仮面を剥がすは雨の魔女

森月 優雨

仮面を剥がすは雨の魔女

 仮面をつけて生きている。

 いつからか、この世界に対して無感動になってしまったのだ。感動も、恐怖も、歓喜も嘆きも、何もかもが薄れてしまった。ロボットのようだと気味悪がられ、面倒事に巻き込まれた過去がある。面倒事、とは字の如く面倒くさいもので。感情が薄いからといっても疲れるのは嫌なもの。仮面をつけるようになったのはそれから。平穏に日々を送るための、心の仮面。家族に対する仮面、一般学生としての仮面、友人と過ごす為の仮面。心の壁面に飾られた様々な仮面。平穏に日々を送る為の、自己防衛。

 そうして見失ってしまった。いや、元からそんなものは無いのかもしれないけど。本当の素顔、真実の姿、人間としての在り方。

 何の為に生きているのか。生きる意味を見出せないのなら、それなら──



 所謂、都市伝説、と言うやつだ。この街にはそんな噂話が蔓延っている。途中で振り向いたら呪われるトンネル、赤い橋に佇む女幽霊、問いに答えられないと殺されるという長身のマスク男、夜の学校に徘徊する白い影……。どれもこれも若者の間では話のネタとして重宝されている、このありきたりな噂話たちには一つ共通点があった。


「また雨かあ」

 季節は春から夏へと移り変わる途中、どこか陰鬱な空気が漂う湿気た時期、梅雨である。

 朝食のプレーンなトーストを齧りながら窓の外を見ていると、対面に座っている姉が大きくため息をついた。

「はあ……、嫌になるわね。こんなに雨が続くと。もう四日連続じゃない」

 そうか。そんなに雨が続いてるんだっけか。晴れてようが雨だろうが淡々と過ごす日常に変わりは無いので、言われて始めて気づく。

「それにしてもあんたさ、最近学校はどうなの?」

 姉がトーストに苺ジャムを大量に塗りながら聞いてくる。まるで私の分まで賄うように。

「別に普通だよ」

「普通って……。なんかないの? 色恋の話とかさ」

「……姉さんの方こそ仕事はどうなの?」

 本当に語ることがないので、とりあえず相手にボールを返す。

「そうね、最近なんだか忙しいのよね。変な患者さんが多くって」

「変な患者?」

「ええ。切り傷、打撲、骨折、怪我の種類や程度は様々だけど、その原因がね……」

 またもため息をはきながら、姉は窓の外に目線を移す。

「……しかも、必ず雨の日なのよね。なんだろ、雨に打たれると幻覚を見る、なんて新種の病でも流行ってるのかしら」

 姉はそれ以上深くは語ろうとしない。こちらからも深く聞くつもりもない。そうして無言のまま朝食を終え、玄関へ向かう。

「ああ、そうだ。一応ね、あんたも帰り道は気をつけなさいよ。近頃は物騒なんだから」

 リビングから顔だけを出した姉に忠告される。「わかった、行ってくる」と小さく返事をして扉を開け、薄汚れたビニール傘を灰色の空の下に広げた。


「……なにこれ」

 下駄箱を開けると、そこには一通の手紙が入っていた。白い便箋に、赤いハートマークのシール。今時こんなものを目にすることがあるとは。今朝の姉との会話を思い出す。色恋……、そう、まさにそんな気配をぎゅうぎゅうに押し込んだ代物だ。

 何はともあれ、そのままにしておく訳にもいかず、周りの目に止まらないよう素早い手つきで鞄に押し込む。と、同時に声をかけられる。

「はよー、澪(れい)! ……どしたの?」

「なんでもない、おはよー」

 声をかけてきたのはクラスメイトだった。返事をしながら、いつも通りに仮面をつける。勿論、物理的なものでは無い。平穏に、淡々とした学校生活を送る為の、心の仮面。目立ちもせず、埋もれもしない、普通の学生として過ごすためのものだ。

 クラスメイトと他愛もない会話をしながら教室へ向かうと、教室の一角には人だかりが出来ていた。クラスメイトへ付き添うように、自然とその中に入る。

「なになに、どしたのみんな集まって」

「それがさあ、例の噂、マジやばいみたい」

「例の噂って?」

「廃病院の殺人鬼の話! 他校の生徒が肝試しに行ったんだって。そしたら何かに襲われたって」

「何かって何よ」

「それがパニクってたからかよく分かんないらしくて。で、逃げ遅れた一人が行方不明になってるらしい」

 オートマチックに相槌を打ちながら、心の中でため息をつく。くだらない、どうでもいい、関係の無い話だ。肝試しで行方不明? そんな事が簡単にあってたまるか。B級ホラーじゃあるまいし。

