見つめた。

「お代は結構ですから、どんどん食べてください」

 新人なのに大将みたいな発言をして凄いなと感嘆した。

 それから、男は涙を流して「警察を呼んでほしい」と青年に頭を下げ、通報でやってきたお巡りさんに連れられていった。



 ──そうして、店内にいた人たちは後日、事情聴取に来てほしいと名前や住所などを尋ねられ店を後にしたが、終電はとっくに過ぎていた。

 俺は部屋が空いているビジネスホテルをどうにか探しだし、仕方なくそこに泊まることにした。

 本当に大変な日だった。シャワーを浴びてゆっくり寝よう。

 そう思っていたのに、少しだけ休もうとベッドに転がった途端に寝てしまい、気がつけば、すでに午前四時を回っていた。

 慌ててシャワーを浴びようと準備を始める。格安のホテルだが、シャワーは二十四時間OKなのが有り難い。

 ここは、かなり格安のビジネスホテルのため、シャワーは部屋に備え付けられていない。貴重品は部屋の金庫に仕舞い、シャワー室のある一階までエレベータで降りる。

 受付カウンターを目の前に左に曲がり、突き当たりに磨りガラスのアルミ扉が俺を迎える。

 ドアノブを回してシャワー室に入る。左の壁には、ずらりとシャワーが十ほど並んでいた。一つ一つの間は白い壁で区切られていて、軽い個室タイプになっている。

 右の壁には正方形に区切られた棚が並び、いくつか服が入っている。室内をざっと見て五人くらいがいるだろうか。

 ルームキーには輪ゴムが付いており、手首に通すことができるようになっている。

 シャワーしかないので、備え付けのボディソープとシャンプー、トリートメントで適当に体を洗いざっとタオルで水分を拭き取って、服を着るため棚に向かう。

 そのとき──

「うらあー! ぶっ殺してやる!」

 勢いよく扉を開けて黒いオーバーを着た、三十代くらいの男が入ってきた。その手には銀色に輝く金属が握られている。

 また強盗か!? そう思ったのもつかの間、よく見ると刃物とは言いがた代物しろものが目に入る。

 取っ手の先にあるのは、平たい金属ではなく、三十センチほどの細長い円柱形の金属だ。

 まさか、あれはもしや──シャープナー……? プロが使うような、包丁を研ぐやつだ。うそだろ。どうやったら間違えるんだよ。

 それに気がついた俺以外の数人が肩をふるわせている。

 だめだ。ここで笑えば、男をさらに怒らせて面倒なことになる。みんな、こらえるんだ。

「マサトってやつはいるか!?」

 シャープナーをゆっくりと一人一人に指しながら、訪ねていく。自分の視界にもシャープナーが入っているはずなのに、どうしてまだ気がつかないんだこいつ。

「マサトは俺だけど」

 全裸の青年が肩まで手を挙げて答える。細めだが薄い筋肉質の体型──いわゆる細マッチョというやつだ。

「おまえ! よくもおれの妻に手を出したな!?」

「は?」

 人差し指を突きつけられた男は片目を眇め、眉間にしわを寄せた。

「誰だよ、おまえ」

 アッシュブラウンの短髪はシャワーを浴びた直後なので、濡れて水滴が毛先からぽたぽたと落ちている。

 ちょっとチャラい感じはするが、二十代にはありがちな態度で嫌な印象まではない。

「おまえの妻ってだれ」

「ゆ、結花子ゆかこだよ」

 鋭い目で見下ろされてシャープナー男は少し怯えている。

「結花子? あー……」

「ほ、ほら! やっぱり知っ──」

「そいつ、俺のストーカーな」

「へ?」

「俺、そこの店でホストやってんだわ」

 親指で左をさし、水もしたたるいい男ばりに前髪をかき上げる。

 なるほど、ホストか。それでこの青年の仕草に納得がいった。しかし、こんな事件に連続で遭遇するなんてついてない。

「え? ストーカー? え?」

 思いもしなかった発言に、シャープナー男は狼狽うろたえている。

「何度か指名されて、腕時計のプレゼントもらってから、やたら束縛するようになってきたんだよ」

 他の客に笑いかけるなとか、見送りもするなとか。

「他の客と話をするなって。そんなの無理に決まってるじゃねえか。断ったら今度は、付きまとうようになってよ」

 店側は悪質な客と判断し、彼女を出入禁止でいりきんしにした。

「まだ俺の周りをうろついてるようだから、次に見かけたら警察に通報するぞって言っとけ」

「そ、そんな」

 シャープナー男は愕然とした。いくら浮気や不倫ではなくても、ホスト狂いになっていたなんて衝撃だろう。

「おまえのせいだ──」

「は?」

「おまえが、たぶらかしたんだ!」

 ホストにしてみれば仕事でしかないのだが、行き場のない怒りは目の前の青年に向けられた。

 男はシャープナーを投げ捨てて、オーバーの中に手を突っ込んで包丁に持ち替えた。さすがに室内がざわつく。

 まあ、数本は持つのが基本なのだろうが、持ち替えたところを見るに、実はシャープナーだって気がついていたんだな。

「おまえのせいで、妻がおかしくなったんだ!」

「おいおい、待てよ。なんでそうなるんだ」

