すきにして

団周五郎

第1話

  すきにして

  一

銀行や服屋や食料品スーパーや建設会社のように生業の仕組みがはっきりしている会社と違って商事会社というところは、何が生業になっているのかがよくわからない。逆を言えば何をやってもいいし、儲かれば何にでも手を出す業界だ。世の中に転がっているうまい話に聞き耳をたてあちこちを駆け巡り、情報を集めてビジネスを考える。それが社員の仕事なのだ。

山中雅の勤めるマネッジ商事は札幌にある従業員が七十名ほどの商社である。戦後すぐに創立された会社で、当時の古くさい社風が残っていた。大手の会社には、ペコペコ頭を下げるが、小規模の小売店には、傲慢な態度で応対する典型的な昭和タイプの伝統があったのだ。

会社の内部にあってもその精神は変わらない。上司には媚びへつらい、部下にはつらくあたる。やる気の程はどれほど夜遅くまで残るかで判断され、飲み会での付き合いで昇進が左右されていく。

雅は大学を卒業しこの会社に入って二十年、四十二歳になった。聡明で優しくて社員の受けは悪くない雅だが、ぱっとした成果が未だにない。それはひとえに儲かれば何でもいいという会社の体質にどうしてもなじめないからだ。嫁と子供二人を食べさせていくためというのが働く目的となっているだけだからやる気がまったく出ないのである。昨年ようやく係長に昇進できたのだが同期に比べかなり出世が遅れていた。周りからは崖っぷちと囁かれている。

係には、お局の女性社員二人がついた。根本純と中川ネネである。「でも」と「だって」と「どうせ」を連発し、できる限り仕事をしないでおこうとするので雅と同じく崖っぷちと噂されていた。

二人は札幌の女子大を卒業し、同期で入社して十三年になる。お互い三十路半ば越えたがいまだ独身でいる。世の中的には若くないが平均年齢が五十を越えているこの会社では、若手で十分通用する。純もネネも同じ学年だが留年を食らっている純の方が一つ年上だ。女っ気のない純とおんなおんなしているネネは大学の頃から大の仲良し、いやそれ以上の関係になっていた。

純達がおそろいのイアリングをしていたり、指輪をしていたりしても二人の仲を疑うものはいない。売り上げしか頭の中にない社員達は、崖っぷち社員の動向に目を向ける余裕など全くなかったのである。

正午のベルが鳴る。山中雅は机に置いたパソコンの蓋を閉めた。周りにいる社員はもう隣の食堂に駆けだしていた。ここで後れをとれば食券販売機の行列で待たされ、食べる席もなくなってしまう。昼休みは一時間、昼食後の貴重な睡眠時間がなくってしまう。それは絶対に避けたい。雅もみんなに負けずと駆けだしていた。

残業でいつも遅くまで働いている。おなかが膨れれば条件反射ですぐにまぶたが重くなる。昼休みに睡眠をゲットしておかなくては、夜遅くまで体が持たない。食堂に急ぐのは生きて行くための必要条件だったのである。

一方、根本純と中川ネネは男達のように急がない。少し時間をずらせばいいじゃない。

二十分遅く行けばかなり違うわ。戻ってくる時間が少し遅くなるけど、昼寝なんておじん臭い。どうせ仕事はないのだし定時で帰れるし私達は若いのよ。昼に寝なくても体に堪えることなんてないわと思っている。

十二時二十分を過ぎた。

「ネネ、そろそろ、食堂に行くわよ」

二人は職場の隣にあるプレハブの造りの食堂に向かった。すでに食券販売機前に列はない。二人はいつものように一番安いかけそばを選ぶ。かけそばは安いだけでなくあっという間に出来る。しかもおなかがいっぱいにならないから午後眠くなる心配をしなくていいのだ。純達は出来上がったそばをトレイに載せ座れる席を探した。たまたま誰も座っていないテーブルが一つ空いている。

「あら! やだぁ。阿部課長が前に…… どうしよう」

ネネが後ろを振り向いて純に囁いた。

「ほんと! 仕方ないわね。向こうも気づいたみたいだしもう違う席に出来ないわ」

二人は課長にぺこりと頭を下げて一つ後ろのテーブルで昼飯を食べることにした。

阿部課長のテーブルでは雅が向かい合って座っている。雅はダッシュで食堂に駆け込んだのだが、そこで課長とばったり出くわしたのだ。あっ、ヤバイ! と声がでそうになったが、視線がバッチリ合ってしまった。一人で食べるわけにもいかず課長と同じ席で一緒に食べる羽目になったのだった。

「どうなのよ、売り上げの方、順調に伸びてんの?」

雅が席に着くと課長がラーメンを食べながら尋ねた。

「ええ、まぁ、ぼちぼち……」

「ぼちぼちって、墓場じゃあるまいし、今度の営業会議にちゃんと報告してよ」

かん高い声で課長は雅に気合いを入れるのだが迫力はいまいちだ。

阿部課長は神戸出身で、五十を過ぎたバツイチだ。まだ若いのに頭頂部の髪の毛がかなり寂しい。運動をせず酒ばかり飲んでいるせいかおなかがでっぱり、ワイシャツのボタンがはじけ飛びそうになっている。ただのオヤジに見える課長だが会話の中にオネェ言葉が出てくるせいで、毛はないがそっちの気があると社内で噂がある。バツイチになったのはそのせいだとまるで現場を見たかのように囁かれていた。

