ファイブ・センシズ・リベリオン

結城熊雄

ファイブ・センシズ・リベリオン

 声は言った。

「残念、不正解です」

 同時に視界は雨に打たれた水彩画のように滲み、匂いは踏みつけられた花々のように鈍く香った。

 すでに味と肌感覚はわからなくなっていた。味覚と触覚を奪われたのだ。残るは視覚、聴覚、嗅覚の三つ。

 人間の五感における情報判断の割合は、それぞれ視覚83.0%、聴覚11.0%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、味覚1.0%だと言われている。まだ知覚の2.5%が失われたに過ぎないわけだ。なんてことはない。そう自分自身に言い聞かせることで僕は平静を保とうとした。しかしたった2.5%でさえ、僕の一部が殺されてしまったという確かな喪失感を感じていた。

 味覚と触覚がなくなったことで、常に空白を食んでいるようだったし、身体の輪郭は指で擦られ発散していくようだった。それは不快というより、ただ虚しかった。感覚があるところよりもないところにばかり意識が集中してしまうのはなぜだろう。僕にできることといえば、残された感覚を研ぎ澄ますことしかないというのに。

 僕の身に起こったことを一言で言うなら、それは五感による反逆だった。つまり肉体と感覚の断絶、だ。僕の意思とは関係なく、また実際に世界で起きている出来事とも(おそらく)関係なく、五感が脳に向けて偽りの情報を流し込んでくる。それを虚構だと退けるカードをこちらは持っていなくて、ただ経験上これは現実的にあり得ないだろうという曖昧な直感みたいなもので自意識を保つしかないのだ。もちろんその直感すらも間違っているかもしれないけれど。

 目覚めたときにはこの場所にいた。この場所というのが本当のところどこなのかはわからない。自分の部屋かもしれないし、どこか知らない場所に監禁されているのかもしれないし、もしかしたら僕はもう死んでいるのかもしれない。

 最初は真っ白で殺風景な部屋だった。もっというなら箱だ。五メートル四方の白い箱の中に僕はいた。一瞬、何者かに囚われ、閉じ込められたのかと思った。でもその部屋にはドアもなければ窓もない。人工物というにはあまりにも無機質で非科学的だった。二歩、三歩と壁に近づいてみる。するとその分だけ壁が遠ざかっていくではないか。僕は相変わらず部屋の中心にいることになる。他の三方向で試してみても結果は同じだった。今度は走ってみる。が、壁の移動速度が速まるだけだ。

 なるほど。ここはきっと現実世界ではないのだ。夢か、あるいは死後の世界か。

「なにをしても無駄です。あなたがいま感じているものはすべて虚構ですから」

 突然、声が降ってきた。全身の毛穴から内側に染み入ってくるような滑らかな声だった。その声から自分の五感がジャックされた旨を聞かされた。

「これからあなたの五感に関する問題を出題します。答えはいずれもあなたがこれまでに見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりしたものです。ですから必ずあなたの中に答えはあります。正解すれば五感を返して差し上げましょう。しかし、間違えればそのたびにあなたは五感をひとつ失います。チャンスは五回。それでは始めます」

 有無を言わさぬ声が進行するままに、この不可思議なゲームは開始してしまった。抵抗しようにも手段がない。とにかく従う以外、僕にできることはなかった。

 視界は僕をからかうようにころころと見せる景色を変えた。獣たちが静かに蠢く暗闇の森。太陽の光が燦燦と降り注ぐ熱い砂漠。魚のカーテンがゆらゆらと靡く海の底……といったふうに。ほかの感覚にしてもそうだった。ただ、視覚が人間の情報獲得における機能の大部分を担っているのと同様に、彼らの中でも主導権は視界にあるらしく、視界の変化に合わせて後から匂いや肌ざわりが追随しているのがわかった。傍若無人な視界に対し、声は理路整然としていて論理的だった。自然と僕は声とコミュニケーションを取ることになる。

