蛇女と芝浜

やなぎらっこ

第1話

 帰宅すると「これは安産運動です」と呟きつつ、嫁が尻を突き出した猫の姿勢をズルズル後退させながら床を拭いている。この安産運動を見るのはほぼ日課だが、彼女は実際には妊娠していない。2度流産している。

 嫁とは結婚して18年になるが、未だに慣れぬ。夜中に目が覚め隣で寝息を立てている嫁を見る時に感じる、この女は誰だという違和感。異形のものでも眺めるような冷酷な己の視線。その自分を斜め上から見ているもう1人の自分。自分は自分で同時に自分が自分でないような齟齬を繰り返し、ズレしか感じない日常の不安定さを言葉にするのは難しい。あの女はおそらく客観的には自分の嫁である。しかし、そういうことではないのだ。日曜日のガソリンスタンドで給油しようと車から出た時の眩暈、助手席で鼻をかんでいる嫁の顔を見た瞬間の吐き気、嫁の布団の中から毎晩聞こえてくる呪詛にも似た古今亭志ん生の落語。それらのものが澱のように腹に蓄積されてゆくのが堪らない。彼女のお気に入りは『芝浜』だが、自分はこの噺が嫌いである。血の通った夫婦の人情噺とはとても思えぬ。殊勝なフリをして気のいい単細胞の夫を騙くらかしている業腹な嫁ではないかと思う。夫の姿は、お釈迦様の掌で転がされている哀れな孫悟空を連想させる。なぜ嫁はこんな噺が好きなのか。真面目な夫婦関係を揶揄されているようにしか感じない。

 ある春の穏やかな日のこと、自分と嫁は吉野まで花見に出かけた。蜃気楼のように美しい風景と多くの人間に酔った自分は、込み上げてきた嘔吐に耐えきれず桜の木の下で吐いてしまった。

「お弁当の卵焼き、火が通っていなかったのかしら。子どもみたいに胃腸が弱いんだから」

 嫁は見当違いの言葉で自分を慰め背をさすってくれたが、嘔吐は止まらず胃の内容物を全て吐き出しても小1時間ほどはその状態だった。吐いているうちに世界が逆立ちし、自分の肉体も裏返しになっていくような感覚に陥った。

 自分は自分というものが全くわからぬ。何度も嫁を嫁としなかった別の人生を想像した。もし、という仮定ほど人生において無意味なことはないが、あらゆる局面において、もしこちらを選ばなければどうなるのかという想像ばかりが自分を苦しめた。ごく些細な選択から重要な選択まで。出張の土産物は饅頭でなければクッキーか。文系に進学しなければ理系か。夏の旅行は東北に行くか九州に行くか。演劇部に入るか卓球部に入るか。好きでもない女に告白されたら付き合うか付き合わないか。嫁と結婚するか結婚しないか。

 多分、どちらを選んでもそれなりに人生は進む。もし、という想像ばかりするのは自分の癖でもあり、ある種の病気であったのかもしれない。自分は選ばれなかったもうひとつの人生、そこに生きるもうひとりの自分にしばしば想いを寄せた。その気持ちは故郷を持たないが故に抱く郷愁にどこか似ていた。

 

 駅の線路沿いを歩いていると赤提灯が見えた。何かの屋台のようだ。真っ直ぐに帰る気になれず立ち止まった。無造作に並べられた緑色の穴あき丸椅子のひとつに腰掛ける。

 寸胴鍋からは湯気が上がって、出汁のいい匂いが漂っている。おでん屋のようだった。

「てきとうに入れてくれる? あと、酒」

 親父は手際よく皿に数種のおでんを盛ってくれた。自分は無言で杯を重ねた。喉を刺す安酒だったが、嫁と顔を合わす瞬間を引き伸ばせるならなんでもよかった。今頃、日課の安産運動でもしているのだろうか。

「旦那、つまらなそうだね」

 親父が皿の上に残っていた大根を顎で示す。

「ちょいと、面白い話があるんだけどね」 

 手元の大根を見ると、穴だらけで原形をとどめていなかった。無意識に箸で突き刺していたのだろう。

「旦那も穴あきがお好きで。さてはアナーキー?」

「なに? 駄洒落? 間に合ってるよ」

「お客さん、蛇女と会ったことありますか?」

「は? なんなの、急に。妖怪とか幽霊の類い?」

「いや、人間なんです。どうやらね。これ、わたしの体験なんですがね」

 親父は語り始めた。


 もうずいぶん前の話になりますがね。市場に行った帰りですよ。いつも通る国道がえらく混んでいたもんで、ええ、50日だったんですな。抜け道を行くことにした。雑草だらけの狭い道です。そしたら、女がフッと道端から現れたんです。顔は逆光でよく見えませんでした。女はタクシーでも止めるみたいに白い手を挙げた。狭い道ですし通れない。わたし、停まりましたよ。

 そしたら当たり前のような顔で「乗せて」と言うのです。うちのは軽トラですよ。さらに女は「43号線の手前まででいいから」と言います。

 仕方なく助手席の荷物を下に降ろして女を乗せることにしました。テロンとした赤いワンピースを指先で、こう、つまみ上げ助手席に乗り込んてきたのですが、つっかけみたいなサンダル履いて鞄ひとつ持っていない。変な女だと思いました。