「はぁ」

小うるさい課長の小言にそばを食べながら雅は生返事で返す。

「はぁって、あんたぁ、成果が出んかったら今度はわてが栗田部長にどえらく怒られまんねんで」

課長の周りで食事している者は聞き耳をたてているのに聞こえないふりをする。関西弁は、話の内容がわからなくても思わずニヤニヤするほど面白いものがあった。

純達も吹き出さないように黙々とそばを食べていた。

「まぁ、食べているときになぁ、説教ばかりしてもあかんなぁ……」

課長は雅のそばを見て昨日のテレビのクイズ番組を思い出した。

「せやせや、ちょっと聞いてぇ、あんたが食べている南蛮そば、これな、なんで南蛮って言うか知ってるぅ」

仕入れたネタを話し出す。

「この南蛮ですか? えっ、しっ、知ってますが……」

口の中のそばをこぼさないようにもごもごさせて雅が答える。

「えっ、知ってんの!」

てっきり「知らない」と返事が返ってくると思っていた課長が驚いた。

「ネギのことを南蛮って言うんですよね」

「そっ、そうや」

課長は苦虫をかみつぶしたような顔でラーメンをすすり喰う。その様子に純もネネも必死に笑いをこらえた。間を置いて雅は思い出したかのように次の矢を放つ。

「ちなみに、南蛮って、南の方からくる野蛮人ってことで南蛮って言うんですよ」

「えっ、それ、ほんまなん、いやいや……、ほんまなん、やられたなぁ、ハハハ」

追い打ちをかけられ、行き場を失った課長は丼の中に残っていたツユをズルズルと音をたて飲み干した。腹立ち紛れにドンと器を置くと、

「あ~、おなかいっぱい食べたわ」

大声を出してうさをはらす。そしてお返しとばかり、

「このラーメン丼やけどなぁ、なんで渦巻き模様がついているか知らんでしょ」

「えっ、丼の渦巻きですか?」

「そうやこの渦巻きや、これがなんや知らんでしょ」

課長はラーメン丼の縁にある渦巻きを指さし、指をくるくる回す。

「えっ、いや、雷紋って言うらしいですね」

「えっ、しっ、知ってるんかい!」

「はぁ」

「はぁやあらへんわ、ほんま若いのによう知ってるなぁ。けど、さすがにこれはか知らんでしょ、これは」

「水戸黄門ですか?」

課長が問題を出す前に雅が答えてしまった。

「えっ! あんたなぁ、なんなん、いったい……」  

「はぁ、すいません。昨日テレビ見てたもんで」

「な、なんや、見てたんかい。そやったら言うてぇな、少しは気を利かせて知らんふりしてんか。それが上司に対するおもてなしって言うもんでしょ。今度からは知らんて言うてや、知らんって! なぁ。最初から知ってるって言うたらあかんえ」

課長は後ろに座っていた純恵達に向かっても吠え続ける。

「だいたいあんたら、ろくな営業成績もあげんと、社内でなんて言われてるか知らんでしょ。崖っぷちって言う噂なんよ。まったく、それをワテが崖から落ちないようにフォローしてあげてるのになによ。わかってんの!」

課長は雅と純達を交互に見ながら叫ぶ。

雅と純は「いつものことだ」とばかり、気にせずそばを食っていたのだが、ネネだけは課長の話に箸を置いて聞いていた。

「いやならもう会社に出て来なくていんだすえ」

課長はネネの方を見て中指を突き立てて怒った。ネネは恥ずかしそうにうつむいたが、純はキッとにらみ返していた。

そのときだ。課長の目が異様に大きくなった。栗田部長がトレイにそばを載せて立っていたからだ。

「いやいやいや、部長、まぁまぁまぁお座りください」

課長は立ち上がり部長に席を譲ろうとする。これ幸いと雅や純達も席を立ちあがる。

「まぁまぁ、君たちもたまには少し話しようや」

全員が逃げようとするのを部長は止めた。

「楽しい昼休みを過ごしているなぁ。僕も仕事ばかりしていないで、君たちのように楽しい話をしていたいよ」

雅の横に部長が座る。

「僕らの話なんか、たわいもない知識を自慢し合ってるだけですよ。たいしたことありませんよ」

課長がもみ手をして部長のご機嫌をとろうと必死だ。

「そんなことはないよ、君たちのような営業職は色んな知識が役に立つもんだよ。僕もねぇ、くだらんことだけど昨日面白い知識を仕入れてね」

「はぁ、なんでしょうか? 聞きたいですぅ」

課長は雅の方を見て「こうするんだと言わんげににんまりとした。

「君、南蛮そばってあるだろ」

昨日のテレビネタを部長が話し出す。

「はぁ」

「なんで南蛮って言うか知ってるか?」

「えっ、いや、知りませんです。はぁ、なんで南蛮って言うんですやろ」

「あれはな、ネギのことだよ。ネギを南蛮って言うんだよ」

「へぇ、そうですかぁ。さすが部長、すごいですねぇ」

「知らなかっただろう」

「はい、ぜんぜん。いや~、勉強になりますぅ」

「そうか、そりゃよかった。ちなみにもう一つ教えてやろう。君が食べていたラーメンだけど、その丼についている模様の渦巻きはなんだか知っているか」

「いやいやいや、ぜんぜん知りませんなぁ」

「それは雷紋って言うんだよ」

「いやぁ、そうなんですか? さすが」

「そうだ。ちなみにラーメンを最初に食ったのは誰だか知っているか」

「いやいや全くわかりません。いったい誰でしょう?」

「水戸黄門なんだよ」

「エッ、そうなんですか、いやぁ、さすが部長、知識のてんこもりですなぁ」

課長のご機嫌取りも度が過ぎた。

「君ねぇ」

声を落として部長が課長をなじりだした。

「は、はい」

「営業課長だろ、君には雑学というものがないのかね。少しくらい営業ネタとしていろいろ話ができないとお客さんの前で困るだろ。笑い声が起きてこないようじゃ、まとまる話もまとまらんぞ!」

「ははぁ…… いやぁ、じ、実は、ほんまは、知ってたんです…… なぁ山中君」

課長は雅の肩をトントンと叩く。

「えっ、そうなんですか?」

「いや、知ってたやん。ほんまに知ってたやん……」

茶色い歯をむき出しにして課長が吠える。

「いや、知りませんけど」

さめた表情の雅は冷静に答えた。

「いやいやいや、あんた、ええかげんにしいや!」

「だって、さっき、知らないと言えって……」

「もういい。課長、いいか、君の営業成績の悪いのはおもしろいネタがないからだ。まずお客さんを和やかにする。そうすればそれが潤滑油となって話がうまく進んでゆくんだ。ビジネスの提案もそうだ。真面目な話ばかりじゃ疲れるんだよ。たとえ無謀で奇抜なアイデアでも面白ければ話は聞きたくなる。そこから新しいビジネスが展開して行くこともあるんだ。そうだ、今度の営業会議のときがいい機会じゃないか、誰も思いつかないようなネタを披露してみんなをびっくりさせてくれんかね。斬新なネタ、度肝を抜くような企画を聞かせてくれ。いいね」