 ホストの仕事は、いや、接客業というのは、曖昧な部分が多い。どこまでが仕事として認識されるのか、その部分でさえ、受け取り方を間違えればもめ事になってしまう。

 それがいま、眼前で繰り広げられている。そして、これはまずい。シャープナー男、もとい包丁男がテンパっている。目がイってる。

「うらあああー!」

 包丁を振り回し始めた。室内は騒然、俺も逃げ惑う。男の背後の扉が見えて、すかさずドアノブを握り外に出た。

 軽いパニックになった俺は、そのまま勢いで玄関まで出てしまった──



 ──そうして俺は、朝焼けを浴びていま、ここにいるのだ。

「これからどうすれば……」

 どうやってホテルまで戻ろう。ホテルに戻るまでに絶対に見つかる。とにかく隠れようと、素っ裸で寒さに震えながら路地裏に駆け込む。

 辺りを見回しても布きれ一つない。これはやばい、どうする!?

「あんちゃん、真っ裸でどうした?」

 背後からの声に驚いて振り返ると、そこには四十代にさしかかろうという男がいた。その足下には大きな紙袋が二つほどある。

 無精ひげで、着ているものも、お世辞にも綺麗とはいえない。見るからにホームレスだ。しかし、これは天の助けだ!

「あ、すいません。あの、何か着るもの、ないですか?」

 両手で股間を隠しつつ頼んでみる。すると、男は怪訝な表情を浮かべながらも、訳ありだと推測したのか口元を緩めた。

「綺麗じゃないけど、これでも着ろよ」

「あ、ありがとうございます! あとで必ずお返しします!」

 渡された白いワイシャツと黒のパンツを着ながら礼を述べる。下着はさすがに考慮してくれたのか、貸してくれなかった。ホテルはすぐそこなので、裸足で大丈夫だ。

「ああ、別にいいよ。古着だし」

「そんな訳にはいきません! できましたら、よくいる場所とか、教えてくれませんか?」

「あー……。そこの公園には、よくいるな。今日は炊き出しもしてくれているし」

「わかりました! すぐ戻って公園にいきますね!」

「気にしなくていいから」

 俺は男の声を背中に受けながら、急いでホテルに戻る。



 ──ホテルのエントランスでエレベータを待っていると、カウンターのスタッフにいぶかしげに見られるも呼び止められることもなく、ルームキーで部屋に入る。

 早速、着替えてホテル内のコインランドリーに向かい、貸してくれた服を放り込んで小銭を入れる。

 部屋に戻って、終わるまでテレビをつけて待つが、どうにもモヤモヤしていた。

 あのホームレス、どこかで見た気がする。どこでだろう? テレビの音をBGMにしながら記憶をたどる。

 脳裏にうっすらと浮かぶ一軒家──これは俺の家じゃない。俺は母親との二人暮らしで、小さなアパートに住んでいた。

 小学生低学年の頃、実の父さんと離婚した母さんは、新しい恋人ができて、一緒に住むようになったけど、懐かない俺が気にくわなかったのか、母さんがいないときを見計らって見えないところを狙って殴られていた。

 その日も、母さんがパートに行って、男は寝転がってテレビを見ていた。俺はそれを横目に学校の宿題をしていたのだが、酒がなくなったという理由で腹を立て、起き上がると俺をにらみつけた。

 殴られる!? 俺は咄嗟とっさに立ち上がり、玄関に走って急いで靴を持ち外に出た。

「待ちやがれ!」

 背中に刺さる怒号に足が震えたが、止まらなかった。やがて、疲れて靴を履きゆっくり歩き出す。

 昨日、殴られた腕が痛くて、泣きながらとぼとぼ歩いていたら、生け垣の間から芝生の庭が見えた。それが、とても輝いているように感じて、ふらりと入り込んでしまった。

 そこには、古そうな二階建ての家が建っていて縁側があり、ブロック塀の壁際に盆栽がいくつか並んでいた。

 俺には、夢のような風景だった。しばらく眺めていると、背後から影が差す。

「──ひっ!?」

 振り返ると、見下ろしていた大きな影に驚いて、俺は腰を抜かした。

 あのとき俺は、小さかったから大きいと思っていたけれど、実際はそうでもなくて、普通の大人の男の人がそこにいた。

「坊主、どうした?」

 膝を折り、目線を下げて訊いてきた。その表情は柔らかで、俺は安心して泣きじゃくってしまった。

 男の人はびっくりして困った顔をしながらも、縁側に座るように促して、そこからせきを切ったように、俺は嗚咽おえつ混じりにこれまでのことを話しまくった。

 相手が赤の他人だから、というのもあったのだろう。知らない人なら、干渉してくることもないだろうと、幼いながらも打算的な意識があった。

 話していたら、いつの間にかおじいさんも横にいて、落ち着いた頃にお茶菓子を出してくれた。

 緑茶と大福だったけど、それが心にみるほど美味しかった。その味は今でも覚えている。

 ただじっと耳を傾けてくれた二人に俺は思慕の念を抱き、学校が終わったあと足繁く通うようになった。

 気がつけば、母さんの恋人は家からいなくなっていて、中学生になるとクラブ活動が忙しくなり、あの家に足を運ぶことは減り高校に入る頃には、すっかり忘れ去っていた。

「そうだ」

 あのときの大人は、服を貸してくれたあのホームレスじゃないか! いったい、何があったんだ?