「ね、助手席に乗っていたのは河童だった、って昔話あったでしょう。女を乗せたと思ったら、山の中で消えて座席には小さな水溜りがひとつ」

 唐突に女は話し始めました。 

「そんな話、知らんな」

 無下なく答え、やはり変な女を乗せてしまったと思いました。

「河童に会ってみたいと思ったことはない?」

「あんた河童なの?」

「ねえ、ズレを感じるでしょう。日常に」

「は? 今度はなんの話よ? 河童は?」

「あなたが退屈そうだから言ってみただけよ。河童話は全国共通だからね。そんなことより、あなた今幸せ?」

 少し黙っていろ、と言おうとしたその時、つけていなかったはずのカーラジオから突然女性の声が流れてきたのです。


**********


 はい。では、次は雑学のお時間です。今日は講談社の図鑑を読んでみますね。ヘビのお話ですよ。


 ヘビは、体をくねらせて、するするとさまざまな場所を移動します。木に登ったり、泳いだり、木から木へ飛んだりもできます。どうしてどんな場所でも、するすると動けるのでしょうか。

 ヘビの体の表面は、細かいウロコでおおわれています。そしてお腹の部分のウロコは、背中のウロコに比べると、すべすべでなめらかです。けれども、高解像度の顕微鏡で調べてみても、お腹と背中のウロコの構造に違いはありません。

 今回、カリフォルニアキングヘビの脱皮殻を念入りに調べてみると、厚さが人間の髪の毛の直径の数万分の一しかない、とても薄い脂質(あぶら)の層が、ウロコをコーティングしていることがわかりました。このヘビのウロコをコーティングする脂質(あぶら)が、背中よりお腹のほうが整った層を作っているため、すべすべでなめらかに感じるのです。つまり、この脂質(あぶら)の層が潤滑油となり、ヘビがするするとすべるように動けるということがわかったのです。

 ヘビの潤滑油は、そもそも非常に薄く、またウロコの表面からはがれたり、拭きとることができないため、ヘビを扱う人たちも、今まで潤滑油の存在には気づきませんでした。

 この潤滑油の成分は、ヘビの種類によって違いがあるようですが、カルフォルニアキングヘビ以外の、多くの種類のヘビでも同じように、この「はがれない潤滑油」があるのではないかと考えられています。


 そうなんですね〜まあ、素手でヘビを触るって人はあまりいないんじゃないでしょうか、うふふ。ではでは、みなさま、よい1日を。


**********


「へえ…知らなかったな」

 ふと女に目を向けるとなぜか涙ぐんでいる。

「朝早くから商いすると、こうやって良いことがあるのよ」

「早起きは3文の徳ってやつかい?」

「3文どころじゃないよ。熊さんだって大金拾って大逆転よ」

「熊?」

「あら、芝浜知らないの?」

 それはそうと、不思議なことには走っても走っても抜け道を抜けないのです。おかしなことになってきたと思いましたよ。

「ちょっと停めてくれない? お小水よ」

 そう言って女は車から降り、草むらの方に歩いて行きました。そのまま10分ほど待っても戻って来ません。なんだか気になりましてね、様子を見に行きました。道から逸れた深い茂みに入ると、しゃがみ込んでいる女がいました。赤いワンピースを捲り上げて、白い尻が剥き出しです。わたしはごくりと唾を飲み込みました。気配を感じたのか女が振り向きました。わたしの顔を見てニヤっと笑いました。これはそういうことだと思い、背後から女に抱きつきました。

 いや、尻がとにかくよいのですよ。よく張った白いお山の片方にはふたつの膨らんだ黒子があって、そこをベロベロ舐めると女はいい声をたてて。わたし、女はかかあしか知らなかったが、あれは女じゃなかった、いま思えば。いつまでもわたしのものを離さんのです。そろそろ抜こうとしても抜けないの。背中の鱗は妖しく光って、よく見ると腕も胴体と一体化して、女の姿はどんどん変化しています。ああ、これは蛇だ。大蛇に喰われとると思いましたよ。下の口からね。さっきのラジオを思い出して腹を撫でてみると、すべすべでした。あんな心地になったんは初めてでした。天国でしたよ。もう一生繋がっていたかったですがね、このまま死んでも構わないって。

 そうやってどれくらい繋がっていたのかわかりません。不意にわたしたちの頭上に黒い影が現れました。それは1羽の鷹でした。

「ひぃー」と叫んだと思ったら、女は完全に蛇の姿になって草むらに消えていきました。後には赤いワンピースだけが残されていました。

 わたしは、その女に会いたくて、それから何度も同じ道を通りましたが、2度と会うことはできませんでした。


 自分は親父の話を黙って聞いていたが、何とも言えぬ居心地の悪さに気持ちが塞いできた。

「あ、旦那。これ、嘘だと思っているでしょう。証拠のワンピースがあるんですよ」

「どうでもいいよ、そんなの。おあいそして」

 穴だらけの大根はそのままに席を立った。月明かりに照らされた帰り道、酒で澱んだ意識の中で何かが引っかかる。理由はわからぬが腑に落ちぬ。

 自分は家の鍵を開け、上着と鞄を置くとそのまま浴室へ向かった。風呂に浸かり、纏わりつく薄衣のような気持ち悪さを早く洗い流したかったのだ。風呂場に入って驚いた。赤い鱗のようなものが2、30水面に浮かんでいる。その隙間から透明の長い物体が見えた。手を伸ばしてすくうと何かの抜け殻である。