言い終わると部長は、そばをズルズルと音を立てながら食べ始めた。

「はっ、わかりました」

直立不動の姿勢で課長が返事した。

「君達はもういい。一時を回った。仕事に戻りなさい」

部長の言葉で全員は解放されたのだ。自席に戻った課長は沈み込んだままだ。ずっと沈み込んだまま終業のベルが鳴ったのだった。

  二

阿部課長は部長の指示にどう対応していいのか悩んでいた。言うだけ番長と自他供に認めるところにもってきて、出された課題がかなりの難題だったからだ。

面白いだけの企画であれば、「ふざけているのかね」と言われかねないし、かといって普通の企画であれば「真面目すぎて聞く気になれん」とも言われそうだ。落としどころをどこに持って行けばいいのか皆目見当がつかない。どうしても名案が出てこなかったのだ。

そんなとき課長が頼りにするのはいつもあの男だ。どうしようもなく困ったとき相談するのが山中係長だったのである。

「山中君、ちょっときて」

「はい、課長」

いやな予感がする。雅は思わず眉をしかめた。

「ちょっと、横の会議室へ来てくれない?」

阿部課長は手招きして雅を呼び出した。

「実はな、先日の部長の話やけどなぁ、なんか良いアイデアがないかなぁ」

「えっ、僕に聞くんですかぁ、いやいやいや、突然言われても……」

「係長やったら出るんとちゃう? なんかええのんが、プーやないで」

「はぁ?…… 真面目に言ってるんですか?」

「いやいや、ごめんごめん冗談でしょうが」

「怒りますよ。真剣に考えようと思っている矢先に…… たしか部長はだれも考えないようなことって言ってましたよね」

「そうなんよ。それよ。それで困ってんねん」

課長はがくりと頭を垂れてしょぼくれる。毛がすっかりなくなった頭頂部の地肌の上に汗が粒状になって浮いていた。「自分のプレゼンなんだから自分でやれよ」と言いたいところだけれど、頼りにされていると思えば無下に出来ない優しい雅である。情けない課長だと思いつつ課長の頭をじっと見つめていた、そのときだった。雅にキラリと光るものが見えたのだ。

「あの~ ちょっと思いついたんですが……」

「なんでもええ、なんでもええから言うてえなぁ」

「う~ん、でも言いにくいなぁ……」

「はよ言うて、早見優て、北天祐てってね」

「怒りますよ!」

雅の言葉にふざけすぎたと反省した課長が

「ごめん、ごめん」

と両手を合わせる。

「あのですねぇ、実は髪の毛の話なんですけど……」

「髪の毛の話ってなによ」

「申し訳ないですけど部長も課長も頭頂部の方が少し寂しいですよね」

「禿げてるって事なの?」

「まぁ、平たく言えばそういうことなんですが」

「毛はえ薬のことやったら係長に負けんくらいの知識はあるのよ」

「そうかもしれませんが……」

「かましまへん、思いついたことを言うてみなはれ」

「頭髪って女性ホルモンがなくなってくると薄くなるって……」

「そうどす。女性は女性ホルモンがあるさかいにはげで悩むことが少ないんだす」

「そこなんです。色んな女性ホルモンの薬があるでしょうが薬害がこわいじゃないですか?」

「そうどすがな。ある髪の毛も無くなってしもうたら…… そう思うたら恐いねん」

「ですよね。そこでその心配のない方法を考えたのですよ」

「えっ、そんなんあるんどすか?」

「あるんです。女性になってみるっていうのも手じゃないかと思うのです」

「女性になるって…… どういうことよ?」

「そのまんまですよ」

「せやから、どないなことするん?」

「女装で生活をしてみれば、女性ホルモンが増えるって…… この前週刊誌に」

「ほ、ほんまかいな?」

「いや、知らんけど……」 

「な、なんや、知らんのかい…… まぁいいわ」

「宝塚のように男のかっこうをして女性でいるのも有りでしょうが、やはり女性っぽくして女性でいる方が、ホルモンの出がいいはずでしょう。しかし家の中だけで女装して至福のひとときを味わうのでは効果がいまいち、会社にも女装で来るのです。つまり、四六時中女装をして過ごすのですよ。そうすればほんとの意味で心も体も女性になって母性本能が芽生え女性ホルモンが出てくるんじゃないかなぁ。徹底的にこれをやることで部長が言っていた誰も思いつかないようなネタが出てきて、それがビジネスにつながっていくかもしれません」

「ネタ? それがビジネス? どうやって会社の売り上げが上がってゆくのん?」

課長は首をかしげる。雅は即興のアイデアに酔っていた。

「女装と会社の売り上げの関係についてはですねぇ…… まず実際に頭髪が生えてくれば、それはもう大発明になるでしょう。そうならないとしても、いま女装男子と言う言葉がちょっとした流行になっているんですよ。彼らに向けたセールスと言えますね。今後、課長が様々な女装経験値を得ることで、例えば女装サロン、女装グッツ、下着販売など様々なビジネス展開が期待できるのです。また、美女コンテストがあるように、男性の女装コンテストなんかをやってみればネットで取り上げられるかもしれませんよ。知らんけど……」

「やっぱり知らんのかい…… けど、たしかに…… せやねぇ、けど、ワテみたいなおじんくさいもんが女装してもええのんかしら」

「だからいいんですよ」

「なんや、それ」

「いやすいません、ファッションショーと違って、この手のモデルは申し訳ないですが底辺で悩んでいる男性をターゲットにする方がいいのです。なぜならイケてない男性をイケてる女性に変身させる方が、イケてる男性よりはるかに魅力的じゃありませんか。ビジネス展開は中高年になって本当の自分を見つけようとする男性をターゲットにした方がいいんですよ」