 一問目を終えたとき、僕は声に尋ねた。

「どうしてこんなことをする? きみたちの目的はなんだ?」

「わたしたちに目的などありません。あなた自身がこの状況を作り出したのです。いわば身から出た錆、というわけですね」

 内容とは裏腹に声に非難めいた様子はなく、その口ぶりはいたって軽やかだ。原因は僕にあるというけれど、まるで心当たりがない。そもそも目覚める前、どうやって意識を失ったのかも全く覚えていなかった。

「じゃあきみたちは僕に正解して欲しいのか、欲しくないのか、どっちなんだ?」

「どちらでもありません。正解すればあなたの元へ戻り、正解しなければあなたもろとも消える。ただそれだけです」

 あくまでも中立の立場ということらしい。

「チャンスは五回もあります。一度でも正解すればいいのですから良心的でしょう」 

 ふふっ、と声が笑った。そこには恋人に冗談を言うときのような親しみが感じられた。こんな仕打ちを受けているというのに、不思議と怒りや憎しみといった類の感情が湧いてこないのは声色のせいだろうか。

 なぜこんなことになってしまったのか。すべては自らとちゃんと向き合ってこなかった罰なのかもしれない。見たり聞いたり感じたりできるのが当たり前だと思っていた。しかしこうして五感が正常に機能しなくなってしまえば僕になすすべはないのだった。

 いまはひどくとっ散らかった混沌とした空間にいる。椅子、テレビ、本、服、食品に至るまで、実に様々なものが散乱していた。ショッピングセンターの商品をランダムにぶちまけた感じ、といえば近いだろうか。とにかくここにないものはないんじゃないかと思うほど物に溢れていた。

 しかしすべて実際には存在しないもの。信じられるものはなにもなかった。

 三問目が出題されようとしていた。

 問題が出されると該当の感覚以外の感覚はひっそりと息を潜めるので、直前に他の感覚が騒がしくなる。前の二問で学んだことだった。解答の邪魔をしないように配慮しているところはなんとも律儀である。

「問題です。これはなんの香りでしょう」

 そう声が言うやいなや、匂いは俺の出番だとばかりに強い香を発した。それは大きく、僕を抱擁するかのように優しく包み込んだ。心地の良い充足感に満たされる。いい匂い、というわけではない。人によっては不快に感じることすらありそうだ。僕とは相性がいい、という方が適切だろう。

 時計が動き出した。制限時間は針が一番上から回り始め、再び一番上に戻るまで。数字が書かれていないので正確な時間はわからない。十分にも一時間にも感じられた。とにかく針が回り切るまでに解答を言わなければ不正解ということになる。解答権は一回だけだ。

 目を閉じて鼻の奥に意識を集中させる。なんだろう。似たようなものを僕は知っている。

 これは、そうだ。誰かの家に入ったときに感じる違和感に似ている。自分の物とは違うなにか異質なものの匂い。すると答えは誰かしら見知った人物ということになろうか。匂いを感じられる距離感ということはかなり身近な存在のはずだ。

 す、す、すと小刻みに吸ってみたり、すぅぅぅぅっと長く吸ってみたり、様々な方法で正体を探った。通常、同じ匂いを嗅ぎ続けると慣れてしまい鈍感になるが、そうはならず、いつだって確かな明瞭さをもって僕の脳に働きかけた。それはアクリル板によって隔てられた誰かがノックをして助けを求めているようであった。断続的に希望の光が輝くのだが長くは続かず、頼りなく明滅するばかり。もどかしさに自分の腿を何度も拳でたたいた。あと少しでわかりそうなのに。時計をちらりと見るたびに焦燥感が邪魔をし、思考は振出しに戻った。

 僕はなにも答えることができない。適当でもなにか言った方がいい。そんなことは重々承知している。しかし答えようとするときに限って喉元に鉛玉でも埋め込まれたかのように言葉を発することができなくなる。無残にも時間は流れていき、時計の針はてっぺんに到達する。

