第3話 転
七月の間、セイカさんはたびたび寺を訪れた。そのたびに彼女は薄汚れていったが、身なりに注意を払っていないという感じではなかった。と、いうよりは内からあふれ出る穢れをどうしても消すことができない。不思議と僕は彼女にそのような印象をもった。
彼女は寺だけでなく、病院でも体を見てもらっていたらしい。だが、病院でも、寺でも、彼女の身に起こる異常をなんとかすることはできなかった。
いつか見た、彼女の体に浮かぶ無数の黒い点。それは次第に増えていき、彼女の全身へと広がっているようだった。まだ、彼女の顔には黒い点が無いことがせめてもの救いなのかもしれない。
父がどうしても外せない用事があって家を留守にしていた。うるさいくらいに蝉が鳴く、良く晴れた日のことだ。
その日は、七月の終わり。尋ねてきたセイカさんの髪は黒いどぶのような有様だった。肌はくすんでいる。それでも体臭は気にならなかったし、服は綺麗だったから、かえって不気味かもしれない。僕は彼女と何度も会って話をしていたし、事情を知っていたから、嫌悪感を抱くことはなかった。
その日は彼女と軒下で日にあたりながら過ごしていた。正直そんなことをしている余裕はないように思えたのだが、当の彼女がそうしたいと言ったのだから、僕としては彼女の気持ちを尊重するしかない。
「シン君。私は今、どうしようもなく醜いでしょう?」
隣に座る彼女にそう訊かれ、僕は答えに困った。そんな僕に彼女は上品な笑みを向けた。決して彼女が醜いなどとは思わない。だけど、彼女自身が醜いという応えを待っているのではないかとも思えた。
「最近は、喉が良く乾いて、体をいくら洗っても汚れが取れなくて、首元まで黒い点が広がって、しょっちゅう眠くなるし、もう駄目なのが分かるのよ」
「駄目だなんて……」
駄目だなんて……なんだと言うのだ。なんと言葉を続ければよいと言うのだ。何を言っても気休めにしかならない。それでも、僕は少しでもましな、気休めの言葉を探した。
「……僕も色々と調べてみたんです。僕だけじゃないです。父も、父のつてで頼りになる方々も、あなたのために、この異常を解決するために動いてくれています」
兄は……夏になってすぐに、趣味のフィールドワークで長く出かけてしまったが、それでもセイカさんのために多くの人が動いてくれている。それを彼女に伝えたかった。
「ありがとう。本当に、感謝してもし足りない。本当に多くの人が、私なんかのために動いてくれているのね。でも……駄目なのよ」
セイカさんは諦めたように首を振った。
「時間切れなのよ。他の誰でもない、私がそれを理解してしまったの。私は眠り、ムツ様に変わる時なのよ」
「そんなこと言わないでくださいよ」
本心からの言葉だった。僕は彼女に恋愛だとか、親愛だとか、特別な感情を抱いたわけではない。それでも、ひっそりと、この世から消えていこうとする女性を、どうにかこの世に繋ぎとめたかった。無くなろうとしているものを、無くさないで済まないかと願っていた。
「ねえ。シン君」
セイカさんは少しづつ弱っていく声で、僕に何かを伝えようとしていた。
「私は、せめて死ぬ前に、ムツ様に変わってしまう前に、懺悔を、したかったの」
「懺悔?」
「そう、懺悔」
彼女の笑みが少しづつ力を失っていくのが分かった。だから、彼女が今まさに死へと向かっていくのが僕にもはっきりと分かった。さっきまで残っていたはずの元気がみるみるうちに失われていく。亀裂の出来た壺から水が漏れていくかのように。
「私は……故郷の村が……大嫌いだった。大嫌いで……みんな死んでしまえと思っていた……故郷の全てを壊して……どこか遠くに行きたかった……だから……」
彼女は確かに何かを言った。それはぼそぼそとした声で、蝉たちの声にかき消されて、うまく聞き取ることができなかったけど。確かに彼女は僕に何かを伝えた。
「セイカさん? 今何と言ったんですか?」
その時にはもう、僕の声は彼女には届いていなかったろう。彼女は独り言のように。
「きっと……これは……罰なのよね」
そう言ってセイカさんは眠ってしまった。そして彼女の内から黒い何かが広がっていく。
恐ろしい変化だった。セイカさんだったものはみるみるうちに黒くなっていき、やがて真っ黒な影のようになって、それから、どろどろと溶けていく。
僕は黙ってその経過を見守ることしかできなかった。すぐには立ち上がることすらできない。
どろどろに溶けていく何かから、やがて何かが跳ねた。それは黒くて小さな生き物で、その生物に続くように、同じものが何匹も後に続いた。
軒下に黒いしみを残し、寺の庭を黒いムツゴロウの群れが這っていた。
僕はしばらく、その光景を見ながら、呆けていたように思う。あまりにも現実味のない光景に、どうすれば良いのか、判断が出来なかったのだ。
やがて僕は立ち上がり、誰に言われるでもなく歩き始めた。
黒い群れがどこへ向かおうとしているのか、それを見届けなければいけない気がした。
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