「う~ん、理屈は通ってますがな」

係長の話を聞いているうち課長は自分の女装姿を想像していた。その想像は背筋をゾクゾクさせるほどの高揚感を起こし、股間に血液を流入させ熱い劣情を催させていたのであった。

「いやだぁ、ほんまにやってみようかしら」熱い誘惑を抑えきれなくなって、課長はつい係長に本音を告白したのだ。

  三

二三日が過ぎた頃だった。雅は仕事に追われ馬鹿馬鹿しい女装の話などすっかり忘れた頃だった。夜も九時を過ぎて職場も人がいなくなり始めたときだ。課長が雅を呼んだ。

「ちょっと来て」

課長は雅を隣の会議室に呼び込んだ。

「鍵を閉めて」

雅が鍵を閉めるのを確認して、

「これ買ってきたんやけど……」

通勤用バックの中から女性用ボブヘヤーカツラをとりだしたのだ。

「カ、カツラ! まじっすか!」

雅が驚いたのは、カツラを見せるだけじゃなく目の前で薄くなった頭の上にカツラを載せたからだ。

「いやいやいや、課長似合ってますよ」

吹き出しそうになるのを堪え雅は心にもない言葉でその場をつくろう。

「ほんまぁ」

課長は窓に映った自分の姿をじっと見つめている。

「ほんまに本気でやってみよか思うてんのや。どやろ? 根本君や中川君にも色々アドバイスもらって本格的にやってみたらきれいになるんやないかなぁ……」

「さぁ、どうですかね」

「そこでなぁ、悪いんやけど山中君から彼女達に頼んでもらえんかなぁ……」

「えっ、僕がですか?」

「そうや、くれぐれもこれは頭髪に対して効果があるかの実験ということでワテの趣味やないってことだけは強調しておくれやすえ」

課長が深々と頭を下げた。薄くなった頭に天井の丸い蛍光灯が反射している。それが天使の冠のように見えた。断れば罰が当たるかも知れないなぁと思う。それに自分が提案したことだしと心優しい雅は断り切れない。

「はぁ」

しばらく悩んだ末、

「わかりました。課長が本気なら彼女達もやってくれるでしょう。頼んでみます」

「おおきに、よかった。うれしいどすえ」

「彼女達が協力してくれるとなったらアドバイス料はお願いしますよ」

「どのくらい」

「仕事として納得してくれるのならそんなに払わなくても良いでしょうが、例えば彼女達の要らなくなった服を高く買い取ってあげるとかすれば喜ぶでしょうねぇ…… それに見たところ課長は彼女たちと同じ背格好ですから買ったその服を自分で着ることも出来るかもしれませんよ。一石二鳥ですよ」

「そうかぁ、それであれば納得よ。彼女たちの服を着るのかぁ。やだぁ……」

ニヤニヤしたり膝を閉じこすり合わせしたりしながら雅の話を聞いていた課長は窓に映る自分の姿を見てヘアスタイルを変えてみたり髪の毛をゆさゆさ揺らしてみたりしているのだった。

次の日の仕事終わり、雅は純達を会議室に呼んで昨日の話をした。

「馬鹿馬鹿しい! なんで、私達が課長の女装を手伝わなきゃいけないんですか?」

純もネネも猛烈に抗議する。

「どうせこき使われるだけじゃない」

純が唇を思いっきりとがらせていた。

「いや、そんなことはないよ。課長は君達の協力がぜひ必要だって言っていたし……」

「でも、アノ年でアノ顔で女装なんて無理でしょうが」

「いやいやいや、まぁ、その気持ちわかるけど……」

「それにだって、課長の関西弁が気持ち悪いのよ」

「どうせ」に「でも」に「だって」必殺のネガティブ三単語が飛び出した。しかし、ここで折れてしまっては課長の女装は難しい。雅も昨日の課長を思い出せばやりきれないのだが、頼みを引き受けた以上できる限りやってみようと思っていた。

係長になったときネガティブをポジティブに変えるネガポ辞典を使った講習を思い出した。その成果を出すのは今だとばかり必死で説得を試みる。

「確かに仕事では人使いの荒い課長だよ。でも今回の件は女装だぜ、これに関して課長は何も知識がない。君達に頼るしかないんだよ。君達が課長に化粧をしてやるんじゃなくて課長自身に化粧をさせるのさ。厳しい指導のもとでね。だから絶対にこき使われることなんてないよ」

「ふ~ん」

「それにあんな中年オヤジを変身させるなんて君達には相当な抵抗があるかも知れないけれど、ビジネスとしては大ヒットする要素が満載なんだよ。爆ヒットすれば君達は表彰ものだぜ」

「えっ、ほんと」

「そうさ、それに課長の関西弁だけど、オネェ言葉を使うのはなんか京都言葉を意識してるようで聞き方を変えてみればお笑いを聞いているようで面白い」

「ははは、そう言われてみればそんな感じがしないでもないわ」

雅は講習の手応えを感じていた。

「課長は君達の不要品を買い取ってくれるって言っていたぜ。ふっかけてやればいいんだよ。悪くない話だと思うよ」

日頃から面倒見の良い雅の真剣な説明に純達は静かに話を聞いてうなずくようになっていた。

「気持ち悪い話だけど悪い話ではなさそうだわ。ネネどうする?」

「私、純さんがいいって言うんなら手伝ってあげてもいいわ」

上目遣いのネネが純を見つめて言った。

「じゃ、わかった。私達もお手伝いをすることにするわ」

雅は大きく息を吸い込んだ。

「よかった。君たちだけが頼りだったんだよ。ほっとした。ありがとう」

雅は彼女たちに頭を下げた。

「早速だけど…… これから課長の女装作戦を実行に移して行こうと思う。いいかい?」

「わかりました」

「まずはスーパーか薬屋で手頃な化粧品を買って来てほしい。服と靴は君達の不要品を課長に買い取って貰おう。そうすればさほどお金がかからないで準備が整うだろう。どうだろうか?」