「残念。不正解です」

 顔の中心からバチンとなにかを引き抜かれた感覚があった。嗅覚を失ったのだ。

 途端、世界から彩というものがなくなった気がした。色はあるけれど立体感が失われてしまったのだ。こんなにも香りが視覚に影響するものとは知らなかった。それに呼吸をしている実感がないので息苦しい。

 そんな僕の身体の変化には構わず、声は続ける。

「チャンスは残り二回です」

 あとは視覚と聴覚。そろそろまずくなってきた。焦る一方で、同時に楽観的な思いを抱いてもいた。問題は味覚、触覚、嗅覚と、感度の鈍い順に出題されている。つまり後半に行けば行くほど記憶に残っている可能性は高くなり、解答はしやすくなるはずだ。繊細な味や手触りなんて、つい数分前に知覚していたとしても正体を言い当てるのは難しいだろう。次はおそらく聴覚に関する問題。いままで聞いたことのある声や音であれば答えられる気がする。そう思うと少しだけ心に余裕が生まれた。

「問題です。いま聞いている声は誰の声でしょう?」

 思った通り聴覚に関する問題だ。出題者が誰の声か。そこではじめて声の主について意識する。声は男のようにも女のようにも聞こえた。幼いようでも、大人びているようでもある。捉えどころがなかった。今回こそはすぐにわかるものとたかを括っていたが、そう甘くはないようだ。

「声の問題ということはきみにいくつか質問してもいいということか?」

「ええ、わたしの声をじっくり聞いて考えていただいて構いません」

 しめたぞ。会話しているうちに声の主の特徴をいろいろ聞き出せるかもしれない。

「きみは男か女か?」

「それは答えることができません」

「年齢はざっくりどれくらいだ?」

「それは答えることができません」

「僕と会ったことはあるよな?」

「それは答えることができません」

「おいおい何も教えてくれないじゃないか」

 わざとらしく溜息をついてみせる。どうやら協力してくれる気はさらさらなさそうだ。

「あくまでもわたしの声を聞いていただくためにあなたと話しているのですから、問題のヒントになるような情報は与えられませんよ」

「じゃあ勝手にしゃべっててくれ。その方が考えに集中できる」

「いいですよ。なんなら一曲歌いましょうか?」

 声はふふっと笑う。冗談まで言うようになったか、とあきれてしまう。しかしやはり僕は声が憎めない。声の性格も主の性格に準ずるものなのだろうか。聞いてもおそらく声は教えてくれないだろう。もしそうだとするなら僕はその人が嫌いじゃない。現実世界ではかなり親しい間柄だったのではないだろうか。なのにどうして思い出せないのだろう。僕は「じゃあ歌ってみてよ」と意地悪を言ってみる。

「公平を期すためにオリジナル曲になりますがよろしいですか」 

 歌うんかい。しかしオリジナルというのは俄然興味がわいた。それで、声は歌った。僕は静かにじっと聞いていた。ちょうど何気なく立ち寄った店のBGMに心を奪われ思わず聴き入ってしまうときのように。その曲は一番二番とかサビとかいう概念がなくて、ただ滑らかで永遠に続いていきそうだった。熱くもなく、冷たくもなく、ちょうど体温と同じであるがゆえに、なんのフィルターにも引っかからず直接脳に響き渡る。できることならずっと聞いていたかった。

 急に歌が止まった。

「あの、いいんですか。もうすぐ時間ですが」

 その声に我に返り慌てて時計を見る。楽しい時間は早く過ぎるというのは相対性理論なんて知らなくても明らかなことだ。いつの間にか時計の針は十一時の位置を越えている。 

 あ。

「残念。不正解です」

 ぶんっと耳元に風が突き抜けたかと思うと、なんの音も聞こえなくなった。通常耳を塞いだときに聞こえる筋音や骨伝導による自分の声も届かない。それは聴覚の喪失を意味した。