 俺は居ても立ってもいられなくて、綺麗になった服をたたみ、荷物をまとめてホテルを出た。

 聞いた公園にいくと、テントが設営されていて炊き出しの準備が進められていた。それを遠巻きに眺めている大勢の人たちのなかに、花壇のへりに腰掛けている例のホームレスを見つける。

 急き立てられるように高鳴る鼓動を、なんとか抑えながら男に近づいた。

「先ほどは、ありがとうございます」

「お? ホントに来たのか? 別にいいのに」

 俺は、どう切り出したらいいのか迷い、怪訝な表情で見上げている彼を見下ろして意を決した。

「あの、もしかして、橘 誠二さん。ですか?」

「え、なんでおれの名前知ってるの?」

「やっぱり! 俺です。伊藤 雅夫まさおです。覚えてらっしゃいませんか?」

「伊藤? 雅夫……。ああ! 不法侵入の泣き虫坊主か?」

「そうです! ──って不法侵入とはひどいなあ」

「いや、あのときはホントに驚いたんだぞ。庭に知らない男の子がいたんだから。ぼうっと突っ立ってるし、あちこちあざだらけだしでさ」

「おじさんこそ──あ」

「あはは、懐かしいなあ。そうそう、そう呼ばれてた」

 疲れたように微笑むと、うつろな目をして口を開いた。

「君がうちに来なくなってからしばらくして、父さんの病気が見つかってね。それから、あっという間にね。そのあと、父さんが経営していた会社を継いだんだけど、不景気のあおりで倒産して、家も売って、この有様だよ」

 肩をすくめて力なく笑顔を向けるが、こちらとしてはとても笑えない。

「なかなか働き口もなくてさ。日雇いでなんとかね」

 俺を助けてくれた人が、こんな状態になっていたなんて愕然とした。

「服、返してくれて、ありがとな」

「あ、うん」

 もう帰っていいよ、みたいな空気になったけれど、このまま帰っていいはずがない。だけど、どうしていいか分からない。

 うつむいて動かない俺を、おじさんは困惑した表情で見上げる。

「あ、あの。これ!」

 そう言って名刺を渡した。

「お、ああ。ありがとう」

 戸惑いながらも受け取るが、きっと連絡をする気はないんだろう。

「また来ます! 次は、俺のうちに案内します」

 そのときは、俺のうちから就職活動してください! その言葉に、おじさんは目を見開いた。

「いや、そんなことをしてもらう訳には……」

「いいえ。それくらい、させてください。誠二さんと、お父様は俺の命の恩人なんですから」

「いやいや、そこまでじゃないよ」

「いいえ! 母さんに、俺が虐待されてるって知らせたのは、じいちゃんですよね」

 そうでなければ、あの男が突然、いなくなるなんておかしい。

 学校から帰ったら、電気の付いていない部屋で気が抜けたように座り込んでいた母さんが、俺を見ていきなり抱きしめて、泣いて「ごめんね」と繰り返した。

 あのときは、何があったのか分からなかったけど、思い返せばすべてがつながる。

「今は一人暮らししてるけど、母さんもまだあのアパートにいて、元気にしてます」

 あの男と別れていなかったら、俺たちはどうなっていたか分からない。そう、男は出て行って数年後、暴行事件で捕まった。

 相手は意識不明の重体だった。その暴力が俺たちに向けられていたかもしれない。

「少しくらい、俺に、恩返しさせてください」

 決意の眼差しで両手を握ると、彼の目から涙がこぼれた。これまで独りで耐えてきて、どれほど心細かったことだろう。

「──っ本当にいいのか? すまない。ありがとう」

「良かったなあ」

 隣にいたホームレス仲間が誠二さんの肩を叩いて、もらい泣きしていた。こんなに、自分のことのように喜んでくれる人もいるんだな。きっと、誠二さんの人柄なんだ。

 俺が、誠二さんと出会ったことで、俺と母さんの未来が変わったように。この再会が、誠二さんの未来を変えてくれるといい。



 ──帰路につく道すがら、明るくなった空を見上げる。冷たく刺すような空気に指先や鼻先が痛いほどなのに、心は温かかった。

 年が明けて色々あったけど、新年に相応しい出来事だ。

 ああ、そうだ。読もうとしていた本も、読まなきゃ。誠二さんが来る前に部屋の掃除もして、これから忙しくなるぞ──





 終

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