「まぁ、要らないものはいくらでもあるわ。ネネはかわいい服をいっぱい持ってるもんね」

純とネネが見つめあった。

「余っているお洋服はいっぱいあるけれど気に入ってもらえるかしら?」

「多分大丈夫だと思うよ。今度の日曜、課長のアパートに集合しよう。そのときに不要品を持って来てくれ。どうだ」

「いいわよ。なんか面白くなってきたわ」

話が具体的になってくると純達も気合いが入ってきた。

「僕も気づいてない女装用グッツがまだあると思うんだ。とにかく気づいたものがあれば、どんどん持ってきてほしい」

「わかったわ」

雅と純達の会談が終わるとさっそく雅は課長に報告した。

「どないどした?」

「うまくいきました。協力OKです。今度の日曜日、課長のアパートにお邪魔します。そのとき彼女たちが服と靴を持ってきます。買い取ってやってくださいよ」

「わかったえ、今度の日曜日ね。ああそうや、その翌日の月曜日は部長との営業会議やん。ええ話がでけるかもや、レッツビギンどす」

すっかりご機嫌になった課長は女装がしたくてたまらなそうに見えた。

  四

課長の住んでいる市営アパートは築五十年近く経つ五階建てアパートだ。建物も設備も住人もすべてが老化していた。

日曜日の午後、そのアパートの前に雅に純とネネが集合した。課長の家は一階だ。階段を五段ほど上り玄関のブザーを押す。のぞき窓に課長の目が現れた。

「おこしやす。狭いとこどすけど……」

ドアが開いて課長が手招きする。珍妙な京都言葉は課長がオネェになりたいという気持ちが表われていた。

「おじゃまします」

雅が先頭にたち純達があとに続く。単身だけあって荷物はほとんどない。家の中はがらんとしている。ネネはスーパーで買った化粧品と家から持ってきた不要品をどさっと床の上に置いた。

「ほんまにおおきにえ」

課長はレジ袋の中を物色しながら礼を言う。

「さっそく始めましょう。あっという間に夕方になってしまいます。根本君! なにから始めればいいのか教えてくれ」

早く帰りたい雅は女性陣を急がせた。

「まずはメイクからね。先にメイクしておけば服に汚れがつくのを防ぐことが出来るし、どんな女性になるのかそれを見てから服も選べるし……」

ネネは課長を椅子に座るよう促した。

「よろしゅう頼みますえ」

課長が頭を下げた。

ネネはスーパーのレジ袋を持ってきてその中のものをテーブルの上に並べる。

「テーブルに置く鏡があるかしら?」

「風呂場にありますねん」

課長の言葉に純が風呂場から卓上式の鏡を持ってきた。

「化粧にはねぇ、三つのやり方があるの」

ファッションやコスメにこだわりのあるネネが鏡に写る課長に向かって話しかける。

「三つどすか?」

「そう、一つは正しいやり方」

「へぇー」

「二つ目が間違ったやり方」

「ほー、三つ目は?」

「それが私のやり方よ。いい? 今日は私のやり方でやらせて貰うわ。いいわね、課長!」

普段はおんなおんなしているネネだがいざ化粧のことになると厳しい口調になっていた。

「あ、いやっ、わ、わかりました。よろしゅうに」

ここで逆らってはせっかくの協力者を失ってしまう。課長はご機嫌を損なわないようにうんうんうんとうなずいた。

「まずスキンケアからね……」

ネネは課長の顔の診断を始めたのだが、一呼吸おいて、はぁとため息をついた

「な、なにか、どうかしたんどすか?」

「だめだわ! 課長、毛穴が黒くてすごく汚いの。これじゃ化粧が出来ない。きれいになるまで洗顔をしてきてちょうだい。顔パックもね。スキンケアは化粧の基礎ですから」

課長はネネから洗顔料と朝パック用のシートマスクを手渡され、ネネに使い方を教えて貰うと洗面台に向かう。洗面台で二十分ほど顔の洗浄を行った。

「いや~ つやつやつるつるになりましたわ。ほんまにうどん見たいどす」

ようやく汚れが落ちた顔をペタペタ叩きながら戻ってきた。再びテーブルの鏡の前に課長が座ると、

「じゃ、始めるわよ。最初は下地つくりね」

ネネがファンデーションを取り出し課長に使い方を教える。

「そうそう、そうそう、そうやって頬に置いて指で伸ばしてゆくのよ」

「おもしろ~ パンツのゴムより伸ばしてみますえ」

人差し指と中指を使いながらネネに教えられたとおり課長はファンデーションを塗り込んでいく。上気しているせいで鼻の頭が赤くなっていた。下地が整った後、今度は眉毛に化粧が移る。濃い眉毛が好きじゃないネネは全体を電気カミソリですっかり剃り落としてしまった。眉毛のなくなった課長の顔が一変する。

「おいおいおい、大丈夫か?」

反社会的組織に属する者のようになってしまった課長の顔を見て雅が声をあげた。不安になったのだ。

「大丈夫よ、これが私のやり方なの。任せて」

ネネはアイブローを持ち課長の顔に眉毛を引く。眉毛が終われば、目、そして鼻、唇へと化粧が進んでいった。

最初、課長は冗談を言いながら自分の顔が変わっていくのを見つめていたのだが、化粧が進むにつれ無口になっていた。鏡の中の自分に見惚れているようだ。ネネの腕はプロ並みだ。ただのオヤジの顔が田舎のスナックママの顔程度に変身した。しかし頭頂部は禿げたままのむき出しだ。なんとも奇怪な様相に雅も純も吹き出さないようにしているのがつらかった。