 まるで一本の図太い串で左右の耳を繋がれてしまったかのよう。頭がぼうっとした。

 まだ知覚の八割以上の感覚は残っているはずなのに得られる情報はあまりにも頼りなく、心許なかった。残るは視覚、ただ一つ。

 もう声はいない。自分の感覚のひとつを失ったというよりも、大切な友人を亡くしたときのような虚無感に襲われた。

 声が消えたいま、どうやって問題は出されるのだろうかと思っていると、細長い煙のようなものが漂い始め、さらに密度を高め色濃くなっていく。それらは線と線が絡まり合うみたいにして空中に文字を描いた。

『それでは次が最後のチャンスです』

 出題者が視界にバトンタッチしたようだ。脳内ではさっきまでいた声の声色でその文章を読み上げている。よほど声が恋しいらしい。

『わたしは誰でしょう』

 目の前に見知らぬ女が現れた。平均よりは少し小柄だろうか。ベリーショートの黒髪で少しウェーブがかっている。くりっとした二重。シャープな鼻筋。そのてっぺんには印象的なほくろがあった。唇はぽってりとしていて血色がいい。首から上だけなら端正な顔立ちの男性にも見える。

 しかしその人物は全裸だった。乳房は大きくはないものの特有の膨らみがあり、丸みを帯びた輪郭線が女性であることを主張していた。

 嫌な印象は受けなかった。かといってそれほど親近感が湧くわけでもない。僕の恋人だろうか。あるいは親族。一度すれ違った人などであればわかるはずもない。

 近づいてもっとよく見てみる。その人は全く動かず、生きているというわけでもなさそうだったので(それもそうか)、無遠慮に隅々まで観察することができた。しかしやはりというべきか、記憶の引き出しに彼女は存在しないのだった。刻々と時間は過ぎていく。正解しなければ僕はすべてを失う。それは死と同義だ。生死に関わる危機的状況にもかかわらず、呆れてしまうほど僕の頭は働いてくれない。なぜだ。人は追いつめられると脳内にノルアドレナリンが分泌され、集中力が高まり脳機能が向上するのではなかったか。完全に思考が停止してしまっている。

 彼女は本当にわからないのか? と言いたげに悲しそうな目でこちらを見つめる。いまにも泣きだしそうだ。わかる。わかるぞ。彼女が僕にとって大切な人物であるということは。決して忘れてはならない、忘れるわけがないはずだということは。

 なのになぜ。僕の心を満たしていたのはやってもいない罪で無期懲役を言い渡されたような圧倒的理不尽に対する無力感だった。僕の方が泣きだしたい気分だ。いやもう泣いているのかもしれない。肌感覚がないのでわからないけれど。

 もう時間がない。時計の針はゆっくりと速く、昇っていく。たまらなくなって僕は彼女を抱きしめた。

 ごめん。

 暗闇すらも見えないくらいに僕は固く目を瞑った。

 どれくらいの時が経っただろう。恐る恐る目を開けると針が止まっていたので僕は安堵する。なんらかの作用が働き助かったのだと思った。が、それはクロノスタシス。ただの目の錯覚に過ぎなかった。僕が見るのを待ち構えていたかのように無慈悲にも針は頂上へと帰還する。

『残念。不正解です』

 彼女越しにその文字が見えた次の瞬間、ぶつんという冷たい音がして目の前が真っ暗になった。不思議だ。聴覚はないはずなのにその音ははっきりと聞こえた。思えばさっきも触覚がないのに強い香りに抱きしめられたと感じたり、嗅覚を失ったときに視覚の鮮明さが損なわれたり、ということがあった。

 五感というのはひとつひとつが独立しているのではなく、複雑に絡み合って情報を伝達しているのだ。そんなことに今更ながら気づいた。

 もう触れることも味わうことも嗅ぐことも聞くことも見ることもできない。しかしなぜだろう。僕はまだ生きていた。いや、生きているのかはわからなかったが、少なくとも”ここ”