 まさか嫁が蛇女なのか。

 素っ裸のまま寝間に飛び込んだ。こんもり盛り上がった掛け布団を勢いよく引っ張りはがすと、嫁は胎児のように丸まって寝ている。微笑んだような顔をして、流した嬰児の夢でもみているのか。

「たまこ! おまえ、おでん屋と通じてやがったな」

 無我夢中で嫁をうつ伏せにひっくり返し、パジャマのズボンとパンティを引きずり下ろす。

「猫の姿勢だ」

 自分の怒鳴り声に気圧されたように、嫁は不承不承ながらも猫のポーズをとった。

 嫁の尻など、じっくりと真剣に見たのは初めてだった。何故ならば自分は乳の方が好きだからだ。とはいうものの、嫁の乳を最後に見たのはいつなのか、もう思い出せない。

「なんなんよ、もう。寒いやん。パンツ返して! ちょっと、お尻見んといてや」

 嫁の抗議を無視し、自分は端から端まで念入りに尻を確認した。果たして、その尻には黒子がふたつあった。

「ヘイ、シリ、どういうことだ」

 自分は尻に問いかけた。問いかけながら平手で白い尻を打った。盛り上がった双丘を夢中で打った。尻はだんだん赤みを帯びてきてまるで話し始めそうな顔つきだった。嫁は「アッ」とか「ウッ」とか言葉にならぬ声をあげてはいるが、嫌がっている様子もない。小刻みに揺れている肩甲骨から背中にかけての肉が、心なしか悦びに打ち震えているようにもみえる。自分はふと嫁の平らな腹に触れてみた。親父が、滑るような肌触りだと言ったことを思い出したのだ。ぞっとするほど冷たいその腹はヌルヌルだった。風呂で脱皮したに違いない。

 自分は嫁に殺意を感じた。すべては台無しになったと感じた。枕元の筆立てにカッターナイフがあるのが見えたので、それを掴み取り嫁の横腹に突き刺した。緩んで見えた肉は硬く、カッターナイフの刃は折れた。怯むことなく、自分はカッターナイフの刃を伸ばし再度嫁に突き刺した。泣きながら何度も何度も刺した。

 嫁が動かなくなった後、自分は跪いて懺悔したい気持ちでいっぱいになった。嫁は嫁でこの世界とうまくやっていたのだ。蛇女だろうが鳥人間だろうが、生殺与奪の権など神でも持ち得ない。自分は薄情な人間だ。嫁が蛇女でも構わないじゃないか。薄っぺらい安物の嫉妬だけで自分は嫁の蛇生を奪った。

 茫然自失のまま血塗れになった手をぶら下げて風呂場に向かった。蛇口を捻ろうとしたら、どこからか甘い匂いが鼻をくすぐった。浴槽を覗いてみると真っ赤な花弁が大量に浮かんでいる。その一枚を自分は恐る恐る摘んでみた。すると、それは鱗ではなく、ビロードのような手触りの薔薇の花びらだった。自分は慌てて湯に手を突っ込み中を探った。蛇の抜け殻が確かにあった筈だ。あれを見たから嫁は蛇女だと確信したのだ。

「あった!」

 しかし、自分が湯の中から掴み取ったもの、それは古今亭志ん生の似顔絵が描かれた、嫁愛用の手ぬぐいだった。

「そんな馬鹿な。そんなことが、なんで…なんで」

 志ん生の歪んだ顔が、ゆっくり水面に広がっていく。視界が狭まり自分は膝から崩れ落ちた。


「おおい」

 目の中に明るい灯が飛び込んできた。

「ちょっと大丈夫かい?」

 なんだ、もう捕まえにきたのか。

「お父さん、飲み過ぎだよ」

 志ん生の息子、志ん朝そっくりの警官が懐中電灯を持って立っていた。

「道端で騒いでるって通報があったからね。みんな寝てるんだから静かにしないと。家どこ?」

 自分は震えた。家に帰るのが怖かった。殺した嫁を見るのも怖いし、生きている嫁と会うのも怖い。一番怖いのは、現実から乖離していっている自分自身だ。この終わらない悪夢。

 押し黙っていると、顔を覗き込んできた志ん朝が重ねて「だから、家はどこなんだい?」と尋ねた。仕方なく自分はこう答えた。

「よそう、また夢になるといけねえ」

 その途端目の前の志ん朝は消え、後には闇と静寂だけが残った。


 夢を見続けるには人生はあまりに長い。そして曖昧すぎる。



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