「女の顔になってきたわね」

ネネはそれでも満足そうに言った。

今度はカツラを持って課長の頭にセットする。さらに雰囲気が変わった。都会の場末のクラブママさん程度にまで変身したのである。雅も純も思わずにんまりとする。

化粧の後は、衣装合わせとなった。ネネは持ってきた服を取り出して課長の体に合わせてみる。二人の体格はほぼ同じだ。ネネが選んだ服を持って課長が奥の部屋に消える。

しばらくしてピンクのプリーツスカートに白いブラウス姿に変わった課長が出てきた。

「これなら課長の濃い顔のイメージもやわらぐわねぇ」

純がネネに話しかける。最初は女装の手伝いに猛反対していた純もここまで来るとかなり協力的になっていた。

「課長! おなかを引っ込めて! もっと膝を閉じて! 指毛も剃った方がいいわ」

容赦のない厳しい注文を出すようになっている。課長も必死で応える。本気で女性になろうとしているのだった。

時刻は夕方になっていた。

「どうする食事? おごってくれますよねぇ」

雅が課長に声をかけると、

「う、うん、ええねんけど、わてこの格好で外に出るのが恥ずかしいんどすわ……」

声が裏返ってヨーデルのようだ。

「着替えて化粧を落とせばいいじゃないですか!」

ふざけているとしか思えない雅は苛立って声を荒げた。

「そうどすけど…… せっかくここまでしてもろたのに、もう少しこの格好でおりたいんどすえ……」

右手の指の爪を噛みながら課長は首を振る。

心底あほらしくなった雅であるが、協力してくれた純達のことを考えれば申し訳ない。思い直してアパートの中で打ち上げをすることに決めたのだった。

早々に酒類やつまみをスーパーに買い出しに雅と純は出かける。課長は姿見の中の自分と向かい合ってブツブツと独り言をつぶやいていた。

買い物から帰ってきた雅がまだ鏡と向いあ合っている課長を見つけると、

「彼にかまっていたら遅くなる。用意を始めよう」

と、先導してテーブルを片付けた。

「乾杯!」

で宴会が始まった。一仕事を終えた全員の気分が酒のピッチを速くする。

雅も純達も、そして課長も一時間が過ぎる頃には酔いがまわっていた。

「いや~ ほんまにおおきに。びっくりどす。こんなにきれいにしてもろて」

一生懸命尽力してくれた頼もしい部下に課長は感謝する。お気に入りの女装で部下と向かい合い酒を飲むことができるし、カツラとはいえ無毛の頭頂部がふさふさするし、どうしていいかわからなかった新企画もここまで進行してきた。盆と正月がいっぺんに来たようで課長は超ご機嫌になっていたのだ。

(みんな楽しそうに飲んでますなぁ。この女装企画がきっかけで係長や女子社員とも仲良くなれました。深い信頼関係でワテら結ばれましたでぇ)

と、はなはだ見当違いの片思いをしていたのであった。

「課長、部長との会議のときって…… その姿で会議に臨むんですか?」

ネネは、浮かれてニヤニヤしている課長がどこまで本気なのか聞いてみた。

「どないにしましょ……?」

課長は真剣な表情でしばらく考え込んだあと、目の前の日本酒が入ったコップをゴクリと飲むと、

「わてな、部長におべんちゃらばっかり言うてんのほんまはつらいんどすえ。けどな、部長からは新企画とかいろいろ言われるし…… ほんまは会社のことなんか気にせんと自由に生きていたいんどす。こんな姿になってますけど…… ほんまはワテ昔からこんな格好してみたかったんどすえ。このままでずっとおりたい。外も歩きたい。部長会議もこのままで行きたいねん……」

と本音を語り始めたのだ。信頼している部下達なら話しても大丈夫だと心を開きだしたのである。

「それが、本心なんですね?」

ネネが課長の目を見つめる。

「そうどす。あんたらが買い物に行っている間、ずっと鏡を見ながら自分に向かって話かけていたんどす。ほならやっぱり本心のまま、生きて行くのが一番やって気がついたんどすえ……」

「どうするっ」

ネネが純を見る。

「正直それが本心ならそのままで過ごすのがいいんじゃない」

純は冷めた口調でさらりと言ってのけた。

「ほんまどすか……」

課長はうなずき、空になったコップになみなみと酒をついでまた一気に飲みほした。カタンとコップをテーブルに置いて話を続ける。

「ところでここだけの話、あんたらに初めて告白するんどすけど、会社にも部長にも拘束されんと自由でいたいのはみんなもそうやと思います。そしてワテも同じだす。今日はほんまにそないに思いますねん。けど…… ワテの場合、気持ちはそやけど、体はそやないんどす。実は…… 実は…… わて、ほんまはMどすねん。体は拘束されたいんどす。こんな日やから正直に言います。縛ってほしいんどすえ。縛って~」

酔いのまわった課長が身をよじってネネにすり寄った。

「うわっ! 気持ち悪い! こっちに来ないで! 近づかないで!」

ネネは立ち上がり椅子で課長が寄ってくるのを防御した。

「ほんまにお願いや! 縛って~ う~」

課長はプリーツスカートをはいたまま床を這いつくばりネネを追いつめる。その様子に慌てて雅が止めに入った。

「課長! もうわかりました。今日はこの辺でおしまいにしましょう。もう十分です」

課長を抱え上げようとしたときだった。

「そんなに縛って欲しいのなら縛ってあげるわ」

純が低い声で言ったのだ。

  五

じっと課長の様子を見ていた純の心にSの火がついたのだ。Sの血が沸騰したのである。

「純さん、止めなさいって」

ネネが止めた。

「いいの、ネネ、課長には縛られるってどういうことか教えてあげるわ。拘束されるってどういうことか教えてあげる」

日頃の怒りと抑えきれないドSの感情が純の言葉にこもっている。

「根本さん、まぁまぁ」

雅が止めに入ったが純の目に怒りがこもっていた。

「係長、今日はもう引きとってください。後は私達でなんとかしますから」

キッと睨まれた雅は背筋が凍りついた。

「ほ、ほんとに大丈夫なの?」

もう止められない。そしてヤバイと感じた雅は腰が引けた。

「ええ、大丈夫だわ」

恐ろしいほど冷淡に純が答える。

「わ、わっかった。じゃ、申し訳ないけど僕は一足先に帰るから」

雅は初めて根本純の本心を見たような気がしたのだった。

雅が帰った後、

「ちょっといま、おもしろいもの持ってきますえ」

そう言い残すと課長は隣の部屋に消えた。なにやらごそごそと物音が聞こえてくる。純達二人は、テーブルに座り、お互いの顔を見つめ合っていた。

「ネネ、今日は私達がいつもやっている十倍以上で責めてやるわ。見ていなさい」

純は猫をなでるようにネネの喉を手でさする。

「純さんお願い! 無茶しないでね……」

さすられているネネは猫がミャーと泣くように声をだした。

課長が戻ってきた。両手には麻縄、首輪、手枷、口枷そして鞭までプレイのワンセットが揃っている。それをテーブルの上に置くと、

「これで、これでワテを縛って欲しいんだす」

へなへなと膝から崩れるように課長は床の上に座り込んだ。

「ほんとにいいのね」

テーブルの上にあった麻縄をつかむと純が凄んだ。

「ええんだす。ギューッと縛って欲しいんどす」

「わかったわ」

冷たい純の言葉が課長をさらに興奮させる。指が少し震えだしていた。

そもそもSMプレイはお互いの信頼関係があって成立するものだ。M役の課長は部下を信頼しきっている。それにSをするのが女性だし、自分主導で楽しんでプレイが出来るものと踏んでいたのである。