に”いる”ということは知覚できた。ここはどこだ? いるとはなんだ? とにかく僕は完全に消滅したわけではなさそうだ。

 五つの感覚を失ってなお人の身体に残るもの。ふと一つの言葉が頭に浮かんだ。

 第六感。

 理屈で説明はつかない、鋭く物事の本質をつかむ心の働きのことをいう。僕をいまここに存在させているのは第六感なのではないか。

 声は言っていた。五感が僕の身体から断絶したのだと。つまりはじめから第六感は僕の味方だったわけだ。チャンスは五回とも言っていたが、それは一つの感覚につきチャンスが一回だから。第六感がもう一回チャンスをくれる。

 そうだ、ゲームはまだ終わっていない。いま現在、第六感に関する問題が出題されているはずだ。五感がないのでそれがなんだかわからない。なんだ。なにを問われている?

 間違いなく僕の過去が関係しているはずだ。直近のことでいえばどうやってここにきたのかだが……。

 はじめから僕にまとわりついている疑問。ここは一体どこなんだ。本当はどこにも行っていない可能性だってある。そうだ、これは夢かもしれない。きっとただ自分の部屋のベッドで寝ているだけなのだ。

 ……自分の部屋? それはどんな風だった? 僕の家はどこにある? いや、それ以前に、僕は……何者だ? 名前は? 歳は? どんな見た目をしている? 人種は? 性別は? なにも答えられないじゃないか。

 いや、僕ははじめからわかっていた。僕は僕に関することをなにも知らない。だからこそ僕の中にあるはずの答えにたどり着けないでいたのだ。

 内側にないのなら外側から推測するしかないじゃないか。

 ここにきてから知覚したものの中にヒントがあったのかもしれない。そういえば最初の方こそ視界は大胆に景色を変えていたが、雑然と物が溢れた部屋からはあまり変化がなかった。たとえばそこに散らばっていたものに意味があったのではないだろうか。しかしもう視覚がないので見ることができない。思い出せ。どんなものがあった?

 記憶を頼りに頭の中に景色を思い描く。大丈夫、僕らは感覚がなくても想像することができるのだから。点と点が線を繋ぎ奥行きを作り出す。色をおび、形になっていく。

 仮面ライダーのフィギュア、RADWIMPSのCDアルバム、黒いエアジョーダン、ヤマハのアコースティックギター、ビームスのジャケット、モンブランの名刺入れ、サラダチキン……。

 ただ雑多に物が転がっているだけに見えたが、よく思い返してみるとそれらは俄かに具体性を帯びてくる。

 制限時間がこれまでと同様だとすればあまりのんびりもしていられない。これが正真正銘最後のチャンス。脳味噌を覆う靄を振り払うように必死に考えた。

 考えても考えても答えは出ない。僕は絶望しかけた。またダメなのかと。しかし真っ逆さまに堕ちていく闇の中、米粒ほどの光の点が綻びのように揺れたのを確かに感じた。

 待てよ。ここまで答えが浮かんでこないというのはさすがにおかしい。まるで意図的に答えに関する箇所だけが思い出せなくなっているようじゃないか。

 もしかしたら答えが出ないことこそ答えなのではないか。

 僕は実にたくさんのことを知っている。五感における情報判断の割合や科学用語、アーティストやブランドの名前に至るまで。知識は十分にある。それなのに自分自身に関する記憶だけが抜け落ちているのだ。そうか、そういうことか。それなら僕が一向に答えられなかったのも説明がつく。問題の答えはすべて一緒だったのだ。そして六問目の問いはおそらく『あなたは誰か?』。いまならわかる。答えは、僕だ。



 金属の味がした。

 風が皮膚の表面を緩く撫でた。

 さやさやと葉の擦れる音が聞こえる。

 重たい緑の匂いがした。

 生い茂る木々が身体を包み込むように広がっていた。

 これが虚構ではないことはすぐにわかった。すでに記憶は元に戻っていたからだ。ここはS県某所にある山の中。遠くの方には僕が身を投げた崖が小さく見えた。

 僕は死のうとしたのだ。でも死ねなかった。いや、もう一度生きるチャンスを与えられたといってもいい。落ちた先の柔らかい草むらがクッションとなり絶命を避けられたのだろう。