「──」

 無意識に会話を続けながら、ふと思い出す。そういえばこの間に暇つぶしで観た映画は酷い出来だった。陳腐な演出に酷い演技、ありきたりなストーリー。あれじゃあB級を通り越してC級だ。唯一の趣味が映画鑑賞なのだが、あんなに時間を無為に過ごしたと感じることはここ最近ではなかったと思う。

「じゃあまた後で」

 気づくと会話は終わっていて、各々が自分の席へと散っていく。

 同じように自らの席に着きながら、何気なく窓の外に視線を向ける。雨粒が風に流されて窓に打ちつけられ、遠くで稲光が走るのを見た。まるでC級ホラー映画の冒頭、これから事件が始まる予兆のようだと、そんなくだらない事を考えてみた。


 昼休みの時間、いつも通りのメンバーで集まったが、鞄の中にいつも通りある物が無いことに気づいた。

「ごめん、今日は学食行ってくる」

 心のこもっていない謝罪をしつつ、教室を出て学食に向かう。

 適当な物を頼んで、適当に空いてる席に座ると、まるで待っていたかのようなタイミングで向かいの席に男が座った。

「よお、珍しいな」

「そっちこそ。一人で学食なんて似合わない」

 やたらとガタイのいい岩のような体躯のこの男は柔道部の次期主将で、自分の幼なじみだ。幼なじみだからと言って親友というわけでもなく、気づくとずっと近くにいた。所謂、腐れ縁、と言うやつ。この男の前ではまた違う仮面をつける。多分、この男専用の仮面を。

「たまには、な」

「あ、そう」

「……」

 ──違和感。

 身体の大きさに比例してやたらと声がデカく、快活なこの男らしくない、歯切れの悪さ。目の前に置かれた大盛りカレーに手をつけるでもなく、腕を組んで此方の顔を覗いたり、周りを気にしたり。何なんだ気持ち悪い。

「……朝、なんかなかったか?」

「なんかって?」

「あー、なんだ。例えば、何かを受け取ったりとか、だ」

 言われて思い出す。あの手紙のことを言っているのか。でも何故知っている?

 そんな疑問が表情に出てしまったのか、相手は手のひらを前に出して「待ってくれ」と、此方の言葉を遮られる。

「朝たまたま見えたんだ。下駄箱で何かを鞄に入れるのを。気になってな」

「……」

 さて、今度は此方が言葉に詰まっているのには特に理由は無い。隠すことでもないし……いや、普通は隠すのか? いやいや、それ以前の話だ。言われるまで忘れてたぐらいなので、そもそも中身を見てない。内容を知らないのだ。ただ、自分の下駄箱に手紙が入っていて、それを鞄に押し込んだだけ。……隠すことでもないか。

「手紙が入ってた」

「下駄箱に手紙! ってーとあれか、恋文ってやつか!?」

「何をそんなに騒いでんの。中身見てないから分からない」

 身を乗り出してきてまで、なんなんだ。顔が近い、むさ苦しい。

「顔が近い、むさ苦しい」

「っと、悪い悪い」

 ドスンっと大きな音を立てて腰を下ろすと、椅子が軋むような音がした。

「で、中身はいつ見るんだ? 気にならないのか?」

「……帰ったら見ようかな」

「そうか。いや、なんだ、遂にお前にも春が来たんだなと思ってな」

「もう春は過ぎてる」

「季節の話をしているんじゃない」

 深くため息をつきながら、ガタッと椅子から巨体が立ち上がる。

「いつも通りのお前で安心したよ。その手紙を書いたやつもきっと……いや、野暮な話だ」

「え、どこに行くわけ?」

「もう用はないからな。俺はいつもの面子のとこに戻る」

 背を向け立ち去ろうとしたので、思わず呼び止める。

「ちょっと待った」

「……なんだ?」

 振り向くその顔はやはりらしくなく、妙に緊張した表情に見えた。どうでもいいけどさ……。

「いや……カレー、忘れてるけど」


 午後の授業が終わり、放課後になっても雨は止む気配もなく、むしろ雨足は強まる一方だった。

「よし、じゃあ行きますか!」

 自然と集まっていたグループの一人が大きな声で宣言する。あれ、なんの話をしていたんだっけか。どうもクラスメイトとの会話は仮面に任せきりで記憶がぼやける。

「うん、雨のせいで外はもう薄暗いし、雰囲気出るよね!」

 ……雰囲気?