ところが部下の純はそう思っていなかった。

日頃から小うるさい上司でその上司のことが大嫌いなのである。信頼関係など微塵もない。

それが今、目の前で自分にSをしてくれと願い出た。上司は自分の下でMでありたいと希望している。さらに「ギューッと縛って欲しい」と願い出た。そこまで言うのならやってあげましょう。純は日頃の鬱憤を晴らそうと心に決めた。奥歯がギリギリときしむほど気合いをこめてSをやってやるわ。頭の中にこのショーのおぞましい結末が見えてきた。

「何してるの、さっさとお脱ぎ」

純がいきなり声を荒げ課長を睨む。凄惨なショーが始まった。

「えっ、ぜ、全部だすか?」

「当たり前じゃない! 全部よ」

麻縄をテーブルに打ち付けるとバシンと大きな音が部屋の中に響いた。

「ひぇ~」

課長は慌てた。その場で白いブラウスを脱ぎ、恥ずかしそうにピンクのプリーツスカートも脱いだ。

「おパンツもだすか?」

パンツ一枚になるとさすがに脱ぐのをためらった。

「全部といったら全部なの!」

「ハイーッ」

純に背を向けパンツを脱いだ課長は局部を手で押さえ床の上に横座りする。女性からの言葉攻めに課長は快感を覚えていたのである。

「何しているの! 正座するのよ!」

純は課長を後ろ手に縛り始める。ふと課長の局部を見た純が思わず吹き出した。

「ネネ、ちょっと、課長の○○○○を見てごらん」

純に呼ばれネネが課長の前に回り局部をのぞき込む。局部の周りの毛がハート型になるようにカットされ、それがピンク色に染められていた。

「かわいい!」

「は、はずかしいどすえ…… 」

後ろ手に縛られた課長の顔が赤くなる。

「全部自分でやったの?」

課長の顔をのぞき込んでネネが聞く。

「昨日、エステに行って…… きれいにしてみたかったんどす」

「ここまでしなくても……」

「かわいい○○○○を見て欲しかったんだす」

「ははは、おかしい」

ネネは吹き出した。

純の持つ麻縄は、課長の首を一周りし、脇の下を通り、胸の回りを二重に縛ってゆく。

「うう……」

初めて女性に縛られる喜びに課長が嗚咽した。

江戸時代の罪人のようになった姿が鏡に写っている。己の姿をじっと見つめてうるうるしているのだった。

純が課長の正面に回る。課長の顔を見つめ、ニヤリと笑ったその後だった。左足を上げ課長の肩を蹴飛ばしたのだ。

「あっ!」

課長は仰向けになって床の上に転がり、昆虫がひっくり返ったときのように足をばたつかせた。純は余ったロープの端を持つと、股間を通し、胸に回した縄に結びつけた。

「うっ、い、いきそう……」

思わず出た課長の声にイラッとした純が縄を思いっきり締め上げる。

「うっ、ううう」

課長はエビのように体を丸め悶絶する。最後に両足が拘束され身動きのとれなくなった課長が床の上で芋虫のようになっていた。

純が脇腹に蹴りを入れると課長の体が半回転した。うつ伏せになった課長は海老反りになって頭を持ち上げた。

「女王様~」

純を見上げ思わず叫んだのだ。

「お黙り!」

「お願いです。どうか私を叩いてください」

あろうことか課長は体を曲げたり伸ばしたりしながら純にすり寄って来たのだ。もはや完全にM化した課長は本性をさらけ出していた。

「ほんとうにいいのね?」

「お願いだす。女王様、思う存分に…… お願い出す」

課長の羞恥心は完全に消えていた。

「わかったわ。思いっきりぶってやる」

今こそたまりにたまったストレスを発散してやるわ。そう思った純はテーブルにあったペチペチ感のある痛くないバラ鞭ではなく、自身のしていたベルトを抜き取りそれを鞭代わりにしてテーブルの上に振り降ろしたのだ。

パチン、乾いた高い音が部屋の中に響く。

「ひぇ~」

身動きのとれない課長は、おねだりをするような目で純を見つめる。ああ、鞭をちょうだい。ワテをいたぶってちょうだい。ぶってもらえる喜びが表情に出ていた。思いっきりいじめてほしいんだす。そしてそれを見てほしいんだす。エクスタシーに達するところを見て欲しいんだす。心の中の叫びは半開きの口から出ていた。挙げ句の果てに豊満悦楽、淫楽、享楽、快楽単語を念仏のように唱えだしていた。

あまりにひどい醜態に純の腹の中は煮えくりかえりメラメラと悪魔の炎が燃え上がる。

爆発しそうな殺人衝動が純を襲うのだが、日頃ネネと繰り返したSの熟練したスキルが冷静さを取り戻させた。

一撃で激痛を味合わせるわけにはいかないわ。青ざめさせるのはまだ先よ。それまでは楽しませてあげる。果てる寸前までいくがいいわ。最高の手前まで行ってそこから落ちるのよ。ジェットコースターのようにね。経験したことのないような恐怖を味合わせてあげる。今に見ていなさい。

純は、縛り付けた課長の縄の上にベルトを振り降ろす。バスッと音がした。

「ああ~、ああ~」

課長が声を上げる。純にはわかっていた。音はすごいが痛くないことを、そして課長の体の中に得体の知れない快感が巡っていることも見えていた。うつろな目、甘い課長の鳴き声がそれを物語っていた。純は立て続けに鞭を打ち込む。