 身体を動かそうとすると全身に激痛が走った。思わず笑い出しそうになる。痛みが僕を激励してくれたような気がしたから。生きているということは、たとえそれが明確な苦痛だとしても、感じ取れるということ自体が生の証明であり生に対する肯定なのだ。僕は生きている。少なくともいまこの瞬間は。

 僕の名前は潮留明日香。二十八歳。生物学的には女。こういう言い方をするということは大体察しが付くかもしれないけれど、染色体を無視すれば僕は完全に男だった。

 男が好む趣味を持ち、男物の服や装飾品を身に着け、男のように振舞った。

 声もなるべく低くなるよう努めた。でもそれは変声期の中学生みたいに歪で滑稽で、自分の声が嫌いだった。反動で声の仕事に憧れた。

 都内近郊にあるマンションのワンルームで一人暮らしをしている僕は、大手通信会社でサービス企画に携わりながら、声優を目指していた。お金に余裕はないし恋人もいなかったけど、それなりに充実した日々を送っていた、はずだった。

 部署異動した先で虐めにあった。首謀者はそこの課長。四十歳前後だったが、おでことほうれい線に深い皺があり、頭頂部まで禿げ上がっているので五十くらいに見える。彼が言うには、「女のくせに男の服装や見た目をしている僕のことが気持ち悪くて気に入らない」らしい。いい年した大人がバカみたいって思うけど、精神年齢はなかなか上がっていかないものだ。無視されるとか、あからさまに悪口を言われるとか、取引先に自分だけ会わせてもらえないとか、そんなことは別に良かった。学生時代にも似たようなことはいくらでもあったから。でも先日、ネット上にあらぬ噂を流されちょっと炎上して、ようやく決まった声優の仕事がなくなった。

 おいおいおまえら社外のことにまで干渉して邪魔してくるのかよと思うと芋づる式に負の感情が引っ張り出された。

 なんでお金のためだけにやりたくもない仕事を最悪の職場環境でやらなくてはならないのか、とか。

 声が理想とはかけ離れているしオーディションもコンテストも全然うまくいかなくてやっぱり僕には才能がないんだ、とか。

 そもそも生まれた時点で性別という二択を間違えてしまったせいでこの先の人生僕に幸せが訪れることはないんだろうな、とか。

 こつこつ白を増やしていったオセロが一撃で全部ひっくり返されて真っ黒に染まった感じ。で、急にすべてがどうでもよくなって山に来たわけだ。

 五感クイズで得た教訓は、日々感覚器官が正常に作動することに感謝しましょうねとか、もっと自分自身を大切にしましょうねとかいう陳腐なことではなくて、あんな体験をしてもやっぱり僕はまだまだ死にたいわけなんだけど、ひとつだけわかったことがある。

 僕の声は思っていたより悪くないということだった。それはひとつの発見であり、革命だった。先入観のない状態で客観的に聞いた自分の声があんなりすんなり入ってきて心地がよいと感じるのであれば、人様が聞いたときだって案外おかしくもないのかもしれない。

 ふいにこの大自然には似つかわしくない人工的な機械音が鳴り響いた。見ると、傍で端末が振動している。ディスプレイに表示されているのは知らない番号だ。慎重に右手を伸ばしてそれを掴み、通話ボタンを押した。ゆっくりと耳に当てる。

「チャンスはもう、ありませんからね」どこかかなしげに声が囁いた気がしたけれど、それは幻聴だったのかもしれない。

 僕はふふっと笑って、その笑い方があれどっかで聞いたことあるな、なんて思いながら暗くなった画面を見つめているうちに思い出してまたふふっとなった。こんな山奥でも電波があるのは弊社のおかげだと感謝しつつ電話を掛ける。119番よりも先に、あのハゲに辞意を伝えなければならない。

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