「まずは隣駅まで電車で行って、そこから歩こう。だいたい二十分ぐらい歩けば着くらしいぜ」

 ……何処に?

「なんだか怖いけど、楽しみになってきたね!」

「ねー! 私リアル肝試し初めてー!」

 ……肝試し?

「でも本当に殺人鬼いたらどうしよー」

「大丈夫だって、俺たち男子グループも、それになんたって澪もいるからな」

「なんかあったら任せたよ? 次期剣道部キャプテン!」

 肝試しに殺人鬼……なるほど、今朝話してた廃病院に行くのか。肝試しに。面倒だが断る隙もなく、流れのまま、やけにハイテンションなクラスメイト達と共に学校を出ることになった。


 隣駅まで電車に乗り、賑やかな駅前から遠ざかるように我々肝試し集団は歩いていく。雨の中だというのに、相変わらずクラスメト達はハイテンションを継続している。仮面をつけた自分は、それに自然と合わせながら水溜りを大股で跨いで行く。

 途中、後ろから誰かが走ってくる気配がして道を空けた。通り過ぎていった男子学生は、傘もささずに、雨に濡れることも厭わずに懸命に走り去っていく。何故かはわからないが、その後ろ姿に、羨望のような、懐かしい想いが一瞬だけ胸を締め付けた。


「これは、雰囲気あるな、マジで」

 目的地の明かりの無い廃墟を稲光が照らし出す。道すがらに聞いた話によると、約二十年前に閉鎖された大病院。窓の数を数えるのも億劫なほどの大きさで、早くも肝試しという探索ごっこをするのが面倒に思えてくる。流れのままに巻き込まれたとはいえ、どうしてこんなことに……。

「ねえねえ、懐中電灯は?」

「そんなのスマホで十分だろ」

「順番は? 誰が先頭で行くの?」

「そこは男子が務めるべきだな。何かあった時に対処できるやつじゃないとな。そしたら……」

 言いながらチラッと此方に視線が向けられる。まさかと思うが──

「……よし! 先頭は俺に任せろ!」

 一人の男子が拳を突き上げながら前に出た。内心、ホッとする。怖いから、なんて乙女のような思考は持ち合わせていないので、単に目立ちたくないからだ。

 全員で六人、自分は最後尾からついていくことになった。封鎖された鉄柵のゲートを乗り越え、廃病院へと足を踏み入れていく。入り口のガラス製の扉は大きく割れていて、人が一人分通れる隙間が出来ていた。服を引っ掛けないように気をつけながら中に入る。当然だが照明など点いている筈もなく、暗闇の誰一人待つことのない待合室が広がっていた。

「で、来たはいいけど何処から周るの? こんなに大きいと全部は周れないよ」

「噂によると地下がヤバいらしい。他校の奴らも地下で何か見たって話だし。早速だけど地下に降りるとこ探すか」

 まるで昔のRPGゲームのように縦列に並んで、各自スマホの頼りない明かりを頼りに進んでいく。暗闇の内側へと入るにつれて外の雨音は遠ざかり、自分たちの足音だけが響きわたる。とてもナニカがいる気配は感じられない。この世の中に捨てられた建物には自分たちだけ。その事実に、何故か安心感のような、居心地の良さを感じる。自分の生きるべき場所は、外の騒がしい世界ではなくコチラガワなのではないかと。そんなことを考える。普通の世界と隔絶された、暗闇と静寂の世界。仮面をつける必要もない、孤独の世界。前を歩く五人から離れて、暗闇の底へと向かってしまおうか。

「──おい、あったぞ」

 先頭の男子の声で我に帰る。どうやら地下へと降りる階段を見つけたらしい。

「ちょ、ちょっと待って! ねえこれって……何?」

 一人の女子が床にスマホの照明を向ける。そこには赤黒い、何かを引き摺ったような跡があった。それは地下へと降りる階段、その先へと続いている。その跡の大きさからして容易に想像できた。傷を負った人間を引き摺っていく、そんな絵面が。