「ああああ~ん」

課長の体全体の神経が快楽を感じはじめているようだ。純は自分の仕掛けた罠に課長がしっかりはまっていくのを確信した。

一方、課長自身は信頼できる部下のおかげでエクスタシーに到達できると思っていた。ああ、もうすぐどすー。天国はすぐそこやー 思わず大きい声が出た。それがさらなる興奮を呼んでいた。

「声を出すんじゃないわ」

純は外に声が漏れないようにタオルで口枷をする。課長のあえぎ声が聞こえなくなると、変わりにバスッバスッと縄の上にベルトを打ち込む音だけが部屋の中に響いた。音の数だけ課長はのけぞり床の上を転がりもだえた。体全体で鞭プレイを味わっているのだ。血液が体中を駆け巡りあと少しで恍惚状態に達しようとしたまさにその時だ。純の態度が変貌したのである。

鞭打ちの場所を変えたのだ。課長が思うショーはここまでだった。今まで縄の上に打ち下ろしていたベルトは肌が露出している尻の上に打ち降ろされた。パチンと皮膚を引き裂く音がした。

「ひぃ~、うぎゃ!」

悦楽の境地から激痛を味わう世界にようこそ課長。純の冷たい視線は課長に歓迎のメッセージを送っていた。課長の尻にみるみる真っ赤な筋が浮き上がる。

「あ、あー、う~」

今までとは違う。痛みが半端ない。

(嘘やー 鞭の降ろす場所が違いますやん)そう言おうとしたが口枷があって思うように声が出ない。

(まさかや、本気で鞭打ちなんてうそですやろ、ひょっとしてほんまなん?)

課長の心に暗雲が生じた。さっきまでしていた鞭打ちの打ち所を間違えたのか、それとも本気なのか、わからなくなっていく。

純にとっては今までが前座のショーで本番のショーはいま始まったばかりだ。自分でも息づかいが荒くなり顔つきが変わってゆくのがわかった。精神尋常者のように判別がつかなくなっていくのがわかった。

尻の上への鞭打ちは続いた。激しさが増しパチンと鳴る音も大きくなった。

「う、う、うー」

激痛が体中を駆け巡る。

ようやく課長に真実が見えてきた。

(ほんまや、この女、本気でほんまや~)

そう思うと尻が鞭打ちを避けようとする。その反応が純の心をますますかきたてた。更に力を込めて尻の割れ目めがけ鞭が振り降ろされた。

(あ、あー ほんとに痛いー、お願い、許してー)

心の中で課長は絶叫しているが声にならない。目は血走り、体が恐怖でブルブルと震えだす。しかし、純は止らない。狂ったように鞭打ちが続く。プレイは拷問に変わっていたのだ。 

見るに見かねてネネが

「純さん、もうこの辺で許してあげて死んでしまうわ」

ベルトの跡がクッキリついた課長の尻をさすり始める。そして課長の口枷をはずしたのであった。

課長は舌を思いっきり出してはぁはぁと呼吸をした。その舌をつまんで純は思いっきり引っ張る。

「ぐぇ~」

奇怪な声とともに課長の頭が持ち上がった。

「本当に拘束されるってことはこういうことなの、思い知るがいいわ」

舌をつまんだままで純が言う。その表情はまさに冥界の主、閻魔女王のようであった。

「ううっ、しょうおうしゃまぁ、もうかんへんしてくらはい」

舌をつままれたまま言葉にならない課長は必死だ。閻魔女王は笑みを浮かべるとつまんでいた舌を突き放す。ドタンと音がして課長の頭が床に打ち付けられた。

最後の仕上げとばかり純は床で転がっている課長の腹に足を載せ体重をかけたのだ。口から泡のようなよだれが垂れて課長は動かなくなった。それを見て、

「この苦しみはあんたの下で働く部下がいつも味わっている苦しみよ。思い知るがいいわ。ネネ、行くわよ」

そう言うと純はバックを持って部屋を出た。

「課長を置いてこのまま出て行くの」

ネネが慌てた。

「放っときなさい。死にはしないわ。いずれ、自分で縄を解くでしょ。部下の気持ちを思いっきり感じてもらうのよ。帰るわよ」

玄関から純の声がした。ネネも慌ててバックを持ち、靴を履く。二人は、課長を残したまま玄関を出た。

  六

翌日、雅が出社しても課長は不在のままだった。午後から部長との会議があるのにどうしたんだろう。

「根本君、あれから課長はどうなったの? 電話をかけても出ないし……」

不安になった雅は純に問いかける。

「さぁ、私達はあの後すぐに帰りましたけど、ねぇ」

純がネネを見つめる。

「はい、係長が帰った後すぐに私達も帰りました」

ネネも純を見つめた。なんとなく示し合わせているような感じがしないでもない。不安になった雅は、

「おれ、ちょっと課長のアパートに行ってみる」

そう言い残して会社をあとにした。

アパートに着いてみると、玄関のドアノブに山中係長へと書いた手紙がビニル袋に入れてぶら下がっていた。雅は遺書ではないかと慌てて封をあけた。

「山中係長へ 本当の自分を気づかせてくれてありがとう。あなたのアドバイスがなかったら今日のすっきりとした気分を味わうことが出来なかったでしょう。これからは自分の思うままに生きて行こうと思います。会社にいるときも外を歩くときも心のままにマイウェイです。しかし、自分にはまだその勇気と決断力がありません。それを得るためにしばらく旅に出てみます。

山下係長にはいろいろご迷惑をかけることになりますが必ず戻ってきます。それまでいましばらく時間をください。ネネ様、純様にもよろしくお伝えください。阿部」

そもそも自分の提案から始まった事件である。

一人の人生を変えてしまうような事になるとは夢にも思わなかった。それが良かったかどうかは神様でなければわからない。

自分も自由でいたいと心の底から思うが家族を捨ててまでの勇気はない。それを思うと課長がうらやましいと深いため息が出る雅であった。

(了)

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すきにして 団周五郎 @DANSYUGORO

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