第4話 結

 僕はゆっくりと、黒い群れの後を追っていた。セイカさんの中から湧き出てきた魚たちは、全てが同じどこかを目指しているように感じられた。


 やがて道路に出た。夏の田舎道に通りかかる車も、人も無かった。


 黒いムツゴロウたちは道路を渡り、やがて排水溝へと落ちていく。丁度、さっきまで晴れていたのが嘘のように、雲がかかり雨が降り始める。すぐに土砂降りになった。


 排水溝へ落ちたムツゴロウたちが雨水によって流されていく。僕がその群れを追うことができたのはそこまでだった。


 それから数日、僕は夢を見ている気分だった。セイカさんは今も生きていて、そのうちひょっこりと顔を出すのではないかと思ったりもした。だけど、その願いはかなわない。彼女は黒い群れになって、どこかへ消えてしまったのだ。その証拠に、寺の軒下には彼女だった黒いしみが今も残っている。それは簡単には消すことのできないものだった。


 やがて、八月も半ばとなってころ、僕の気持ちも切り替わり始めていたころ。長く家を留守にしていた兄が返ってきた。フィールドワークが趣味の、気付いた時にはどこかへ消えている。そんな長男が帰ってきた。


 兄はとある村の調査をしていたらしい。誰かに言われてではない。彼の趣味だ。


 僕は始め、彼がどこへ行ってきたのかについて、特に興味を持っていなかった。だが、彼が村の名前を口にした時、僕は彼に詳しい話を聞かなければならなくなった。彼は、行っていたのだ。かつてセイカさんが生まれ育った陸奥乃村へ。


 僕は兄を居間に座らせ、詳しく話をするように迫った。兄は、特に嫌がることもなく、むしろ乗り気で僕に話をしてくれた。


 兄が言うには、陸奥乃村では一年前に村人が全員失踪していたらしい。その割に大きなニュースにはならず、それが兄の好奇心に触れたのだ。そういうわけで彼は廃村となった陸奥乃村へ足を運んだのだという。


 一年前、陸奥乃村では夏祭りがおこなわれていたらしい。土地の神様に大漁を願う祭りなのだという。何の大漁を願うのか、僕は兄に聞いてみた。漁村で大漁を願うのだから魚以外にないだろうと兄は答えた。


 そんなことより、と彼は話を続けた。村では祭りが行われた形跡があった、そして、祭りの会場である村の広場に大量の黒いしみがあったのだという。詳しいことは分からなかったが、そこにあった黒いしみは確かに見てきたのだと彼は言っていた。


 彼が見たのはそれだけではなかった。村の砂浜へ行ってみて、大変驚いたという。なぜなら、砂浜を覆いつくさんばかりの、大量のムツゴロウが居たのだから。


 それを見た兄は、流石に気味が悪くなって村での調査を切り上げたのだという。その後、彼は周辺の土地で陸奥乃村について調べていたというのだが、彼が言うには、村には奇妙な掟があったのだという。


 ひとつ、村の人間は火葬してはならない。


 ひとつ、村の人間は村の外で暮らしてはならない。


 ひとつ、村の人間は飢えたものに魚を与えなければならない。


 兄が調べたところ、村の掟についてはそんなところだった。他にも、色々と話を訊いてみたが、後の内容はセイカさんから聞いて知っていることばかりだった。


 この辺でいいだろうと、自室へ向かう兄を見送りながら、僕は考えていた。


 セイカさんが黒い何かへ変わってしまった日、彼女は僕に何を伝えようとしていたのだろう。懺悔というくらいだ。彼女は何かを悔いていたはずだ。


 僕は目を閉じて、彼女が死ぬ前に言っていたことを思い出していく。


「私は、せめて死ぬ前に、ムツ様に変わってしまう前に、懺悔を、したかったの」


 そうだ。何を懺悔したかったんだ?


「私は……故郷の村が……大嫌いだった。大嫌いで……みんな死んでしまえと思っていた……故郷の全てを壊して……どこか遠くに行きたかった……だから……」


 だから?


「……村の人たちに毒を盛ったのよ」


 唐突に、蝉たちにかき消されて聞き取れなかったはずの言葉を、僕は、はっきりと思い出すことができた。同時に背筋へぞくりとしたものを感じる。


 陸奥乃村の人たちは夏祭りの日を境に姿を消してしまったという。村の広場には、大量の黒いしみが残っていたのだという。同じ村の出身であるセイカさんは死んで黒いしみを残した。そして、セイカさんは村の人たちに毒を盛ったのだと言った。それらを繋げれば、何が起こったのかを考えるのは簡単なことだった。


 僕はこれまでの人生で一番の恐ろしい気分になった。それは、黒い魚を見た体験だとか、どこか遠くにある村から村人たちが居なくなったと聞いたからではない。


 多くの人間を殺した女が、あんなにも穏やかに笑っていたという事実が、僕には最も恐ろしかった。


 彼女は生まれ故郷を恨んでいたのだろう。何があって、彼女が村人を殺すにまで至ったかは、今となっては分からない。


 僕は目を開けた。そこは当然、僕の良く知る寺で、そこに彼女の姿は無い。彼女は……彼女だった魚たちは、故郷へ帰ってしまったのだろうか。彼女が憎んでいた故郷へ。


 もし、黒い魚たちが陸奥乃村へ帰り着いたのだとしたら、もしかすると、彼女の魂は今も故郷に囚われているのかもしれない。


 彼女の中に居た魚たちは、決して彼女を陸奥乃村から離さないのかもしれない。


 生まれた場所から決して逃れられない。ひょっとしたら、それが、彼女が故郷を憎んだ理由なのだろうか。


 もう今の僕には、想像するしかできないことだ。

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中の魚 あげあげぱん @ageage2023

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