「ちょっとやばくない? マジで」

「ヤバいけど……ここまで来たしな。俺は降りるぞ」

「俺もだ。何かあったらすぐ逃げればいいしよ」

 やめておけばいいのに、謎の強がりを見せる男子達。ちょっとした口論が男子と女子の間にあったが、結果的に全員で地下へと向かうことになった。階段を降りる途中、目の前の女子がこちらに振り向く。

「何かあったら、澪、お願いね。なんたって剣道部次期主将なんだし」

「……剣道部は竹刀がないと何も出来ないけど」

「あるじゃん、竹刀の代わりが」

 そう言って手にしている閉じた傘を指さしてくる。心の中でため息をつく。どうやら剣道部は棒状の物があれば立ち回れると思われてるらしい。面も道着も無いというのに。

「まあ、本当に何かあったら。なんとかするよ」

 適当に心にもない返事をしつつ後についていく。


 階段を降りきると、一階とは比べ物にならない程の暗闇が待ち受けていた。まるで質量があるような、重たい闇が充満する暗闇の底。渡っては行けない橋を渡ってしまったかのような、死の匂い。世界から断絶された異空間だった。

「…………」

 誰も言葉を発しない。それもそうだ。この目の前に広がった異世界を形容する言葉など無いからだ。

「──ああ」

 何かに誘われるかのように先頭に躍り出たのは自分だった。無意識に闇へと引き摺り込まれていく。求めていた世界が、この先にあるような気がして──

「澪! 待て!」

 後ろから肩を掴まれる。何で邪魔をするんだ。その手を振り払おうとした時、


 ギィイ──


 扉の開く音がした。

 誰かがその音の方へとゆっくり照明を向ける。階段から続いていた床面の赤黒い跡は音の出所である扉へと続いていて、


 キィイ──


 扉が開き切った。


 ガチガチ、と誰かが歯を鳴らしている。

 ハァハァ、と誰かの息遣いがうるさい。

 ブルブル、と肩を掴む手が震えている。


「──あっ」

 手の震えからか、誰かがスマホを地面に落としたようだ。

 ゴトン、と鈍い音が響くのと同時に、開いた扉からナニカが飛び出してきた。

「うわあああああ!」「きゃあああああ!」

 パニックになり、この場から逃げ出す五人。ダンダンッダン、と階段を上がる足音が後ろに聞こえる。自分がその場に留まり続けたのは、別に脚がすくんだ訳ではない。留まらせたのは、恐怖ではなく興味だ。

 自分のスマホの明かりで、その飛び出してきたナニカを照らす。

「……犬?」

 それは犬の形をしていた。疑問符がついたのは当然のことで、形は犬だが、その形を形成しているものが骨と肉と皮で無いことが明らかであったからだ。

「う……」

 漂う異臭に思わず顔を背ける。その色は赤黒く、汚れた液体で形成された犬のようなもの。あれはおそらく──


「きみ、逃げ出さないなんて凄いじゃないか」


 開いた扉から新たな影が出てきた。それは明らかに人であり、女性であり、白衣を着ており、眼鏡をかけていて──


「──は?」


 人間の頭部を手にしていた。


「実験中でね。気が散るからそこのわんちゃんで脅かして退散いただこうかと思ったんだけど、まさか逃げ出さない子がいるなんてね」

 やれやれ、と肩をすくめながら話す女。

「そこのわんちゃんはね、この子の血液で作ったんだ。どう? 凄いでしょ?」

 手にした頭部を掲げて自慢げに話を続ける女。その掲げた頭部は両眼をくり抜かれていて、だらしなく口を開いている。作り物じゃない、本物の死がそこにあった。

「きみぃ、なあんか面白くないね。いや、逆に面白いか。この状況で平然としている。恐怖で固まっているようでもないし。といってもこちら側の人間にも見えない。あれかな? 感情が希薄なのかな」

 心の中の壁面の前に立ち、今の状況に適した仮面を探すが見当たらない。つまりこれが素の自分? 本当の自分なのか? 死を前にして、理屈のわからない犬のような化け物を前にして、平然としている自分が?

「よおし、実験の続きって感じでもないから、ゲームをしよう。私の気分転換の為のゲームだ」

 女はそう言って犬のようなものに手招きする。

「ルールは簡単。このわんちゃんから逃げ切れればきみの勝ち。きみは無事に平穏な世界に戻れる。わんちゃんに捕まったらきみの負け。私の実験を途中で遮った罰を受けて貰う。いいね?」

 断る権利があるのだろうか。唖然としていると、女は手のひらを突き出してカウントを始める。

「五、四、三……」

 普通ならどうするだろうか? 

 普通の学生なら?

 普通の自分なら?

 普通なら──

「二……」

「……クソ」

 女に背を向け、降りてきた階段を一気に駆け上がる。逃げるしかないだろう。このゲームに負ければ待つのは死だ。自分が望む世界、望む人生、望む在り方はそうじゃない。……その筈だ。


「……え?」

 一階へと辿り着いたはずなのに、その景色に違和感。踊り場に振り返り、壁の表記を照らす。

 そこにはB1/B1と表記されていた。


 ──ダダダダッ!


 アレが追ってくる気配。とにかく逃げないと。

 もう一度上へと続く階段を駆け上がる。踊り場で横目に壁の表記を見る。

 B1/B1の表記。

 まるで悪夢、いや、実際に起きているのだから悪夢そのものだ。

 上に上がるのを諦め、無我夢中で院内を駆け回る。外へ。とにかく外へ出なければ。


 暗闇にも目が慣れてきて、壁にぶつかることが無くなってきた頃に当たり前のことに思い当たる。地下には窓がない。入口も出口も見当たらない。どうしたら外に出ることができるんだ?

「足を止めちゃダメだぞー! わんちゃんは疲れることがないからねー!」

 遠くから女の声が聞こえる。犬のようなものが駆け回る足音も。

 無意識に止めていた足を動かし、とにかく走り回る。駆けずりながら、いつの間にかライト代わりにしていたスマホを落としてきたことに気づく。連絡手段も失った。どうすれば、どうすれば助かる。どうすれば死から逃れられる。どうすれば生きられるんだ。

 

 走って、走って、走り回って、ようやく気づくことができた。つまらないと、くだらないと心を閉ざし、仮面をつけて生きてきた日常に、こんなにも戻りたいと必死になっている自分に。


 ──そうして身体に限界が来て、行き止まりの壁にもたれかかった。

「きみ、結構体力あるねー。お姉さんは疲れちゃったよ」

 女と文字通り血みどろの犬が追いついてきた。

 もう逃げることはできない。どうする、どうすれば生きられる?

「学生さんだもんね。何か部活でもやってるのかな?」

 部活……そうか、まだ生きる道はある。

 手にしていた畳んだ傘を両手に持ち、構える。姿勢を整えると、自然と挙がっていた息も整う。たまたま勧誘されて始めた、唯一と言っていい自分の特技。

「なるほど、剣道部ってところかな。ま、だからと言ってどうにもならないけどね」

 女が手で合図すると、傍の血みどろ犬が飛びかかってきた。

 好都合だ、と思った。

 宙に浮くなら躱されない。

 竹刀に見立てた傘をより一層強く握りしめ、振り上げる。


「──メエン!」


 飛びかかってきたソイツを一刀両断する。二つに別れたソイツは宙で弾け、その血液を此方にぶち撒ける。何とも言えない異臭が身体を包む。吐きそうになるのを必死で堪える。

 女は唖然と此方を見ていた。今が好機だ。よくわからないが、おそらくこの廃病院の構造がめちゃくちゃになっているのはこの女が原因だ。この女を気絶でもさせれば逃げ出せるかもしれない。

 女に向かって踏み出そうとした、その瞬間──


「はい、私の勝ち」


 身体が、動かなくなった。

 何かに押さえつけられているようだった。一体、何に?

「わんちゃんがきみを捕まえれば私の勝ち。そう言ったよね」

 何を言ってるんだ? 血みどろ犬なら弾け飛んで……いや、その弾け飛んだ後は? 弾けたそれはこの身体に──

「わかったかな? それはまだ死んでない」

 身体に付着した赤黒い液体を見る。その血液のようなものは蠢いていて、パチリと目を開いて視線が合う。

「さて、じゃあきみには罰を。ありきたりだけど、解体ショーかな」

 女が懐からメスを取り出して歩み寄ってくる。


 ああ、終わるんだなあ。そう思った。もう無理だ。諦めるしかない。

 人は死ぬ時、何を思うのだろう。幼いころ、そんなことを考えて眠れなくなった夜を思い出す。答えは得られず、いつの間にか眠りについていて、翌朝は何事もなかったように学校へと向かった。そんなものだ。誰だって自分が死ぬ時のことなんて本気で考えない。想像しない。人は誰だって死ぬというのに。

 女が目の前に立つ。暗闇の中でキラリと光るメスで、身体に線を描かれる。

「ようやく。ようやく本性を表したね」

 逃げられない。死ぬしかないと、そう悟ったはずなのに。

「……にたくない。死にたく、死にたくない!」

 涙を流しながら心の本音を曝け出す。死にたくない。まだ生きたい。まだやりたいことが山程ある。仮面を飾る心の壁は崩れ、本当の自分が叫ぶ。

「いいね、死にたくないよね。だから殺す。それが私の趣味だからね」

 メスが振り翳される。動かない身体を必死に暴れさせる。無理だとわかっていても、抗えないとしても、自分は生きたがっているんだ!


 ──カラン。


 何かが地面に落ちる音がした。


「は?」


 その声は目の前の女から出た間の抜けた声で。


「大丈夫、死なせないよ」


 その後ろには、赤い長髪に赤い瞳、真っ赤な傘を手にしていて、青白い火の玉を従えた女が立っていた。


 振り上げた腕を失った女が振り向く。

「貴様……なんで……?」

「研究熱心なのはいいことだ。私も魔法は好きだからね。でも、お前は越えてはいけない一線を越えた。それを私は許しはしない」

「その髪、その瞳、そして赤色の傘……まさか、緋色の魔女なのか?」

「そんなことよりも、だ。ねえきみ、よく頑張ったね。安心して。必ず助けるよ」

 緋色の魔女、そう呼ばれた女と目が合うと、安心感から気が抜けたのか、フッと意識を失った。



 気がつくと、硬い地面に仰向けに倒れていた。どうやらここは外のようで、目の前には眩い程の星空が広がっていた。

「気がついたみたいだね」

 声のする方を向くと、すぐ横で赤い髪の女が煙草を吸っていた。

「ここは……?」

「病院の屋上。ああ、普通のじゃなくて、肝試しスポットで有名な廃病院のね」

「あの女は?」

「んー、きみはこっちの世界とは関係ないからね。教えない」

 悪戯な笑みを浮かべながら煙を吐き出す。

「じゃあ……どうして助けてくれたんですか?」

「簡単なことだよ。それが私の生き方、在り方だからだ」

「在り方?」

「そう、私がそうしたいからしただけ」

 平然と答えるその言葉に、ガツン、と心を殴られたような気がした。

「こういう危ない所に来ちゃダメ……っていうか不法侵入だぞーって怒ろうと思ったけど、きみは嬉々と率先してこういう場所に来るタイプには見えないんだよね。友達と流れのままに、って感じかな?」

「まあ、そんなところです」

 答えながら上半身を起こす。不思議なことに、雨上がりの地面に寝転んでいたというのに服は濡れていなかった。なんとなくだが、隣で煙草を吹かしているこの不思議な女のおかげだと、そう思った。

「ねえ、この下では陰惨な世界が広がっていたけど、ここから見る夜空はこんなにも綺麗なんだ。裏があれば表がある。表裏一体。世界も、人間も同じ。だけどね、どちらで生きるか、どちらで在るかは決められるんだ」

 女は根元まで吸い切った煙草を側に転がっていたコーヒー缶に入れる。そしてその缶を持つと、女は立ち上がった。

「さて、私は行くね。きみも好きなことを、やりたいことをやっていけばいい。なんたってさ、うら若き女子高生なんだから」

 そう言い残して女は立ち去っていった。


 暫く夜空を見上げなら呆けていると、聞き慣れたスマホの着信音が側で鳴った。何処かで落としたはずなのに……。近くには同じく何処かで落とした鞄も置いてあった。

 不思議に思いながらも着信に出ると、肝試しメンバーの一人からだった。

 矢継ぎ早に、「置いていってごめん」、「大丈夫?」、「今どこにいるの?」と一方的に捲し立てられた。何もないよ、今から帰るから、と半ば強引に会話を終わらせる。

 いつまでもここにいたって仕方がない。言葉通り帰ろうと鞄を持ち上げると、中からヒラヒラと何かが地面に落ちた。それは今朝のこと、下駄箱に入っていた手紙だった。

 それを拾い上げて空にかざしてみる。月明かりと星空に照らされて、うっすらと中身が見えた。そこには不可抗力により見慣れた、見飽きた、腐れ縁の男の名前があった。

「……そういうこと、ね」

 そうして私は、帰路へと向かう。

 何故かはわからない。だが、確かに、悔しいことに、胸の内が高揚していることには気づかないフリをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仮面を剥がすは雨の魔女 森月 優雨 @moridukiyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